怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 閂の擦れる音が、途切れては、また続いた。
 外の手は、受けに噛んだ樫の棒を、両手で揺すっているらしい。十年で、一度しか動かされなかった棒である。すぐには抜けなかったのだろう。
 前に抜かれた昼は、母屋の座敷に、線香の匂いが満ちていた。今日は、どうなのだろう?
 絃羽は頬に手を当て、小首を傾げて扉を眺めていた。
 すると──ごとり、と鈍い音が土間の底まで響いて、擦れる音が止んだ。
 扉の向こうで、咳がひとつ。

「氷室宮の篝殿下であらせられる。……粗相のないように」

 父の声だった。張った声は、しまいの一句だけ細くなっていた。蔵の戸へ向けて父が声を掛けるのを聞いたのは、初めてだ。
 粗相のないように、が誰へ向けたものかは、訊き返さずとも分かる。

(氷室宮の篝殿下……)

 口の中でなぞる。『かがり』という音には、本で読んだ篝火の字が、ひとりでに重なった。
 両手を前に畳み直す。膝は、さっき払ったばかりだった。
 扉が軋んだ。把手のほうではなく、縁のほうが押されている。押しているのは、黒い袖の肘だった。扉が汚過ぎて、手で押す気にもならなかったのだろうか。
 開いた分だけ、夕日が土間へ流れ込んだ。目の奥がしんと痛んで、絃羽は目を細めて俯いた。
 俯いた先の土間を、長い影が伸びてくる。影の根元に、黒い靴の先があった。紐で締める、洋靴というものだ。挿絵でしか見たことがない。
 靴は敷居の外で止まった。その上で、肩から大きく垂れた外套の裾が夕日の縁で黒く揺れている。
 迎える側が先に名乗るのが、礼だ。母に教わった通り指先を揃えて、腰を折った。

「はじめてお目にかかります。柏木の、次女でございます」

 頭を上げきらないうちに、声が落ちてきた。

「……名を言え」

 声は低く、語尾が短く切れた。格子越しに聞いたどの声とも、似ていない。

(えっと……名前?)

 予想外の返しだった。というより、名を訊かれたのは初めてだ。瞬きがひとつ遅れて、その間に口のほうが動いた。

「絃羽と申します」

 名は蔵の中で一度だけ鳴って、消えた。自分の口から自分の名を出したのが、いつ以来だろうか。もう思い出せない。
 俯いたままの目に、黒い革の指が映った。一度だけ握られて、開く。

「…………」

 返事はなかった。急かすものでもない。絃羽は半身を引いて、奥へ手を差し伸べた。

「殿下。お履き物のまま、どうぞお入りくださいまし。埃がひどうございますので」

 洋靴が、敷居を跨いだ。部屋に入ってきた人は背が高く、頭が低い梁にもう少しで届きそうだった。外の冷えと一緒に、炭の匂いが入ってくる。外套に染みた匂いだった。そこに、線香の匂いは混じっていない。
 入ってすぐ、篝は首だけで外を振り返った。敷居の線の外に、父が腰を折ったまま立っている。

「下がっていろ。話が済んだら呼ぶ」

 父の顔が、上がりかけて、迷った。

「……は。ですが、その」
「二度は言わん」

 彼は、振り返った首を戻さなかった。
 父の背が、折れた形のまま退がっていく。父の目は、最後まで蔵の中へ入ってこなかった。生垣の際で、姉の銘仙の色が先に翻る。砂利を踏む音がふた組、母屋のほうへ遠ざかった。
 篝は、まだ外を向いていた。扉からの夕日が、その顔の半分を照らしている。
 光の筋を目で追うのは、毎朝のことだ。俯いていた目が、筋を辿って、知らず上がっていく。
 そこで、初めてしっかりと目にしてみると──氷室宮の篝という殿下は、とても美しい人であった。
 照らされた側の頬には染みひとつなく、長持の底に仕舞われた白磁の皿と同じ色をしていた。額に掛かる黒髪は、明るみに入ったところだけ、艶が細く流れている。切れ長の目の縁に睫毛が影を落とし、瞳は黒に近く、底のほうだけが青みを帯びていた。鼻筋はまっすぐに通り、顎の線は細い。薄く結ばれた唇まで、色が淡かった。顔の上で一番赤いのは、差し込む西日のほうだ。
 殿方というのは、もっと骨の太いものだと思っていた。でも、彼は……触れたら、縁から欠けてしまいそうなほど、儚くて美しい。

(綺麗な人……)

 それが、絃羽の感想だった。挿絵の公達より、ずっと綺麗だ。
 ただ、白いのは肌の色ばかりではなかった。頬に、血の気がない。目の下が、暗かった。

(でも……お顔の色は、よくないですね)

 篝が向き直るより先に、目は元の高さへ下りていた。
 掃いた土間、奥の板敷き、格子窓の下に畳んだ夜具、荷箱の板で組んだ薬棚。その目は、夜具の上で一番長く止まった。角が曲がっていただろうか。少しだけ、不安になる。
 洋靴の先が、こちらを向いた。

「下がれ、と言われなかったか?」

 下がれ、の意味が分からなかった。
 俯いていた顔を上げる。

「いえ。何も伺っておりません」

 正直に答えた。
 顔を上げたとき、目はいつもの高さで止まった。手の高さである。
 小窓越しに十年、人を手で見てきた。荒れ方で暮らしがわかり、指の力みで機嫌が分かる。
 しかし、篝の手は黒い革に包まれていた。節も、爪の色も、荒れも見えない。組まれたまま、動かなかった。
 読めない手を見るのは、初めてだ。その革の指が、僅かに強張った。

「お前……何を見ている?」
「はい?」

 これまた意図がわからず、絃羽は小首を傾げた。
 組まれた手は、それでも動かない。彼は言った。

「お前、俺の手を見ていただろう?」
「あっ……」

 まさか、見られていたとは。絃羽は慌てて頭を下げた。

「……申し訳ございません。癖でございます」

 顔を上げると、篝が半歩、下がっていた。
 お声が低いぶん、離れては聞き取りにくい。絃羽は半歩、前へ出た。
 彼は驚いたように目を見開いて、それきり動かなくなった。なぜ驚かれたのかは、わからない。お声は、これで聞き取りやすくなったはずである。
 しばらくして、低い声が用件だけを置いた。

「氷室宮へ来てもらう。書庫の整理だ」

 宮家の、書庫。書物のあるところなら、勝手は分かる。絃羽は両手を前に畳み直した。

「かしこまりました」

 頭を下げながら、ようやく腑に落ちた。

(お弔いでは……なかったのですね)

 仕事の話なら、ほかに伺うことはない。
 次の言葉は、すぐには来なかった。

「……訊かないのか?」
「はい? 何をです?」

 絃羽の目がぱちりと瞬く。
 自分が一体何を訊けるというのだろうか。

「理由を訊かないのか、と訊いている」

 篝の声が、ひとつ低くなった。
 理由の確認だったようだ。それならば、もう決まっている。
 畳んだ手をそのままに、答えた。

「お家の決めたことでございますから」

 それ以上でも、それ以下でもない。絃羽にとって、それ以外の理由はなかった。
 一瞬の沈黙。問いは、そこで終わった。組まれていた革の指が、ほどける。

「支度をしろ」
「支度?」
「持っていくものだ。さっさとまとめろ」

 持っていくもの。
 頭の中でその言葉を思い浮かべてから、絃羽は土間を見回した。夜具は蔵の夜具で、擂鉢も小刀も蔵のものだ。薬棚でさえ、板は柏木の荷箱である。

「…………」

 首が、困った角度に傾いていく。

「どうした?」

 指が、帯の前でひとつ迷った。

「あの……どれを持って参ればよろしいのでしょう?」
「どれを、だと?」

 篝は少し目を大きくしてから、咳払いをする。
 返事が、少し遅れていた。

「お前のものだ。好きにしろ」

 自分のもの、ということらしい。

「承知いたしました」

 絃羽はこくりと頷き、土間をもうひとまわり見る。
 自分のものは、見つからなかった。

「……では、何も持って参りません」
「は?」

 低いばかりだった声が、そこで裏返った。
 もう一度咳払いがひとつ挟まって、声は元の低さへ戻った。

「一つもないのか?」
「ございます。ですが、どれも、ここのものでございますので」

 言いながら、足が味噌樽の前で止まる。指が、樽の縁の高さまで上がった。上がったことに気づいて、帯の前へ戻す。薬棚の前でも、同じことが起きた。

「…………」

 篝は、黙ってそれを見ていた。
 やがて、革の指が階段の上を差す。

「二階のあれは、何だ?」

 見上げなくても分かる。絃羽は前を向いたまま答えた。

「蔵書でございます。柏木代々の。お持ちいたしましょうか?」

 お運びするなら、自分の足のほうが早い。
 言うなり、足が階段へ向いた。

「上がるな。床が傷んでいるではないか。抜けるぞ」

 後ろで、篝の声が尖った。
 毎日上がっている段だ。抜けるかどうかなど、見なくてもわかる。

「問題ありません。抜けても、下は土でございますから」

 絃羽は一段目に足を掛ける。
 二段目の板が、いつもの音で低く鳴った。鳴り終わらないうちに、後ろの声が重なる。

「抜ける前提で話すな。やめろと言っている」

 やめろと言われたならば、やめなければならない。ずいぶん先のことまでご心配なさる方だ。
 そう思いつつ、足を戻す。

「はい。では、上がりません」

 二階の暗がりを、篝はしばらく見上げていた。

「お前……これを読んだのか?」
「はい」

 迷わず、頷いた。
 篝の顎が、わずかに引かれた。

「どれを?」
「全部でございます」

 数えるまでもない。もはや暗記するほど読み込んでしまった。

「……そうか」

 言って、革の手が懐へ入る。出てきたのは、朱の印が捺された紙が一枚。

「これを持っておけ。宮の者に見せろ」
「はい。……ありがとうございます」

 両手で押しいただいた、その時。指先が革の甲を掠めた。冷たくて、なめらかだった。

「──ッ!?」

 篝の手が、慌てたように引かれた。梁の鼠が物音に身を引くのと、同じ速さだ。
 荒れた指で、触れてしまった。革を汚しただろうか?
 絃羽は自分の指へ目を落とした。付け根に並んだ胼胝に、太い節。短く削った爪に、甲まで走るあかぎれ。十年、梁を握ってきた手である。
 顔を上げると、彼の目も、同じ指の上にあった。

「…………」

 見られているのは、手だった。見る側でなくなると、書付を持つ指の置き場が分からない。

「殿下?」

 篝の目が、指から離れた。

「……いや」

 代わりに、頭上へ顎が向いた。

「梁に、手の跡があるな」

 踵が、そろりと浮いた。今ここで、やってみせることもできる。
 ただ、殿下の前でやることでもないだろう。浮いた踵を、そっと戻した。

「はい。毎日、ぶら下がっておりました」

 篝の声が、ひとつ遅れた。

「ぶら下がる? なぜだ?」
「身体が鈍りますので」

 背筋を、ぴんと伸ばして答えた。
 これならば、すぐに応えられる。
 彼は相変わらず怪訝そうにして、問いを続けた。

「伯爵家の娘が、梁にぶら下がるのか?」
「──殿下」

 そこで絃羽は、初めて篝と目を合わせた。

「筋肉は、裏切りません」

 言い切って、口を結ぶ。
 帯の前で揃えた指は、露ほども動かさなかった。
 篝の口が、ぽかんと開いていた。

「は?」
「……はい?」

 聞こえなかったのだろうか。絃羽は首を傾げ返した。
 問いと問いが、宙でぶつかっている。
 先に言い直したのは、篝のほうだった。

「今、何と言った?」

 居住まいを正し、今度も篝の目を正面から見据えた。

「筋肉は裏切りません、と。そう、申し上げました」

 大事なことは、同じ抑揚で言うものだ。
 篝の喉が、小さく上下する。

「き、筋肉……だと?」

 声が、また上擦った。
 何をそんなに不思議がっているのだろうか。

「はい。筋肉でございます」

 絃羽は真顔で頷く。
 お顔の色のことも、気に掛かっていた。せっかくなので、申し添える。

「殿下もいかがです? 少し、足腰の方が」

 目が、篝の帯から下を、上から順にあらためていった。外套の肩に、厚みがない。立ち姿の重さが、踵に寄っていた。
 外套の前が、すっと掻き合わされた。

「今、俺の何を見て言った?」

 それを申し上げるのは、さすがに失礼である。答えの代わりに、絃羽は口元だけで、微笑んでみせた。
 篝は長いこと黙っていた。それから、呆れた様子で扉のほうへ踵を返す。外套の裾が、土間の埃を低く払った。

「はぁ……もういい。わかったから、来い」
「承知いたしました。少々お待ちを」

 すぐには後に続かず、味噌樽の蓋を掌で確かめた。薬棚の端を押さえて、畳んだ夜具の角を、ひとつ直す。戻ってきたとき、どれも同じであるように。
 ここが、自分の戻ってくる場所なのだから。