怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 冬の朝、氷室宮の奥の棟には、火の気がひとつもなかった。
 氷室篝(ひむろかがり)は、文机の前に座っていた。脇の火鉢には、去年の灰だけが白く残っている。散らかりは、なかった。物がないからである。畳の目にだけ、埃が薄く溜まっていた。棚には黒革の手袋の替えが、指の向きまで揃えて並んでいる。この部屋にあるものは、それでほとんど全部だった。
 寒さは、あった。篝はそれを、不便だとは思っていない。火は人を呼ぶものだ。人の入らない部屋に、火の用はなかった。
 調度のない部屋は、広さだけが余っていて、畳は踏むたびに底冷えを返してくる。夜具はひと組、部屋の隅に几帳面に畳まれていた。使った形の崩れは、ほとんどなかった。
 朝の膳は、廊下の決まった位置に置かれる。人の姿のない刻限に置かれ、冷めた頃に下げられた。それが、この棟の給仕のすべてだ。今朝も、手を付けないまま下げさせている。
 文机の上には、今朝がた届いた書状が一通、載っていた。裏の署名は父のものだった。用件は、封を切らずとも知れている。この十年、父からの書状の用は、一度も変わったことがなかった。跡目の話である。
 篝は書状を、封のまま伏せた。
 廊下に、衣擦れの音が近づいてきていた。敷居の手前で止まり、障子越しに、膝をつく音がする。家令の宗次(そうじ)だ。この棟の廊下まで入ることを許している、ただひとりの家人だった。
 障子の向こうで、白髪頭の下がる気配がした。

「殿下。……お叱りは、後ほどいくらでも」

 用件より先に、詫びが来た。十年仕えて、こういう順で物を言う男ではない。篝は伏せた書状から手を離した。

「何をした?」
「十年、各家の儀の記録を、集めておりました」

 障子の紙一枚の向こうで、息を吸う音がした。
 篝は立って、障子の桟へ肘を当て、自分で引き開けた。そこには、廊下に平伏す宗次の姿。紋付の肩が、朝の冷気の中で硬くなっている。膝の前には、古びた綴りを載せた盆が置かれていた。

「貴様……誰の許しで」

 平伏の背は、動かなかった。

「誰の許しも、得ておりません」

 声は、落ち着いていた。

「…………」

 篝は黙って、盆ごと綴りを引き寄せた。手袋の指で、表紙の埃を薄く払う。革越しでは、紙の古さも埃の乾きも、指には届かない。届かないことには、慣れていた。
 宗次が、額を廊下へ寄せたまま言った。

「この一行を、ご覧いただきとうございます」

 綴りの終いに、付箋がひとつ挟まれている。
 開くと、写しの字が並んでいた。
 柏木伯爵家。公式の記録は短い。

『儀を受けず』

 その下に、別の手でもう一行、書き添えられていた。神官側の控えより写す、と細く註がある。
 篝は、その一行を二度読んだ。

「……『結ばれ、ほどけ候』だと?」

 付箋の端を、手袋の指が押さえていた。

「柏木伯爵家の、次女にございます」

 結ばれ、ほどけ候。受けていないはずの儀に付く言葉ではなかった。これは、受けた者を前にした神官が、見たままを書き残す言葉だ。
 篝は右手で、左の手首を掴んだ。革越しに、脈をひとつ数える。
 手を離し、立ち上がった。

「……支度をしろ」
「で、殿下?」

 宗次の白髪頭が、勢いよく上がった。
 問い返しには、答えない。答える必要がなかった。

「今すぐにだ。急げ」

 言葉の後半は、廊下へ出ながらだった。
 宗次が慌てて腰を上げ、先触れの電報を打たせに走っていく。車廻しで発動機の掛かる音がした頃、冬の日はまだ、庭の霜を溶かしてもいなかった。

       *

 柏木邸の車寄せには、出迎えが列を作っていた。
 先頭で腰を折った当主に導かれ、玄関をくぐると、暖めた空気が顔へまとめて押し寄せてきた。廊下の奥まで、炭の匂いがしている。篝は外套を渡さず、そのまま羽織って通った。
 通された応接間は、輪をかけて暖めすぎだった。
 火鉢がふたつに、長火鉢がひとつ。炭は惜しみなく熾きて、洋窓の内側が薄く曇っていた。篝の棟の火鉢には、去年の灰しかない。

(同じ冬とは思えんな)

 篝の頬には、自然と自嘲的な笑みが浮かんでいた。
 上座の椅子を勧められたが、掛けずに窓を背にして立った。供の宗次は、車廻しに残してある。
 柏木宗一郎(かしわぎそういちろう)は、向かいの椅子に浅く腰を掛けていた。掛けてから、立ったままの客を見上げる形になったのに気づいたらしく、腰を浮かせかけては、掛け直した。それを既に三度、繰り返している。
 茶は二度替えられた。愛想は、それより多く替えられている。冬だというのに、宗一郎の額には汗の粒が浮いていた。

「書庫の整理、でございますか」

 昼を回り、二度目の茶が冷める頃になって、宗一郎はようやく用件を口に載せた。篝は窓を背にしたまま頷く。

「そうだ。私が引き取ろうと思ってな」

 愛想笑いが、口の形だけ残った。

「それでしたら、手前どもより腕の立つ者を」

 揉み手の形のまま、宗一郎の両手が止まっていた。

「いや、その娘でいい」
「……殿下。あれは、その、長く病んでおりまして」

 宗一郎の声が一段、低くなった。

「病か?」

 篝は革の指を、ひとつ組み替えた。
 宗一郎の額の汗が、ひとつ増えた。

「はい。ゆえに人前には」

 彼の語尾が、行き先を失って消えた。

「では、なおさら外の風がいるだろう。連れていく」

 篝が押し切ると、宗一郎の目が忙しなく左右へ振れた。
 宮家の要請を断る損と、受ける損とを、順に弾いているのだろう。

「ま、まさか……縁組の、お話で……?」

 揉み手の奥から、期待と恐れが半々に覗いていた。

「違うに決まっている」

 篝は即答した。

「さ、さようでございますか」

 語尾が、あからさまに安堵の側へ落ちた。落ちた底に、失望もひと匙だけ混ざっている。

(ふん。わかりやすいものだな)

 どちらも、覚えておこう。
 それから、確かめておくべきことを確かめた。
 答えなら、懐の綴りの中に既にある。知っていて訊くのは、情の薄いやり方だ。それは無論、承知の上である。
 だが、この男が娘のことをどう言うかは、口から出るまでわからない。

「七つの年の儀は受けさせたのか?」

 篝が訊くと、男の揉み手が初めて解けた。

「…………」

 間が、空いた。
 長い間ではなかった。だが、損得を弾く間とは違っている。帳尻の合う答えを、棚の奥から探しているような間だった。

「受けさせて、ございません」

 男は結局、そう答えた。
 嘘は姿勢よく言えるようだ。まっすぐに顔を上げて、言い切っていた。

「……そうか」

 篝はそれ以上、追わなかった。
 追わない代わりに、覚えておく。真冬の応接間の汗と、三度掛け直した腰と、算盤より長いあの間と。「受けさせてございません」と言い切るまでの、呼吸の数まで、全部。

「ときに、殿下。長女の綺羅子が、ぜひご挨拶をと」

 宗一郎が手を叩くと、廊下で衣擦れが動いた。
 三度目の茶は、娘が運んできた。
 年の頃は二十ばかり。仕立ての新しい銘仙に、白粉の匂いが濃い。長女の綺羅子(きらこ)である、と宗一郎が名を添えた。
 綺羅子は盆を卓へ置くと、挨拶の距離より一歩、近くへ進み出た。
 篝は咄嗟に半歩下がる。考えてのことではなかった。爪先のほうが先に動いてしまうのだ。十年もので、身体は頭より早い。
 下がったことに、綺羅子は気を留めなかった。白粉の匂いだけが、元の距離まで追ってくる。

「殿下。その子は、家の者も近づけませんので、どうぞお気をつけて」

 声をひそめて、綺羅子はさらに扇を口元へ寄せた。

「それに殿下も、その……お噂に、伺っておりますけれど」
「綺羅子」

 卓の向こうから、宗一郎の声が娘の言葉を折った。綺羅子は扇の内で息を呑み、目だけで笑い直した。
 噂の中身は、聞かずとも知れている。この十年、宮中のどこでも、同じ噂をされていた。そして篝も、それを否定したことがない。
 それより、聞き捨てならないことが、ひとつあった。
 その子、と姉は言っていたのだ。

「名は何という?」

 篝が訊いた。
 座の空気が、一拍遅れた。

「……は?」

 綺羅子の扇が、口元で止まった。

「その娘の名だ」

 重ねて問うと、綺羅子の扇の先が、助けを求めて父のほうへ傾いた。

「……そ、その子は」

 綺羅子は尚、言い淀んだ。それは、思い出そうとする間ではない。
 この狼狽えようから察するに、口にしたことが一度もないのだろう。

「次女でございます」

 宗一郎が、横から引き取った。
 しかし、それも名ではない。

「名を訊いているのだが?」

 篝は同じ問いを、もう一度重ねた。

「……次女でございます」

 今度は、間がなく返ってきた。同じ答えが、同じ抑揚で。
 父親は二度訊かれて、二度娘の名を言わなかった。姉は妹を、その子と呼んだ。

(なるほど、な)

 この屋敷に入ってから、あの娘の名は、まだ一度も、誰の口からも言われていない。言うべきことが、急に少なくなった。

「そうか。次女か」

 言うと、宗一郎が汗を拭いて頭を下げた。綺羅子は扇の陰で、目を細めただけだ。

「案内しろ」

 ふたりに連れ立たれて庭に出ると、日はもう西へ傾いていた。
 宗一郎が先に立ち、綺羅子が裾を取って父を追った。篝は、ふたりから数歩の間を空けて続いた。人との間は、詰めない。詰めさせなかった。十年間、どこでもそうしている。
 前を行く父娘の声が、低く交わされていた。砂利の音に切られて、篝の耳までは届かなかった。もともと聞き取ろうともしなかったのだが。
 母屋を回り込み、庭をひとつ抜けた。生垣の先に、なお庭が続く。振り返ると、母屋の電灯はもう遠かった。
 冬枯れの庭は、奥へ行くほど手入れが粗い。風は生垣の先で変わり、炭の匂いが抜けた。抜けたあとの空気は、篝の棟と同じ冷たさをしていた。
 飛び石は生垣を過ぎたあたりで数を減らし、やがて途切れて、あとは踏み固められた土だけが細く続いた。
 その細い道の先に、土蔵があった。
 二階建ての、古い蔵。漆喰は裾のほうが剥げ、庇の影が、夕日に長く伸びていた。膳を運ぶには、母屋から遠すぎる場所だった。
 宗一郎の足が、扉の前で止まる。綺羅子は生垣の際に残って、それより先へは進んでこなかった。
 篝は、扉の正面に立った。革の内で、指が一度丸まって、開く。
 ──蔵の入口には、太い閂が、外から掛かっていた。