怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 翌日も、絃羽は七つ刻に目を覚ました。
 ゆうべ障子の前で止まった足音がいつ離れていったのかは、分からない。先に眠ってしまったようだ。障子の紙には、朝の白さが溜まっているだけだった。
 音の出ない型と、腕立てを二百、深屈伸を百。済ませてから、炭のかけらを持って縁側へ出た。
 硝子戸の内側に、膝をつく。やがて、木立の若葉の上から日が抜けて、桟の影を板の上へ落とした。
 影の端が止まったところへ、かけらを当てる。
 小さく押すと、点の列が敷居の際まで届いた。
 列の先に、打てる板はもう残っていない。

(……敷居の際まで、来てしまいましたね)

 かけらを持った手を、膝の上へ戻す。
 打ったばかりの点の前で、しばらくその場で考え込んでしまった。打つ板が尽きたらどうするのかを、決めていなかったのだ。
 かけらを板の端に置いて立ち上がり、硝子戸に手を掛ける。
 すると、若葉の匂いが縁側へ流れ込んできた。朝の日が、まともに顔へ当たる。目を細めて、少し俯いた。

(あっ……お母様の本)

 ゆうべ、明日にしようと決めた頁があるのだった。
 部屋へ戻って、母の本を取ってくる。元のところに座り直し、栞のところを開いて、膝の上に置いた。畳んだ名の紙は、頁のあいだに挟まったまま、端だけが覗いている。
 左の指を、頁の端に掛けた。
 きのう止まったのと同じところで、今朝も、指はそこから先へ進まない。

(……また、今度にしましょう)

 その理由は、今朝も探さずにおいた。
 渡り廊下の先から、低い声が届きはじめた。
 篝が、灯の部屋で本を読む声である。書いてあるとおりに、ひと続きに言葉を運んでいった。言葉のひとつひとつまでは、聞き分けられない。区切りのところで少し沈んで、また戻ってきた。

(お母様に読んで頂いた時も……こんな感じでしたよね)

 格子の外の声も、そうだった。
 絃羽は、その声を聞いていた。区切りのたびに、耳のほうが先に、声の戻ってくるのを待った。
 やがて声が、区切りのところで沈んだ。待っても、戻ってこない。

(今朝の分は、もう終わりでしょうか)

 そう思ったところで、ちょうど渡り廊下の板が鳴った。
 音は、そのまま縁側の板へ移っていく。ひとつ鳴って、息を吸うほどの間を置いて、また鳴った。ゆうべ、障子の前で止まった足音と、同じ間合いだ。
 東へ顔を向けると、篝が縁側を西へ来るところだった。
 篝の足が、二歩手前で止まる。外套の前で、黒い革の手が組まれていた。その目が、絃羽の膝の上の本へ落ちる。

「その本は?」

 絃羽は、頁の端に指を掛けたまま、顔を上げた。

「お母様の本です。たづさんが、届けてくださいました」
「ほう」

 篝は、しばらく本を見ていた。
 やがて、二歩の間が詰まった。外套の裾を払って、篝が絃羽の隣の板に腰を下ろす。黒い革の手は、膝の上に置かれた。その袖は、絃羽の袖から指ひとつぶんのところにあった。
 火鉢を挟まずに並んで座るのは、初めてだ。
 絃羽は、膝の上の本を少しだけ自分のほうへ寄せた。
 開け放した硝子戸の外で、若葉が朝の日を受けている。縁側の柱の影が、板の上に斜めに倒れていた。

「殿下。蔵も、南向きでございました」

 膝の上の本に手を添えたまま、絃羽は言った。
 返事は、ひと呼吸置いて、来た。

「……ああ。前も言っていたな」

 篝の横顔が、庭へ向いたまま、わずかに動いた。
 覚えていてくださったらしい。
 本に、目を落とす。格子の桟を数えた朝より、声を待った夜のほうが、先に思い出された。頁を繰る乾いた音と、ときどき、わざと置かれる間と。

「はい。格子の外にお母様が来て、毎晩、このお話を読んでくださっていたんです。夜でございましたので、日は差しておりませんでしたけれど」

 頁の端に掛けた左の指の下で、紙が、かすかに鳴った。
 硝子戸の外の日向へ向けていた目を、ゆっくりと戻す。

「……日当たりのお話では、ございませんでしたね」

 いつかの話。篝に『日当たりの話ではない』と言われたことがある。
 その意味が、ようやくわかった。

「…………」

 篝は何も言わなかった。
 外套の上で、篝の右の手が動いた。黒い革の指が、左の手首を掴む。革が、小さく軋んだ。
 この手つきを見るのは、五度目だった。指の下にあるのは、手拭いを巻いた、あの傷のあたりである。革の指は、軋むほどに締まっていた。
 絃羽の右の手が、もう出ていた。左の手は、頁の端に掛けたまま。
 ──絃羽の指が、手首を掴んでいる革の指を、一本ずつ外していく。
 小指から順に、薬指、中指、人差し指。革越しに、指の冷たさが伝わってきた。最後の親指が離れると、外れた右の手が、外套の膝の上へ落ちる。
 絃羽は、自分の右の手を膝の上へ引いた。
 篝の目は、ほどかれた手首の上にあった。長い息がひとつ、唇から抜けていく。
 膝に落ちていた篝の右の手が、左の手袋の口に掛かった。
 革が、指から抜けた。
 素手が、朝の日の中に露わになる。手袋は、そのまま外套の上に置かれた。

「……絃羽」

 その掌を上に向けて、篝は絃羽の前へ差し出した。掌の古い火傷の痕も、手首の内側の細い線も、日の下では、火の明かりで見たときより白い。言葉は、添えられなかった。
 差し出された手を辿って、篝の顔を見上げる。篝は、絃羽をじっと見据えていた。そして、こう言ったのである。

「縁組の、話だ」
「縁組……」

 字面だけなら、本で読んで知っている。家と家とが、縁を結ぶことだ。結婚とも言う。
 園遊会の苑で聞いたお声が、耳の奥に戻ってきた。あのときは分からないまま、訊かずにおいたお言葉である。
 絃羽の口元が、ぱっとほころんだ。

「まあ! ……柊宮様の『よいお話』でございますね。おめでとうございます」

 ほころんだはずの頬も、うまく持ち上がったままでいてくれなかった。口元のほうが先に、下がってきてしまう。

(あれ……?)
 
 言葉が、もう出てこない。お祝いのお言葉なら、もっと続けられるはずだった。お支度のこと、お屋敷のこと。けれど、次のひと言が、喉の手前で止まってしまう。
 胸の下のあたりも、すう、と冷えていた。戸は開いているのに、風は、入ってきていない。

(どうして、でしょうか。『よいお話』のはずなのに、全然……)

 嬉しくない。全く喜べなかった。祝う気持ちが、一切湧いてこない。
 篝の肩が、大きく上がって、下りた。

「はあ……」
「はい?」

 絃羽は首を傾げた。
 どうしてそこで溜め息なのだろうか。何に呆れているのだろう?
 差し出された篝の掌は、そのままだ。篝の目が、絃羽の顔へまっすぐに戻ってきた。

「そうじゃない。縁談は……お前と俺の、だ」
「へ……?」

 絃羽の唇が、半分開いたまま止まった。
 間抜けな声が、漏れた気がする。

「わたくしと……? 縁談って、わたくしの話ですか? わたくしが、殿下が?」

 頬に掛かっていた重たいものが、ひと息に引いていった。代わりに、胸の下が、ぽかぽかと温かくなってきた。瞼の裏まで、熱い。どういう気持ちなのか、自分でもわからなかった。こんな感情、初めてだ。
 物ではない、と伺った日のことを、思い出す。
 もしかして……あの時から、篝はそういう気持ちでいてくれたのだろうか。
 膝の上の右の手が、ひとりでに指を揃えた。頭が、下がりかける。気付いた時には、こう答えようとしていた。

「承知、いたし──」
「言っておくが、これは言いつけではないぞ」

 下がりかけた頭の上に、低い声が落ちた。

「え……?」

 絃羽は身を起こした。言いつけなら、受け方は知っている。受けたあとの、頭の下げ方も。
 言いつけでないものの受け方は、まだ、教わったことがない。
 篝の掌は上を向いたまま、相変わらずふたりのあいだにあった。

「お前が嫌なら、断ってもいい。無理強いはしたくない」

 篝の目が、掌から絃羽の顔へ上がった。
 しっかりと、こちらの目を見据えて。
 こう、言ってくれた。

「だが……俺は、お前がいい」

 卯月の晩、火鉢の前で伺ったお話が、胸の下で頭をもたげた。
 絃羽の右の指が、ひとりで膝の上で握られる。

「あ、あの」

 篝の眉が、わずかに上がった。

「ん?」

 絃羽は、息をひとつ吸った。

「わたくしの前では、殿下の結びも、ほどけてしまいますので」

 先日、篝から言われた通りだ。
 自分は〈解け〉の性質である。篝の結びは、自分の前では開いた端からほどけてしまう。
 もしかすると、篝との約束の結びも、自分がほどいてしまうかもしれない。
 しかし──差し出された掌は、少しも引かれなかった。

「……ほどけたら、また頼む」
「殿下……」
 
 絃羽の右の手が、知らずに頬へ上がった。考えごとのときのお母様と、同じ癖。
 頬に掌を当てて、悩む。
 篝は、何も言わずに待っていた。硝子戸の外で、若葉が光っている。
 やがて、頬から手が下りた。その手を、篝の素手の掌の上へ置いた。

「……はい」

 篝の掌が、ゆっくりと閉じて、絃羽の指を包んだ。
 温かかった。
 包んだ手を解かないまま、篝の目が庭の若葉のほうへ逸れる。

「ひとつ、頼みがある」
「なんでしょう?」

 絃羽は、首を小さく傾けた。
 絃羽の指を包んだ篝の手に、わずかに力が入る。

「……俺のことを、名で呼んでくれないか。殿下、ではなく」

 絃羽の目が、ぱちりと瞬いた。
 名前。殿下の。お名前を、呼ぶ。

「お名、で……ございますか」

 言葉に詰まる。
 もちろん、名前は知っていた。漢字も書ける。
 だが、この口で呼んだことは、一度もなかった。

「ああ」

 篝の顎が、小さく引かれた。
 心の中で、彼の名を呼んでみる。

(かがり、様……)

 大丈夫。言えるはずだ。とても抵抗はあるが、言える。
 意を決して、絃羽は唇を開いた。

「か、か、かが、り、さま」
「ふっ。なんだそれは」

 篝の喉の奥で、笑いが鳴った。
 口の端が、はっきりと上がっている。

「壊れた機械のような音をしているな」

 絃羽の肩が、びくりと跳ねた。

「か、からかわないでくださいっ」

 恥ずかしくて、顔が赤くなる。
 わざと変な発声をしているわけではない。
 笑いの残った顔のまま、篝は黙って次を待っていた。
 絃羽は、深く息を吸った。吐いて、もうひとつ吸う。

「……篝、様」

 口にしてみると、思っていたより短い音だった。
 それに、意外に言いやすい。
 篝の口の端が、かすかに動いた。

「ああ」

 引き戸のほうで、小刻みな足音が止まった。止まったまま少しして、足音はそっと遠ざかっていく。
 縁側が、静かになった。
 開け放した硝子戸から、若葉の匂いが入ってくる。敷居の際には、今朝打った点がひとつあった。
 膝の上には、母の本がある。開いた頁のあいだから、名の紙の端が覗いていた。
 頁の端には、左の指が掛かったままだった。
 今朝、渡り廊下の先から届いた声が、耳によみがえってくる。区切りのところで少し沈んで、また戻ってくる、あの運び。
 考えるより先に、口が開いていた。

「あの、篝様」

 篝の顔が、こちらへ向いた。
 頁の端に掛けた指に、心持ち力が入る。
 意を決して、絃羽は──初めての、ことを口にした。

「ひとつだけ、お(・)願(・)い(・)してもよろしいでしょうか……?」


(了)