怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 皐月に入って間もない昼、絃羽は空き部屋の前の硝子戸を拭いていた。
 硝子の向こうで、庭の木立は、どの枝も若葉の色に変わっている。縁側の板の端では、今朝打った点の先が、硝子戸の敷居にいっそう寄っていた。

(少しずつ、夏が近付いてきてますね)

 その暑さからか、東隣の障子は開け放たれていた。その敷居の内には、篝が座っている。黒い革の手は、外套の膝の上にあった。
 板を擦る小刻みな足音が、西から近づいてきた。宗次だ。
 篝に手紙か知らせだろうか。宗次の手には、盆があった。載っているのは、畳まれた厚い紙が一枚。紙の端から、朱の色が覗いていた。

(あら? 何でしょう?)

 印の押された紙が通るそばで、立ったまま硝子を拭いているわけにはいかない。絃羽は雑巾を脇へ置いて、板の上に膝を揃えた。
 宗次は絃羽の後ろを過ぎて、篝の前に膝をついた。盆を畳に置き、紙を開いて、篝の読む向きへ直す。紙の終いに、朱の印がふたつ並んでいた。

「殿下。官より、書付でございます」

 篝の革の指が、盆の縁に掛かった。紙には触れないまま、盆ごと膝の前へ引き寄せる。目が、書付の上から下へ、ゆっくりと降りていった。

「……ああ」

 書付から上がった篝の目が、硝子戸の前の絃羽のところで止まった。

「絃羽」
「はい」

 名を呼ばれたので、絃羽は膝の上で指を揃えた。
 篝の顔は、盆のほうへ戻らずこちらに向けられたままだ。

「調べが済んだ。お前の身柄は、官に代わって氷室が預かることになった」
「え?」

 卯月の縁側で伺ったお言葉と、いまのお言葉とが、うまく重ならなかった。

(調べが済んだのに?)

 揃えた指をもう一度揃え直し、篝に訊いた。

「預かるのは調べが済むまで、と伺っておりましたが……?」
「済んでも、だ」

 絃羽の視線から逃れるように、篝は書付の上へ顔を伏せた。
 済んでも。
 絃羽の膝が、思わず半分浮きかけた。

「え? どうしてですか?」
「…………」

 篝が何かを言いかけて、閉じる。
 続きは待っても来なかった。外套の上で、革の指が一度組まれて、すぐにほどかれる。
 宗次は盆の前に控えたまま、顔を上げなかった。

(どうしてでしょう? 殿下がわたくしを預かってくださる理由がわからないのですが……でも、教えてくれる気配もありませんし)

 お答えのない問いを重ねても、お手を煩わせるだけだ。
 それより、伺っておきたいことがひとつあった。柏木で帳面を繰ってから、四年前の秋の一行だけが、頭の中の帳面に合わないまま残っている。あれについてはどうなったのだろうか。
 絃羽は、膝を篝のほうへ向け直した。

「殿下。あの……一点、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「四年前の秋の勘定は、分かりましたでしょうか?」
「……それか」

 篝の目が書付を離れ、庭の若葉のほうへ逸れた。
 しばらくして、革の指が組まれる。

「あの年、柏木で古い結びがひとつ緩んだ」

 古い結び。それが何の結びなのかは、教えてもらえないようだ。
 組まれた彼の指は、そのまま動かなかった。

「家の結びを守る封じを、と頼まれて、神官が蔵に外から結びを掛けた。ひと晩で、ほどけていたそうだ」
「外から……」
 
 絃羽は硝子戸の外の庭を振り返り、記憶を掘り起こす。
 言われてみれば、ひとつだけ思い当たる日があった。

(そういえば……格子の外で、祝詞が長く聞こえた晩がありましたね)

 四年前の秋の、夜更けのことだった。節を付けた低い声が、いつまでも続いていた。お蔵のお祓いまでしていただけるのかと思って、その晩は格子のほうへ一礼したほどだ。
 お祓いは修繕ではない。だから柏木の帳面の前でも、あの晩のことは勘定に入れていなかった。
 頭の中の帳面で、止まっていた珠が、ひとつ動いた。

「まあ。では、『修繕』はそのお代でございましたね。外から掛けるものでしたら、閂は外さずに済みますし」

 最後の珠が、収まるところへ収まった。
 問題は解決だ。

「これで、勘定が合いました!」

 絃羽は胸の前で両の手を合わせた。
『修繕』のお代にお祓いも含まれるのであれば、全て問題ないはずだ。
 しかし、篝はそれには同意をしなかった。盆を下げに伸びかけていた宗次の両手も、縁から離れた高さのまま止まっている。白髪頭は、上がらなかった。
 何を封じた結びだったのかは、訊かずにおいた。勘定が合えば、帳面の話は済む。
 篝は盆を脇へ置いて、立ち上がった。

「……少し出てくる」

 外套の背が敷居を越え、縁側を西へ向かった。
 絃羽の前を過ぎるとき、裾が板の上で一度だけ揺れる。宙に浮いたままだった宗次の手が、ようやく盆を取り上げた。
 小刻みな足音が、外套のあとを追っていく。
 引き戸の開く重い音がして、閉まった。
 絃羽は雑巾を取り上げて、拭きかけの硝子戸に向き直る。

『済んでも、だ』

 雑巾を動かすあいだも、そのお言葉だけはどこにも収まらずに残っていた。
 収まらないまま、胸の下のあたりが、ほのかに温かかった。
 硝子越しの日が、ちょうど当たる刻限なのだろう。

       *

 十日ほどが過ぎた昼、絃羽は書庫の前の縁側で、本の天の埃を払っていた。
 その日、篝は朝のうちからどこかへ出かけたようだ。
 東の端の障子は、閉まったままになっている。
 すると、引き戸の開く重い音がした。
 小刻みな足音が縁側へ入ってきて、そのあとに、もうひとつの足音が続く。板の上でも、運び方は小窓の外で聞き慣れたものと同じだった。

(え? たづさん?)

 膝の上の本を脇へ置いて、驚いて立ち上がる。
 宗次の後ろから、たづが姿を見せた。前掛けも襷も外した、洗いの利いた木綿の袷。胸には、小さな風呂敷包みを抱えている。
 引き戸の脇に、宗次が膝をついた。

「殿下のお許しで、お通しいたしました」
「わっ……たづさん、わざわざ来て下さってありがとうございますっ」

 絃羽の口元が、ぱっとほころんだ。たづの前まで進んで、目の高さを揃えるために膝を折る。たづも、板の上に腰を落とした。

「それで、一体どんな御用でしょう?」

 絃羽が尋ねると、たづは風呂敷包みを胸から膝の上へ下ろした。

「綺羅子様から、お預かりしてまいりました」
「お姉様から、ですか?」

 絃羽の目が、風呂敷包みと、たづの顔とを行き来する。
 まさか、姉から自分に贈り物とは思いもよらなかった。
 たづの指が、風呂敷の結び目に掛かる。

「奥様のお品を、お改めになりまして。……これは、お嬢様に、と。それだけ、仰いました」

 結び目がほどかれて、布の四隅が板の上に落ちる。
 中にあったのは、表紙の擦れた、厚い本が一冊。
 たづは両の手で本を取り、絃羽のほうへ向け直した。

「奥様が、格子の外でお読みになっていたご本でございます」
「えっ……!」

 お母様の声なら毎晩聞いていたが、本のほうは一度も見たことがなかった。蔵に灯りはなく、格子の外からは、頁を繰る乾いた音だけが届いていた。

「これが……あの時の」

 絃羽は両の手を差し出した。
 たづから、本が手渡される。
 本は、思っていたより重かった。毎晩、格子の外で、お母様はこの重さを膝に載せておいでだったのだろう。
 表紙を撫でると、擦れたところだけが、指の下でなめらかだった。
 空になった風呂敷は、たづが畳んで、膝の脇へ置いた。
 頁の終いから三分の一ほどのところに、畳んだ紙の端が覗いている。そこへ指を差し入れて本を開いてみると……開いた頁の行に、覚えがあった。

(あっ……ここって)

 字で見るのは初めてなのに、言い回しのひとつひとつが、目より先に耳のほうで蘇ってくる。旅の者の舟が、五つ目の海で凪に捕まるところ。お母様が読み終いに本を閉じて、格子のすぐ近くで名を呼んだ、あの晩に聞いたところだった。
 ──挟まっていた紙を開くと、真ん中に、墨の字がふたつ並んでいた。

『絃羽』

 たづの目が、紙の上の名へ落ちた。

「お七夜に、奥様がお書きになったお名でございます。わたくしが、墨を摺らせていただきました」

 紙を持つ絃羽の指が、字の手前で止まった。

「お母様が……」

 字を書くお母様の手は、絃羽の記憶のどこにもなかった。
 というより、人の手で墨に書かれた自分の名を見るのは、これで二度目だ。一度目は、先日の官の紙の上。書かれた順は、あべこべだ。こちらの二文字のほうが、ずっと先に書かれていたのに。
 指の腹でひと筆ずつなぞった。墨は紙の目に沈んでいて、指には何も付いてこない。
 絃、という字を、絃羽は本で知っている。琴の胴に、両の端を張って留める糸のことだ。
 絃羽の顔が紙から上がるのを、たづは待っていた。

「奥様は、ときどき妙なことを仰っていました」

 たづは、膝の上で両の手を重ねた。

「このお名を書かれた晩にも。『琴は、絃がなければ鳴りません』と」

 琴……それは、記憶にある限り、お母様の名だ。あの儀の日、広間でお父様がお母様をそう呼んでいたのを覚えている。
 琴は、絃がなければ鳴らない──そこで、格子の外の、あの声を思い出した。お母様は、毎晩、鳴っておいでだったのだ。
 紙の端を持つ指に、わずかに力が入った。

「お母、様……」

 膝の上の二文字が、少しにじんで見えた。目頭が、どうしてか熱い。
 古い紙だからだろう。そういうことにしておいた。
 たづの声が、ひとつ低くなった。

「羽のほうは、どこにも結ばれないものですから、と……いつか、この家からも、と仰っておりました」

 この家とは、もちろん柏木の家のことだ。
 絃羽は紙を膝の上に置いて、顔を上げた。

「まあ。では、お母様は預言者ですね」
「というと?」
「だって……本当に出てまいりましたもの」

 言ってから、自然と柔らかな笑みが浮かんだ。
 その際に、なぜか視界がぼやけた。
 たづの口が開いて、閉じられる。袖口が目元へ上がって、声を押し殺していた。

「たづさん、今日はお話を聞かせてくださり、ありがとうございました」

 袖口を目元に当てたままのたづの肩に、そっと手を置く。
 たづはその間、ずっと静かに泣いていた。
 それから、たづは絃羽の知らないお母様の話を、たくさん聞かせてくれた。意外にもおっちょこちょいなところがあったり、冗談が好きだったり。初めて聞くお母様の話は、新鮮なものばかりだった。
 日が少し傾いたころ、たづの帰る刻限になる。
 絃羽は本を胸に抱えて、引き戸の手前まで見送りに立った。
 引き戸に手を掛けたところで、たづは足を止めて振り返る。振り返った目が、絃羽の胸の本へ落ちた。

「綺羅子様は、そのお名の紙を、長いことご覧になっておいででした」
「お姉様が?」

 どうして姉がこの本に書かれた自分の名を見ていたのだろうか。
 それはわからない。でも、何だかそれは……少し、嬉しいように思えた。

「では、お嬢様。失礼いたします」

 たづの頭が、深く下がって。やがて引き戸が開き、閉まる。
 ふたつの足音が、戸の向こうで遠くなっていった。

       *

 夕方、絃羽は縁側の西の端に座って、母の本を膝の上に置いていた。
 昼の残りの勤めは、済ませてある。硝子戸の外で、庭の若葉が夕日を透かしていた。
 挟んだ紙のところを、もう一度開いてみる。
 母の声が止んだのは、頁の終いの行だった。続きは、次の頁から始まる。
 字なら、もう読める。蔵の二階の本は、十年で一冊残らず読んだのだから。
 頁の端に指を掛けて。

(ここから先は……)

 指は、紙の端に掛かったままだった。

(…………)

 紙一枚の重さしかないはずの頁が、めくれなかった。指が、そこから先へ動かない。
 訳は、探さなかった。

(……明日にいたしましょう)

 名の紙を畳み直して、母が挟んでいたところへ戻した。本を閉じる。
 手が、頬へ上がった。
 考えることは、何もない。
 膝の上には、母の本と、その中にあった名が書かれた紙。
 手は、下ろさずにおいた。
 日が落ちると、絃羽は母の本を自分の部屋に置いて、縁側を東の端まで行った。
 篝の部屋の障子の内に、灯りはなかった。主は、まだ表から戻っていないらしい。
 敷居の外に膝を折り、誰もいない中へ両の手をついてから、障子を引く。
 籠を火鉢のそばへ下ろして、火箸で灰を掻いた。底まで掻いても、赤は出てこなかった。朝から一日、火の番をする人がいなかったのだろう。
 十能を取って、水屋へ引き返した。酸棗仁を煮詰めた竈には、まだ燠が残っている。掬ってきた燠を灰の真ん中へ落とし、炭を寄せて、細く息を吹いた。炭の角に、赤が移っていく。
 湯呑みを夜具の脇へ置いて、部屋を下がった。
 自分の部屋へ戻ると、敷居の内の手焙りも、冷えていた。灰の上に手をかざしても、何も返ってこなかった。
 皐月の夜は、もう冷えない。炭の要らない季節になったのだ。
 それでも、東の端の火は、点け直してきた。訳は、こちらも探していない。
 母の本を枕元へ寄せて、絃羽は灯りのないまま横になった。
 どれほど経っただろうか。西の引き戸の開く重い音がした。

(あら?)

 縁側の板が、鳴った。ひとつ鳴って、息を吸うほどの間を置いて、また鳴る。間遠くて、重い音。主の見当は、ひとつ目で付いた。
 書庫の前を過ぎて、足音は、この部屋の障子の前で止まった。

(殿下……?)

 絃羽を呼ぶ声は、来なかった。
 絃羽も、起きて障子を引きはしない。呼ばれていない戸を、こちらから開ける筋はないからだ。待つことなら、蔵の十年で、身体が覚えている。
 眠りに落ちるまで、障子の外の足音は、止まったままだった。