怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 卯月も末に近い朝、絃羽は七つ刻に目を覚ました。
 音の出ない型と、腕立てを二百、深屈伸を百。済ませて障子を開け、縁側の板に膝をつく。硝子戸の桟の影が、板の上へ落ちてきた。
 影の端へ炭のかけらを当てて、小さく押す。
 列の先から硝子戸の敷居までは、もういくらもなかった。
 東のほうで、板が鳴る。
 ひとつ鳴って、息を吸うほどの間を置いてまた鳴った。間遠くて、重い。主の見当は、二つ目で付いた。かけらを板の端に置いて、居住まいを正す。
 篝の足が、二歩手前で止まった。外套の前で、黒い革の手が組まれている。

「明日、官の者が来る」

 官。家の記録の中でしか、見たことのない字だった。

「お役所の方が、ですか……」

 絃羽は、帯の前で指を揃えた。
 篝の目が、絃羽の上へ下りる。

「ああ。お前には、儀をもう一度受けてもらう。官の古い神官が、盥を持ってくる」

 ひとつ、瞬きをした。

(盥の……)

 青い畳が、瞼の裏に戻ってきた。白い布の上に据えられた、浅い木の盥。水の面には、五色の糸が浮いていた。赤と、青と、黄と、白と、黒。あの日の晴れ着の柄は覚えていないのに、糸の色だけはいまも順に言えた。
 池の端で、殿下がお父様に仰ったお言葉が、あとから耳によみがえった。

『儀の記録を、改めさせてもらう』

 柏木の応接間でも、同じことを伺った。
 柏木へのお供は蔵のご本のお勤めだとばかり思っていたのだが……それがどこでどう繋がるのかは、まだ見えていない。
 絃羽は、揃えた指に力を込めた。七つの年のことなら、覚えているとおりに申し上げるほかない。

「あの、殿下。儀は七つの時にも受けましたが、わたくし、上手にできませんでした。きっと、今回も……」
「上手も下手もない。見たままを、書かせるだけだ」

 それだけ言うと、外套の背は東を向いた。帰りの足の下でも、板は同じ間合いで鳴った。
 きっと、今回も、の先に控えさせていた詫びは、使わずじまいになった。
 やっぱり、篝の言うことはよくわからない。

       *

 翌日の昼、絃羽は訪問着で表の座敷の敷居の外に膝をついていた。
 園遊会の日に袖を通した一枚である。今朝も着せてくれたのは、試しの日の女中ふたりだった。表の座敷へ通されるのは、宮へ来てこれが初めてになる。
 初めての座敷でも、敷居の外なら膝の置きどころに迷わずに済んだ。
 隣には、宗次が控えている。廊下の向こうから、官の者がふたり、白い布の包みを捧げてきた。平たく丸い包みで、布の端から、木の縁が覗いている。
 膝の上の宗次の手が、指を揃え直しかけたところで止まった。
 包みが座敷へ運び入れられるまで、宗次の目はそれを追っていた。宗次が低い声で言った。

「……殿下の儀の折も、盥はこうして運ばれてまいりました」
「殿下の時も……」

 絃羽は白髪頭のほうへ顔を向けた。
 宗次の目は、敷居の向こうの畳に落ちたままだ。

「わたくしがまだ、殿下のお側に上がる前のことでございます。糸がいっぺんに結ばれて、焦げまして。……盥が、割れましてございます」

 盥が、割れる。水を張っただけの、あの浅い木の盥が。

「割れたんですか……」
「はい。水が畳に流れて、皆が下がりました。……七つの子から、皆が」

 宗次の顎が、小さく引かれた。
 その光景を、思い描いてみる。
 見たことのない広間に七つの子がひとり座っていて、畳の上を水が広がっていった。まわりの裾が、ひとつ、またひとつ、後ろへ下がっていく。
 想像しただけで、言葉がつかえた。

「……わたくしも、下がりました」

 長い沈黙のあと、宗次が言って俯いた。
 その時、座敷の内から絃羽の名が呼ばれた。

(宗次さん……)

 宗次へ返す言葉が、見つからなかった。慰めのお言葉なら、いくつか知っている。だが、どれもこの場に合わなかった。
 絃羽は小さく頭を下げて、敷居を跨いだ。
 盥を運んできたふたりが、入れ違いに廊下へ下がっていった。
 座敷の奥には、白い装束の年寄りがひとり座っている。腰が曲がり、白い眉が目の上へ垂れていた。
 絃羽の目は、先に手へ行った。指は細く、節だけが太い。長いあいだ水を扱ってきたのだろう。七つの年に、白い布で自分の手を拭いてくださった神官様のものとは、違っていた。
 その脇に、眼鏡を掛けた年配の方が座り、手元に紙と筆と、綴りを置いている。官の方だろう。
 篝は、座に着かずに窓を背にして立っていた。宗次は、敷居の外に残っている。
 座敷の真ん中に、白い布が敷かれていた。その上に、浅い木の盥がある。水が張られ、五色の糸が、その面で輪を描いていた。
 盥は、覚えていたよりずっと小さかった。七つの年には、両腕でも抱えきれないものに見えていたのだ。
 絃羽は盥の前に膝を揃えた。年寄りの神官様が、白い眉の奥から、こちらを見る。

「両手を、浸してくだされ」

 あの日と、同じお言いつけだった。
 袖を押さえて、言いつけ通りに両の手を水へ沈めた。
 冷たさより先に、糸が寄ってきた。五つの色が指のまわりへ集まって、絡み合い、結ばれていく。
 そして──結ばれた端から、ほどけていった。
 ほどけた糸は、また寄ってきて、結ばれ、ほどける。指は、少しも動かしていなかった。水の中で、糸だけが同じことを繰り返している。
 手には、何も来なかった。冷たい水に浸しているという、それだけの時間。七歳の時と、同じだ。
 神官様の手が、静かに上がった。あの時は三度浸し直したが、今回は一度きりだ。
 白い布を取って、神官様は水から上げた絃羽の手を、指の一本ずつ拭いていった。
 拭かれながら、絃羽は盥の底へ目を落とす。糸は、ばらばらになって沈みかけていた。
 やはり、上手にはできなかったのだろう。

「申し訳ございません……やはり、ほどけてしまいました」

 神官様は、答えなかった。盥の水が揺れて、やがて平らに戻るまで、ただ見ていた。
 それから、脇の官の方へ、向き直った。

「御記録には、見たままを。『結ばれ、ほどけ候』と」

 筆が、紙の上で止まった。
 官の方は、手元の綴りを繰って、ある一行に指を置いた。紙と綴りとを、眼鏡の奥の目が二度行き来した。

「控えの写しと、同じ文言でございますな」

 控え、というのが何のことかは、分からなかった。ただ、七つの年にも、よく似たお言葉を聞いた。結ばれては、ほどけましてございます、と。
 敷居の外で、宗次の白髪頭がわずかに上がる。窓を背にした篝も、何も言わなかった。
 官の方が、紙の頭を読み上げた。

「柏木伯爵家、次女」

 窓のほうから、低い声が落ちた。

「……名がある」

 篝だった。
 どうして訂正したのだろうか。これまで、次女という呼ばれ方を、疑ったことはなかった。
 官の方の筆先が、紙から浮いた。眼鏡がこちらへ向く。

「失礼を。お名は」
「絃羽と申します」

 絃羽は畳に指をついて、頭を下げた。
 筆が動いた。『結ばれ、ほどけ候』と書かれたのと同じ紙の上に、墨でふたつの字が書き足されていく。
 書かれていく字を、目で追った。紙の上に置かれた名は、思っていたより、座りがいい。
 書き終えても、官の方は筆を置かなかった。

「〈解け〉。帳面では、結べぬ者と記すのが例でございますが」

 窓の前で、篝の組んだ革の指が、一度だけ動いた。何のための動きなのかは見当もつかない。
 神官様が、白い眉の奥で目を細めた。

「帳面の上では、そう記します」

 骨ばった指が、盥の縁を示した。

「ですが、結べぬ子の盥では、糸は寄っても参りませぬ。……この方は、ほどいておられる」
「ほどいて……?」

 拭かれたばかりの自分の手を見下ろした。
 あかぎれと胼胝の手。今日も、それより他のものには見えない。
 神官様の声は、変わらず穏やかだった。

「維新の前には、解き手と申しました。〈解け〉と出る子は、その血を引く者にございます」

 解き手。蔵の二階のどの書物にも、その三文字はなかった。
 神官様の目が、盥の水の上へ落ちる。

「維新の折、政に使われまして、禁が布かれました。解き手は、それきり絶えたことになっております」

 白い眉の下で、目が障子の向こうへ行った。

「若い時分に、師のお供で一度だけお見かけしました。村にお一人おられれば、皆に重宝されたものにございます」
「重宝……?」

 耳の奥に、その言葉が残った。
 禁も絶えたも、同じお声で伺ったはずだ。

「重宝でございますか? わたくしが?」

 膝の上で両の手を重ねた。
 胸の下のあたりが、ほのかに温かくなっていく。障子越しの日が、重ねた手に当たっているからだろうか。
 神官様が、骨ばった指を一本ずつ折っていった。

「御記録に、添えておきましょう。ほどけるのは、呪い、憑物。本人の心によらず結ばれた縁。腐った結び。……それから、太すぎる結び」

 太すぎる結び。その言葉なら、前にも聞いていた。
 火鉢の前で、殿下ご自身のお口から。『俺のは、それが太すぎるんだ』と。

(太すぎる結び……殿下みたいな方のこと、ですよね)

 窓を背にした篝の手元を、絃羽は窺った。外套の前で組まれた革の指は、ぴくりともしていない。
 神官様は、折った指を膝の上へ戻した。

「互いの心で結んだ健やかな結びは、この方の前でも、ほどけませぬ。盥の糸は、ひとりでに結ばれるものにございますから」

 健やかな結びは、ほどけない。
 七つの年、広間で聞いたもうひとつのお言葉が、あとから追いついてきた。〈解け〉の者はお家の結びを緩めると申します、と。
 十年、形にならずにいた問いが、ここでようやく形になった。

「あ、あのッ」

 絃羽は、膝をわずかに前へ進めた。
 白い眉が、こちらへ向く。

「何でございましょう?」

 七つまでは母屋に、それからは蔵に。どちらも、柏木の敷地の内だった。
 白い眉の奥の目を、まっすぐに見上げて訊いた。

「では、わたくしがおりましても、柏木の家の結びは……?」

 神官様は、絃羽のまなざしを、静かに受けた。

「健やかな結びでございましたら、ひと筋も。緩んだものがございましたら、それは、とうに腐っていた結びにございます」

 ひと筋も。
 胸の前で、絃羽の手がひとりでに合わさった。

「まあ! では、健やかな結びはご無事でございましたね!」
「…………」

 官の方の口は、開かなかった。
 しばらくして、眼鏡を外し、脇へ置く。
 敷居の外では、宗次が畳に目を落としたまま動かずにいた。
 座敷は、静かなままだった。めでたい報せのあとには、こういう静けさが来るものかもしれなかった。
 窓の前で、篝の顔が、官の方へ向いた。

「……何がほどけるかは、外へ出さぬよう」

 官の方は、外した眼鏡の脇に両の手をついた。

「もとより、表へは出しませぬ」

 神官様が、盥を両手で持ち上げた。縁側へ出て、ゆっくりと傾ける。水だけが、庭の土へ返っていった。
 盥の底には、五色の糸がほどけたまま残っていた。
 赤、青、黄、白、黒。順に言える五つが、順のないまま重なっていた。

       *

 日が落ちてから、絃羽はいつものように、炭の籠と酸棗仁の湯呑みを持って、篝の部屋へ行った。
 籠の炭は、冬の半分もない。夜の冷えがゆるんでからは、足す数も減っていた。それでも、火を絶やした夜はない。
 声を掛けて障子を引くと、篝は火鉢の向こうに座っていた。黒い革の手は、膝の上にあった。
 湯呑みを夜具の脇へ置いてから、火鉢のそばに膝を揃えた。赤い芯へ、炭をひとつ足す。
 篝の目は、足された炭の上にあった。

「……分かったぞ」

 絃羽は、火箸を灰に立てた。

「はい?」
「お前が、無事な理由だ」

 篝の目が、火から上がった。
 無事。この部屋で、前にも耳にした言葉だった。

「どういうことでしょう?」

 膝を篝のほうへ向け直して尋ねた。
 篝はしばらく火を見ていた。やがて、外套の前で革の指が組まれる。

「解き手は絶えた、と教わった。〈解け〉は、その血の名残で、結べぬだけだと。……結びを緩めるというのは、迷信だと」

 組まれた指の上に、火の色が映っている。

「だが、俺の管は、相手が結べようと結べまいと勝手に開く。結べぬ夜具でさえ、焦げるくらいにはな」

 敷布団の、手の置かれるあたりに並んでいた焦げ跡がすぐに蘇ってくる。茶から黒へ、握った形のものが幾つもあった。

「お前の前では、開いた管が、開いた端からほどけていたんだ。流れ込む前に、管がなくなる。それが、壊れなかった理由だ」

 昼間の糸が、火の上へ戻ってきた。結ばれた端から、ほどけていった、あの五色。
 絃羽は、火鉢の縁へうつむいた。

(あの朝、殿下はこのお部屋で、何故だと仰いました。わたくしは……)

 敷居の内に立った殿下へ、胸を張って申し上げたのだ。筋肉でございますね、と。
 絃羽の肩が、すこし下がった。

「筋肉では……なかったんですね」

 篝の眉が、わずかに寄った。

「それで、なぜ残念そうにするのだ?」
「いえ、私にとって筋肉が一番信頼できるものでしたので……」

 溜め息が漏れる。全て筋肉が守ってくれていると思っていたのに、そうではなかった。なんだか、ちょっと裏切られた気分だ。
 篝の口の端が、かすかに動いた。火の赤の中で、笑ったように見えた。

「残念ながら、今回は筋肉ではなかったな」

 今回は。しかし、今回でないほうは、そうではないということだ。
 蔵の冬のことなら、はっきり申し上げられる。

「ですが、蔵の冬では筋肉でございました!」

 絃羽は背筋を伸ばし直し、断言した。
 そうだ。あの時は筋肉のお陰で寒くなかったはずである。それだけは、間違いない。
 火鉢の向こうで、篝の背が、ほんの少し後ろへ引いた。

「あ、ああ……それは、そうだな」

 なぜだか篝の頬が引き攣っているが、そこは気にしないでおこう。
 やはり、筋肉に間違いはない。絃羽の口元が、知らず緩んだ。
 緩んだまま、自分の手が膝から少し浮いた。毎朝取っている細い手首が、指の中に戻ってきた。
 篝の目が、その手へ落ちる。

「……灯のは、焼き切れている」

 こちらが考えていたことを読み取ったのだろう。
 声を低めたきり、篝は浮いた手のほうから顔を動かさなかった。

「ほどく結びが、もう残っていないんだ」

 灯の部屋で、初めてあの手を両の掌で包んだ朝。こちらから移っていったのは、熱だけだった。

「…………」

 浮いていた手を、膝の上へ下ろす。
 ほどけないのなら、あの腕にこの手ができることはなかった。増えてはないが、減ってもいない。
 毎朝あの腕を曲げて、伸ばしてきた。肩から肘、肘から手首へ。手順は、一度も変えていない。

「では、明日の朝も動かしにまいります。筋肉は、裏切りませんから」

 絃羽は顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
 篝の目が絃羽の手から、顔へ上がって。

「……ああ。頼む」

 柔らかく、細められた。
 篝は黒い革の手を火にかざす。絃羽も、手をかざした。
 あかぎれの筋は、冬ほど赤くない。
 同じ火が、ふたつの手の上で揺れていた。