卯月も半ばを過ぎた昼、絃羽は縁側の硝子戸を拭いていた。
庭の木立の端で、桜はすっかり葉の色になっている。枝の下に散った花びらも、茶色く縮れて、土の色に紛れはじめていた。
東のほうで、板が鳴った。
ひとつ鳴って、息を吸うほどの間を置いて、また鳴る。雑巾を持つ手を止めて、その場に膝を揃えた。
篝の足が、二歩手前で止まった。外套の前で、黒い革の手が組まれている。目は、庭のほうへ向いていた。硝子越しの葉桜の影が、外套の裾で細かく揺れている。
「柏木の当主は、隠居する」
「隠居……? お父様が?」
家の記録で、何度も読んだ言葉だ。当主が身を引くのは、たいていお身体を損ねたときだった。
雑巾を膝の上に置いて、絃羽は顔を上げた。
「お加減が、お悪いのでしょうか?」
「いや、身体は変わりない」
篝の目が、庭から絃羽へ移った。
お加減の話では、ないらしい。膝の上で握りかけていた指が、ほどけた。
組まれていた革の指も、ひとつほどける。篝の目は、また庭のほうへ逸れていた。
「家は残る。家のことは、姉が見ることになった」
家は残る。すなわち、蔵の二階の本も、北の隅の樽も、母屋にいるたづも残るという。
絃羽の口元が、ぱっとほころんだ。
「まあ! 家が残るのでしたら、よかったです」
「…………」
篝の口は、開かなかった。目だけが、庭から絃羽の顔へ戻ってきて、そこで止まった。
(あら?)
お返事を、間違えたのだろうか。
庭のほうで、葉擦れの音がひとつ立った。
しばらくして、外套の前から革の手が下りる。
「お前は氷室が預かることになった。調べが済むまでな」
お預かり。
宮へ来た夕、車寄せで、宗次が両の手を差し出して、お荷物をお預かりいたします、と言った。あのとき、渡せる荷はひとつもなかったのだが。
絃羽は、帯の前で指を揃え直した。
「お預かり、ですか。では、わたくしは殿下のお預かり物でございますね」
「……物ではない」
篝の声が、足元へ落ちた。
絃羽の首が、ひとりでに傾く。
「え? どういうことでしょう?」
訊き返してみるも、返事は来なかった。
外套の背は、もう東を向いていて、訊く機会を逃してしまったのだ。
(物ではないのでしたら……わたくしは何なのでしょう?)
掌を頬に当てて、小首を傾げる。
膝の上の雑巾が、いつの間にか、固く握られていた。
握った覚えは、なかった。
*
数日が過ぎた昼、絃羽は縁側の西の端に座っていた。
柏木から姉の綺羅子が見える、と宗次に告げられたのは、その朝のことだ。殿下のお許しで、奥の棟の縁側まで通すという。
東の端には、篝が立っていた。障子の前で、外套の裾は動かない。
引き戸の開く重い音がした。小刻みな足音が縁側へ入ってきて、その後ろに、ふたつ続いた。
宗次の背の陰から、綺羅子が出てきた。
銘仙に、帯。扇は、その間に差したままだった。白粉は、池の端で見たときよりも薄い。
引き戸を入ったところで、綺羅子は足を止めた。火の気のない部屋の並びと、硝子戸と板の続く縁側とを、ゆっくりと見回していく。その目が、東の端の篝に行き当たった。そちらへ、深く腰を折る。
綺羅子の後ろで、たづが引き戸の脇に膝をついた。宗次も、その隣に膝を折る。
絃羽は立って綺羅子の前へ進み、指を揃えて頭を下げた。
「お姉様。ようこそ、お越しくださいました」
頷きが、ひとつ返ってきただけだった。
綺羅子を促して、縁側を少し東へ戻る。自分の部屋の前で、板の上に膝を揃えた。姉にも、同じ板へ座を勧める。
綺羅子はしばらく立ったままでいた。やがて、銘仙の裾を押さえて、膝をつく。その下で、板が小さく鳴った。
引き戸の脇では、たづと宗次が頭を下げたまま控えている。東の端の外套も、障子の前から動かなかった。
座った綺羅子の目が、板の端へ落ちた。そこには、炭の点が一列に並んでいる。
「これは……何の印ですの?」
訊かれたことなら、答えられる。絃羽はいちばん新しい点に指を添えた。
「日を数えております」
「日を?」
姉は、点の列を端から端まで辿っていった。
「…………」
それ以上は、訊かれなかった。
訊かれれば、幾つでも答えられたのだが。日の数だけは、間違えたことがない。
姉の指が帯の扇へ伸びかけて、そこで止まった。空いた指は膝へ戻って、銘仙の上をしばらく撫でていた。
「父は、届け出なかったのですって。神官様に、毎年……蔵の炭の名目で」
届け出、というのが何のことかは、分からなかった。分かるのは、蔵の炭のお話だということだけだ。あの土間の隅に、空の炭俵が立て掛けてあったのを思い出した。
お話を遮るわけにはいかない。とりあえず、訊かずにおいた。
綺羅子の声は、池の端で聞いたときより低かった。目は、点の列の上に落ちたままだ。
「お前は何も知らぬままでいろ、と……小さいころから、そう言われてきましたの」
帯の前で揃えていた指が、一本、ひとりでに折れた。
どうして折れたのかは、分からない。
絃羽は、その指を揃え直した。
──綺羅子の目が、点の列から上がって、絃羽の顔の上で止まった。
「わたくし、ずっと……あなたが、怖かった」
引き戸の脇で、たづの肩がひとつ揺れた。
怖がらせるようなことを、してしまったのだろうか。蔵に入るより前の、七つまでのどこかで。覚えのない粗相ほど、詫びようがないものはない。
「まあ。わたくし、粗相をいたしましたでしょうか?」
絃羽は、両の手を膝の上へ置いて訊いた。
綺羅子の目が、絃羽の顔から膝の上の手へ落ちた。
付け根に並んだ胼胝と、太い節。池の端で、扇の陰から姉が鼻を鳴らした手である。
「…………」
今日は、何も言わず笑いもしなかった。綺羅子はその手をじっと見つめていた。
しばらくして、姉の背が、少しだけ伸びた。
「家は、わたくしが背負うことになりましたわ」
「背負う、ですか」
背負うのなら、下が据わっていなければならない。梁にぶら下がるのも、冬を越すのも、始まりはいつもそこだった。
「では、まず足腰でございますね!」
絃羽は、背筋を伸ばして元気よく言った。
姉がぱちりと瞬く。
「……は?」
聞き取りにくかったのかもしれない。
大事なことほど、はっきり申し上げるものだ。
絃羽は膝の上で両の拳を握り、もう少し声を張って言い直した。
「家を背負うのも冬を越すのも、足腰からでございます。筋肉は、毎朝の分だけちゃんと付いてまいりますので!」
「きん、にく……?」
綺羅子の口が開いて、また閉じた。
やがて、銘仙の肩が揺れはじめた。姉は袖を顔の前へ上げる。口元を押さえたのか、目元を押さえたのかは、その陰で見分けがつかなかった。笑っているのか、泣いているのかも、分からない。
袖の陰から、声が漏れた。
「あなたって……」
続きは、来なかった。
東の端で、外套の肩がかすかに揺れていた。そちらを見たときには、もう動いていなかった。
綺羅子の肩の揺れが収まるまで、絃羽はその手元を見つめていた。人の話を聞くとき、目はいつも先に手へ行ってしまう。
扇を持たない綺羅子の指は、思っていたよりずっと細かった。
姉は袖を下ろして、立ち上がる。東の端へ向き直り、篝のほうへ、深く頭を下げた。
篝は僅かに顎を引いて答えた。
姉の後ろで、たづが膝をついたまま、絃羽のほうへ頭を下げる。長いこと、その頭は上がらなかった。
引き戸が開いて、また閉じる。三つの足音が、重なりながら遠ざかっていった。
東の端で、障子の閉まる音が続いた。
(あ、れ……?)
ひとりになった縁側で、絃羽は膝をついたままでいた。
目の奥が、少し熱かった。埃の立つ縁側ではないのに。どうしてかは、わからなかった。
庭の木立の端で、桜はすっかり葉の色になっている。枝の下に散った花びらも、茶色く縮れて、土の色に紛れはじめていた。
東のほうで、板が鳴った。
ひとつ鳴って、息を吸うほどの間を置いて、また鳴る。雑巾を持つ手を止めて、その場に膝を揃えた。
篝の足が、二歩手前で止まった。外套の前で、黒い革の手が組まれている。目は、庭のほうへ向いていた。硝子越しの葉桜の影が、外套の裾で細かく揺れている。
「柏木の当主は、隠居する」
「隠居……? お父様が?」
家の記録で、何度も読んだ言葉だ。当主が身を引くのは、たいていお身体を損ねたときだった。
雑巾を膝の上に置いて、絃羽は顔を上げた。
「お加減が、お悪いのでしょうか?」
「いや、身体は変わりない」
篝の目が、庭から絃羽へ移った。
お加減の話では、ないらしい。膝の上で握りかけていた指が、ほどけた。
組まれていた革の指も、ひとつほどける。篝の目は、また庭のほうへ逸れていた。
「家は残る。家のことは、姉が見ることになった」
家は残る。すなわち、蔵の二階の本も、北の隅の樽も、母屋にいるたづも残るという。
絃羽の口元が、ぱっとほころんだ。
「まあ! 家が残るのでしたら、よかったです」
「…………」
篝の口は、開かなかった。目だけが、庭から絃羽の顔へ戻ってきて、そこで止まった。
(あら?)
お返事を、間違えたのだろうか。
庭のほうで、葉擦れの音がひとつ立った。
しばらくして、外套の前から革の手が下りる。
「お前は氷室が預かることになった。調べが済むまでな」
お預かり。
宮へ来た夕、車寄せで、宗次が両の手を差し出して、お荷物をお預かりいたします、と言った。あのとき、渡せる荷はひとつもなかったのだが。
絃羽は、帯の前で指を揃え直した。
「お預かり、ですか。では、わたくしは殿下のお預かり物でございますね」
「……物ではない」
篝の声が、足元へ落ちた。
絃羽の首が、ひとりでに傾く。
「え? どういうことでしょう?」
訊き返してみるも、返事は来なかった。
外套の背は、もう東を向いていて、訊く機会を逃してしまったのだ。
(物ではないのでしたら……わたくしは何なのでしょう?)
掌を頬に当てて、小首を傾げる。
膝の上の雑巾が、いつの間にか、固く握られていた。
握った覚えは、なかった。
*
数日が過ぎた昼、絃羽は縁側の西の端に座っていた。
柏木から姉の綺羅子が見える、と宗次に告げられたのは、その朝のことだ。殿下のお許しで、奥の棟の縁側まで通すという。
東の端には、篝が立っていた。障子の前で、外套の裾は動かない。
引き戸の開く重い音がした。小刻みな足音が縁側へ入ってきて、その後ろに、ふたつ続いた。
宗次の背の陰から、綺羅子が出てきた。
銘仙に、帯。扇は、その間に差したままだった。白粉は、池の端で見たときよりも薄い。
引き戸を入ったところで、綺羅子は足を止めた。火の気のない部屋の並びと、硝子戸と板の続く縁側とを、ゆっくりと見回していく。その目が、東の端の篝に行き当たった。そちらへ、深く腰を折る。
綺羅子の後ろで、たづが引き戸の脇に膝をついた。宗次も、その隣に膝を折る。
絃羽は立って綺羅子の前へ進み、指を揃えて頭を下げた。
「お姉様。ようこそ、お越しくださいました」
頷きが、ひとつ返ってきただけだった。
綺羅子を促して、縁側を少し東へ戻る。自分の部屋の前で、板の上に膝を揃えた。姉にも、同じ板へ座を勧める。
綺羅子はしばらく立ったままでいた。やがて、銘仙の裾を押さえて、膝をつく。その下で、板が小さく鳴った。
引き戸の脇では、たづと宗次が頭を下げたまま控えている。東の端の外套も、障子の前から動かなかった。
座った綺羅子の目が、板の端へ落ちた。そこには、炭の点が一列に並んでいる。
「これは……何の印ですの?」
訊かれたことなら、答えられる。絃羽はいちばん新しい点に指を添えた。
「日を数えております」
「日を?」
姉は、点の列を端から端まで辿っていった。
「…………」
それ以上は、訊かれなかった。
訊かれれば、幾つでも答えられたのだが。日の数だけは、間違えたことがない。
姉の指が帯の扇へ伸びかけて、そこで止まった。空いた指は膝へ戻って、銘仙の上をしばらく撫でていた。
「父は、届け出なかったのですって。神官様に、毎年……蔵の炭の名目で」
届け出、というのが何のことかは、分からなかった。分かるのは、蔵の炭のお話だということだけだ。あの土間の隅に、空の炭俵が立て掛けてあったのを思い出した。
お話を遮るわけにはいかない。とりあえず、訊かずにおいた。
綺羅子の声は、池の端で聞いたときより低かった。目は、点の列の上に落ちたままだ。
「お前は何も知らぬままでいろ、と……小さいころから、そう言われてきましたの」
帯の前で揃えていた指が、一本、ひとりでに折れた。
どうして折れたのかは、分からない。
絃羽は、その指を揃え直した。
──綺羅子の目が、点の列から上がって、絃羽の顔の上で止まった。
「わたくし、ずっと……あなたが、怖かった」
引き戸の脇で、たづの肩がひとつ揺れた。
怖がらせるようなことを、してしまったのだろうか。蔵に入るより前の、七つまでのどこかで。覚えのない粗相ほど、詫びようがないものはない。
「まあ。わたくし、粗相をいたしましたでしょうか?」
絃羽は、両の手を膝の上へ置いて訊いた。
綺羅子の目が、絃羽の顔から膝の上の手へ落ちた。
付け根に並んだ胼胝と、太い節。池の端で、扇の陰から姉が鼻を鳴らした手である。
「…………」
今日は、何も言わず笑いもしなかった。綺羅子はその手をじっと見つめていた。
しばらくして、姉の背が、少しだけ伸びた。
「家は、わたくしが背負うことになりましたわ」
「背負う、ですか」
背負うのなら、下が据わっていなければならない。梁にぶら下がるのも、冬を越すのも、始まりはいつもそこだった。
「では、まず足腰でございますね!」
絃羽は、背筋を伸ばして元気よく言った。
姉がぱちりと瞬く。
「……は?」
聞き取りにくかったのかもしれない。
大事なことほど、はっきり申し上げるものだ。
絃羽は膝の上で両の拳を握り、もう少し声を張って言い直した。
「家を背負うのも冬を越すのも、足腰からでございます。筋肉は、毎朝の分だけちゃんと付いてまいりますので!」
「きん、にく……?」
綺羅子の口が開いて、また閉じた。
やがて、銘仙の肩が揺れはじめた。姉は袖を顔の前へ上げる。口元を押さえたのか、目元を押さえたのかは、その陰で見分けがつかなかった。笑っているのか、泣いているのかも、分からない。
袖の陰から、声が漏れた。
「あなたって……」
続きは、来なかった。
東の端で、外套の肩がかすかに揺れていた。そちらを見たときには、もう動いていなかった。
綺羅子の肩の揺れが収まるまで、絃羽はその手元を見つめていた。人の話を聞くとき、目はいつも先に手へ行ってしまう。
扇を持たない綺羅子の指は、思っていたよりずっと細かった。
姉は袖を下ろして、立ち上がる。東の端へ向き直り、篝のほうへ、深く頭を下げた。
篝は僅かに顎を引いて答えた。
姉の後ろで、たづが膝をついたまま、絃羽のほうへ頭を下げる。長いこと、その頭は上がらなかった。
引き戸が開いて、また閉じる。三つの足音が、重なりながら遠ざかっていった。
東の端で、障子の閉まる音が続いた。
(あ、れ……?)
ひとりになった縁側で、絃羽は膝をついたままでいた。
目の奥が、少し熱かった。埃の立つ縁側ではないのに。どうしてかは、わからなかった。



