怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 柏木から戻った晩、篝は文机の前に座っていた。
 夕餉の汁は、絃羽お手製の、北の隅の味噌だ。塩の角が先に来て、甘みはあとから追ってきた。
 日が落ちると、絃羽はいつものとおり、炭の籠と酸棗仁の湯呑みを持ってこの部屋へ来た。火を足し、湯呑みを夜具の脇へ置いてから、下がっていく。柏木のことは、ひと言も口にしなかった。
 訊かれれば、答えるつもりでいた。訊かれなかったのだ。
 文机の端には、帳面が二冊、重ねてある。宮へ帰り着いたとき、絃羽がそこへ置いていったものだ。
 ほどなく、小刻みな足音が縁側を渡ってきて、障子の外で止まった。夜の用を伺う刻限だ。
 篝は立って、障子の桟に肘を当てると、掌ひとつぶん引いた。敷居の外で、宗次の白髪頭が下がっていた。

「宗次。洋燈を」

 白髪頭は、すぐには上がらなかった。この棟に灯りを入れろと言ったことは、十年、一度もない。

「……ただいま」

 戻ってきた宗次の手で、洋燈が文机の脇に据えられた。硝子の火屋の中で、芯の火が細く立っている。明かりの輪の外で、部屋の暗さが一段濃くなった。宗次は敷居の外へ退がり、そこで膝をついたまま控えた。用が済めば、洋燈は宗次が下げていく。
 篝は勘定帳の表紙を開いた。革の指で紙を繰ると、乾いた音がした。
 年ごと、月ごとに、名目と額が下りていく。秋になると、決まって同じ一行が現れた。

『蔵 炭』

 額は、どの年もほとんど変わらない。四年前の秋だけが、『蔵 修繕・炭』になっている。
 普請の記録は、昼に絃羽が差し上げてきた頁を、もう一度開いた。蔵に最後に手が入ったのは、絃羽の生まれるより前の年である。
 声が、ひとつずつ戻ってきた。

『静かな冬でございました』

 この部屋の火鉢の前で、蔵の冬を訊いたときの答えだった。

『炭が参りましたのは、指で数えるほどでございます。四年前の冬は、参りませんでした』

 今日の昼、空の炭俵の見える蔵の中で、絃羽は指を折りながらそう答えた。折った指をほどいてから、こう言い添えたのだ。

『その冬も、静かな冬でございました』

 柏木は毎年の秋、蔵の炭の名目で金を出していた。その炭が届いたのは、指で数えるほどの冬だけだったという。
 ──絃羽の冬の炭の金で、柏木は、絃羽を隠していたのだ。

「…………」

 右の手が、左の手首を掴んだ。革が、低く鳴る。革越しに、自分の脈が数えられた。いつもより、随分と速い。
 洋燈の火が、火屋の中でわずかに揺れた。
 池の端の声が、耳の底からよみがえる。

『お姉様は、お優しくていらっしゃいますのね』

 あのとき、絃羽の息の音は聞こえなかった。
 藪入りの日、縁側の東の端で、たづに訊いたことがある。あの娘が怒るのを、見たことがあるか、と。
 膝をついたまま、たづは肩を揺らした。

『お嬢様は、お怒りになると、お声が丁寧になって、息の音がしなくなります』

 答えてから、たづは袖口を目元へ当てた。

『……めったに、ございませんが』

 そのときは、聞き置くだけの話だった。
 だから、池の端で気づいたのだ。姉へ向けた絃羽の声が、一段上がったことに。
 あの時は、手を嗤われ、蔵を嗤われたことへの怒りだと読んでいた。
 だが、本当にそうだろうか? 少し、違和感を抱いた。
 あのときの出来事を、順に並べ直してみる。
 蔵から出てこられたことを嗤われて、絃羽は宮の膳が温かいと返していた。いつもの声の調子であったし、違和感もなかった。
 手を嗤われたときは、「はい?」と訊き返していた。この時も、いつものとおりだったはずだ。
 変わったのは、そのあとである。

『せいぜい、壊されぬよう。〝触れずの殿下〟は、弟君さえお壊しになったとか』

 息の音が消えたのは、姉がそう言ってからだ。
 蔵のことでも、手のことでもなかった。自分のことではきっと、あの娘は怒らない。
 怒ったのは、篝の噂と、灯の話が出たときだ。

(全く……あの娘は、本当に)

 手首を掴んだ革が、もう一度鳴った。
 官へ持っていく前に、定めの文言を確かめておかなければならない。当主の教えとして覚えてはいた。だが、覚えていることと、写しで確かめたことは、同じではない。
 篝は洋燈を提げて、立ち上がった。敷居の外で宗次が腰を浮かせかけたのを、首を横に振って止める。
 縁側へ出た。いつも通り、足音は立てていない。
 空き部屋を過ぎ、絃羽の部屋の前で、洋燈を外套の陰へ引き寄せた。明かりの輪が、障子の紙を渡らないように。内からは、物音ひとつしなかった。
 書庫の板戸を、肘で引く。
 洋燈を掲げると、書架が奥まで並んでいた。窓に近いほうから、本草、和算、農書。氷室の家の記録は、突き当たりにまとめてある。背の高さが揃って、どの段も一本の線になっていた。
 その線を引いた手が誰のものなのかは、考えるまでもない。
 その棚の前で、洋燈を下げた。年の順に並んだ綴りの中で、維新の折のものは、あるべきところにある。探す手間は、なかった。
 下の段の隅には、金具を角に打った文箱がひとつ。篝の手首を裂いた箱だ。蓋は、閉じたままになっている。
 綴りを抜いて、洋燈の下で繰る。布告の写しは、三枚目にあった。
 一行ずつ終いまで目で追ってから、それを閉じる。覚えていたとおりの文言だった。
 綴りを抱えて部屋へ戻ると、宗次は敷居の外の同じところに膝をついていた。
 篝は洋燈を文机の脇へ戻し、腰を下ろした。

「宗次」
「はい」

 白髪頭が、敷居の外で下がった。
 文机の上の帳面二冊と、書庫の綴りとを、揃えて脇へ寄せる。

「紙と筆を」

 下がっていた白髪頭が、少しだけ上がった。

「……どちらへの、お文で?」

 篝の目は、空けた文机の上から動かなかった。

「父上へ」

 宗次の膝の上で、手が止まった。十年、跡目の話しか寄越してこなかった相手である。
 やがて、その手が静かに重なった。

「かしこまりました」

 宗次が運んできた紙に、篝は筆を下ろした。
 柏木伯爵家の次女、絃羽の身柄を、調べが済むまで氷室宮にて預かりたい。ついては、書付に当主の印を賜りたい。書いたのは、それだけだった。
 墨が乾くのを待って、文を畳む。宗次がそれを盆に載せ、縁側を西へ退がっていった。

       *

 翌朝、懐中時計の針が六時を回ったころ、宗次の足音が障子の外で止まった。
 篝は立って、障子の桟に肘を当て、掌ひとつぶん引いた。
 宗次は、盆を捧げて膝をついていた。書付が一枚と、封をした文が一通。

「表から、お返事でございます」
「……ああ」

 盆の縁に革の指を掛けると、盆ごと手元へ引き寄せる。
 書付には、当主の印が捺してあった。氷室宮において、柏木伯爵家の次女の身柄を預かる、とある。
 封は、その場で切った。父の字は細く、行の頭がよく揃っている。三行だった。

『印は押した。柊宮が、園遊会でその娘を見ている。跡目の件は、追って』

 文を畳んで、盆の上へ戻した。
 宗次は、何も訊かずに膝をついている。

(跡目の件、か……)

 ちょうどそのことについて思いを巡らせたとき、西のほうから小さな音が届いた。硬いものが、板にそっと当たる音。炭のかけらを、縁側に当てたのだろう。影の端を待っていた絃羽が、今朝の点を打ったらしい。
 篝は、障子をそれ以上は開けなかった。掌ひとつぶんの隙間から、朝の冷えが薄く入ってきていた。

       *

 翌々日の昼、篝は役所の一室に立っていた。
 窓の大きな洋間で、卓の向こうに年配の役人がひとり、座っている。椅子を勧められたが、掛けなかった。
 園遊会の池の端で、扇を止めた者は幾人もいた。その中に口の軽い者がいれば、噂のほうが先にここへ着く。そうなれば、絃羽の身柄は篝の手の届かない順で運ばれるだろう。そうなる前に、ここへ来た。
 届かないことには、慣れていた。だが、この件だけは別だ。
 篝は卓の上で、風呂敷の包みを解いた。
 柏木の勘定帳と、蔵の普請の記録。宗次の綴りには、神官側の控えを写した一行のところに、付箋が挟まったままになっている。
 儀の記録は、柏木からは出てこなかった。出せるはずがない。
 続いて、園遊会での柏木綺羅子の言を一字も違えずに伝えた。その場に居合わせた者が幾人もいたことも、言い添える。蔵の前で柏木宗一郎が口にしたことも、そのまま告げた。
 役人は勘定帳を繰り、綴りの付箋の一行を読んだ。それから眼鏡を外して、脇へ置いた。

「維新の折に布かれた、解きの禁でございます」

 その指が、付箋の端を軽く叩いた。

「儀で〈解け〉の出た家は、届け出る定め。届け出れば、子は家から離し、官がお預かりいたします」

 書庫の写しにあった文言と、違うところはなかった。
 役人は、卓の上で指を組んだ。

「家には、調べが入ります。……届けておれば、柏木は傾いておりましたろうな」
「…………」

 篝の目が、勘定帳へ落ちる。
 傾かずに済んだ十年のあいだ、あの蔵の炭俵は、ほとんどの冬、空だった。
 役人は、手元の紙へ筆を伸ばした。

「では、娘御の身柄は、官で」
「待て」

 篝は、卓へ一歩寄った。
 役人の背が、椅子へ引かれる。〝触れずの殿下〟の噂を、この役人も知っているらしい。椅子の軋む音なら、聞き慣れていた。今日は、その音が仕事をしてくれた。
 当主の印の書付を、卓へ置く。手渡しはしなかった。

「あの娘は、氷室が預かる」
「え?」

 役人の目が、書付の印の上で止まる。しばらくして、その口から長い息が漏れた。

「……宮家がお受けになるのでしたら、官は口を挟めませぬ。調べが済むまで、氷室宮のお預かりといたしましょう」

 篝は、書付から指を離した。

「柏木は?」
「届けを怠った責は、当主おひとりに。家は、残りましょう」

 役人は、勘定帳の表紙に掌を置いて答えた。
 神官にも、調べが入るという。

「そうか」

 帳面と綴りと書付を役所に残して、部屋を出た。
 宮へ帰り着いたのは、夕方だった。
 奥の棟の庭、木立の端に、桜が一本立っている。花は盛りを過ぎはじめて、枝の下の土に、薄紅が散っていた。
 冬至の日、書庫の戸口で聞いた声を、今でも覚えている。

『お花の頃、ですか……』

 盛りは、過ぎかけている。だが、まだ終わってはいなかった。
 北の端の水屋から、竈の薪の爆ぜる音が、縁側を伝って細く届いていた。
 日が落ちる前に、篝は火箸を取って、火鉢の赤いところから炭を三つ十能へ移した。
 卯月の夜は、もう冷えない。
 それでも、三つ移した。