園遊会から三日が過ぎた昼、絃羽はふたたび柏木の車寄せに降り立った。
来る道の堀端では、桜がわずかのあいだに、若葉の色を混ぜはじめていた。足元の砂利にも、どこからか流れてきた花びらが、白く点々と散っている。
列が、できていた。女中と下男が揃って腰を折り、その先頭に父がいる。宮へ発った夕と、同じ並びだった。ただ、あのとき父のすぐ後ろに覗いていた姉の銘仙の色は、今日は列のどこにもない。
列の端に、たづがいた。頭を下げたまま、目だけがこちらへ上がってくる。絃羽も、目だけでそれに応えた。声を出さない挨拶は、口の挨拶より、少しだけ長く続いた。
宗次は、車廻しに残った。
今日は、宮でいただいた銘仙を着ていた。蔵の本を扱うなら、埃が立つ。訪問着で来るわけにはいかなかった。
篝は、列の前を足も止めずに過ぎていく。一方の絃羽は、父の前で足を止めた。
「お父様。ご無沙汰いたしております」
揃えた指を帯の前に置いて、頭を下げる。
しかし、父の顔は篝の背のほうへ向いていた。
殿下をお迎えの最中だ。娘の挨拶は、あとまわしで構わない。
もう一度頭を下げて、篝のあとを追った。
ふたりが通されたのは、洋窓のある応接間。七つまで住んでいた母屋でも、客の間へは上がったことがなかった。この部屋に入るのは、初めてだ。
火鉢がふたつに、長火鉢がひとつ。どれも灰が白く均されて、火の気はない。
篝は勧められた上座の椅子を使わず、窓を背にして立った。父は向かいの椅子に浅く掛けては篝を見上げ、また腰を浮かせかけた。膝の上には、閉じた扇が載っている。
絃羽に、椅子は勧められなかった。篝の脇、一歩下がったところの絨毯に、膝を揃えた。絨毯の毛は、膝の下で音を立てない。畳とも、土間とも違う膝ざわりだった。
篝の目が、父の上へ下りる。
「儀の記録を改めに来た。あわせて、家の勘定帳を見せてもらう」
「か、勘定帳、でございますか。古いものは、蔵に仕舞ってございまして」
父の指が、扇をせわしなく握り直した。
(蔵に……?)
蔵の二階の書物なら、一冊残らず覚えている。勘定帳など、その中には混じっていなかった。
けれど、申し上げる立場ではない。いまは、殿下とお父様のお話である。
篝の声は、平らなままだった。
「では、手元にあるものからだ」
父が手を叩くと、廊下で足音が動いた。
ほどなくして、帳場の者が綴じた帳面を捧げて入ってきた。表紙の角が擦れて、丸くなっている。篝の前で膝をつき、帳面を差し出した。
篝は、受け取らなかった。革の指が、絃羽の前の絨毯を差す。帳場の者は目を瞬いてから、それを絃羽の膝の前へ置いて、退がっていった。
(わたくしが、読んでいいのですか?)
蔵の本の整理なら、帳面を読むのもそのうちなのだろう。そう納得し、両手で引き寄せてから、絃羽は表紙を開いた。
墨の数字が、縦に並んでいた。年ごと、月ごとに、名目と額とが一行ずつ下りていった。
指の腹で行を押さえながら、それを辿っていく。算盤は要らなかった。蔵の二階の和算の書で、頭の中に珠を置くやり方を覚えている。行が下りるたびに、その珠が動いては止まった。
数字は人と違って、こちらを見ない。並んだとおりに、読めばいいだけだ。
膳、炭、衣、修繕。どの年も、秋になると決まって同じ名目が立っていた。『蔵 炭』。額も、毎年ほとんど変わらない。
椅子の軋む音がした。
父の声が、頭の上から初めてこちらへ向いて降ってきた。
「この帳面が読めるのか? 女学校にも行かぬ娘が」
これで、父から掛けられた言葉は三つになった。三つ目には、『殿下』が入っていない。
行を押さえた指は、そのあいだも下りていた。
──帳面の上で、指が止まった。
先に止まったのは、指のほうである。訳は、あとから追いついてきた。
四年前の秋。名目の『炭』の前に、『修繕』の二字が足されている。額は、ほかの秋の倍を超えていた。
絃羽は、顔を上げた。
「お父様……四年前の秋の勘定が、ひとつ合っておりません」
「…………」
父の扇が、止まった。七つの年の広間でも、扇は同じところで止まっていたように思う。
合わない訳なら、はっきりしていた。
「蔵の修繕に、これだけとございます。ですが、あの秋、蔵の閂は一度も外されておりません」
絃羽は帳面を父のほうへ向け直して、その一行に指を添えた。
父の口は、開かなかった。扇を握った指も、動かない。
窓を背にした篝は、ひと言も挟まなかった。
帳面の数だけでは、確かめたことにはならない。二階の棚には、柏木の古い家の記録があったはずだ。お申しつけの蔵のご本とも、これで繋がる。
「殿下。蔵の記録と、突き合わせてよろしゅうございますか?」
篝のほうへ膝を向けて、お伺いを立ててみる。
「……私も行く」
篝の声が、短く続いた。
案内に立ったのは、父だった。
帳面は絃羽が胸に抱えている。篝は、手を伸ばさなかった。
父の背について母屋を回り込み、庭をひとつ抜ける。
生垣の際に、姉が立っていた。今日は銘仙で、閉じた扇を胸の前に持っている。それより先へは、出てこなかった。絃羽が会釈をしても、扇は動かない。
生垣を過ぎると、飛び石が途切れて、踏み固めた土になった。
土の道の先に、蔵がある。漆喰は、裾のほうが剥げたままだった。
扉には、外から樫の閂が掛かっていた。宮へ発った夕、絃羽が自分の腕で落としたきりになっている。
父の足は、扉の手前までだった。
閂を抜くには、両の腕が要る。絃羽は帳面を扉の横の踏み石へ置き、樫の棒を抱え上げた。梁にぶら下がる身体ひとつより、いくらか軽い。抜いた棒は、脇の壁へ立て掛けておいた。
父の目は、その腕の上にあった。
重い扉を、両手で押し開ける。軋みが、蔵の高いところへ上っていった。
帳面を拾い上げて、敷居を跨ぐ。中の暗さに目が慣れるまで、少し間があった。
(帰ってきました)
土壁の内の空気は、ひやりとしていた。春の昼の温みは、敷居のところでせき止められて、中までは入ってこない。埃と土の匂いがした。十年、朝ごとに吸っていた匂いだ。息が、勝手に深くなった。
(懐かしい空気ですね……)
土間と、奥の板敷き。格子窓の下に畳んだ夜具は、発つ前に角を直したとおりに揃っている。その上に、埃が薄く積もっていた。北の隅には味噌樽。荷箱の板で組んだ薬棚には、干した草の束が残っている。梁には、手の跡が黒く付いていた。
どれも、置いていったときのままだ。
「……ネズミさん。ただいま、戻りました」
絃羽は梁の上の暗がりへ、小さく頭を下げた。
それに応えるように、頭の上で藁がひと擦れ動いた。
お返事があったことに、ほっと安堵の息を吐く。お元気そうで、何よりだ。
篝も敷居を跨いで土間へ入ってきた。外套の肩が、梁のすぐ下を通る。
父は、扉の外に立ったままだった。顔は、生垣のほうへ向いている。
突き合わせるなら、二階の家の記録だ。絃羽は勘定帳を、格子の光の落ちる板敷きへ開いて置き、階段の下へ行った。
「気をつけて上がれ」
後ろから、篝の声がした。
今回は『上がるな』ではない。お言いつけの形をした、お気遣いだ。
「はい」
振り返って、頷く。自然と笑みが、零れていた。
一段目に足を掛ける。二段目の板が、いつもの音で低く鳴った。
二階に、格子の光は届かない。それでも、手は迷わなかった。奥の棚の、下から二段目。右から四冊目。指が、背の擦れた綴じ本に行き当たった。
抜き出して、階段を下りる。格子の光の中で頁を繰り、普請の年が並んだところで手を止めた。篝の目の高さへ、開いたまま差し上げる。
「蔵に手が入りましたのは、この年が終いでございます。わたくしが生まれる前、ですね」
篝の目が、頁から土間の隅へ移った。空の炭俵が、そこに立て掛けてある。
「……炭のほうは?」
炭のことなら、数えられる。絃羽は綴じ本を片腕に抱え直して、空いた手の指を、炭の来た冬の数だけ折っていった。
「炭が参りましたのは、指で数えるほどでございます。四年前の冬は、参りませんでした」
折った指を、ほどく。炭の来ない冬なら、蔵ではめずらしくもなかった。だから、いつものとおりに言い添えておく。
「その冬も、静かな冬でございました」
言ってから、蔵の中が、ひと呼吸ぶん静かになった。
篝の目が、板敷きの勘定帳へ下りる。開いたままの頁に、毎年の秋の『蔵 炭』が一行ずつ並んでいた。
やがて、篝が言った。
「……これは、口止めの金だな」
「口止め、ですか?」
聞いた言葉を、そのままなぞった。
「誰への口止めでしょうか?」
「神官だ。毎年、払っている」
篝は、勘定帳から顔を上げなかった。
神官様なら、七つの年に一度だけお目にかかっている。盥の前で、両手を浸すようにと仰った方だ。
絃羽が小首を傾げて訊いた。
「まあ。何を止めたのですか?」
「…………」
篝の口は、開かなかった。
外套の肩が、動かない。返事を待っても、来なかった。
「殿下?」
絃羽は、外套の背へ小さく呼びかけてみる。
しかし、篝の口からそれが語られることはなかった。
その時。扉の外で、草履が砂を擦った。
開いた扉の向こう、生垣の際に、姉の姿が小さく見えている。父は、顔をそちらへ向けたままだった。声だけが、篝の背へ投げられる。
「……家を、残さねばならなかったのです」
その声は、こちらへは一度も向かなかった。
お家を残す。そのお話と炭の勘定とがどこでどう繋がるのかは、絃羽には分からなかった。
分からないままのお話が、またひとつ増えた。
篝は、振り返らなかった。
「これも預かるぞ」
その目が、板敷きの勘定帳と絃羽の腕の綴じ本とを、順に指した。預かるのは、この二冊のことらしい。
絃羽は勘定帳を拾い上げ、綴じ本と重ねて胸に抱えた。篝は、どちらにも手を伸ばさなかった。
篝の外套が、先に敷居を出ていった。
(あっ……)
その手前で、蔵の中を振り返った。
味噌樽の蓋にも、薬棚の端にも、今日は触れていない。
「長いあいだ、お世話になりました。お元気で」
梁の上の暗がりへ、深く頭を下げた。
敷居を跨ぐと、土の道を、小走りの足音が近づいてきた。
たづだった。胸に、小ぶりの壺を抱えている。口には紙の蓋が当てられ、紐で括ってあった。
絃羽の前で足を止めると、たづはそのまま、頭を下げた。
「お嬢様! こちらを……殿下のお味噌汁に」
紙の蓋の隙間から、匂いが立った。まず塩の角が来て、遅れて、奥のほうから甘みが追いかけてくる。それには、覚えがあった。
「まあ! 北の隅の、ですね! ありがとうございますっ」
絃羽の口元が、ぱっとほころんだ。
たづは、何も言わずに頷いた。受け取ろうにも、絃羽の両の腕は帳面でふさがっている。壺を胸に引き寄せて、たづは一歩下がった。車廻しまで、運んでくれるようだ。
開け放しておけば、樽の匂いに獣が寄る。絃羽は帳面を二冊とも踏み石へ置き、重い扉を両手で押し戻した。
壁に立て掛けておいた樫の棒を、両腕で抱え上げる。そのまま、受けへ落とした。
木と木の噛み合う、低い音が響いた。
外から聞くのは、これで二度目だ。
一度目の音より、乾いて聞こえた気がする。春の乾きなのか、聞くほうの耳が変わったのかは、分からなかった。
(……もう、ここに戻ってくることは、ないんですね)
不思議な感慨を抱きながらも、踏み石の帳面をまた胸に抱いた。
篝は土の道の上で待っていて、父は扉から離れたところに立っている。たづは壺ごと、篝の少し後ろに控えていた。
最後に、ふと振り返る。
庭の日が、やけにまぶしかった。
来る道の堀端では、桜がわずかのあいだに、若葉の色を混ぜはじめていた。足元の砂利にも、どこからか流れてきた花びらが、白く点々と散っている。
列が、できていた。女中と下男が揃って腰を折り、その先頭に父がいる。宮へ発った夕と、同じ並びだった。ただ、あのとき父のすぐ後ろに覗いていた姉の銘仙の色は、今日は列のどこにもない。
列の端に、たづがいた。頭を下げたまま、目だけがこちらへ上がってくる。絃羽も、目だけでそれに応えた。声を出さない挨拶は、口の挨拶より、少しだけ長く続いた。
宗次は、車廻しに残った。
今日は、宮でいただいた銘仙を着ていた。蔵の本を扱うなら、埃が立つ。訪問着で来るわけにはいかなかった。
篝は、列の前を足も止めずに過ぎていく。一方の絃羽は、父の前で足を止めた。
「お父様。ご無沙汰いたしております」
揃えた指を帯の前に置いて、頭を下げる。
しかし、父の顔は篝の背のほうへ向いていた。
殿下をお迎えの最中だ。娘の挨拶は、あとまわしで構わない。
もう一度頭を下げて、篝のあとを追った。
ふたりが通されたのは、洋窓のある応接間。七つまで住んでいた母屋でも、客の間へは上がったことがなかった。この部屋に入るのは、初めてだ。
火鉢がふたつに、長火鉢がひとつ。どれも灰が白く均されて、火の気はない。
篝は勧められた上座の椅子を使わず、窓を背にして立った。父は向かいの椅子に浅く掛けては篝を見上げ、また腰を浮かせかけた。膝の上には、閉じた扇が載っている。
絃羽に、椅子は勧められなかった。篝の脇、一歩下がったところの絨毯に、膝を揃えた。絨毯の毛は、膝の下で音を立てない。畳とも、土間とも違う膝ざわりだった。
篝の目が、父の上へ下りる。
「儀の記録を改めに来た。あわせて、家の勘定帳を見せてもらう」
「か、勘定帳、でございますか。古いものは、蔵に仕舞ってございまして」
父の指が、扇をせわしなく握り直した。
(蔵に……?)
蔵の二階の書物なら、一冊残らず覚えている。勘定帳など、その中には混じっていなかった。
けれど、申し上げる立場ではない。いまは、殿下とお父様のお話である。
篝の声は、平らなままだった。
「では、手元にあるものからだ」
父が手を叩くと、廊下で足音が動いた。
ほどなくして、帳場の者が綴じた帳面を捧げて入ってきた。表紙の角が擦れて、丸くなっている。篝の前で膝をつき、帳面を差し出した。
篝は、受け取らなかった。革の指が、絃羽の前の絨毯を差す。帳場の者は目を瞬いてから、それを絃羽の膝の前へ置いて、退がっていった。
(わたくしが、読んでいいのですか?)
蔵の本の整理なら、帳面を読むのもそのうちなのだろう。そう納得し、両手で引き寄せてから、絃羽は表紙を開いた。
墨の数字が、縦に並んでいた。年ごと、月ごとに、名目と額とが一行ずつ下りていった。
指の腹で行を押さえながら、それを辿っていく。算盤は要らなかった。蔵の二階の和算の書で、頭の中に珠を置くやり方を覚えている。行が下りるたびに、その珠が動いては止まった。
数字は人と違って、こちらを見ない。並んだとおりに、読めばいいだけだ。
膳、炭、衣、修繕。どの年も、秋になると決まって同じ名目が立っていた。『蔵 炭』。額も、毎年ほとんど変わらない。
椅子の軋む音がした。
父の声が、頭の上から初めてこちらへ向いて降ってきた。
「この帳面が読めるのか? 女学校にも行かぬ娘が」
これで、父から掛けられた言葉は三つになった。三つ目には、『殿下』が入っていない。
行を押さえた指は、そのあいだも下りていた。
──帳面の上で、指が止まった。
先に止まったのは、指のほうである。訳は、あとから追いついてきた。
四年前の秋。名目の『炭』の前に、『修繕』の二字が足されている。額は、ほかの秋の倍を超えていた。
絃羽は、顔を上げた。
「お父様……四年前の秋の勘定が、ひとつ合っておりません」
「…………」
父の扇が、止まった。七つの年の広間でも、扇は同じところで止まっていたように思う。
合わない訳なら、はっきりしていた。
「蔵の修繕に、これだけとございます。ですが、あの秋、蔵の閂は一度も外されておりません」
絃羽は帳面を父のほうへ向け直して、その一行に指を添えた。
父の口は、開かなかった。扇を握った指も、動かない。
窓を背にした篝は、ひと言も挟まなかった。
帳面の数だけでは、確かめたことにはならない。二階の棚には、柏木の古い家の記録があったはずだ。お申しつけの蔵のご本とも、これで繋がる。
「殿下。蔵の記録と、突き合わせてよろしゅうございますか?」
篝のほうへ膝を向けて、お伺いを立ててみる。
「……私も行く」
篝の声が、短く続いた。
案内に立ったのは、父だった。
帳面は絃羽が胸に抱えている。篝は、手を伸ばさなかった。
父の背について母屋を回り込み、庭をひとつ抜ける。
生垣の際に、姉が立っていた。今日は銘仙で、閉じた扇を胸の前に持っている。それより先へは、出てこなかった。絃羽が会釈をしても、扇は動かない。
生垣を過ぎると、飛び石が途切れて、踏み固めた土になった。
土の道の先に、蔵がある。漆喰は、裾のほうが剥げたままだった。
扉には、外から樫の閂が掛かっていた。宮へ発った夕、絃羽が自分の腕で落としたきりになっている。
父の足は、扉の手前までだった。
閂を抜くには、両の腕が要る。絃羽は帳面を扉の横の踏み石へ置き、樫の棒を抱え上げた。梁にぶら下がる身体ひとつより、いくらか軽い。抜いた棒は、脇の壁へ立て掛けておいた。
父の目は、その腕の上にあった。
重い扉を、両手で押し開ける。軋みが、蔵の高いところへ上っていった。
帳面を拾い上げて、敷居を跨ぐ。中の暗さに目が慣れるまで、少し間があった。
(帰ってきました)
土壁の内の空気は、ひやりとしていた。春の昼の温みは、敷居のところでせき止められて、中までは入ってこない。埃と土の匂いがした。十年、朝ごとに吸っていた匂いだ。息が、勝手に深くなった。
(懐かしい空気ですね……)
土間と、奥の板敷き。格子窓の下に畳んだ夜具は、発つ前に角を直したとおりに揃っている。その上に、埃が薄く積もっていた。北の隅には味噌樽。荷箱の板で組んだ薬棚には、干した草の束が残っている。梁には、手の跡が黒く付いていた。
どれも、置いていったときのままだ。
「……ネズミさん。ただいま、戻りました」
絃羽は梁の上の暗がりへ、小さく頭を下げた。
それに応えるように、頭の上で藁がひと擦れ動いた。
お返事があったことに、ほっと安堵の息を吐く。お元気そうで、何よりだ。
篝も敷居を跨いで土間へ入ってきた。外套の肩が、梁のすぐ下を通る。
父は、扉の外に立ったままだった。顔は、生垣のほうへ向いている。
突き合わせるなら、二階の家の記録だ。絃羽は勘定帳を、格子の光の落ちる板敷きへ開いて置き、階段の下へ行った。
「気をつけて上がれ」
後ろから、篝の声がした。
今回は『上がるな』ではない。お言いつけの形をした、お気遣いだ。
「はい」
振り返って、頷く。自然と笑みが、零れていた。
一段目に足を掛ける。二段目の板が、いつもの音で低く鳴った。
二階に、格子の光は届かない。それでも、手は迷わなかった。奥の棚の、下から二段目。右から四冊目。指が、背の擦れた綴じ本に行き当たった。
抜き出して、階段を下りる。格子の光の中で頁を繰り、普請の年が並んだところで手を止めた。篝の目の高さへ、開いたまま差し上げる。
「蔵に手が入りましたのは、この年が終いでございます。わたくしが生まれる前、ですね」
篝の目が、頁から土間の隅へ移った。空の炭俵が、そこに立て掛けてある。
「……炭のほうは?」
炭のことなら、数えられる。絃羽は綴じ本を片腕に抱え直して、空いた手の指を、炭の来た冬の数だけ折っていった。
「炭が参りましたのは、指で数えるほどでございます。四年前の冬は、参りませんでした」
折った指を、ほどく。炭の来ない冬なら、蔵ではめずらしくもなかった。だから、いつものとおりに言い添えておく。
「その冬も、静かな冬でございました」
言ってから、蔵の中が、ひと呼吸ぶん静かになった。
篝の目が、板敷きの勘定帳へ下りる。開いたままの頁に、毎年の秋の『蔵 炭』が一行ずつ並んでいた。
やがて、篝が言った。
「……これは、口止めの金だな」
「口止め、ですか?」
聞いた言葉を、そのままなぞった。
「誰への口止めでしょうか?」
「神官だ。毎年、払っている」
篝は、勘定帳から顔を上げなかった。
神官様なら、七つの年に一度だけお目にかかっている。盥の前で、両手を浸すようにと仰った方だ。
絃羽が小首を傾げて訊いた。
「まあ。何を止めたのですか?」
「…………」
篝の口は、開かなかった。
外套の肩が、動かない。返事を待っても、来なかった。
「殿下?」
絃羽は、外套の背へ小さく呼びかけてみる。
しかし、篝の口からそれが語られることはなかった。
その時。扉の外で、草履が砂を擦った。
開いた扉の向こう、生垣の際に、姉の姿が小さく見えている。父は、顔をそちらへ向けたままだった。声だけが、篝の背へ投げられる。
「……家を、残さねばならなかったのです」
その声は、こちらへは一度も向かなかった。
お家を残す。そのお話と炭の勘定とがどこでどう繋がるのかは、絃羽には分からなかった。
分からないままのお話が、またひとつ増えた。
篝は、振り返らなかった。
「これも預かるぞ」
その目が、板敷きの勘定帳と絃羽の腕の綴じ本とを、順に指した。預かるのは、この二冊のことらしい。
絃羽は勘定帳を拾い上げ、綴じ本と重ねて胸に抱えた。篝は、どちらにも手を伸ばさなかった。
篝の外套が、先に敷居を出ていった。
(あっ……)
その手前で、蔵の中を振り返った。
味噌樽の蓋にも、薬棚の端にも、今日は触れていない。
「長いあいだ、お世話になりました。お元気で」
梁の上の暗がりへ、深く頭を下げた。
敷居を跨ぐと、土の道を、小走りの足音が近づいてきた。
たづだった。胸に、小ぶりの壺を抱えている。口には紙の蓋が当てられ、紐で括ってあった。
絃羽の前で足を止めると、たづはそのまま、頭を下げた。
「お嬢様! こちらを……殿下のお味噌汁に」
紙の蓋の隙間から、匂いが立った。まず塩の角が来て、遅れて、奥のほうから甘みが追いかけてくる。それには、覚えがあった。
「まあ! 北の隅の、ですね! ありがとうございますっ」
絃羽の口元が、ぱっとほころんだ。
たづは、何も言わずに頷いた。受け取ろうにも、絃羽の両の腕は帳面でふさがっている。壺を胸に引き寄せて、たづは一歩下がった。車廻しまで、運んでくれるようだ。
開け放しておけば、樽の匂いに獣が寄る。絃羽は帳面を二冊とも踏み石へ置き、重い扉を両手で押し戻した。
壁に立て掛けておいた樫の棒を、両腕で抱え上げる。そのまま、受けへ落とした。
木と木の噛み合う、低い音が響いた。
外から聞くのは、これで二度目だ。
一度目の音より、乾いて聞こえた気がする。春の乾きなのか、聞くほうの耳が変わったのかは、分からなかった。
(……もう、ここに戻ってくることは、ないんですね)
不思議な感慨を抱きながらも、踏み石の帳面をまた胸に抱いた。
篝は土の道の上で待っていて、父は扉から離れたところに立っている。たづは壺ごと、篝の少し後ろに控えていた。
最後に、ふと振り返る。
庭の日が、やけにまぶしかった。



