怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 卯月に入って間もない昼、絃羽は自動車の後ろの席で、膝の上に指を揃えていた。
 並びは、宮へ来た夕と変わらない。篝が運転手の隣に座り、後ろには宗次と絃羽。座席の背越しに見えるのは、今日も外套の肩だけだった。
 訪問着は、朝のうちに試しの日と同じ女中ふたりが着せてくれた。帯は、息を吐ききったところで締めてある。袖の内の指先に、絹の裏地がひやりと触れていた。
 お供は勤めである。勤めならば、型のとおりに座っていればいいはずだ。
 窓の外を、町が流れていく。堀端の土手に差しかかると、薄紅の色が、水に沿ってどこまでも続いていた。
 やがて自動車は、白い砂利を敷いた門の前で速度を落とした。その脇には、黒い自動車と人力車が幾台も連なっている。あいだを縫って、紋付や洋装の人々が、奥へ奥へと向かっていった。
 家令の宗次は、門の脇の供待ちで控えるのだという。宗次はそう言い置いて、向こう側の扉から先に降りていった。
 前の扉が開いて、外套の背が砂利の上へ出た。
 篝は車の後ろを回って、絃羽の側に立った。運転手が扉を開けると、黒い革の手が、こちらへ差し出されていた。掌が、上を向いている。

「……手を」

 篝が、小さな声で言った。
 外套の肩越しに、人の声が幾重にも重なって聞こえた。笑い声と、衣擦れと、砂利を踏む音と。ひとつの声を拾おうとすると、隣の声がそれを消していく。

(やはり、人の多い所はお心細いのでしょうか……?)

 十年、人の集まる所へは出てこられなかった方だ。それならば、支えて差し上げなければならない。それこそが、お供に選ばれた理由なのだから。
 支えるのなら、下からのほうが力が入る。袖の内から指を出して、革の手を下からしっかりと握った。
 砂利の上へ、足を下ろす。

「はい。お掴まりくださいませ、殿下」

 握られた革の指が、そのまま固まった。

「そういう意味では──」
「はい?」

 絃羽は小首を傾げた。
 どういう意味なのだろうか。不安で心細いのでは?

「……なんでもない」

 外套の肩から、長い息が抜けた。
 何故だか、呆れられている気がしなくもない。相変わらず、よくわからないお人だ。
 そのとき、門のあたりの話し声が、こちらの側だけ途切れた。
 すぐそばで開きかけていた扇が、半ばで止まる。紋付の男がひとり、踵をわずかに引いた。声の代わりに、いくつもの目が、握り合った手の上へ集まってくる。
 目は音を立てないはずなのに。それなのに、肌に当たるのが分かった。
 ふと、自分の手元へ目を落とす。白い絹の袖口から、節の太い指が覗いていた。黒い革に重なると、あかぎれの筋は、なおのこと隠しようがなかった。

(……わたくしの手が原因、でしょうか?)

 せっかくのお召し物に、障ってしまったのかもしれない。けれど、ここで手を放せば、殿下がお困りになる。
 篝は、手を引かなかった。握られたまま、門の内へ歩き出す。
 行く先で、人垣が左右に割れていった。退いた人々の目が、ふたりの手へ下りて、また上がる。
 篝は、ご身分の高いお方だ。道を空けるのは、宮中の礼儀なのだろう。
 砂利の道を抜けると、苑が開けた。

(わぁ……!)

 桜だった。枝という枝が、薄紅に埋まっている。日の光が、花の一枚一枚を透かして、まとめて降ってきた。
 まともに明るさを受け、絃羽は目を細めて少し俯く。目を閉じても、瞼の裏に薄紅が残っていた。
 足元の苔の上に、花の影が細かく揺れている。それが収まるのを待ってから、ゆっくりと顔を上げた。
 篝の足が、枝の下で止まっていた。

「殿下。……花が、あんなに高いところに」

 見上げたまま言うと、頭の上で、外套の襟がわずかに動いた。

「ああ。綺麗だな」

 穏やかなお声だった。
 それでいて、優しい。

「……はい。とっても」

 絃羽は篝の手をしっかりと握って、瞳にその景色を刻んでいく。
 蔵の格子の外に春ごとに咲いたのは、土の際の小さな草の花だった。桟のあいだから覗くしかなかったので、いつも見下ろす形だ。
 仰いで見る花は、初めてかもしれない。こんな風に花を見上げたのは、初めてだ。
 風がひとつ渡って、枝先がそよぐ。花びらが一枚、絃羽の袖に落ちて、そこに留まった。袖は、払わずにおいた。
 篝も、そこから動かなかった。絃羽が見上げているあいだ、ずっと一緒に、見上げてくれていた。
 人垣の中から、ひとりだけ、まっすぐこちらへ歩いてくる人があった。
 年配の男だ。紋付の胸を張り、口元には笑みを浮かべている。近づいてくるあいだ、その笑みは形を少しも変えなかった。
 笑みというものは、口元だけでなく、目元にも出るものだ。この方のは、口元にしかなかった。
 身分のある方のご挨拶を、手を握ったまま受けるわけにはいかない。革の手から指を離し、帯の前で揃えて、頭を下げた。
 顔を上げると、男の目が、篝の手と、いまさっきまでそれを取っていた絃羽の手とを、一度ずつなぞった。それから、笑みが篝のほうへ向いた。

「これは、氷室の。十一年ぶりでございますな」

 十一年。宗次の口からも、その数を聞いていた数字だ。
 篝が、半歩下がった。

「……柊宮殿」

 柊宮殿、と呼ばれた方の目が、こちらへ移ってきた。

「お連れの方は、初めてお見かけする」
「私の連れだ」

 篝が、いつもの調子で答えた。
 柊宮の口元の笑みが、ほんの少し深くなった。

「それはそれは……いずれ、よいお話を」

 そう残して、柊宮は人垣の中へ戻っていった。紋付の背は、すぐに扇と日傘の向こうへ紛れていく。
 人垣の声が、もとの高さに戻っていった。
 よいお話とは、どのようなお話だろうか? 訊こうとして横を向くと、篝の目は柊宮の消えたあたりに留まったままだった。黒い革の手は、外套の前で組まれている。

(今は……やめておいた方が、よさそうですね)

 篝がまた歩き出したので、絃羽は半歩後ろについた。

       *

 苑をひと巡りするうちに、日は西へ回っていた。
 苑の奥には、白い布を掛けた西洋の卓が並び、銀の器が日を返している。卓の脇を抜けると、池に出た。水の面にも、花びらが浮いていた。
 池の端の人垣が、また左右に割れる。
 その向こうから、ひとりの令嬢が進み出てきた。
 裾の長い洋装に、つばの広い帽子。手には扇を持っている。近づくにつれて、白粉の匂いが濃くなった。
 後ろには、もうひとり控えていた。前掛けを外した地味な着物で、髷には白いものが幾筋も走っている。

(たづさん!)

 たづは目を伏せたまま、小さく頭を下げた。
 そして、その前にいるのは……姉の綺羅子だ。
 銘仙の色なら、生垣の際や車寄せの列で見たことがある。けれど、こうして顔を間近にするのは、いつ以来になるのか、すぐには思い出せなかった。
 綺羅子は篝の前まで来ると、挨拶の距離より一歩、内へ踏み込んだ。扇を胸に当てて、腰を折る。篝の爪先が、半歩下がった。
 下がったことに、姉は気づいていない。その目が篝の隣へ流れて、絃羽の訪問着に行き当たった。扇が、口元で止まる。
 ようやく、お目にかかれた。帯の前で指を揃えて、絃羽は深く頭を下げた。

「あら、よくもまあ蔵からそのような顔で出てこられたこと」

 開口一番で、綺羅子は言った。
 そのような顔とは、どういったことなのだろうか。
 頭を上げながら、思いを巡らせてみる。宮へ来てから、水屋の井戸に映る頬には、少し丸みが付いていた。

「はい。宮のお膳は、温こうございますので」
「は?」

 綺羅子の目が、ゆっくりと下りていった。袖口から覗いた、絃羽の指の上へ。
 扇の陰で、姉の鼻が小さく鳴った。

「……その手で、訪問着?」
「はい?」

 手が、どうかしたのだろうか。絃羽は袖口の指先を確かめて、首を傾げた。
 姉は扇を口元へ寄せて、絃羽のほうへ身を傾けてくる。白粉の匂いが、扇越しに近くなった。

「せいぜい、壊されぬよう。〝触れずの殿下〟は、弟君さえお壊しになったとか」

 ひそひそ声で、綺羅子が言った。
 弟君……毎朝取っている細い手首が、指の中に戻ってきた。渡り廊下の先から、欠かさず届いてくる、低い読み聞かせの声も。十二の子どもに何ができたのでしょう、と申し上げた朝の、火の上の目も。
 ──気がつくと、自分の息の音が聞こえなくなっていた。
 苑のざわめきは、している。しているはずなのに、遠かった。
 指の先が、冷たい。帯の前で揃えた指が、春の日の中で、少しも温まらなかった。
 どうしてだろうか。考えるより先に、口が開いた。

「お姉様は、お優しくていらっしゃいますのね」

 声が、腹の底からじわりと出ていた。
 綺羅子が驚いたように目を見開き、その後ろでたづの顔からすっと色が引いていく。
 たづさん、お顔の色が。そう思ったけれど、口には出さなかった。
 横で、篝の目が一度だけ絃羽の顔へ動いた。すぐに、元の向きへ戻る。
 姉の扇が、口元でゆるりと動いた。扇の上の目が、細くなる。

「……ふん。ようやく、口の利き方を覚えたこと」

 声の調子が、はっきりと上がった。そのまま、綺羅子は篝のほうへ向き直る。

「まあ殿下。その子、蔵におりましたのよ。十年も」

 篝は、半歩下がったところに立ったままだった。

「知っている」

 綺羅子の扇が、ひと呼吸だけ間を置いて、また忙しなく動き出した。

「ご存じで? けして家の者が望んだわけではありませんことよ? 〈解け〉と出た子はお側に置かぬのが習いだと、神官様が。父も、それはそれは手を尽くして──」

 お側に置かぬのが習い。七つの年、盥の据えられた広間で聞いたのと、よく似た言い回しだ。
 すぐ近くで、扇がいくつか止まった。止まったまま、どれも動き出さない。
 篝の口が、開いた。

「十年」

 低い声が、池の水の上へ落ちた。命日の前の晩、火鉢の向こうから届いたのも、ちょうど同じような声音だ。
 綺羅子の扇が、口元で、宙に浮いたまま止まった。

「……は?」

 篝の声は、さらに一段、下へ沈んだ。

「そう……十年だ」

 絃羽の息の音は、まだ戻ってこなかった。
 たづは、綺羅子の後ろで身じろぎもせずにいた。両の手が、着物の前で白くなるほど握り合わされている。
 人垣が、また割れた。
 額に汗を光らせた男が、揉み手をしながら、小走りに近づいてくる。鬢には、白髪が混じっていた。父だ。

「綺羅子」

 父の声が、娘の名だけを置いた。姉の扇が、口元から下りた。
 篝が、父のほうへ顔を向けた。

「柏木殿。七つの年の儀は、受けさせておらぬと聞いたが」

 七つの年の儀なら、受けた。盥の水に浮いた五色の糸の色まで、いまも言える。

(どういうことですか?)

 疑問に思ったが、口は挟まなかった。殿下が訊いておられるのは、父である。
 父の揉み手が、宙で止まった。

「そ、それは……娘の、思い違いでございまして」

 その目は、篝の外套の胸のあたりから、動かなかった。こちらへは、一度も来ない。
 篝の声は、低いままだった。

「近いうちに、柏木へ伺う。儀の記録を、改めさせてもらう必要があるのでな」
「で、殿下! お待ちを──」

 父の顔から汗の粒がひとつ顎へ伝い、慌てて篝を呼び止めようとした。
 しかし──。

「絃羽。行くぞ」

 篝は父のほうなど見向きもせずに、絃羽に言った。
 胸の前まで下りていた綺羅子の扇が、そこで止まる。父の揉み手が、ほどけて下へ落ちた。
 その後ろで、たづが袖を口元へ押し当てていた。

「……はい」

 絃羽は揃えた指を帯の前に置いたまま、頷いた。
 歩き出した外套の背を追う前に、父と姉へ、それからたづへ、順に頭を下げた。
 父と姉からは、礼は返ってこなかった。たづだけが、袖で口元を押さえたまま、深々と身を屈めていた。
 篝の背は、もう人垣の割れ目の先にある。
 小股で、砂利の上を急いだ。

       *

 帰りの自動車の窓に、夕日が斜めに差し込んでいた。
 並びは、来たときと同じだった。前の席に篝の外套の肩、自分の隣には、供待ちから戻った宗次。苑で何があったのかは、訊かれなかった。
 膝の上に揃えた袖に、花びらが一枚、まだ付いていた。
 指の先が、ほんのりと温かい。いつから冷えていたのかは、分からなかった。
 自分の息の音も、耳に戻っていた。揺れに合わせて、吸って、吐いている。
 池の端でのことを、順に並べ直してみた。
 姉の声は、覚えている。弟君、と言われたことも。お優しい、と申し上げたことも、覚えている。
 それなのに、申し上げたときの自分の声だけが、どんな声だったのか、出てこなかった。

(どうしてでしょうか……?)

 あの時抱いた自分の感情に、名をつけられない。
 だが、かつて人に抱いたことがない気持ちに襲われたのは、事実だった。
 訳は、探しても見つからない。袖の花びらの縁を、指の腹でそっと押さえてみる。薄い一枚は、指の熱で、少ししんなりとしていた。
 前の席から、篝が言った。

「……柏木へ、一度戻る。お前も来い」

 今度は『来い』だ。言いつけの形に、戻っている。言いつけなら、受け取る場所に迷いはなかった。
 座席の背越しでは、殿下のお顔は見えない。絃羽は、その上に覗く外套の襟のほうを向いた。

「柏木へ、ですか?」

 柏木へ戻る。宮へ来た夕、自分の手で閂を落としてきた蔵のある家へ。
 けれど、書庫が片付いた日に、殿下はたしかに仰った。

(帰さない、と伺っておりますが。もしかして、蔵のご本の……?)

 蔵の二階には、柏木の代々の本が詰まっている。書庫の次のお勤めなら、それがいちばん筋が通っていた。

「はい。お供いたします」

 膝の上で指を揃え直し、そう返した。
 しかし、前の席から返事は来ない。外套の肩も、ぴくりともしなかった。
 隣で、宗次の節の太い手が、膝の上で静かに重なっている。
 車の中が、しんとしていた。お役に立てることなら、先にお伝えしておいたほうがいい。

「蔵の二階の本でございましたら、どの段に何があるかまで、覚えておりますので」

 絃羽は背筋を伸ばして、そう言った。