怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 朝から、母屋が騒がしかった。
 絃羽は朝の型を終えて、手拭いで首筋を押さえた。格子の向こうを、足音が幾度も行き交っている。飛び石を踏む数が、いつもの朝より多かった。
 下駄の音に、草履の音が交じる。雨戸の繰られる音が、常は開けない側の廊下からも聞こえた。井戸の釣瓶が二度、続けて上がる。客を迎える朝の音だ。それが誰の客かは、蔵には関わりのないことだった。
 格子の筋が、床の半ばを越えた頃。
 その底に、低い唸りが混じっていた。唸りは門のあたりまで近づいて、ふつりと止んだ。
 絃羽は手拭いを畳む手を止めて、耳を澄ました。馬の蹄の音が、ない。車輪は鳴っていたのに、それを引く者の足音も、息もなかった。

「あっ……!」

 思わず、声が漏れる。耳で聞くのは初めての音だが、なんとなく覚えだけはあった。本の挿絵で見た、車輪の付いた黒い箱だ。

(もしかして……これが、自動車というやつでしょうか?)

 絵は音を鳴らさないはずなのに、唸りは聞いたそばから、あの頁へ吸い込まれていった。

       *

 昼にはまだ間のある刻限に、小窓の外へ足音が駆けてきた。膳の刻ではない。絃羽は薬棚の前から、小窓のほうへ向き直った。
 小窓が開く。たづの顔が、いきなり枠のなかへ屈み込んできた。息が上がっている。

「お嬢様。母屋が、その、騒がしゅうございまして」

 枠に掛かった手が、行き場をなくして敷居を叩いていた。絃羽は膝を進めて、目の高さを合わせる。

「はい。存じております。朝から、自動車の音が聞こえてましたし」

 敷居を叩いていた手が、止まった。

「……お聞きになっておられましたか」

 たづの目が、束の間泳いだ。絃羽は格子のほうへ、そっと顎を向けた。

「音だけは。あれが、自動車でございますね?」
「ご覧になられたことは……?」

 たづが、枠の際まで首を伸ばす。

「いえ、ありません。ですが、本で読みました」

 膝の上の指を、揃え直して答えた。
 たづの口が、開いたまま少し止まった。それから枠へ身を寄せ直して、声を低くする。

「宮家の方が、お見えになっておりまして」

 絃羽は膝の上で手を重ねた。

「まあ! それは、お忙しいことでございますねっ」

 母屋の忙しさと蔵とは、十年、別々の暦で回っている。宮家の方が来るとなると、さぞかし忙しいだろう。
 たづは、すぐには続けなかった。枠の手が、敷居の上で二度、置き場所を変えた。

「それで……お嬢様のことを、お尋ねだそうでございます」
「へ?」

 予想もしていなかった言葉に、思わず息が詰まった。襟元で、喉の奥をひとつ整える。

「わたくしの、何を?」

 問いは自分の口から出たのに、当てはなかった。
 たづも答えを持っていないらしく、枠の内で首を横に振るばかりだった。やがて母屋のほうから呼ぶ声がして、小窓は慌ただしく閉じられた。足音が遠ざかっていく。
 残された蔵の中で、絃羽は頬に手を当てて、考えた。掌の下で、頬は冷えていた。

(わたくし、宮家の方から尋ねられるようなものなど持っていませんよ?)

 ここにあるのは夜具と書籍、手製の薬棚と、味噌樽のどこが深い味かの当たりくらいである。どれも、宮家の役に立つものとは思えなかった。
 そうなると、行き着く先はひとつしかない。
 七つの年の、水を張った盥だ。

       *

〈結〉の儀は、数えで七つの年に受けるものだという。
 七つになったその日、絃羽は晴れ着を着せられて、母屋の広間に座った。畳は青く、藺草の匂いがまだ立っていた。白い布の上に浅い木の盥が据えられ、水が張られていた。水の面には、五色の糸が浮かんでいる。赤と、青と、黄と、白と、黒。糸は水を吸っても沈まず、面の上で静かに輪を描いていた。
 きれいだ、と思った。その日の晴れ着の柄は覚えていないのに、糸の五色だけは、今も言える。
 両手を浸すように、と神官が言った。
 言われたとおり、絃羽は両の手を水へ沈めた。冷たさより先に、糸が動いた。五つの色が指のまわりへ寄って、絡んで、結ばれていく。
 結ばれた端から、ほどけていった。
 ほどけた糸は、また寄って、結ばれて、ほどける。無論、指を動かしたわけではなかった。それなのに、水の中で、それは呼吸のように繰り返されていた。
 三度やり直したが、結果は三度とも同じだった。しまいには五色の糸がすべて離れ離れになって、盥の底へ沈んだ。
 広間が、静かになった。神官が絃羽の手を水から上げさせ、白布で順に拭いていく。拭かれながら、絃羽は畳の目を数えていた。上手にできなかったのだろう。それだけは、何となくわかった。

「三度、お試しいたしました」

 神官が父のほうへ膝を向けて言った。

「結果は?」

 父の返事は、間を置かなかった。
 答える声が、途端に細くなる。

「……結ばれては、ほどけましてございます」
「それで?」

 父の扇が、膝の上で止まっていた。

「つまり……〈解け〉にございます」

 神官が、額を畳へ寄せて言う。
 誰も、次の言葉を出さなかった。盥の水だけがまだ小さく揺れていて、やがて平らに戻った。神官はさらに声を低くして、「〈解け〉の者はお家の結びを緩めると申します」「お側には置かれませぬのが習いにございます」と続ける。
 末座で、母が膝を進めた。

「あなた。あの子は、何もッ」

 父の扇の先が、畳から僅かに浮いた。

「琴」

 父は、母の名だけを置いた。母の手が、畳の上で握られた。

「あの子は、何もしておりません……!」
「誰も、あれが何かをしたとは言っておらぬ」

 父の扇は、相変わらず止まったままだ。
 それきり誰の声もないまま、儀は仕舞いになった。
 その日のうちに、絃羽は蔵へ移された。女中が夜具ひと組と、着替えの行李を運び込んだ。土間には味噌樽が据わり、古い調度が積まれていた。奥の板敷きの、格子窓の下だけが空いていた。そこに夜具が敷かれ、そこが絃羽の場所になった。
 叱られたのではない、と絃羽は思っていた。誰も、声を荒らげなかったからである。
 座って待っていると、扉が閉まり、外で閂の落ちる音がした。重い木と木の擦れる、低い音。好きにはなれない音だ。
 その晩から、母は毎晩、格子の外へ来た。
 蔵に灯りはない。絃羽は夜具の上で膝を抱えて、声だけを聞いた。

「絃羽。聞こえますか?」

 膝を抱えた腕を、解いた。
 こうして名を呼んでくれるのは、母だけだ。

「はい、お母様」

 格子越しに、頁を繰る音が乾いて届く。

「今日は、前の続きから読みます」

 読まれたのは、長い長い続き物だった。旅に出た者が、七つの海を渡って家へ帰る話である。母の声は場面ごとに低くなり、高くなり、時々わざとらしく間を置いた。間のたびに、絃羽は格子へ寄って先を急かした。急かすと、頁を繰る音が、少し笑っていた。
 続きがある、というのは、眠るのによい理由だった。
 九つの冬になった頃。雪の晩にも、声は来た。声は年々細くなっていたが、その冬は、句の切れ目に短い咳が挟まるようになっていた。
 ある晩、母は読み終いに本を閉じてから、いつもより格子の近くで言った。

「絃羽」
「はい、お母様」
「……強く、生きなさい」

 続きは、なかった。衣擦れが、雪を踏んで遠ざかっていく。
 強く生きなさい、という言葉を、絃羽は口の中で繰り返した。型を踏んで身体を鍛え、飯をよく噛む。それなら、毎日できるはずだ。
 次の晩、母の声はなかった。その晩だけ、朝まで眠らなかったのをよく覚えている。眠らないまま、格子の桟を端から順に数えて、数え終えるとまた端へ戻った。数えているあいだだけ、耳を澄まさずに済むからだ。
 幾日かのち、昼に閂の外れる音がした。
 扉が開いて、昼の光が土間の奥まで流れ込んだ。外へ出るように、と女中が言った。
 出ると、光は痛かった。絃羽は目を細めて、俯く。俯いたまま、先を行く裾の色だけを頼りに歩いた。
 母屋の座敷には、線香の匂いが満ちていた。匂いの奥に、白い布を掛けた棺。母の顔は、見ていない。着いたときには、もう棺だったからだ。
 俯いた先には、並んだ足袋と裾ばかりがあった。黒い裾が動くたび、線香の匂いが揺れた。読経の声の後ろで、誰かが低く洟を啜っていた。線香の匂いは濃いのに、胸の内は静かで、その静けさが、絃羽には少し不思議だった。
 誰も、絃羽には話しかけてこない。絃羽もそれを、当然のことだと思った。座敷の隅で、絃羽はただ、母に教えられたとおりに背を伸ばして座っていた。
 半刻で、女中が迎えに来た。

「お戻りくださいまし」

 絃羽は棺へ向けて畳に手をつき、頭を下げた。それから立ち上がって、女中の後ろに並んだ。

「はい。……ありがとうございました」

 間が、ひとつ空いた。

「……は?」

 女中の足が、半歩遅れた。絃羽は俯いたまま、言い直した。

「外に出していただきまして、ありがとうございました」
「…………ッ」

 女中は息を詰まらせると、結局最後まで、返事をしなかった。
 蔵へ戻ると、外で閂の音が鳴る。線香の匂いは袖に薄く残って、幾日かで消えた。
 よくしていただいた日として、絃羽はその日を覚えている。
 その日が何の日だったかというのを知ったのは、それから数年後のことだった。

       *

 夕。格子の筋が、埃をかぶった長持の角に掛かる頃だった。
 冬の草は乾きが遅い。湿りを残したまま束ねると、春を待たずに黴が来た。絃羽は薬棚の前に膝を揃え、干した草の束をひとつずつ解いては、結わえ直していく。
 そこへ、母屋のほうから話し声が近づいてきた。手を止めて、格子のほうへ耳を向ける。砂利を踏む音は、二人分より多かった。声は切れ切れに、風へ乗って届いた。

「お父様、あれを外へ? 正気ですの?」

 姉の声だった。砂利の音は、乱れずに続いている。
 返す声は、足を緩めなかった。

「宮家の御沙汰だ。断れぬ」

 砂利の音が、一歩ぶん乱れた。

「ですが、あれは……」
「綺羅子」

 父の声は、低いままだった。姉の語尾が、そこで途切れる。
 父は姉の沈黙を待たず、続けた。

「お前は何も知らぬままでいろ。そのほうが、お前のためだ」

 声は、それきり聞こえなくなった。話は済んだのだと思って、絃羽は束の結わえ目に指を戻す。
 だが、足音は母屋へ折れなかった。
 足音が、扉の正面で止まる。
 絃羽は束を置いた。
 閂に、手の掛かる音がしたのだ。
 重い木と木の擦れる、低い音。外から閂の外れていく音を、絃羽は十年で一度だけ聞いたことがある。葬儀の、あの昼だ。

(これで……二度目、ですね)

 誰が入って来るにせよ、座ったまま迎えるものではない。絃羽は立ち上がって、着物の膝を払った。誰も見ていない十年のあいだも、母に教えられた所作だけは、手が覚えている。
 扉は、まだ開かなかった。閂の擦れる音だけが、ゆっくりと続いていた。
 胸が落ち着かなかった。ただ、指の先だけが、帯の前で所在を探している。
 その音へ向けて、絃羽は小さく首を傾げた。

「……どなたか、お亡くなりになったのでしょうか?」