命日の翌朝から、絃羽の打つ点は、まっさらな板の上へ一つずつ増えていった。
点の列は、朝ごとに、まっさらな木目の上へ延びていく。立春を過ぎたころからは、戸の内側に霜の花の張らない朝が、ぽつりぽつりと混じりはじめた。春は、戸の外からではなく、点の列の先から来るものらしい。
七つ刻に目を覚まし、音の出ない型と、腕立てを二百、深屈伸を百。灯の腕を動かして、水屋で篝の膳をこしらえる。夜は炭の籠と酸棗仁の湯呑みを持って、篝の部屋へ行った。日の順は、少しも変わっていない。
変わったのは、昼の手順だった。
書庫が片付いた翌日、絃羽の足は、ひとりでにその前へ向かった。行こうと思って歩いたのではない。着いてから、来ていたことに気づいたのだ。板戸の縁に指を掛けてから、差し入れる本がもう一冊も残っていないことを思い出したのである。
掛けた指は、しばらくそこから離れなかった。板戸の冷たさが指の腹へ移りきっても、まだ離れない。
空いた手で、絃羽は奥の棟を端から掃きはじめた。硝子戸は一枚ずつ外側まで拭き上げ、渡り廊下の板には、節の窪みまで雑巾を当てた。
毎朝通う灯の部屋では、一輪挿しの水仙が、いつの間にか梅の枝になっていた。宗次が替えたのだろう。白い花から、水仙より淡い甘さが立っていた。花が替わっても、腕を動かす手順は変えない。肩から肘、肘から手首へ、順に曲げては伸ばした。
如月も末に近い日の昼、絃羽は、奥の棟に残った最後の一部屋に取りかかった。
自分の部屋と篝の部屋のあいだの、空き部屋。前の縁側なら幾度も掃いてきたのに、障子を引いたことは、まだ一度もなかった。
障子を開け放つと、硝子戸越しの日が、畳の縁まで入ってきた。中には、畳のほかに何もない。畳の目にだけ、埃が薄く溜まっている。初めて火を熾しに上がった日に見た、篝の部屋と同じ溜まり方だった。日は入っても、部屋の空気はまだ冬のままだ。
桶の水で雑巾を固く絞り、畳の目に沿って、奥から手前へ滑らせていく。三枚目の畳に掛かったところで、縁側の板が鳴った。
ひとつ鳴って、息を吸うほどの間を置いて、また鳴る。この棟で、この間合いの足音を立てる人は、ひとりしかいない。誰の足音か思い当たるより先に、雑巾の手が止まっていた。
足音は、敷居の外で止まった。
雑巾を畳に置いて、絃羽は顔を上げてみる。案の定、外套姿の篝が立っていた。黒い革の手は、外套の前で組まれている。
篝の目が、絃羽の手元の雑巾から、脇の桶へ移った。
「……仕事ではない、と言ったはずだが?」
書庫で伺ったお言葉である。絃羽は膝を揃えて、頷いた。
「はい。伺っております」
「では、それは何だ?」
組まれていた革の指が、ほどけた。
答えなら、手の届くところにある。
「お掃除でございます」
言って、畳の上の雑巾を取り上げてみせた。
篝の肩が、ひとつ落ちる。
「……はぁ」
溜め息をいただくようなことを、申し上げただろうか。首を傾げて考えるうちに、思い当たる節があった。
「あっ! お仕事ではございませんので、お手当ては要りませんよっ」
「そういう話をしているのではない」
篝が呆れた様子でぴしゃりと言った。
日当たりのお話をしたときにも、同じ形のお言葉をいただいた。あのときも、何のことだったのかはとうとう伺えずじまいだった。
(そういう話ではない、と言われましても……では、どういうお話なのでしょう?)
そう疑問に思うが、篝はそれきり口を開かなかった。その場に立ったまま、足も動かさない。
しかし、やめろとも言われなかった。
お掃除ならば、お仕事のうちには入らないのかもしれない。それなら、続けてよいはずだ。絃羽は雑巾を畳へ戻し、四枚目の目に沿って滑らせた。見られて困るものなど、ひとつもない。
雑巾の音だけが、部屋に立った。往きと復りとで、音の高さが少しちがう。そのちがいまで、外の静けさは拾っていくらしかった。
畳を拭き終えるまで、敷居の外の外套は、同じところに立っていた。
最後の一枚から雑巾を上げたとき、縁側の板が、また間を置いて鳴った。足音はすぐ東隣で止まり、障子の開く音が続いた。
乾きかけの畳を、硝子戸越しの日が、縁からゆっくり渡っていく。桶の水が小さく揺れて、静まった。
*
弥生も半ばに入った昼、絃羽は空き部屋の前の硝子戸を拭いていた。
庭の土には、冬枯れの色に混じって、小さな緑があちこち覗いている。曇りをひと拭きするたび、硝子の向こうの緑は濃くなった。
東隣の障子は、開け放たれていた。敷居の内に、篝が座っている。硝子戸越しの日が、外套の膝のあたりまで届いていた。
板を擦る小刻みな足音が、西から近づいてきた。
宗次である。両手で捧げた盆に、白い封書が一通。厚い紙の表に、墨の字が黒々と浮いている。冬至の日、書庫の戸口で差し出されていたのと同じものだった。
絃羽の後ろを過ぎて、宗次は篝の前で膝をついた。
改まったご用向きらしい。絃羽は雑巾を持つ手を止めて、その場に膝を揃えた。
盆の向こうで、白髪頭が下がった。
「殿下。今年の、園遊会の」
言葉は、そこで切れた。
篝の目が、盆の上の封書に落ちる。
宗次は、盆を差し出したまま動かなかった。冬至の日と同じ形で、断りのお言葉を待っているのだろう。
外套の膝の上で、篝の手は動かなかった。
「…………」
庭で、鳥がひと声鳴いて、やんだ。
──黒い革の指が、盆の縁に掛かった。
篝は封書には触れず、盆ごと膝の前へ引き寄せた。
持ったままの雑巾から、水が一滴、絃羽の手の甲へ伝った。冷たい、と気づいたのは、盆が畳を滑りきってからだ。
盆の離れた宗次の両手が、差し出した高さのまま、宙に残った。白髪頭は、上がらない。やがて、皺の寄った喉が動いた。
「十一年目、でございますな」
声の端が掠れていた。
篝の目は、封書の表に落ちたままだった。
「十一年目は……出る」
篝のその言葉で、宗次の顔がようやく上がった。白い眉が、額の皺の中へ持ち上がっている。
「へ?」
開いた口が、閉じていない。篝の言葉を信じられなかったのだろう。
その前で、篝がこちらへ向き直った。
「絃羽」
「はい?」
名を呼ばれて、絃羽は雑巾を膝の上に置いた。
盆の縁を一度握り直して。篝は、言った。
「……お前も、来てくれ」
蔵で伺ったときは「来い」だったが、今回はそう仰らなかった。
置いたばかりの雑巾を、絃羽の指が思わず握り込んだ。
言いつけなら、聞き慣れている。言いつけの形でないお言葉は、どこで受け取ればよいのか、勝手が分からなかった。
「えっ……わたくしが、ですか?」
絃羽はぽかんと呆けたように訊いた。
篝が、「ああ」と短く頷く。
園遊会──その名なら、冬至の日に殿下ご自身から伺っていた。春、花の頃に、宮家と華族が庭に集まる催し事だ、と。
あの日は、花の頃には書庫も片付いて、蔵へ戻っているものと思っていた。格子の外に咲く小さな草の花を、桟のあいだから数えているはずだった。そのつもりは、書庫が片付いた日に『帰さない』のひと言で行き場をなくしたままである。
それに篝は、園遊会には十年同じ答えを返していた。その方が、十一年目に人の集まるお庭へ出ていかれる。そこに、自分も同伴せよとのことなのだ。
(おひとりでは、お心細いのでしょうか?)
理由は、そのくらいしか考えつかなかった。
ならば、お返事はひとつしかない。
「はい。お供いたします」
握り込んでいた雑巾を脇へ置き、帯の前で指を揃えて頭を下げてから、絃羽はそう答えた。
宗次の白髪頭が、篝から絃羽のほうへ向き直る。口は、もう閉じていた。
「では、柏木様のお召し物を、あつらえませんと」
あつらえる、と聞いて、絃羽は自分の袖へ目を落とした。宮へ来た晩にいただいた銘仙は、ひと冬着通しても、袖口ひとつほつれていない。
「いえ。わたくしには、いただいた銘仙がございますので」
「…………」
宗次は、しばらく黙っていた。やがて、節の太い手が、膝の上で重なった。
「殿下のお供の、装いでございます」
お供の、装い。
同じお言葉が、頭の中で並び直された。あつらえていただくのは、絃羽の着物ではない。殿下のお供という、勤めの装いだ。自分のための一枚なら、ご遠慮の言いようはいくらでもあった。しかし、勤めの装いを断る理由は、どこにもない。
帯の前で揃えていた絃羽の指が、ほどけた。
「まあ。お供の装いでございましたら」
盆に手を掛けたまま、篝の口が開いた。
「仕事では──」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
結局、そこで口が閉じる。続きは、来なかった。
篝は盆を脇へ置くと、敷居の内から障子を閉てた。言いさしの半分は、障子の内へ持ち帰られたらしい。宗次は膝をついたまま、その障子へ深く頭を下げた。
さっきまで外套の膝にあった日は、障子の腰板に当たっていた。
雑巾を拾い上げて、絃羽は拭きかけの硝子戸の前に立ち直った。
*
半月ほどが過ぎた弥生の末、絃羽は母屋の玄関脇の小部屋にいた。
宮へ来た晩、袷を脱いで、銘仙に袖を通した部屋である。衣桁には、仕立て上がったばかりの訪問着が掛けてあった。淡い春の色の地に、裾から肩へ、柄がひと続きに流れている。障子越しの日を、絹が静かに照り返していた。脇には、宗次が呼んだ宮の女中がふたり控えていた。年嵩のひとりと、絃羽とさほど年の変わらないひとり。
あの晩は、帯くらいは自分で締められると、手を貸す申し出を断った。しかし、今日はそうはいかない。訪問着の帯は、背中で形を作るものだったのだ。ひとりでは、どうやっても手が届かない。
長襦袢の上から着物を合わせ、腰紐を締めてもらった。人の手で着物を着せてもらうのは、いつ以来だろうか。思い出すまでに随分と間が要った。年嵩の女中が帯を胴へ当てて、顔を上げる。
「お嬢様、少し息をお吸いくださいまし。あとでお苦しくないように」
息なら、型のたびに吸っている。絃羽は腹の底まで、ゆっくりと吸い込んだ。
「はい。吸っております」
帯を締めにかかった女中の手が、そこで止まった。押し当てた掌が、腹のところで押し返されている。
「……お腹に何か仕込まれているのですか?」
言われて、絃羽は帯の上から自分の腹へ目を落とした。
「はい? いえ、何も仕込んでなどいませんが」
「ですが、板のようにお硬うございます」
若いほうの女中が、横から帯に手を添えた。その手も、同じところで止まった。
ふたつの手が、並んだまま動かない。絃羽は、はっとして肩をすくめた。
「あっ……申し訳ございません。腹筋が、どうにも邪魔をしているようでして」
年嵩の女中の目が、帯と絃羽の顔とを行き来した。
「ふ、腹筋……?」
「こ、これ筋肉なのですか……?」
若いほうの女中が、恐る恐る、もう一度帯の上から押してみた。
絃羽の背筋が、ひとりでに伸びた。口元が緩むのを、止められない。胸を張ると、帯の下で腹がいっそう硬くなった。
「はいっ。十年間、鍛えてまいりました!」
自信満々に笑顔で答えてみせる。数少ない自慢できるものだ。
女中ふたりが、顔を見合わせた。よほど、お珍しかったらしい。毎日続ければ、誰の腹でもこうなるはずなのに。
年嵩のほうが咳払いをひとつして、帯を当て直す。今度は息を吐いてくださいまし、と言われ、吐ききったところで締められた。
帯が済むと、若いほうの女中が髪に櫛を入れた。
櫛の歯が地肌を通るたび、目の奥が、うっすらと重くなる。眠気に似て、眠気ではなかった。
蔵では、伸びれば自分で髪を切っていた。まとめて結い上げられると、うなじに部屋の空気がじかに当たった。首を少し傾けてみれば、頭が、思っていたより軽い。
(首の後ろが、すうすうします……)
最後に、年嵩の女中が袖口を整えようとして、絃羽の手を取った。
女中の指が、手の甲の上で一度止まった。付け根に並んだ胼胝と、太い節。甲まで走ったあかぎれは、冬ほど赤くはないが、筋はまだ残っている。
言葉は、なかった。女中はやがて取った手を離して、袖を静かに下ろした。離れていく指のあたたかさだけが、甲に少し残った。
下ろされた袖の先に、自分の指が覗いている。荒れた手が、せっかくのお着物に障るのかもしれない。指を折り曲げると、節のところで、袖裏の絹がかすかに引っかかった。障るというのは、こういうことなのだろう。
それからは、指を袖の内へ引いて、揃えておくことにした。
着付けが済むと、女中たちは脱いだ銘仙を畳みにかかった。見慣れた縞が、女中の手の中で小さく四角くなっていく。ひと冬を、あの一枚と越したのだった。
裾を踏まないよう小股で、絃羽は障子の前まで進んだ。引き開けると、敷居の外に宗次が膝をついて控えていた。
宗次の目が、結い上げた髪から裾の先までを、一度だけ下りていった。瞼が閉じて、ゆっくりと開く。
どこかに、直すところでもあるのだろうか。袖の内で指を揃え直して、絃羽はその前に膝を折った。
「宗次さん。園遊会には、柏木の家も参りますでしょうか?」
白髪頭が、低く下がった。
「……伯爵家でございますので」
伯爵家は、参る。聞くより先に、絃羽の口元は、ぱっとほころんでいた。
「では、お姉様にも、お目にかかれますね!」
宗次の膝の上で、節の太い手が、重なったまま動かなくなっていた。
答えは、来なかった。
点の列は、朝ごとに、まっさらな木目の上へ延びていく。立春を過ぎたころからは、戸の内側に霜の花の張らない朝が、ぽつりぽつりと混じりはじめた。春は、戸の外からではなく、点の列の先から来るものらしい。
七つ刻に目を覚まし、音の出ない型と、腕立てを二百、深屈伸を百。灯の腕を動かして、水屋で篝の膳をこしらえる。夜は炭の籠と酸棗仁の湯呑みを持って、篝の部屋へ行った。日の順は、少しも変わっていない。
変わったのは、昼の手順だった。
書庫が片付いた翌日、絃羽の足は、ひとりでにその前へ向かった。行こうと思って歩いたのではない。着いてから、来ていたことに気づいたのだ。板戸の縁に指を掛けてから、差し入れる本がもう一冊も残っていないことを思い出したのである。
掛けた指は、しばらくそこから離れなかった。板戸の冷たさが指の腹へ移りきっても、まだ離れない。
空いた手で、絃羽は奥の棟を端から掃きはじめた。硝子戸は一枚ずつ外側まで拭き上げ、渡り廊下の板には、節の窪みまで雑巾を当てた。
毎朝通う灯の部屋では、一輪挿しの水仙が、いつの間にか梅の枝になっていた。宗次が替えたのだろう。白い花から、水仙より淡い甘さが立っていた。花が替わっても、腕を動かす手順は変えない。肩から肘、肘から手首へ、順に曲げては伸ばした。
如月も末に近い日の昼、絃羽は、奥の棟に残った最後の一部屋に取りかかった。
自分の部屋と篝の部屋のあいだの、空き部屋。前の縁側なら幾度も掃いてきたのに、障子を引いたことは、まだ一度もなかった。
障子を開け放つと、硝子戸越しの日が、畳の縁まで入ってきた。中には、畳のほかに何もない。畳の目にだけ、埃が薄く溜まっている。初めて火を熾しに上がった日に見た、篝の部屋と同じ溜まり方だった。日は入っても、部屋の空気はまだ冬のままだ。
桶の水で雑巾を固く絞り、畳の目に沿って、奥から手前へ滑らせていく。三枚目の畳に掛かったところで、縁側の板が鳴った。
ひとつ鳴って、息を吸うほどの間を置いて、また鳴る。この棟で、この間合いの足音を立てる人は、ひとりしかいない。誰の足音か思い当たるより先に、雑巾の手が止まっていた。
足音は、敷居の外で止まった。
雑巾を畳に置いて、絃羽は顔を上げてみる。案の定、外套姿の篝が立っていた。黒い革の手は、外套の前で組まれている。
篝の目が、絃羽の手元の雑巾から、脇の桶へ移った。
「……仕事ではない、と言ったはずだが?」
書庫で伺ったお言葉である。絃羽は膝を揃えて、頷いた。
「はい。伺っております」
「では、それは何だ?」
組まれていた革の指が、ほどけた。
答えなら、手の届くところにある。
「お掃除でございます」
言って、畳の上の雑巾を取り上げてみせた。
篝の肩が、ひとつ落ちる。
「……はぁ」
溜め息をいただくようなことを、申し上げただろうか。首を傾げて考えるうちに、思い当たる節があった。
「あっ! お仕事ではございませんので、お手当ては要りませんよっ」
「そういう話をしているのではない」
篝が呆れた様子でぴしゃりと言った。
日当たりのお話をしたときにも、同じ形のお言葉をいただいた。あのときも、何のことだったのかはとうとう伺えずじまいだった。
(そういう話ではない、と言われましても……では、どういうお話なのでしょう?)
そう疑問に思うが、篝はそれきり口を開かなかった。その場に立ったまま、足も動かさない。
しかし、やめろとも言われなかった。
お掃除ならば、お仕事のうちには入らないのかもしれない。それなら、続けてよいはずだ。絃羽は雑巾を畳へ戻し、四枚目の目に沿って滑らせた。見られて困るものなど、ひとつもない。
雑巾の音だけが、部屋に立った。往きと復りとで、音の高さが少しちがう。そのちがいまで、外の静けさは拾っていくらしかった。
畳を拭き終えるまで、敷居の外の外套は、同じところに立っていた。
最後の一枚から雑巾を上げたとき、縁側の板が、また間を置いて鳴った。足音はすぐ東隣で止まり、障子の開く音が続いた。
乾きかけの畳を、硝子戸越しの日が、縁からゆっくり渡っていく。桶の水が小さく揺れて、静まった。
*
弥生も半ばに入った昼、絃羽は空き部屋の前の硝子戸を拭いていた。
庭の土には、冬枯れの色に混じって、小さな緑があちこち覗いている。曇りをひと拭きするたび、硝子の向こうの緑は濃くなった。
東隣の障子は、開け放たれていた。敷居の内に、篝が座っている。硝子戸越しの日が、外套の膝のあたりまで届いていた。
板を擦る小刻みな足音が、西から近づいてきた。
宗次である。両手で捧げた盆に、白い封書が一通。厚い紙の表に、墨の字が黒々と浮いている。冬至の日、書庫の戸口で差し出されていたのと同じものだった。
絃羽の後ろを過ぎて、宗次は篝の前で膝をついた。
改まったご用向きらしい。絃羽は雑巾を持つ手を止めて、その場に膝を揃えた。
盆の向こうで、白髪頭が下がった。
「殿下。今年の、園遊会の」
言葉は、そこで切れた。
篝の目が、盆の上の封書に落ちる。
宗次は、盆を差し出したまま動かなかった。冬至の日と同じ形で、断りのお言葉を待っているのだろう。
外套の膝の上で、篝の手は動かなかった。
「…………」
庭で、鳥がひと声鳴いて、やんだ。
──黒い革の指が、盆の縁に掛かった。
篝は封書には触れず、盆ごと膝の前へ引き寄せた。
持ったままの雑巾から、水が一滴、絃羽の手の甲へ伝った。冷たい、と気づいたのは、盆が畳を滑りきってからだ。
盆の離れた宗次の両手が、差し出した高さのまま、宙に残った。白髪頭は、上がらない。やがて、皺の寄った喉が動いた。
「十一年目、でございますな」
声の端が掠れていた。
篝の目は、封書の表に落ちたままだった。
「十一年目は……出る」
篝のその言葉で、宗次の顔がようやく上がった。白い眉が、額の皺の中へ持ち上がっている。
「へ?」
開いた口が、閉じていない。篝の言葉を信じられなかったのだろう。
その前で、篝がこちらへ向き直った。
「絃羽」
「はい?」
名を呼ばれて、絃羽は雑巾を膝の上に置いた。
盆の縁を一度握り直して。篝は、言った。
「……お前も、来てくれ」
蔵で伺ったときは「来い」だったが、今回はそう仰らなかった。
置いたばかりの雑巾を、絃羽の指が思わず握り込んだ。
言いつけなら、聞き慣れている。言いつけの形でないお言葉は、どこで受け取ればよいのか、勝手が分からなかった。
「えっ……わたくしが、ですか?」
絃羽はぽかんと呆けたように訊いた。
篝が、「ああ」と短く頷く。
園遊会──その名なら、冬至の日に殿下ご自身から伺っていた。春、花の頃に、宮家と華族が庭に集まる催し事だ、と。
あの日は、花の頃には書庫も片付いて、蔵へ戻っているものと思っていた。格子の外に咲く小さな草の花を、桟のあいだから数えているはずだった。そのつもりは、書庫が片付いた日に『帰さない』のひと言で行き場をなくしたままである。
それに篝は、園遊会には十年同じ答えを返していた。その方が、十一年目に人の集まるお庭へ出ていかれる。そこに、自分も同伴せよとのことなのだ。
(おひとりでは、お心細いのでしょうか?)
理由は、そのくらいしか考えつかなかった。
ならば、お返事はひとつしかない。
「はい。お供いたします」
握り込んでいた雑巾を脇へ置き、帯の前で指を揃えて頭を下げてから、絃羽はそう答えた。
宗次の白髪頭が、篝から絃羽のほうへ向き直る。口は、もう閉じていた。
「では、柏木様のお召し物を、あつらえませんと」
あつらえる、と聞いて、絃羽は自分の袖へ目を落とした。宮へ来た晩にいただいた銘仙は、ひと冬着通しても、袖口ひとつほつれていない。
「いえ。わたくしには、いただいた銘仙がございますので」
「…………」
宗次は、しばらく黙っていた。やがて、節の太い手が、膝の上で重なった。
「殿下のお供の、装いでございます」
お供の、装い。
同じお言葉が、頭の中で並び直された。あつらえていただくのは、絃羽の着物ではない。殿下のお供という、勤めの装いだ。自分のための一枚なら、ご遠慮の言いようはいくらでもあった。しかし、勤めの装いを断る理由は、どこにもない。
帯の前で揃えていた絃羽の指が、ほどけた。
「まあ。お供の装いでございましたら」
盆に手を掛けたまま、篝の口が開いた。
「仕事では──」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
結局、そこで口が閉じる。続きは、来なかった。
篝は盆を脇へ置くと、敷居の内から障子を閉てた。言いさしの半分は、障子の内へ持ち帰られたらしい。宗次は膝をついたまま、その障子へ深く頭を下げた。
さっきまで外套の膝にあった日は、障子の腰板に当たっていた。
雑巾を拾い上げて、絃羽は拭きかけの硝子戸の前に立ち直った。
*
半月ほどが過ぎた弥生の末、絃羽は母屋の玄関脇の小部屋にいた。
宮へ来た晩、袷を脱いで、銘仙に袖を通した部屋である。衣桁には、仕立て上がったばかりの訪問着が掛けてあった。淡い春の色の地に、裾から肩へ、柄がひと続きに流れている。障子越しの日を、絹が静かに照り返していた。脇には、宗次が呼んだ宮の女中がふたり控えていた。年嵩のひとりと、絃羽とさほど年の変わらないひとり。
あの晩は、帯くらいは自分で締められると、手を貸す申し出を断った。しかし、今日はそうはいかない。訪問着の帯は、背中で形を作るものだったのだ。ひとりでは、どうやっても手が届かない。
長襦袢の上から着物を合わせ、腰紐を締めてもらった。人の手で着物を着せてもらうのは、いつ以来だろうか。思い出すまでに随分と間が要った。年嵩の女中が帯を胴へ当てて、顔を上げる。
「お嬢様、少し息をお吸いくださいまし。あとでお苦しくないように」
息なら、型のたびに吸っている。絃羽は腹の底まで、ゆっくりと吸い込んだ。
「はい。吸っております」
帯を締めにかかった女中の手が、そこで止まった。押し当てた掌が、腹のところで押し返されている。
「……お腹に何か仕込まれているのですか?」
言われて、絃羽は帯の上から自分の腹へ目を落とした。
「はい? いえ、何も仕込んでなどいませんが」
「ですが、板のようにお硬うございます」
若いほうの女中が、横から帯に手を添えた。その手も、同じところで止まった。
ふたつの手が、並んだまま動かない。絃羽は、はっとして肩をすくめた。
「あっ……申し訳ございません。腹筋が、どうにも邪魔をしているようでして」
年嵩の女中の目が、帯と絃羽の顔とを行き来した。
「ふ、腹筋……?」
「こ、これ筋肉なのですか……?」
若いほうの女中が、恐る恐る、もう一度帯の上から押してみた。
絃羽の背筋が、ひとりでに伸びた。口元が緩むのを、止められない。胸を張ると、帯の下で腹がいっそう硬くなった。
「はいっ。十年間、鍛えてまいりました!」
自信満々に笑顔で答えてみせる。数少ない自慢できるものだ。
女中ふたりが、顔を見合わせた。よほど、お珍しかったらしい。毎日続ければ、誰の腹でもこうなるはずなのに。
年嵩のほうが咳払いをひとつして、帯を当て直す。今度は息を吐いてくださいまし、と言われ、吐ききったところで締められた。
帯が済むと、若いほうの女中が髪に櫛を入れた。
櫛の歯が地肌を通るたび、目の奥が、うっすらと重くなる。眠気に似て、眠気ではなかった。
蔵では、伸びれば自分で髪を切っていた。まとめて結い上げられると、うなじに部屋の空気がじかに当たった。首を少し傾けてみれば、頭が、思っていたより軽い。
(首の後ろが、すうすうします……)
最後に、年嵩の女中が袖口を整えようとして、絃羽の手を取った。
女中の指が、手の甲の上で一度止まった。付け根に並んだ胼胝と、太い節。甲まで走ったあかぎれは、冬ほど赤くはないが、筋はまだ残っている。
言葉は、なかった。女中はやがて取った手を離して、袖を静かに下ろした。離れていく指のあたたかさだけが、甲に少し残った。
下ろされた袖の先に、自分の指が覗いている。荒れた手が、せっかくのお着物に障るのかもしれない。指を折り曲げると、節のところで、袖裏の絹がかすかに引っかかった。障るというのは、こういうことなのだろう。
それからは、指を袖の内へ引いて、揃えておくことにした。
着付けが済むと、女中たちは脱いだ銘仙を畳みにかかった。見慣れた縞が、女中の手の中で小さく四角くなっていく。ひと冬を、あの一枚と越したのだった。
裾を踏まないよう小股で、絃羽は障子の前まで進んだ。引き開けると、敷居の外に宗次が膝をついて控えていた。
宗次の目が、結い上げた髪から裾の先までを、一度だけ下りていった。瞼が閉じて、ゆっくりと開く。
どこかに、直すところでもあるのだろうか。袖の内で指を揃え直して、絃羽はその前に膝を折った。
「宗次さん。園遊会には、柏木の家も参りますでしょうか?」
白髪頭が、低く下がった。
「……伯爵家でございますので」
伯爵家は、参る。聞くより先に、絃羽の口元は、ぱっとほころんでいた。
「では、お姉様にも、お目にかかれますね!」
宗次の膝の上で、節の太い手が、重なったまま動かなくなっていた。
答えは、来なかった。



