怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 その朝、硝子戸の桟の影は、縁側の板に並んだ点の、いちばん端に掛かった。
 この棟へ来て、絃羽が初めて打った点だ。その先の板には、何も打っていない。
 冬至を過ぎてから、影はひと朝ずつ、打った点を逆に辿ってきた。辿られた点には、炭を重ねている。並びのほとんどは、打ったころより濃くなっていた。
 一か所だけ、薄いままの点があった。脇に、小さな点がひとつ付いている。そこへ目が行くと、耳の縁が、まだ少し熱を持った。
 その前を通り過ぎて、影は、端まで戻ってきたのだった。

(……ここまで、戻ってまいりましたね)

 炭のかけらを当てて、絃羽はいちばん端の点を、小さく押した。
 昼になって、最後の段へ、最後の一冊を差し入れた。表紙の角の擦り切れた、農書の端本だ。手に取ってから差し入れるまでに、ずいぶんかかった。
 背の高さを揃えて、指の腹で押し込む。棚板の上に、もう隙間はなかった。
 まだ棚へ戻していないのは、角に金具の付いた文箱がひとつだけだ。書庫の片付けを始めて間もないころ、いちばん上の段から落ちて、篝の手首を裂いた箱だった。
 いちばん上の段には戻さない。手の届く下の段の隅へ、箱を置いた。ここならもう落ちることはない。蓋には手を掛けなかった。
 膝を立て、書架を端から端まで眺めた。
 窓に近いほうから、本草・和算・農書。家の記録は、いちばん奥にまとめてある。日に焼けて困るものほど、窓から遠くへ入れておいた。背の高さの揃った棚が、どの段も一本の線になって、奥の暗がりまで続いている。
 初めて錠前を外してもらった日、この書庫の本には、抜いて戻した跡がひとつもなかった。いまは、どの一冊にも、絃羽の指の跡が付いていた。
 明日からは、この書庫で、本を差し入れる音は立たない。
 戸口に、篝が立っていた。いつからそこにおられたのかは、分からない。黒い革の手袋は、左の手にも戻っていた。その革の内側の温みを、あの晩に包まれた指の先のほうが、先に思い出した。
 絃羽は戸口のほうへ膝を向けて、指を揃えた。申し上げることは、決まっている。明るい報せをお伝えするときの顔を、整えた。

「殿下。書庫が、片付きました」

 篝の目が、並んだ書架の上を、端から端まで渡った。

「……ああ」

 お仕事は、済んだ。済んだのなら、次にお伺いすることもひとつだ。訊くだけのことが、喉の奥で、ひと呼吸ぶん引っかかった。

「つきましては……蔵へは、いつ?」
「帰さない」

 篝の声が、低く落ちた。
 揃えていた指が、膝の上でほどける。

「……え?」

 間の抜けた声が、漏れてしまった。
 帰さない、と仰る。書庫のほかにも、まだお仕事が残っているということだろうか。掃くところなら、奥の棟には、幾らでもあるはずだ。

「では、次のお仕事を」

 篝は、戸口から一歩も動かなかった。

「仕事ではない」
「……お仕事では、ないんですか?」

 絃羽の首が、ひとりでに傾いた。
 書庫の中が、しんとした。雨戸の隙間から入る日の筋が、畳の上で動かずにいる。
 お仕事ではない。お言いつけでも、ないらしい。そのどちらでもないなら、次に何を訊けばよいのだろうか。
 やがて、篝の声がまた来た。

「絃羽」
「……はい」
「欲しいものを言え。何でもいい」

 欲しいもの。聞いた言葉を、そのまま口の中でなぞった。

「……欲しいもの、ですか?」
「ああ。言ってくれ」

 戸口の篝が、小さく頷いた。

(欲しいものって……何なのでしょう?)

 頬に手を当て、考え込む。
 手元にあるもの、足りないもの、なくて困るものを、順に考えてみた。着物はいただいた。足袋もだ。炭は籠にあり、味噌は、樽の底が見えてもまだ残っている。並べたものを、ひとつずつあらためていった。
 どこを探しても、出てこない。
 好きなものを訊かれたときには、考えるまでもなく口から出たのに。
 頬に当てた手の下で、口元が、次の言葉を探したまま止まっていた。

「……あの、申し訳ございません。うまく思い浮かびませんでした」
「考えたことがないのか?」

 篝の声が、また一段、低いところへ下りた。
 それなら、はっきり答えられる。絃羽は、頬から手を下ろした。

「考える必要が、ございませんでしたので」

 篝の口は、開かなかった。

「…………」

 それ以上、篝は何も訊かなかった。戸口の柱の脇で、右の手が左の手首を掴んでいた。掴まれた革が、低く鳴った。
 頬から下ろした手を、膝の上に置いた。掌を上に向けてみる。
 手の中は、空いていた。

       *

 日が落ちてから、絃羽はいつものように、炭の籠と酸棗仁の湯呑みを持って篝の部屋へ行った。
 断りを入れて障子を引くと、篝は火鉢の向こうに座っていた。夜具は隅に畳まれて、その上に灰の袋がふたつ、揃えて載っている。
 障子を掌ひとつぶん開けておき、湯呑みを夜具の脇へ置く。籠を火鉢のそばへ下ろして、炭を足した。赤い芯に、新しい炭の角が馴染んでいく。
 火の上から、篝の声がした。

「明日は、母親の命日だそうだな」

 藪入りの日に、たづとお話しになったとき、お聞きになったのかもしれない。

「はい。たづさんが、お寺へお参りしてくださるそうで」

 火箸を灰に立てて、頷いた。
 篝は、火の上に目を落としたままだった。

「葬儀には、出たのか」

 出た日のことなら、よく覚えている。
 絃羽は膝の上で指を揃えた。

「はい。あの日は、外から閂を外していただきまして」

 あの昼は、扉の外の光がまぶしくて、前を行く人の裾ばかりを見ていた。座敷は、線香の匂いでいっぱいだった。半刻で迎えが来て、礼を申し上げてから、蔵へ戻った。線香の匂いは、それから三日ほど、袖に残っていた。

「半刻ほど、お座敷に上げていただきました。……よくしていただいた日でございます」

 言い終えてから、口元が緩んでいるのに気がついた。
 火鉢の炭が、ひとつ小さく鳴る。
 篝は、長いこと口を開かなかった。やがて出てきた声は、かざした手よりも、低いところから来た。

「……お前というやつは」

 それは、初めて聞いた声だった。まるで、怒っているような声音。またお気に障ることを申し上げてしまったのかもしれない。

「はい?」

 絃羽は首を傾げた。
 篝の目が、火から上がった。

「お前は、なぜ怒らないんだ」
「怒る、と申しますと?」

 怒る、という言葉が、うまく手元へ降りてこない。
 篝の膝の上で、黒い革の手が握られた。

「蔵に入れられて、姉に嗤われて、父に数として扱われて。挙句に、母親の葬儀に半刻だけだと? なぜ一度も怒らないのだ」

 並べられた言葉を、絃羽はひとつずつ受け取ろうとした。
 どれにも、覚えはある。けれど、どれの中を探しても、怒る訳が見当たらなかった。

「……そういうものだと、思っておりましたので」
「そういうもの、か……」

 篝の声が、細くなった。

「そういうもの、でございました」

 絃羽は、頷いた。
 篝の口が、閉じられた。

「…………」

 火鉢の向こうで、篝は火を見ていた。握られた革の手が、膝の上で動かなかった。
 しばらくして、その顔が、こちらを向いた。

「ならば、はっきり言っておく」

 背筋が、ひとりでに伸びた。
 さっきと同じ声音だ。叱られるのかもしれない。

「は、はい」

 篝の声は、低かった。低いまま、一語ずつ置かれた。

「俺は……不愉快だ」

 不愉快。なぜかわからないが、何か篝を不快にさせることをしてしまったのだろう。
 やはり、粗相をしたのだ。

「そ、それは……申し訳──」

 畳へ手をつきかけたその時。その先を、篝に遮られた。

「お前に怒っているのではない」

 つきかけた手が、畳の上で止まった。
 絃羽にではない。では、どなたに。考えても、ほかに心当たりがなかった。

「で、では。一体何に……?」

 恐る恐る、尋ねてみる。
 篝の拳の中で、革が軋んだ。

「お前の扱いに、だ」

 炭の赤が、声に押されたように、一度だけ揺れる。
 火明かりの中で、篝の顔は、いつもよりなお白かった。革の手が、小さく震えている。
 お加減が悪いのではないかと思い、膝を進めかけたその時だった。
 篝の目が、まっすぐに絃羽を捉えた。そして、彼はこう紡いだのである。

「絃羽。お前が怒らないなら、俺が怒る。お前が怒らない分まで、全部な」

 絃羽の膝の上の手が、帯の前へ上がった。
 上がって、そこで所在を探す。

「殿、下……?」

 怒るという言葉が、ようやく手元まで降りてきた。しかし、降りてきた先は、自分の手ではなかったらしい。
 篝の声が、少しだけやわらいだ。

「どうした?」

 帯の前で指がひとつ組まれて、ほどけた。
 言葉にならない。どうしたと問われて、返す言葉を持っていなかった。
 だが、どうしてか胸が苦しい。そしてそれは、決して不快なものではなかった。

「いえ。……どうしてでしょうか。少し、息が浅うございます」

 何とかそれだけを、返す。
 篝は、もう何も言わなかった。火の上に、黒い革の手をかざす。
 絃羽も、あかぎれの手をかざした。
 同じ火の赤が、ふたつの手の上で揺れていた。その晩は、それきりだった。

       *

 命日の朝も、絃羽は七つ刻に目を覚ました。
 音の出ない型と、腕立てを二百、深屈伸を百。済ませて障子を開けると、硝子戸の外は、まだ青かった。命日の朝に、自分の手で戸を開けるのは、これが初めてだ。
 炭のかけらを持って、縁側の板に膝をついた。
 濃くなった点が、一列に続いている。その中に、薄いままの点がひとつと、脇に付いた小さな点がひとつ。列の端から先の板は、木目のほかに何もなかった。
 庭の木立の上が、白んでいく。やがて日が枝のあいだを抜けて、硝子戸の桟の影を、板の上へ落とした。
 影の端は、いちばん初めに打った点を越えていた。越えた先の板は、まだまっさらだった。
 木目の上に、影の端が細く止まっている。ここから先は、この棟で、まだ一度も数えたことのない朝だった。
 そこへ、炭のかけらを当てた。
 小さく、押す。
 何も打っていない板に、点がひとつ増えた。