怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 藪入りから四日が過ぎて、大寒に入った。
 その朝の冷えは、硝子戸の内側を白く曇らせていた。指でなぞれば、なぞったところだけ庭が覗く。縁側の板は、足袋の底から、冷たさを遅れて返してきた。
 渡り廊下の先から届いていた読み聞かせの声が、区切りのところで沈み、それきり戻ってこなかった。今朝の分は、済んだらしい。
 自分の部屋の前に膝をついたまま、絃羽は戸の開く音を待った。「朝、俺が出たあとにしろ」というお言いつけだ。
 戸は、いつまで待っても開かなかった。渡り廊下の板も、鳴らない。開かない戸の前で待つのには、覚えがあった。
 日が、庭の木立を離れた。灯の腕を動かす刻限は、とうに来ている。お言いつけを破るわけにはいかないだろう。けれど、腕を動かさないまま一日を始めるわけにも、いかなかった。
 様子だけでも伺おうと、立ち上がる。縁側を東へ行き、渡り廊下へ折れた。屋根の下を抜ける風が、襟足を冷たく撫でていく。
 戸の前で膝をつき、断りの声を掛けてから、横へ引いた。
 火鉢の熱と、水仙の甘い匂いとが、ひとつになって顔へ来た。
 敷居の内、低い衝立のこちら側に、火鉢がある。その脇に、篝が座っていた。外套を着たまま、膝の上に黒い革の手を置いている。
 絃羽がこの部屋にいる朝、篝はいつも敷居の外に立っていた。
 敷居の手前で、絃羽の膝が止まった。

「入っても、よろしゅうございますか?」

 篝は、火鉢から顔を上げずに答えた。

「……ああ」

 外套の裾に触れないよう、絃羽は火鉢の向こう側を回って、衝立の奥へ進んだ。
 窓辺に、灯が座っていた。畳んだ布団を背に当て、肩に綿入れを掛けている。髪は、今朝も梳かれていた。文机には本が一冊置かれ、閉じた頁のあいだから、栞の紐が垂れている。
 灯の前に膝を揃えて、絃羽は両手をついた。

「おはようございます、灯様」

 返事は、今朝もなかった。灯の目は、硝子戸の外の庭へ向いていた。
 絃羽はいつもの手順に取りかかった。綿入れの袖口から腕を出す。手は、やはり冷えていた。掌で包んでしばらく温めてから、肩から肘へ、肘から手首へ。ひとつずつ曲げて、伸ばしていく。
 衝立の上から、篝の顔が見えた。
 目は、火の上にあった。窓辺の灯と火鉢の脇の篝とのあいだには、衝立がひとつ立っているきりだ。
 手首を支えたところで、数がひとつ浮かぶ。
 九つの器は、もたなかった。十年前に、と伺っている。
 その細さを、指が測っていた。

「灯様は、九つでいらしたのですよね」

 衝立の向こうで、篝の肩がわずかに動いた。

「そうだな」
「殿下は、そのとき何歳でいらしたのですか」

 絃羽は、灯の肘を曲げ直した。
 篝の目は、火の上から離れなかった。

「十二だ」

 十二。灯の手首を取ったまま、絃羽はその数を口の中でなぞった。

「十二の子どもに、何ができたのでしょう?」
「……何を言っている?」

 篝の顔が、上がった。
 問われた訳が分からずに、絃羽は首を傾げた。

「いえ。わたくしは七つで蔵に入りましたので、十二というのは、ずいぶん大人に思えます」

 篝の口は、開きかけて、そのまま結ばれた。
 返事がないので、絃羽は灯の腕を綿入れの上へ戻し、空いた指を折っていく。数えるのは、蔵にいたころからの癖だった。
 七つで蔵に入って、十年。灯様が九つで、殿下が十二で、十年前。
 折った指を揃えて、顔を上げた。

「七つで入ったのが、十年前です。……では、同じ年でございますね」

 言ってみると、声が少し弾んでいた。蔵の格子に、毎冬同じところへ帰ってくる星を見つけた朝にも、こんなふうに弾んだ。
 篝の声が、一段低くなった。

「……同じ年か」

 篝の右の手は、膝の上にあった。
 弾んでいたのは、こちらの声だけだ。
 絃羽は、頷いた。

「はい」

 灯の腕をもう一度取って、手首を曲げ、伸ばす。手順は、変えなかった。
 灯の手首は、朝いちばんに取ったときより、少しだけ温かかった。
 篝は、火の前から動かなかった。灯の腕が一巡りし終えるまで、そこに座っていた。

       *

 その日、絃羽は書庫で、最後の書架の最後の段に取りかかった。棚へ戻していない本は、もう両の手で数えられるほどしか残っていない。本を差し入れる手は、今日も遅かった。
 日が落ちてから、炭の籠と酸棗仁の湯呑みを持って、篝の部屋へ行った。
 障子の前の板の上に、夕餉の膳が出してあった。水屋で炊いて、日の暮れる前に運んだ膳である。椀も皿も、空になっていた。椀の底には、飯粒ひとつ残っていない。箸が一膳、膳の縁に揃えて置いてあった。この棟へ来たばかりのころ、この膳は、手の付かないまま冷めていた。
 敷居の外で膝をつき、断りを入れてから障子を引く。篝は、火鉢の向こうに座っていた。冬至の夜に初めて腰を下ろしたところが、あの晩からは篝の座る場所になっている。
 障子は、掌ひとつぶん開けておいた。火を足すあいだは、炭の気をこもらせないほうがいい。本草の書で、そう読んだ。
 湯呑みは、畳まれた夜具の脇へ置いた。夜具の上では、灰の袋がふたつ、角を揃えて待っている。
 籠を火鉢のそばへ下ろして、膝を揃えた。火箸で灰を寄せ、赤い芯へ新しい炭を足していく。炭の角に赤が移るまで、息を細くして待った。
 火の上に、篝が黒い革の手をかざした。
 人の手を、絃羽はまず見てしまう。荒れ方で暮らしが知れ、指の力みで機嫌が知れる。小窓の枠に掛かる手だけを見て、十年を過ごしてきたからだ。けれど、この手だけは、あの蔵の夕から、革に包まれて読めないままだった。
 革の指先に、火の赤が映っていた。
 右の手で火箸を灰に立てて、絃羽は顔を上げた。左の手は、膝の上に置いたままだ。

「殿下。手袋は、お食事のときもでございますか?」
「そうだ」

 篝は、かざした手を動かさなかった。
 黒い革の指は、太さも節も、外からは分からない。箸を持てば、なおさら滑るだろう。灰に立てた火箸を、指の中で持ち直してみる。

「箸が持ちにくくはございませんか?」

 革の指が、ひとつ曲がって、また伸びた。

「慣れた」

 火箸に掛けていた右の指が、そこで止まった。
 慣れた、という声が、火鉢の上でしばらく消えずにいた。
 障子の隙間から、敷居の外の膳が見えた。縁に揃えた箸の先が、火明かりを受けて細く光っている。革の指で、あの細いものを、朝に夕に持ってこられたのだろう。

「慣れるというのは、よいことではございませんね」

 口にしてから、その言葉の出どころを辿った。
 蔵の冬に、指のあかぎれに慣れて、裂けているのに気づかなかった朝がある。汁の塩が沁みて、ようやく分かった。慣れてしまうと、傷んでいるところが、痛むまで見えなくなる。
 だから、殿下の箸の話として、申し上げたのだ。
 篝の目が、火の上から、絃羽の膝の上の手へ下りた。火の赤が、あかぎれの筋を甲の先まで照らしていた。

「…………」

 火鉢の炭が、小さく鳴った。障子の隙間から、夜の冷えがかすかに入ってくる。
 見られている手を、絃羽は袖の内へ引きかけて、途中でやめた。汚れているわけではないはずだった。
 篝の沈黙は、長かった。炭の爆ぜる音を、ひとつ、ふたつと数えた。
 三つ目を数える前に、篝の右の手が左の手袋の口に掛かった。
 革の指先を、一本ずつ緩めていく。人差し指の先を引き、中指の先を引いた。革の擦れる、乾いた小さな音がした。
 棚に並んだ替えなら、絃羽は毎日拭いている。けれど、手の入った革が緩んでいくところを見るのは、初めてだった。
 絃羽の右の指は、火箸の頭に掛かったまま動かない。
 ──革が、指の先から抜けた。
 素手が、火の明かりの中に出た。炭の爆ぜる音が、ひととき遠のいた。

(綺麗な手……)

 彼の手は、白かった。日に当たったことのない白さだ。指は長く、爪は短く揃えてある。あかぎれも、胼胝も、ひとつもなかった。
 外した手袋を、篝は膝の上へ置いた。
 篝の手が、ゆっくりと返った。
 手首の内側に、細い線が走っていた。薄い桃色に塞がった、傷の痕。文箱の金具が裂いたところだ。絃羽が手拭いを巻いた、あの隙間である。
 掌の真ん中から、指の付け根へ向かって、古い火傷の痕が広がっていた。皮が引き攣れて、そこだけが艶のある白をしている。

(古い、お怪我……)

 ようやく読めるものが入ってきた。
 荒れは、どこにもない。この手は、水にも、梁にも、触れずに来た。その真ん中にだけ、傷が残っている。
 皮の引き攣れ方は、ひと冬やふた冬のものではない。古い傷でも、寒さで皮が縮めば、突っ張って疼くことがあるはずだ。本草の書にも、そうあった。

(冬には、痛むことも……)

 篝は、掌を上に向けたまま、火の上から動かさなかった。

「…………」

 お手当てが、ご入用なのかもしれない。膏薬なら、水屋で練れる。そう読みきらないうちに、火箸を離れた右の指が、もう出ていた。
 絃羽の指先が、痕の上に触れる。
 引き攣れた皮は、なめらかだった。指の腹の下で、わずかに硬い。指を、そこから離せなかった。離せなかったのか、離さなかったのか、自分でも分からない。

「絃羽……」

 名を呼びつつ、掌が、ゆっくりと閉じていった。
 長い指が、絃羽の指を包む。

「……はい」

 返事をして、小首を傾げてみる。
 しかし、篝は何も答えず、目を閉じただけだった。
 火鉢の中で、炭がひとつ、音を立てて崩れる。
 引き戸の前で掠めた手首は、冷たかった。手当てのときに支えた手首も、冷たかったように思う。
 だが──。
 包まれた指に伝わってくる掌は、思っていたより、ずっと温かかった。
 温みは、指の先から、少しずつ付け根のほうへ移ってくる。付け根は、蔵の朝、いつもいちばん先に冷えたところだ。
 絃羽も、その指を引かなかった。重なった手の上で、火の赤が小さく揺れていた。
 篝の口から、長い息がひとつ出ていった。
 どれほどそうしていたかは、数えていない。数えるのを、忘れていた。