怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 縁側の板に膝をついて、絃羽は日を待っていた。
 硝子戸の内側には、夜の冷えがまだ溜まっている。張りついていた霜は、縁のほうから水になって、桟を伝いはじめていた。炭のかけらを挟んだ指の先が、じんと痺れている。
 東のほうで、板が鳴った。
 かけらを持ったまま、耳を澄ませた。宗次の足ではない。宗次なら、板を擦るように小刻みに来る。いまの音は、ひとつ鳴ってから次が鳴るまでに、息をひとつ吸えるほどの間があった。
 同じ間合いの音を、宮へ来た晩に一度だけ聞いている。障子の前まで来て、そこで止まった音だった。
 この棟へ来てから、朝に篝の足音を聞いたことはなかった。
 足音は、ひとつごとに近くなる。近くなっても、間合いは変わらなかった。
 顔を上げると、篝が縁側を西へ来るところだった。外套の裾が、ひと足ごとに板の上で揺れている。二歩手前で、その足が止まった。
 絃羽は膝の上で指を揃え直し、頭を下げる。篝は、何も言わなかった。硝子戸の桟を伝ってきた水が、ひとしずく、板へ落ちる。
 やがて、木立の縁を越えた日が、硝子戸の桟の影を板へ落とした。影の端は、打ってきた点の列を、半ばまで引き返している。
 今朝の点を打とうと、炭の先をそこへ寄せた。
 ──炭が板に触れる前に、声がした。

「絃羽」

 炭の先が、影の端から外れた。すぐ脇に、小さな黒い点がひとつ付いた。

「え……!?」

 息が、喉の途中で止まっていた。

(今……わたくしの名前を、呼びましたよね?)

 この名を人の声で聞いたのは、いつが最後だったか。辿っていくと、母の声に行き着く。
 かけらを挟んだ指が、板の上で止まっていた。耳のほうが、先に熱くなっている。硝子戸の冷えに、当たりすぎたからだろうか。
 止まった指の上に、篝の目が落ちていた。

「どうした?」

 絃羽は、弾かれたように顔を上げた。

「い、いえ。何でしょう?」

 篝は、硝子戸の外へ顔を向けた。

「いや……何でもない。呼んだだけだ」

 呼んだだけ、と仰る。
 理由もなく呼びつけるのは、やめてほしかった。心臓に悪い。

「左様で、ございますか」

 膝の上へ手を戻して、絃羽は小さく頷いた。
 篝は背を向けて、縁側を東へ戻っていった。板は、帰りの足の下でも鳴る。突き当たりで、外套の背が渡り廊下へ折れた。少しして、その先で足音がひとつぶん途切れ、それから戸の引かれる音がした。
 ご用を仰る前に、お止めになったのかもしれない。

(ご用がおありなら、また仰いますよね)

 板の上へ目を戻すと、影の端は、さっきの点に掛かったままだ。
 その点へ、炭は当て直さなかった。脇に付いた小さな点も、拭わずにおく。
 指の先の痺れは、いつの間にか引いていた。耳の熱のほうは、まだ引かなかった。鼓動も、なぜか早い。

(ああ、もう。なんだか、さっきから……胸が、うるさいです)

 初めての気持ちに、振り回されていた。

       *

 藪入りの前の晩、宗次が絃羽の部屋の敷居の外に膝をついた。
 明日、柏木のお屋敷から、たづと申す者が参ります。殿下のお言いつけで。白髪頭を下げたまま、宗次はそれだけを言って退がっていった。

(どうして、たづさんが?)

 お断りの文なら、もう宗次に託してある。それでも、お言いつけとあれば、断る筋はなかった。

(結局、殿下のお手を煩わせてしまいました……)

 だが、そう思うのに、どうしてか胸がうるさい。帯の前で揃えた指が、その晩はなかなか落ち着かなかった。
 明日、である。揃え直すたびに、一本だけが、知らず折れていた。
 当日の朝、影の端は、いちばん初めに打った点まで、指で数えられるほどのところへ戻っていた。
 灯の腕を動かし、篝の朝の膳を済ませてから、絃羽は縁側の西の端に座った。たづを迎えるためである。
 待つことなら、いくらでもしてきた。ただ、待つ相手のいる待ち方には、あまり覚えがない。
 引き戸の開く重い音がしたのは、日がすっかり高くなってからだった。小刻みな足音が縁側へ入ってきて、その後ろに、もうひとつの足音が続く。板の上で聞くのは初めてでも、小窓の外で聞き慣れた足と、運び方が同じだった。
 迎えに出ようと立ち上がると、宗次の背の陰から小柄な人が出てきた。
 たづは、前掛けも襷も着けていなかった。洗いの利いた、木綿の袷を身に付けている。髷の白いものが、朝の日に幾筋も光っていた。
 引き戸を入ったところで、膝をつく。棟の奥を見回すことは、しなかった。
 伏せていた顔が、ゆっくりと上がる。

「お嬢様……」
「まあ、たづさん! 遠いところを、ありがとうございます!」

 絃羽は、たづの前まで歩み寄った。
 声が、自分でも意識できてしまうほど高くなっている。
 たづの目は、絃羽の顔まで上がってこなかった。帯のあたりで止まって、足元へ落ちていく。

「…………」
「たづさん?」

 返事のないのが気に掛かって、首を傾げた。
 たづの顔が、くしゃりと歪んだ。口元が震えて、声にならない息がひとつ漏れた。

「……足袋を、お履きで」
「え?」

 言われて、絃羽は自分の足元へ目を落とした。白い足袋の先が、板の上に揃っている。

「はい。こちらへ参った日に、いただきました」
「そうですか……そうですか……!」

 たづは袖口を目元へ当てて、何度も頷いた。頷くたびに、髷の白いものが揺れた。

「まあ、たづさん。どうしたのですか? ここのところ、ずっと泣いてばかりではありませんか」

 なぜ泣くのかは、分からなかった。
 分からなくても、目の高さは揃えられる。
 たづの前に膝を折って、その肩にそっと触れた。
 宗次は引き戸の脇に膝をついたまま、白髪頭を伏せていた。
 遠いところを来てくださった方に、白湯のひとつも出さずにお返しするわけにはいかない。絃羽は、たづを水屋へ案内した。宗次は縁側に残り、北へ折れる廊下の手前に控えた。
 竈には、朝の火がまだ残っていた。
 たづを板敷きの端に座らせると、絃羽は鍋に井戸の水を張って、竈に掛けた。棚から小ぶりの樽を下ろし、蓋を取る。杓子を差し入れると、先が、もう底に当たった。底の固さが、柄を伝って掌まで来た。
 湯が立つまでのあいだに、汁の実を決めておかなければならない。この水屋で初めて炊いた日の汁には、実がなかったのだ。
 絃羽は、頬に手を当てた。

(実は、何にいたしましょう……?)

 板敷きのほうで、息を呑む音がした。

「……奥様と、同じでございます」

 頬に手を当てたまま、絃羽は振り返った。

「え?」

 たづの目が、絃羽の頬の手に留まっていた。

「奥様も、考えごとのときは、そうやって頬に手を」

 頬に当てた手が、そこで止まった。

「お母様の……」

 絃羽は、頬から手を下ろして、掌を返した。付け根に並んだ胼胝と、甲まで走るあかぎれ。いつもの手のほかには、何も載っていなかった。
 母の手を、思い出そうとした。先に来たのは、読み聞かせの声のほうだ。手は、記憶に出てこない。覚えていないものを、この手だけが覚えていた。

「存じませんでした」

 掌を見たまま、絃羽は呟いた。
 たづは膝の上で両の手を握りしめて、頷くだけだった。
 鍋の湯が、小さく鳴りはじめる。そこへ、小刻みな足音が水屋の戸口の外まで来て、止まった。止まったと思うと、すぐに遠ざかっていく。
 戸口の外の板に、葱がひと束置かれていた。
 実は、それで決まった。
 葱を刻み、湯へ落とす。樽の底から掬った味噌を、杓子の上で少しずつ溶いた。ひと口味を見てみる。塩が先に来て、あとから甘みが追いかけてきた。この樽の、終いのほうの味だ。
 飯は、たづが着く前に炊いておいた。戸棚の黒い膳に飯と汁の椀を並べて、たづの前へ据えた。
 膳から身を引くように、たづが膝をわずかに退いた。

「お嬢様に、お膳を出していただくなど」

 たづの拳は、膝の上から動かなかった。
 絃羽は、汁の椀を両の手で取って、その拳の前へ差し出した。

「たづさんのお味噌でございますので」

 拳が、ゆるゆるとほどけた。あかぎれの浮いた、指の太い手が上がってきて、椀を下から受ける。小窓の盆の縁を、いつも最後まで支えていた手。椀の底の熱が、絃羽の指先から、その手へ移っていく。
 たづは椀に口をつけて、ひと口、ゆっくりと含んだ。椀を下ろすと、喉が一度だけ動いた。

「冷めたお膳ばかりで……運べない日も、ございましたのに」

 運べない日があったことは、知っている。そういう日は、小窓の外が、一日静かだった。
 絃羽は膝を揃えて、背を伸ばす。そして、はっきりとこう言ってのけた。

「冬を越せましたのは、たづさんのお膳と……筋肉のおかげでございます!」
「…………っ」

 たづの肩が、ひとつ跳ねた。
 椀を膝に抱えたまま、たづの背が丸くなった。声は、どこからも漏れてこない。肩だけが、細かく揺れていた。
 笑ってくださったのかと、初めは思った。だが、笑うのならば声が出る。
 彼女は声を潜めて、涙を堪えていた。

「たづさんったら……もう」
「も、申し訳ございません……お嬢様。ふぅぅッ……」

 丸まった背へ、手を置く。巣から落ちた雛も、掌の下で、こうして震えていた。袷の上からでも、背骨の節が、ひとつずつ掌に当たる。たづの背は、長く揺れ続けた。
 絃羽は、手を離さなかった。宗次の足音が、ふたたび水屋の戸口の外まで来たのは、揺れが収まって、間を置いてからだった。

「たづ殿。殿下が、少しお話をと」

 戸口の外で、白髪頭が絃羽のほうへ向き直った。

「柏木様は、こちらで」

 たづの背から手を下ろして、絃羽は膝の上で指を揃えた。

「はい」

 たづは空の椀を膳へ戻すと、絃羽へ深く一礼してから、宗次のあとについていった。
 掌には、袷越しの温みがまだ残っていた。

(たづさん……)

 自分のために、涙を流してくれていた。こんな、自分に。
 それを思うと、胸と瞼の裏が、どうしても熱くなってしまう。
 膳と鍋を洗い終えて、絃羽は書庫へ戻った。
 書庫の中は、奥ほど暗い。本の天の埃を払うのに、戸口の際へ座を移した。敷居の内から、縁側がまっすぐ東の端まで見通せる。
 突き当たりで、たづが膝をついて頭を下げていた。その前に、篝が立っている。
 篝の右の手が、左の手首を掴んでいた。その掴み方を見るのは、三度目だ。たづの肩が、ときどき揺れた。
 声は、ここまで届かなかった。何をお話しなのかは、訊かずにおく。人と人とのお話は、そのふたりのものである。
 膝の上の本へ、手を戻した。手は戻っても、耳は、しばらく東の端に残っていた。
 日が傾く頃、たづの帰る時刻だ。
 引き戸の手前で、たづが振り返った。

「お嬢様。もうじき、奥様のご命日でございます」

 帯の前で揃えた絃羽の指に、少しだけ力が入った。

「はい」
「わたくしが、お寺へお参りしてまいります。お嬢様の分も」

 たづが、袖口で口元を押さえて言った。
 命日に参ったことは、一度もない。
 絃羽は、深く頭を下げた。

「……お願いいたします」
「承知いたしました」

 たづも、頭を下げる。長いこと、上がってこなかった。
 やがて引き戸が開き、閉まった。宗次の小刻みな足音と、たづの足音とが、重なりながら遠ざかっていく。
 ひとりになった縁側に、絃羽は膝をついたままでいた。
 手が、頬へ上がった。
 考えることは、何もない。
 それでも……手は、しばらくそこにあった。