松の内も終わる日の夕、奥の棟で赤く燃えている火は、ふたつだけだった。
ひとつは篝の部屋の火鉢で、もうひとつは、棟の北の端にある水屋の竈である。薪の爆ぜる音が、縁側を伝って、細く届いていた。
篝は、火鉢の脇に座っていた。
火は、朝のうちに娘が足していった。赤いところを芯にして、炭が隙間なく寄せてある。冬至の夜、篝も同じように組んだ。見ていれば、覚えることだった。
もとを辿れば、この火鉢の火は、娘が自分の部屋の炭で熾したものだ。この棟へ来た翌日の夕、入れるなと言ってあった火を、娘は入れた。
衣擦れが縁側を来て、障子の外で止まった。膝をつく音が続く。
宗次だった。この刻限に宗次が来るのは、用のあるときだけである。
篝は立って、障子の桟に肘を当て、掌ひとつぶんだけ引いた。敷居の外で、白髪頭を下げている。
「柏木のお屋敷の女中から、柏木様に文が届きましてございます」
「そうか」
障子の内に立ったまま、篝は答えた。
しかし、白髪頭は上がらなかった。報せだけなら、頭はもう上がっている。宗次は言った。
「藪入りの日に、お顔を拝見しに伺いたいと」
柏木の女中、と聞いて、浮かぶ顔はひとつしかない。娘を引き取った夕、車寄せの列を崩して、駆けてきた女がいた。髷には白いものが幾筋も走り、胸に抱えた包みは重そうだった。その包みを娘の腕へ押しつけてから、袖で頬を押さえていた。
藪入りの一日を、あの女は、ここまでの道に使うと言っている。
篝は、宗次の下げた頭の先へ、目を落とした。
「あの娘は何と?」
宗次が、膝の上で手を揃え直した。
「お気持ちだけ頂戴いたします、と」
篝の目が、火鉢の赤へ移った。
「…………」
あの娘は、どのような意図でそれを言ったのだろうか。あの女中が彼女を想う数少ない人間であることも、わかっているはずだ。ならば何故──と考えていたところで、宗次の頭がもう一段下がった。
「殿下にお伺いを立てましょうかと、申し上げたのでございますが……お手を煩わせるほどのことではございませんので、と」
煩わせる、という言葉だけが、少し遅れて耳に残った。
蔵の冬を、静かな冬と言った娘である。少し寒かったと言えば、凍えたという意味だ。寒さなら、訳せる。これまでも、その都度言い直してきた。
だが、人に会うか会わぬかは、それとは違っていた。人を寄せつけずとも十年をやり過ごせる性分というものは、ある。ほかでもない篝が、それをよく知っていた。
知っているぶん、そこから先を訳す必要はない。
「要らぬと言うなら、それでいい」
火鉢の赤から目は上げずに答えた。
「……左様でございますか」
宗次の返事は、ひと呼吸遅れた。
膝の上で手を重ね直すと、彼は頭を下げたまま退がっていった。何も、言い添えずに。言い添えなかったぶんが、部屋に残った。小刻みな足音が、引き戸のほうへ遠ざかっていく。
日が、庭の木立に掛かっていた。
今時分、娘は水屋にいる。飯を炊き、酸棗仁を小鍋で煮詰めている頃合いだ。日が落ちれば、炭の籠を抱えてこの部屋へ来るのだろう。
その前に、済ませておくことがあった。
火箸を取って、火鉢の赤いところから、炭を三つ十能へ移した。娘がこの棟へ来た翌日の晩から、毎晩こうしている。
『それは、お前の部屋の火だぞ』
あくる朝、十能を抱えた娘に言った。火のもとを辿れば、嘘は言っていない。嘘でないことと、すべてを言ったことは、同じではなかったが。
十能を提げて、縁側へ出る。足音は立てなかった。空き部屋の前を過ぎ、娘の部屋の前で止まる。
障子の桟に肘を当て、腕が通るだけの幅を引いた。
敷居のすぐ内側、腕を伸ばせば届くところに、陶の手焙りが据えてある。部屋に、人はいなかった。夜具は隅に畳まれ、手焙りの脇には、冬至の柚子がひとつ置かれている。皮が乾いて、縮んでいた。匂いは、敷居の外までは流れてきていない。
敷居の外に膝をつき、腕だけを差し入れた。火箸で手焙りの灰を掻く。底には、まだ熱が残っていた。そこへ、炭を三つ埋けていく。畳には、膝ひとつ入れなかった。
この娘を書庫の隣へ入れたのは、篝である。
引き取った夜、奥の棟の重い引き戸の前で、娘の指が篝の左の手首を掠めた。革の口と、袖口のあいだの素肌だ。
それなのに……何も、起きなかった。有り得ないことである。
起きなかったことを、篝はすぐには信じなかった。奥の棟に入れるのかと宗次に問われ、書庫の隣だと答えたのは、その直後だった。
その晩は、この戸から三つ、四つ歩いたところに立って、夜が明けるまで動かなかった。朝は、縁側で娘が起きてくるのを待っていた。昼は、書庫の戸口に立った。弟の部屋の戸口にも、立っていた。そして、夜は……この手焙りを置いた。
三日か、十日で帰すつもりでいた。指を折るまでもなく、とうに過ぎている。帰さずにいる訳は、探さなかった。
腕を引いて、障子を元のとおりに閉める。部屋へ戻ると、火鉢の赤は、三つぶん低くなっていた。
*
その夜、篝は夜具の中で目を開けていた。
手の置き場には、灰の袋がふたつ据えてある。枕元の湯呑みは、空になっていた。袋の布は、今夜も焦げていない。焦がすほどには、眠っていなかった。
この冬いちばんの冷えが、棟に降りていた。息を吸うたびに、夜具の外の空気が鼻の奥を刺した。
『明け方に一度起きて、型を繰り返せば、朝まで保ちますので』
あの晩、娘は指を一本ずつ折りながら言った。
明け方が、いちばん冷える。三つの炭で、明け方まで足りるのか?
夕に灰を掻いたときも、底にはまだ熱が残っていた。手焙りの火は、朝まで保っているはずだ。毎晩置いていながら、足りるかどうかを考えたのは、今夜が初めてだった。
目を閉じても、手焙りの小さな赤が、瞼の裏から消えない。
起き上がって、枕の脇に畳んでおいた外套を羽織った。灰の袋は、夜具の上に残してある。火鉢の赤いところから、炭を幾つか十能へ移した。
縁側へ出ると、硝子戸の内側に、霜が花の形に張っていた。外は、まだ黒い。霜の隙間に、星が幾つか見えた。月は、出ていなかった。板の冷えが、ひと足ごとに、足袋の底から遅れて上がってくる。
娘の部屋の前で、篝は足を止めた。
内は、いつも通り静かだった。音を立てない型を、宮では選んでいるらしい。
娘がもう起きているのかは、障子の外からは分からなかった。
肘を桟に当てて、指の幅だけ引く。
明かりは、手焙りの赤だけだった。灰の中で、赤は小さくなっている。それでも、敷居のあたりから畳の上へ、薄く色を投げていた。その端が、障子の際の夜具に掛かっている。
娘は、障子に背を向けていた。奥の壁のほうへ顔を向け、膝を胸へ引き寄せている。二つに折った掛けものが肩からずれて、腰の上に寄っていた。裾から、足袋の先がのぞいている。
──両の手が、背へ回っていた。
肩ではなかった。帯の結び目のあたり、背の真ん中へ、指が届くところまで伸びている。
枕元には、畳んだ白い紙が置いてあった。昼に届いたという、柏木の女中の文だろう。この部屋に、灯りはなかった。
誰も見ていないと思っているとき、この娘は、頬ではなく背に手を回すのだ。自分で自分を、抱くように。
十能の柄を握った革の指に、力が入った。
絃羽の声が、耳の底で鳴った。
『少し、寒うございましたけれど』
凍えていた。それは、もう訳した。
『梁の上に、ネズミさんがおりましたので。毎朝、ご挨拶をさせていただいておりました』
挨拶をする相手が、鼠だった。
宗次の口から聞いた言葉が、あとに続いた。
『お気持ちだけ頂戴いたします、と』
ようやく、これも訳せた。
これは、要らぬではない。『会いたい』ということだ。
それでいい、と。もう篝は言ってしまったというのに。
(……俺というやつは)
眉間を指で摘まんだ。
壊れていないか、ばかり見ていた。自分の手のせいで、どこかが傷んでいないか。それだけを。もっと見てやらなければならないところがあったではないか。
敷居の外に膝をつき、障子を、もう腕ひとつぶんだけ引いた。桟は、鳴らなかった。隙間から、十能の炭を手焙りの灰へ埋けていく。腕の届くところまでしか、火は置けなかった。敷居を越えれば、背の手のそばまで寄せられる。
でも、越えなかった。
夜具の上で、絃羽の背の手がわずかに動いた。帯の結び目から、指がほどけかけている。起きる刻限らしい。
篝は腕を引き、障子を閉めた。
部屋へ戻ると、火鉢の赤は、また低くなっていた。
篝は炭を足した。赤いところを芯にして、隙間なく寄せる。手は、もう組み方を迷わなかった。
決めようとして、決めたのではない。組み終えたときには、もう決まっていた。
懐中時計の針が六時を回ったころ、宗次の足音が縁側を来て、障子の外で止まった。朝の用を伺いに来る時分である。
篝は立って、障子の桟に肘を当て、掌ひとつぶん引いた。
「宗次」
白髪頭が、敷居の外で下がった。
「はい」
下がった頭の先の板へ、篝は目を落とした。
「柏木の女中を、呼べ」
「…………」
宗次の膝の上で、手が止まり。顔は、上がらなかった。
無理もない。十年、人を遠ざけよとしか言ってこなかった口である。
火鉢の炭が、ひとつ爆ぜた。低い声のまま、篝は続けた。
「藪入りの日に」
「承知いたしました」
今度の返事は、遅れなかった。
次に、宗次の首がわずかに傾いだ。
「して、殿下」
「む?」
「柏木様には、何とお伝えしましょう?」
確かに、その通りだ。要らぬと言ったのに、勝手にこちらが呼ぼうとしているのだから。
篝は、外套の前で革の指を組んだ。
「頼まれて呼ぶのではない。私が呼ぶだけだ」
「……かしこまりました」
宗次の白髪頭が、いつもより深く下がった。
返事の終いが、少しかすれていたことは気づかなかったことにする。宗次は腰を上げ、縁側を西へ下がっていった。やがて、引き戸が重い音を立てて閉まる。
ほどなく、西のほうで障子の開く音がした。影を待ちに、絃羽が縁側へ出てくる刻限だった。
篝は障子を肘で押し広げ、縁側の東の端へ出た。
硝子戸の霜は、白んできた光の中で、縁のほうから解けはじめていた。点の並んだ板の端に、絃羽が膝をついている。炭のかけらを指に挟み、庭のほうを向いて、いつもの朝と同じく影を待っていた。
夜のあいだのことを、絃羽は知らない。知らせるつもりも、なかった。
篝は、縁側を西へ歩き出す。
一歩目の板が、鳴った。
ひとつは篝の部屋の火鉢で、もうひとつは、棟の北の端にある水屋の竈である。薪の爆ぜる音が、縁側を伝って、細く届いていた。
篝は、火鉢の脇に座っていた。
火は、朝のうちに娘が足していった。赤いところを芯にして、炭が隙間なく寄せてある。冬至の夜、篝も同じように組んだ。見ていれば、覚えることだった。
もとを辿れば、この火鉢の火は、娘が自分の部屋の炭で熾したものだ。この棟へ来た翌日の夕、入れるなと言ってあった火を、娘は入れた。
衣擦れが縁側を来て、障子の外で止まった。膝をつく音が続く。
宗次だった。この刻限に宗次が来るのは、用のあるときだけである。
篝は立って、障子の桟に肘を当て、掌ひとつぶんだけ引いた。敷居の外で、白髪頭を下げている。
「柏木のお屋敷の女中から、柏木様に文が届きましてございます」
「そうか」
障子の内に立ったまま、篝は答えた。
しかし、白髪頭は上がらなかった。報せだけなら、頭はもう上がっている。宗次は言った。
「藪入りの日に、お顔を拝見しに伺いたいと」
柏木の女中、と聞いて、浮かぶ顔はひとつしかない。娘を引き取った夕、車寄せの列を崩して、駆けてきた女がいた。髷には白いものが幾筋も走り、胸に抱えた包みは重そうだった。その包みを娘の腕へ押しつけてから、袖で頬を押さえていた。
藪入りの一日を、あの女は、ここまでの道に使うと言っている。
篝は、宗次の下げた頭の先へ、目を落とした。
「あの娘は何と?」
宗次が、膝の上で手を揃え直した。
「お気持ちだけ頂戴いたします、と」
篝の目が、火鉢の赤へ移った。
「…………」
あの娘は、どのような意図でそれを言ったのだろうか。あの女中が彼女を想う数少ない人間であることも、わかっているはずだ。ならば何故──と考えていたところで、宗次の頭がもう一段下がった。
「殿下にお伺いを立てましょうかと、申し上げたのでございますが……お手を煩わせるほどのことではございませんので、と」
煩わせる、という言葉だけが、少し遅れて耳に残った。
蔵の冬を、静かな冬と言った娘である。少し寒かったと言えば、凍えたという意味だ。寒さなら、訳せる。これまでも、その都度言い直してきた。
だが、人に会うか会わぬかは、それとは違っていた。人を寄せつけずとも十年をやり過ごせる性分というものは、ある。ほかでもない篝が、それをよく知っていた。
知っているぶん、そこから先を訳す必要はない。
「要らぬと言うなら、それでいい」
火鉢の赤から目は上げずに答えた。
「……左様でございますか」
宗次の返事は、ひと呼吸遅れた。
膝の上で手を重ね直すと、彼は頭を下げたまま退がっていった。何も、言い添えずに。言い添えなかったぶんが、部屋に残った。小刻みな足音が、引き戸のほうへ遠ざかっていく。
日が、庭の木立に掛かっていた。
今時分、娘は水屋にいる。飯を炊き、酸棗仁を小鍋で煮詰めている頃合いだ。日が落ちれば、炭の籠を抱えてこの部屋へ来るのだろう。
その前に、済ませておくことがあった。
火箸を取って、火鉢の赤いところから、炭を三つ十能へ移した。娘がこの棟へ来た翌日の晩から、毎晩こうしている。
『それは、お前の部屋の火だぞ』
あくる朝、十能を抱えた娘に言った。火のもとを辿れば、嘘は言っていない。嘘でないことと、すべてを言ったことは、同じではなかったが。
十能を提げて、縁側へ出る。足音は立てなかった。空き部屋の前を過ぎ、娘の部屋の前で止まる。
障子の桟に肘を当て、腕が通るだけの幅を引いた。
敷居のすぐ内側、腕を伸ばせば届くところに、陶の手焙りが据えてある。部屋に、人はいなかった。夜具は隅に畳まれ、手焙りの脇には、冬至の柚子がひとつ置かれている。皮が乾いて、縮んでいた。匂いは、敷居の外までは流れてきていない。
敷居の外に膝をつき、腕だけを差し入れた。火箸で手焙りの灰を掻く。底には、まだ熱が残っていた。そこへ、炭を三つ埋けていく。畳には、膝ひとつ入れなかった。
この娘を書庫の隣へ入れたのは、篝である。
引き取った夜、奥の棟の重い引き戸の前で、娘の指が篝の左の手首を掠めた。革の口と、袖口のあいだの素肌だ。
それなのに……何も、起きなかった。有り得ないことである。
起きなかったことを、篝はすぐには信じなかった。奥の棟に入れるのかと宗次に問われ、書庫の隣だと答えたのは、その直後だった。
その晩は、この戸から三つ、四つ歩いたところに立って、夜が明けるまで動かなかった。朝は、縁側で娘が起きてくるのを待っていた。昼は、書庫の戸口に立った。弟の部屋の戸口にも、立っていた。そして、夜は……この手焙りを置いた。
三日か、十日で帰すつもりでいた。指を折るまでもなく、とうに過ぎている。帰さずにいる訳は、探さなかった。
腕を引いて、障子を元のとおりに閉める。部屋へ戻ると、火鉢の赤は、三つぶん低くなっていた。
*
その夜、篝は夜具の中で目を開けていた。
手の置き場には、灰の袋がふたつ据えてある。枕元の湯呑みは、空になっていた。袋の布は、今夜も焦げていない。焦がすほどには、眠っていなかった。
この冬いちばんの冷えが、棟に降りていた。息を吸うたびに、夜具の外の空気が鼻の奥を刺した。
『明け方に一度起きて、型を繰り返せば、朝まで保ちますので』
あの晩、娘は指を一本ずつ折りながら言った。
明け方が、いちばん冷える。三つの炭で、明け方まで足りるのか?
夕に灰を掻いたときも、底にはまだ熱が残っていた。手焙りの火は、朝まで保っているはずだ。毎晩置いていながら、足りるかどうかを考えたのは、今夜が初めてだった。
目を閉じても、手焙りの小さな赤が、瞼の裏から消えない。
起き上がって、枕の脇に畳んでおいた外套を羽織った。灰の袋は、夜具の上に残してある。火鉢の赤いところから、炭を幾つか十能へ移した。
縁側へ出ると、硝子戸の内側に、霜が花の形に張っていた。外は、まだ黒い。霜の隙間に、星が幾つか見えた。月は、出ていなかった。板の冷えが、ひと足ごとに、足袋の底から遅れて上がってくる。
娘の部屋の前で、篝は足を止めた。
内は、いつも通り静かだった。音を立てない型を、宮では選んでいるらしい。
娘がもう起きているのかは、障子の外からは分からなかった。
肘を桟に当てて、指の幅だけ引く。
明かりは、手焙りの赤だけだった。灰の中で、赤は小さくなっている。それでも、敷居のあたりから畳の上へ、薄く色を投げていた。その端が、障子の際の夜具に掛かっている。
娘は、障子に背を向けていた。奥の壁のほうへ顔を向け、膝を胸へ引き寄せている。二つに折った掛けものが肩からずれて、腰の上に寄っていた。裾から、足袋の先がのぞいている。
──両の手が、背へ回っていた。
肩ではなかった。帯の結び目のあたり、背の真ん中へ、指が届くところまで伸びている。
枕元には、畳んだ白い紙が置いてあった。昼に届いたという、柏木の女中の文だろう。この部屋に、灯りはなかった。
誰も見ていないと思っているとき、この娘は、頬ではなく背に手を回すのだ。自分で自分を、抱くように。
十能の柄を握った革の指に、力が入った。
絃羽の声が、耳の底で鳴った。
『少し、寒うございましたけれど』
凍えていた。それは、もう訳した。
『梁の上に、ネズミさんがおりましたので。毎朝、ご挨拶をさせていただいておりました』
挨拶をする相手が、鼠だった。
宗次の口から聞いた言葉が、あとに続いた。
『お気持ちだけ頂戴いたします、と』
ようやく、これも訳せた。
これは、要らぬではない。『会いたい』ということだ。
それでいい、と。もう篝は言ってしまったというのに。
(……俺というやつは)
眉間を指で摘まんだ。
壊れていないか、ばかり見ていた。自分の手のせいで、どこかが傷んでいないか。それだけを。もっと見てやらなければならないところがあったではないか。
敷居の外に膝をつき、障子を、もう腕ひとつぶんだけ引いた。桟は、鳴らなかった。隙間から、十能の炭を手焙りの灰へ埋けていく。腕の届くところまでしか、火は置けなかった。敷居を越えれば、背の手のそばまで寄せられる。
でも、越えなかった。
夜具の上で、絃羽の背の手がわずかに動いた。帯の結び目から、指がほどけかけている。起きる刻限らしい。
篝は腕を引き、障子を閉めた。
部屋へ戻ると、火鉢の赤は、また低くなっていた。
篝は炭を足した。赤いところを芯にして、隙間なく寄せる。手は、もう組み方を迷わなかった。
決めようとして、決めたのではない。組み終えたときには、もう決まっていた。
懐中時計の針が六時を回ったころ、宗次の足音が縁側を来て、障子の外で止まった。朝の用を伺いに来る時分である。
篝は立って、障子の桟に肘を当て、掌ひとつぶん引いた。
「宗次」
白髪頭が、敷居の外で下がった。
「はい」
下がった頭の先の板へ、篝は目を落とした。
「柏木の女中を、呼べ」
「…………」
宗次の膝の上で、手が止まり。顔は、上がらなかった。
無理もない。十年、人を遠ざけよとしか言ってこなかった口である。
火鉢の炭が、ひとつ爆ぜた。低い声のまま、篝は続けた。
「藪入りの日に」
「承知いたしました」
今度の返事は、遅れなかった。
次に、宗次の首がわずかに傾いだ。
「して、殿下」
「む?」
「柏木様には、何とお伝えしましょう?」
確かに、その通りだ。要らぬと言ったのに、勝手にこちらが呼ぼうとしているのだから。
篝は、外套の前で革の指を組んだ。
「頼まれて呼ぶのではない。私が呼ぶだけだ」
「……かしこまりました」
宗次の白髪頭が、いつもより深く下がった。
返事の終いが、少しかすれていたことは気づかなかったことにする。宗次は腰を上げ、縁側を西へ下がっていった。やがて、引き戸が重い音を立てて閉まる。
ほどなく、西のほうで障子の開く音がした。影を待ちに、絃羽が縁側へ出てくる刻限だった。
篝は障子を肘で押し広げ、縁側の東の端へ出た。
硝子戸の霜は、白んできた光の中で、縁のほうから解けはじめていた。点の並んだ板の端に、絃羽が膝をついている。炭のかけらを指に挟み、庭のほうを向いて、いつもの朝と同じく影を待っていた。
夜のあいだのことを、絃羽は知らない。知らせるつもりも、なかった。
篝は、縁側を西へ歩き出す。
一歩目の板が、鳴った。



