怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 炭の爆ぜる音で、絃羽の意識は現実へと引き戻されていく。
 片側の頬が、温かかった。火鉢の熱が、そこにだけ溜まっている。もう片方の頬には、明け方の冷えが、ひと呼吸遅れて届いた。鼻の奥に、炭の匂いがあった。
 膝は揃えたままだ。頭だけが、火鉢のほうへ傾いでいる。首の付け根が固くなっていた。

(……あら?)

 そろりと、頭を起こした。
 障子の紙は、まだ黒い。部屋の明かりは、火鉢の赤だけだ。七つ刻だった。
 火鉢の向こうに、篝が座っていた。腰を下ろしたところから、動いた様子がない。外套を着たまま、黒い革の手を膝に揃え、目を火の上に落としていた。
 夜のあいだの覚えは、半ばで途切れていた。炭を幾度足したのかも、そこから先が出てこない。
 膝の上で、絃羽の手は置き場が決まらなかった。揃えては、また揃え直す。

「殿下。わたくし……眠っておりましたか」

 篝の目は、火から上がらなかった。

「ああ」

 その一語を聞くなり、絃羽は畳に両手をついていた。つこうと思うより先に、手のほうが下りていた。

「申し訳ございません。火の番に参りましたのに」
「言っただろう。今夜は起きている、と」

 下げた頭の上に、低い声が落ちてきた。
 顔を上げると、火鉢の底で赤が息をしていた。
 眠る前に足した炭なら、とうに灰になっている刻限である。それなのに、火は細ってもいなかった。脇の籠の炭は、夜のはじめに抱えてきたときの半分ほどに減っていた。
 減った半分は、自分の眠っているあいだに、火へ移ったことになる。この部屋で起きていたのは、ひとりきりだった。
 膝の上で揃えていた指を、絃羽はそっとほどいた。

「火も、落とさずにいてくださったのですね」
「……まあな」

 篝の口が、少し遅れて開いた。
 火の具合を確かめようと、絃羽は火鉢へにじり寄る。
 新しい炭は、赤いところを芯にして、隙間なく詰めてあった。その上から、灰が薄くかぶせてある。火箸で縁から掻き寄せたらしく、灰の裾に細い筋が幾本も残っていた。筋は、どれも同じ向きに揃っている。
 火箸へ伸びかけた指を、途中で止めた。組んである炭を、崩したくなかったのだ。

「炭の組み方が、わたくしのと同じですね」
「見ていれば覚える」

 篝は、火に目を落としたきりだった。

(殿下は、やはり覚えの良い方でいらっしゃる)

 火明かりが、篝の顔を下から照らしていた。目の縁が、赤い。火照りの赤より、色が深かった。一度も眠らず、朝を迎えたのだろう。
 火の番は、いつの間にか入れ替わっていたのである。番に来た者が眠って、炭は、篝の手で夜を越した。
 火鉢の熱は届いているのに、指の先だけが冷えていく。
 部屋の隅では、夜具が畳まれたままになっていた。その上には、灰の袋がふたつ、揃えて載せてある。
 袋を据えるなら、夜具を延べるのが先だ。隅へ移ると、絃羽は両の手に袋を取り上げ、火鉢のほうへ振り返った。

「では、今からでも少し、お休みに」
「……いい。もう朝だ」

 篝は、腰を上げずに首を横に振った。
 朝と言われれば、朝である。袋を夜具の上へ戻して、元のとおりに角を揃えた。
 朝ならば、縁側で影を待たなければならない。敷居の外へ下がって膝をつき、頭を下げた。篝は、火鉢の向こうに座ったままだ。
 戸を閉てると、火の赤が、紙一枚ぶん遠のいた。
 自分の部屋へ戻って、音の出ない型と腕立て二百、深屈伸百回を済ませる。そのあいだに、障子の紙が白んでいった。
 置いてある炭のかけらを持って、絃羽は縁側へ出た。点の並んだ板の端に、膝をつく。
 ほどなく、東の端で障子の開く音がした。外套の背が、縁側の突き当たりで渡り廊下へ折れていく。板は、少しも鳴らなかった。
 日が昇ると、硝子戸の桟の影が、斜めに伸びてきた。その端が止まったのは、昨日と同じ点の上だ。
 その点へ、絃羽はもう一度、炭の先を置いた。
 点が、ひとつ濃くなった。

       *

 年の瀬は、書庫の本を棚へ戻すうちに過ぎていった。
 書架の残りは、二つになっていた。冬至の日から、手は遅いままである。遅い訳については、今も探していない。探しかけるたびに、空いた段の板が指の先に触れて、考えはそこで途切れた。
 灰の袋は毎晩据え、酸棗仁の湯呑みも枕元に置いている。朝に下げに行けば、夜具には人の形が残っていた。くぼみに掌をかざすと、まだ温かさの返ってくる朝もある。そういう朝は、灰がよく勤めたのだろう。
 縁側の点は、朝ごとにひとつずつ濃くなっていく。
 元日も、絃羽は七つ刻に目を覚ました。
 蔵の元日は、ほかの朝と同じ順だった。宮で迎える元日も、順は変えない。ただ、型の終いだけを早めた。
 初日を、見ておきたかったのである。
 障子を開け放して、敷居の内の畳に両の掌をついた。
 肘を折って、伸ばす。ひとつ伸ばすごとに、硝子戸の向こうの空が白んでいく。
 百を過ぎたころ、東の端で障子の開く音がした。
 渡り廊下へ向かうはずの外套が、縁側を西へ、こちらへやって来る。足音はなかった。衣擦れだけが、少しずつ近づいてくる。肘は、そのあいだも数を刻んだ。やがて、裾が敷居の先で止まった。

「朝から何をしている?」

 腕を伸ばしきったところで、絃羽は顔だけを上げた。

「腕立てでございます」
「……元日だぞ」

 外套の袖の中で、黒い革の指が一度組まれて、ほどけた。
 元日であることなら、目を覚ましたときから承知している。掌を畳についたまま、しっかりと頷いた。

「はい。ですが、筋肉に元日はございませんので」

 答えてから、残りを数えに戻る。百九十一、百九十二。肘を折るたびに目に入る外套の裾は、敷居の外で揺れもしなかった。
 二百に届いたところで、頭の上から長い息がひとつ降ってきた。

「全く、お前ときたら……」

 続きを待ったが、それきりだった。叱るお言葉なら、もっと長く続く。呆れられているだけのようだ。
 どうして呆れられるのかは、未だわかっていない。
 絃羽は起き上がって、膝を揃えた。
 四股は、庭で杖を振っておられた朝と、灯様のお部屋の戸口とで、二度断られている。四股でなければ、よいのかもしれない。

「殿下もいかがです? 深屈伸でしたら、床も鳴りませんし」

 篝の顔が、硝子戸のほうへ逸れた。

「……だから、しないと言っている」

 床のことでは、なかったらしい。では、何のことだったのか。訊ね直そうとして、口を開きかけたその時。
 庭の木立の縁が、白く光った。初日が、その上へ出たのである。まともに顔へ当たった明るさに、絃羽は目を細めて、少し俯いた。
 見ておきたかったはずの初日を、目は受け止めきれなかった。光は頬のほうに落ちて、しばらくしてから、温みに変わっていた。
 俯いた先の板へ、桟の影が落ちていく。元日の影も、打っておかなければならなかった。敷居の脇へ出しておいた炭のかけらを取って、板の端へにじり出る。
 影の端は、昨日よりひとつ手前の点に掛かっていた。そこへも、炭の先を置いた。冬至で伸びきった影は、ここから、来た道を戻っていく。
 点の色が変わるまで、篝は同じところに立っていた。それから外套が向きを変えて、縁側を東へ戻っていく。突き当たりで渡り廊下へ折れる背から、板を踏む音は、ついにしなかった。

(あら? そういえば、何のご用だったのでしょう?)

 伺いそびれたと気づいたのは、背が見えなくなってからだった。

       *

 松の内も明けようかという日の昼、絃羽は書庫で、残った書架の片方に取りかかっていた。
 板を擦る小刻みな足音が、縁側を来て、戸口の外で途切れた。敷居の手前に、宗次が膝をつく。その手に、折り畳んだ紙が一通あった。

「柏木様。文が届いております」

 棚へ差し入れかけていた本が、絃羽の指の先で止まった。

「わたくしに、ですか?」

 宗次が、文を捧げ直した。

「柏木のお屋敷の、たづと申す者から」

 たづへなら、一通、文を出していた。出した文に返事が付いてくることは、数に入れていなかった。
 止めていた本を、棚の奥まで差し入れる。戸口まで進んで、空いた指を宗次の手のほうへ伸ばした。両の手で、文を受ける。紙は薄く、掌の上でほとんど重さがなかった。
 書庫の中は、雨戸を二枚繰っても奥が暗い。字は、日の差すところで読むものだ。蔵では、ずっとそうしてきた。
 絃羽は縁側へ出て、硝子戸越しの日向に膝を揃えた。宗次も縁側の板へ下がり、二歩離れたところに膝をつき直した。
 上包みの折り目に、指を掛ける。そこで、指が動かなくなった。
 人から文を受け取るのは、これが初めてだ。

(なんだか……少し勿体ないですね)

 開いてしまえば、初めての文は、読み終えた文になる。それが何だか惜しかった。
 掛けた爪の先を、もうひと呼吸ぶんだけ、そのままにしておく。
 息をひとつ整えてから、折り目を順に開いていった。
 太い字が並んでいた。筆の運びは遅く、ところどころに墨が溜まっている。この一枚に、幾日かかったのだろう?

『お返事が遅うなりまして。お文、たしかに頂戴いたしました』

 頂戴いたしました、の八文字を、そっとなぞった。小窓の外にいた人のもとへ、自分の字が、たしかに届いていた。何だかそれが、妙に嬉しい。

『いただいたお文の字を、ところどころ滲ませてしまいました。申し訳もございません』

 滲ませた、とあった。水仕事の合間に、濡れた手のまま読んでくださったのかもしれない。たづの手は、いつも、あかぎれの筋が赤かった。
 文の終いのほうに、ほかより長い一行があった。

『藪入りの日に、お顔を拝見しに伺ってもよろしゅうございましょうか』

 藪入りは、奉公に出た者が暇をいただいて、家へ帰る日である。家の記録に、そうあった。年に二度きりの日だとも。
 文を初めから、もう一度読んだ。三度目も、読んだ。
 三度とも、同じ行の上で指が止まった。
 止まった箇所は──お顔を拝見しに、のところだ。

(あれ? わたくし……)

 読み終えてから、胸の下のあたりが温かいことに気づいた。
 硝子戸越しの日向に、長く座りすぎたらしい。
 二歩離れた板の上で、宗次の白髪頭がわずかに前へ傾いだ。

「お返事は、いかがいたしましょう?」

 絃羽は、頬に手を当てた。頬のほうが、掌よりも温かい。
 この棟には人の手を入れるなとの仰せでございまして、と書庫を開けてもらった日に宗次から伺っていた。
 そのまま、小さく答える。

「……こちらは、殿下のお屋敷でございますので」
「殿下に、お伺いを立てましょうか?」

 宗次の手が、膝の上から浮きかけた。
 夜通し火を守っておられた目の縁の赤さが、ふと浮かんだ。
 頬から手を下ろして、絃羽は首を横に振った。

「いえ。お手を煩わせるほどのことでは、ございませんので」
「…………」

 宗次の口が、開きかけて、そのままになった。
 書庫の奥で、棚の板が、乾いた音をひとつ立てる。
 やがて、節の太い手が、膝の上で重なった。
 絃羽は、文を元の折り目のとおりに畳み直して、帯の間へ収めた。紙は、受け取ったときより、少しやわらかくなっていた。
 藪入りの日に門を開けるかどうかは、宗次の段取りにも関わる。返事の中身は、先にお伝えしておくのが筋だ。
 宗次のほうへ、膝ごと向き直った。

「お返事は、こう書きます」

 帯の上から、畳んだ文の角が指の腹に当たった。当たったところが、遅れて、ちくりとする。

「お気持ちだけ、頂戴いたします、と」