灰の袋は、あの晩から毎晩、篝の夜具の手の置き場に据えてある。酸棗仁の湯呑みも、枕元に置いてきた。煎じ方は、三日目からは宗次に頼まず、水屋の小鍋で半分になるまで自分で煮詰めている。
朝、湯呑みを下げに行くと、夜具に人の形が残っている日が増えた。はじめは三日に一度だったが、それが二日に一度になり、この三日は続いている。灰の袋の布に、焦げの色が付いた朝は、まだ一度もなかった。
書庫の片付けは、残り三つの書架。
灯の腕は、毎朝欠かさず動かしている。肩から肘、肘から手首へ、ひとつずつ曲げて、伸ばす。そのあいだ、篝は変わらず、戸口の敷居の外に立っていた。
そうして、師走も二十日を過ぎた。
その朝、絃羽は型を終えると、縁側へ出て日を待っていた。
硝子戸の内側にも、夜の冷えが溜まっている。膝の下の板から、足袋ごしに冷たさが上がってきた。吐いた息が白く、硝子の手前で薄れて消えた。
空が、東から白んでいく。やがて、低い日が庭の木立を越え、硝子戸の桟の影を縁側の板へ落とした。
板の端に、小さな黒い点が並んでいる。絃羽が朝ごとに、炭の先で打ってきた点だった。桟の影の端が、その朝どこに掛かったか。ひと月ぶんの印である。
炭は、篝の部屋へ運ぶ籠から、角の欠けたかけらをひとつ借りた。それを影の端へ当てて、小さく押す。拭えば消える点だが、拭ったことはない。
はじめのうち、点と点のあいだは指の幅ほども開いていた。日を追うごとに、その幅が詰まってきた。ここ三日は、影の端が同じ点から動いていない。
今朝の影も、同じ点に掛かった。
点の上で、絃羽は炭のかけらを持った指を止めた。打つ場所が、もうない。
日を数えてきた指を、ひとつずつ折り直した。数も、合っている。
東の端で障子の開く音がしたかと思えば、外套の姿が縁側へ出てきた。渡り廊下のほうへは折れずに、板の上を西へ、こちらへ来る。膝をついた絃羽の二歩手前で、その足が止まった。
足音は、今朝も聞こえない。障子の音がなければ、来られたことにも気づかなかっただろう。
絃羽は、影の掛かった点に指を添えたまま、顔を上げた。
「今日が、冬至でございますね」
「なぜ分かる?」
篝の目が、絃羽の指の先へ下りた。
絃羽は、並んだ点の端から端までを、指でなぞってみせる。
「影が、止まりましたので」
黒い点の列を、篝の目が順に辿った。いちばん新しい点で、止まる。
「何でも知っているのだな、お前は」
「何でもではございません。蔵で見てきたことだけ、です」
絃羽は首を横に振って、笑顔で応えた。
朝の日が、篝の顔の半分に当たっていた。この棟で初めて迎えた朝にも、同じように、日向の少し先に立っていたように思う。
あの朝は、月の下で見たときより、なお色がなく、目の下の影も前の日の夕より濃かった。しかし、今日は──。
「殿下。お顔の色が、少しようございますね!」
「…………」
外套の前で、篝の右の手が止まった。
やがて、その口から白い息がひとつ、長く出た。
「……お前が、そう言うなら、そうなのだろうな」
うっすらと口角が上がっているように、見えなくもない。
それから間もなくして、板を擦る足音が西から近づいてきた。宗次が、竹の籠を提げている。籠の中で、黄色い実が日を受けていた。宗次がここまで来るより早く、柚子の匂いが冷えた縁側を渡ってきた。
宗次は二人の前で足を止め、籠からひとつを取り上げた。
「冬至でございますので。柏木様にも、おひとつ」
よろしいのですか、と訊く前に、柚子はもう掌の上にあった。冷たくて、皮がでこぼこしている。鼻を寄せなくても、匂った。皮の油が、指のあかぎれに少しだけ沁みる。絃羽は柚子を両の手で包んで、胸の前へ持った。
(『おひとつ』の数に、入れてもらえました)
なぜだろうか。それだけのことで、胸がぽかぽかとしてくる。
ただ、自分の暦の見方はやはり正しかったようだ。
宮の暦でも、今日が冬至であるらしい。
湯殿に浮かべるのだと宗次は言い添えて、籠を提げ直した。篝はそれを見届けてから、渡り廊下のほうへ歩いていった。
*
その昼、絃羽は書庫で分け終えた本を棚へ戻していた。
雨戸は、いまは二枚まで繰ってある。日の差す筋と、差さない奥とが、書架の並びで決まっていた。
本草は窓に近い書架へ、和算はその隣へ。家の記録は、奥の暗いほうへまとめる。日に焼けてはいけないものほど、奥へ置いた。
並べ終えた棚は、背の高さが揃って、端から見ると一本の線になる。その線を辿っていくと、息がひとつ深くなった。
戸口には、篝が立っていた。近ごろは、昼の一刻ほど、そうしていることがある。何を言うでもなく、本が並んでいくのを見ていた。敷居から中へは、入ってこなかった。初めの日に宗次が膝をついたのと、同じ敷居である。
そこへ、板を擦る足音が来た。宗次の手に、白い封書が一通ある。厚い紙で、表の墨の字が、戸口の明かりに黒々と浮いていた。篝の傍らで膝をつき、宗次は封書を差し出した。
「殿下。せめて園遊会だけは」
篝の手は、封書のほうへ伸びなかった。
「行かぬ」
絃羽はそのやり取りに耳を傾けつつ、次の一冊を棚へ差し入れた。背の高さを揃えて、指で押す。
封書を差し出したまま、宗次は動かなかった。
「十年、同じ答えでございます」
「では、十一年目も同じ理由だ」
篝の目は、封書のほうへ一度も下りなかった。
「……承知いたしました」
宗次の白髪頭が、ゆっくりと下がった。封書を懐へ戻して、腰を上げる。小刻みな足音が、引き戸のほうへ遠ざかっていった。
棚へ戻す本は、あと一冊になっていた。
最後の一冊を差し入れてから、絃羽は戸口へ向き直った。
園遊会。聞いたことのない言葉だった。蔵の二階の本の中でも、見た覚えがない。
「殿下。園遊会というのは、何でございましょう?」
「春、花の頃に、宮家と華族が庭に集まる催し事だ」
篝の目が、窓のほうへ動いた。
花の頃。蔵の格子の外にも、春になれば、小さな草の花が咲いた。
「お花の頃、ですか……」
残った書架を、数えた。
もう、残りは三つだけだ。春までは、まだ幾月もある。
「……それまでには、書庫も片付いてしまいますね」
篝の目が、並んだ書架の上を、端から端まで渡った。
「……早く終わるように、頑張りますね」
絃羽は空いた手の埃を払って、次の書架へ向かった。
早く終わるようにと言っておきながら、手だけがいつもより遅い。
訳は、探さずにおいた。
*
冬至の夜は、早く来る。
申の刻を過ぎたころには、もう硝子戸の外が青く沈んで、庭の木立の形が分からなくなった。
朝にもらった柚子は、自分の部屋の手焙りの脇に置いてある。火の熱で、匂いが部屋じゅうに立っていた。
日が落ちてすぐ、絃羽は炭の籠を抱えて、篝の部屋へ行った。
敷居の外で膝をつき、断りを入れてから、障子を引く。篝は、文机の前に立っていた。
夜具は、隅に畳まれてある。灰の袋は、その上に、ふたつ揃えて載せてあった。角の揃え方が、夜具の畳み方と同じだ。
火鉢には、朝に入れた火がまだ残っていた。絃羽は膝を揃えて炭を足し、火箸で灰を掻いて、赤いところへ寄せていった。
篝の目が、火の上に落ちていた。
「火は、人を呼ぶな」
呼ばれたのかと思った。絃羽は火箸を止めて、顔を上げる。
「はい? お呼びでございましたか?」
「……いや」
篝の目は、火に落ちたままだ。
それから、篝の膝が折れた。火鉢の向こう側に、篝が腰を下ろしていた。外套の裾が、畳の上に広がる。
(殿下が、お座りに)
絃羽の膝と篝の膝のあいだに、火鉢がひとつある。
篝が、黒い革の手を火の上にかざした。絃羽も、あかぎれの手をかざす。
火の熱が、あかぎれの筋に沁みて、それから指の腹までゆっくりと温めていく。向こうの革の上にも、同じ赤が映っていた。
障子の外で、風がひとつ鳴った。硝子戸の向こうには、もう星が出ているのだろう。紙に阻まれて、ここからは見えない。
「殿下。今夜は、一年でいちばん夜が長い日です。灰の袋を、お据えしましょうか?」
篝の手は、火の上から動かなかった。
「いい。今夜は、起きている」
起きている、と仰る。眠れる夜が続いていたのに、今夜は。
訳は、伺わなかった。
絃羽は、かざした指をひとつ曲げた。
「長いですよ?」
「慣れている」
篝は、火から顔を上げずに答えた。
平らな、お声だった。
「そうですか……」
考えるより先に、言葉が出た。
「……わたくしも、慣れておりました」
火の上で、黒い革の手は、かざしたまま動かない。
長い夜の話をいただいたので、長い夜の話をお返しした。申し上げたのは、それだけのことである。それなのに、口の中に、言葉の温みが残っていた。
蔵の冬至の夜は、灯りのないまま、明けるのを待つのが通例だった。夜具を二枚重ねて、明け方に一度起きて、型を繰り返す。
去年は、それで越えた。
だが──今夜は、火がある。
火鉢の向こうに、人がひとり座っている。
火にかざした指を、絃羽は握って、開いた。一度で、付け根まで曲がってしまう。
(ああ、どうしてでしょう……?)
胸がざわついた。どうしてか、目の奥がじんと熱くなってしまう。
またこの感覚だ。前にも一度だけあった。
冬至を越えれば、朝の影は、打ってきた点を逆に辿りはじめる。蔵の床でも、炭俵の縁を越えて伸びた光の筋は、この日を境に引き返していった。
明日の朝からは、点を打つ向きが変わる。
一年でいちばん長い夜は、まだ始まったばかりだった。
朝、湯呑みを下げに行くと、夜具に人の形が残っている日が増えた。はじめは三日に一度だったが、それが二日に一度になり、この三日は続いている。灰の袋の布に、焦げの色が付いた朝は、まだ一度もなかった。
書庫の片付けは、残り三つの書架。
灯の腕は、毎朝欠かさず動かしている。肩から肘、肘から手首へ、ひとつずつ曲げて、伸ばす。そのあいだ、篝は変わらず、戸口の敷居の外に立っていた。
そうして、師走も二十日を過ぎた。
その朝、絃羽は型を終えると、縁側へ出て日を待っていた。
硝子戸の内側にも、夜の冷えが溜まっている。膝の下の板から、足袋ごしに冷たさが上がってきた。吐いた息が白く、硝子の手前で薄れて消えた。
空が、東から白んでいく。やがて、低い日が庭の木立を越え、硝子戸の桟の影を縁側の板へ落とした。
板の端に、小さな黒い点が並んでいる。絃羽が朝ごとに、炭の先で打ってきた点だった。桟の影の端が、その朝どこに掛かったか。ひと月ぶんの印である。
炭は、篝の部屋へ運ぶ籠から、角の欠けたかけらをひとつ借りた。それを影の端へ当てて、小さく押す。拭えば消える点だが、拭ったことはない。
はじめのうち、点と点のあいだは指の幅ほども開いていた。日を追うごとに、その幅が詰まってきた。ここ三日は、影の端が同じ点から動いていない。
今朝の影も、同じ点に掛かった。
点の上で、絃羽は炭のかけらを持った指を止めた。打つ場所が、もうない。
日を数えてきた指を、ひとつずつ折り直した。数も、合っている。
東の端で障子の開く音がしたかと思えば、外套の姿が縁側へ出てきた。渡り廊下のほうへは折れずに、板の上を西へ、こちらへ来る。膝をついた絃羽の二歩手前で、その足が止まった。
足音は、今朝も聞こえない。障子の音がなければ、来られたことにも気づかなかっただろう。
絃羽は、影の掛かった点に指を添えたまま、顔を上げた。
「今日が、冬至でございますね」
「なぜ分かる?」
篝の目が、絃羽の指の先へ下りた。
絃羽は、並んだ点の端から端までを、指でなぞってみせる。
「影が、止まりましたので」
黒い点の列を、篝の目が順に辿った。いちばん新しい点で、止まる。
「何でも知っているのだな、お前は」
「何でもではございません。蔵で見てきたことだけ、です」
絃羽は首を横に振って、笑顔で応えた。
朝の日が、篝の顔の半分に当たっていた。この棟で初めて迎えた朝にも、同じように、日向の少し先に立っていたように思う。
あの朝は、月の下で見たときより、なお色がなく、目の下の影も前の日の夕より濃かった。しかし、今日は──。
「殿下。お顔の色が、少しようございますね!」
「…………」
外套の前で、篝の右の手が止まった。
やがて、その口から白い息がひとつ、長く出た。
「……お前が、そう言うなら、そうなのだろうな」
うっすらと口角が上がっているように、見えなくもない。
それから間もなくして、板を擦る足音が西から近づいてきた。宗次が、竹の籠を提げている。籠の中で、黄色い実が日を受けていた。宗次がここまで来るより早く、柚子の匂いが冷えた縁側を渡ってきた。
宗次は二人の前で足を止め、籠からひとつを取り上げた。
「冬至でございますので。柏木様にも、おひとつ」
よろしいのですか、と訊く前に、柚子はもう掌の上にあった。冷たくて、皮がでこぼこしている。鼻を寄せなくても、匂った。皮の油が、指のあかぎれに少しだけ沁みる。絃羽は柚子を両の手で包んで、胸の前へ持った。
(『おひとつ』の数に、入れてもらえました)
なぜだろうか。それだけのことで、胸がぽかぽかとしてくる。
ただ、自分の暦の見方はやはり正しかったようだ。
宮の暦でも、今日が冬至であるらしい。
湯殿に浮かべるのだと宗次は言い添えて、籠を提げ直した。篝はそれを見届けてから、渡り廊下のほうへ歩いていった。
*
その昼、絃羽は書庫で分け終えた本を棚へ戻していた。
雨戸は、いまは二枚まで繰ってある。日の差す筋と、差さない奥とが、書架の並びで決まっていた。
本草は窓に近い書架へ、和算はその隣へ。家の記録は、奥の暗いほうへまとめる。日に焼けてはいけないものほど、奥へ置いた。
並べ終えた棚は、背の高さが揃って、端から見ると一本の線になる。その線を辿っていくと、息がひとつ深くなった。
戸口には、篝が立っていた。近ごろは、昼の一刻ほど、そうしていることがある。何を言うでもなく、本が並んでいくのを見ていた。敷居から中へは、入ってこなかった。初めの日に宗次が膝をついたのと、同じ敷居である。
そこへ、板を擦る足音が来た。宗次の手に、白い封書が一通ある。厚い紙で、表の墨の字が、戸口の明かりに黒々と浮いていた。篝の傍らで膝をつき、宗次は封書を差し出した。
「殿下。せめて園遊会だけは」
篝の手は、封書のほうへ伸びなかった。
「行かぬ」
絃羽はそのやり取りに耳を傾けつつ、次の一冊を棚へ差し入れた。背の高さを揃えて、指で押す。
封書を差し出したまま、宗次は動かなかった。
「十年、同じ答えでございます」
「では、十一年目も同じ理由だ」
篝の目は、封書のほうへ一度も下りなかった。
「……承知いたしました」
宗次の白髪頭が、ゆっくりと下がった。封書を懐へ戻して、腰を上げる。小刻みな足音が、引き戸のほうへ遠ざかっていった。
棚へ戻す本は、あと一冊になっていた。
最後の一冊を差し入れてから、絃羽は戸口へ向き直った。
園遊会。聞いたことのない言葉だった。蔵の二階の本の中でも、見た覚えがない。
「殿下。園遊会というのは、何でございましょう?」
「春、花の頃に、宮家と華族が庭に集まる催し事だ」
篝の目が、窓のほうへ動いた。
花の頃。蔵の格子の外にも、春になれば、小さな草の花が咲いた。
「お花の頃、ですか……」
残った書架を、数えた。
もう、残りは三つだけだ。春までは、まだ幾月もある。
「……それまでには、書庫も片付いてしまいますね」
篝の目が、並んだ書架の上を、端から端まで渡った。
「……早く終わるように、頑張りますね」
絃羽は空いた手の埃を払って、次の書架へ向かった。
早く終わるようにと言っておきながら、手だけがいつもより遅い。
訳は、探さずにおいた。
*
冬至の夜は、早く来る。
申の刻を過ぎたころには、もう硝子戸の外が青く沈んで、庭の木立の形が分からなくなった。
朝にもらった柚子は、自分の部屋の手焙りの脇に置いてある。火の熱で、匂いが部屋じゅうに立っていた。
日が落ちてすぐ、絃羽は炭の籠を抱えて、篝の部屋へ行った。
敷居の外で膝をつき、断りを入れてから、障子を引く。篝は、文机の前に立っていた。
夜具は、隅に畳まれてある。灰の袋は、その上に、ふたつ揃えて載せてあった。角の揃え方が、夜具の畳み方と同じだ。
火鉢には、朝に入れた火がまだ残っていた。絃羽は膝を揃えて炭を足し、火箸で灰を掻いて、赤いところへ寄せていった。
篝の目が、火の上に落ちていた。
「火は、人を呼ぶな」
呼ばれたのかと思った。絃羽は火箸を止めて、顔を上げる。
「はい? お呼びでございましたか?」
「……いや」
篝の目は、火に落ちたままだ。
それから、篝の膝が折れた。火鉢の向こう側に、篝が腰を下ろしていた。外套の裾が、畳の上に広がる。
(殿下が、お座りに)
絃羽の膝と篝の膝のあいだに、火鉢がひとつある。
篝が、黒い革の手を火の上にかざした。絃羽も、あかぎれの手をかざす。
火の熱が、あかぎれの筋に沁みて、それから指の腹までゆっくりと温めていく。向こうの革の上にも、同じ赤が映っていた。
障子の外で、風がひとつ鳴った。硝子戸の向こうには、もう星が出ているのだろう。紙に阻まれて、ここからは見えない。
「殿下。今夜は、一年でいちばん夜が長い日です。灰の袋を、お据えしましょうか?」
篝の手は、火の上から動かなかった。
「いい。今夜は、起きている」
起きている、と仰る。眠れる夜が続いていたのに、今夜は。
訳は、伺わなかった。
絃羽は、かざした指をひとつ曲げた。
「長いですよ?」
「慣れている」
篝は、火から顔を上げずに答えた。
平らな、お声だった。
「そうですか……」
考えるより先に、言葉が出た。
「……わたくしも、慣れておりました」
火の上で、黒い革の手は、かざしたまま動かない。
長い夜の話をいただいたので、長い夜の話をお返しした。申し上げたのは、それだけのことである。それなのに、口の中に、言葉の温みが残っていた。
蔵の冬至の夜は、灯りのないまま、明けるのを待つのが通例だった。夜具を二枚重ねて、明け方に一度起きて、型を繰り返す。
去年は、それで越えた。
だが──今夜は、火がある。
火鉢の向こうに、人がひとり座っている。
火にかざした指を、絃羽は握って、開いた。一度で、付け根まで曲がってしまう。
(ああ、どうしてでしょう……?)
胸がざわついた。どうしてか、目の奥がじんと熱くなってしまう。
またこの感覚だ。前にも一度だけあった。
冬至を越えれば、朝の影は、打ってきた点を逆に辿りはじめる。蔵の床でも、炭俵の縁を越えて伸びた光の筋は、この日を境に引き返していった。
明日の朝からは、点を打つ向きが変わる。
一年でいちばん長い夜は、まだ始まったばかりだった。



