怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 師走に入って、十日あまりが過ぎた。
 膳の器は、毎日空で戻ってくる。篝の部屋の火は、もう消されなかった。
 灯の腕は、毎朝、篝の訪いが済んだあとに絃羽が動かしている。俺が出たあとにしろ、というお許しだった。それなのに、絃羽が灯の部屋にいるあいだ、篝は戸口まで戻ってくる。敷居の外に立つだけで、入ってはこなかった。

「殿下もご一緒になさいますか?」
「しない」
「では、四股でも……」
「それも、やらん」

 では、何故戸口で待っているのか。相変わらずよくわからない人だ。
 それと、もうひとつ。
 たづへの文を、宗次に託した。生まれて初めて書いた文だ。
 書庫の片付けは、半ばまで来ている。朝の日の筋で数える目盛りも、二十を越えた。
 全ては順調。そう思うのに……篝の顔色だけが、戻らなかった。
 その日の昼も、絃羽は篝の部屋の掃除をしていた。
 畳は、もう埃を溜めない。棚の手袋の替えも、指の向きを揃えたまま、乾いた布で拭いてある。手の付いていないものは、部屋の隅に畳まれた夜具だけだった。
 この部屋へ初めて入った日から、夜具の形は変わっていない。角の揃い方も、崩れのなさも、最初に見たとおりだった。
 日の高いうちに、一度は風を通しておきたい。絃羽は夜具の端に手を掛けて、広げた。

「え……!?」

 寝具が、焦げていた。
 敷布団の上、ちょうど手の置かれるあたりに、茶色い跡があった。それも、ひとつではない。敷布団のそこら中に焦げ跡があった。握った形のものが、多い。
 いちばん新しい跡は、綿が縮れて硬くなっていた。
 掛け布団を返すと、裏にも同じ形が並んでいる。五本の指が、はっきり残っているものもあった。手袋で防げるわけではない、と伺ったのは、こういうことでもあったらしい。
 板を擦る足音が縁側を近づいてきて、敷居の外で止まった。
 宗次である。絃羽が振り向くより先に、宗次のほうから口を開いた。

「殿下が、お休みになった晩のものでございます」

 お休みになった晩。跡を数えれば、両の手では足りない。
 絃羽は、いちばん黒い跡のそばに膝をついた。顔を寄せると、焦げた綿の匂いが、かすかに立った。

「眠ると、焦げるのでございますか?」
「はい。お眠りになると、お手から、漏れるのだそうで」

 宗次の白髪頭が、低く下がった。
 漏れる。半月あまり前に伺った、管のお話を思い出した。

「……そういうことでしたか」

 掛け布団の黒い跡へ、絃羽は目を戻した。
 足腰は、しっかりしていらした。お食事も、毎日空になる。お顔の色が戻らない訳として、残っていたものはひとつだった。

「お疲れなのではなく、お眠りになっていないのですね」
「…………」

 宗次の手が、膝の上で重なった。
 眠れば焦げ、焦げるから眠らない。それが、篝の理屈だ。
 では、焦げなければお眠りになれるのだろうか?

(では、どうすればいいのでしょう……?)

 絃羽は頬に手を当てた。焦げ跡の並びを、茶から黒へ、古い順に辿っていく。
 ふと、畳の上の明るさが翳った。顔を上げると、宗次の肩の向こう、硝子戸の前に篝が立っていた。
 外套の背を硝子に預けるでもなく、こちらを向いたまま、動かない。
 声は、掛からなかった。

       *

 灰を集めたのは、その夕方だった。
 自分の部屋の手焙りの灰と、篝の部屋の火鉢の灰。手焙りの灰は、殿下のお言いつけで毎晩入れられてきた火の、燃え尽きたあとのものである。火鉢の灰は、絃羽が籠で運んできた炭の、燃え尽きたあとのものだった。
 水屋の目の細かい笊でふるい、下へ抜けたものだけを残す。その灰は、指のあいだから音もなくこぼれるほど細かかった。火の匂いは、もうしない。ふるってしまえば、どちらの火の灰かは、もう見分けが付かなかった。
 宗次に頼むと、針と木綿糸と、端切れが幾枚か届いた。
 小さく裁って、袋に縫う。運針は、蔵で袷の継ぎを当ててきた手が覚えていた。掌に収まるほどの袋をふたつこしらえ、灰を詰めて、口を固く綴じる。
 それから、もうひとつ宗次に頼みごとをした。酸棗仁を煎じたものを、夜までに一杯。寝つきを助ける種である。本草の書で読んだ名を口にすると、宗次は目を瞬いてから、黙って頭を下げた。
 夜になって、絃羽は湯呑みを盆に載せ、篝の部屋へ行った。灰の袋は、帯の間に挟んである。
 障子の内では、火鉢の赤が低く息をしていた。篝は、文机の前に立っている。夜具は、昼に風を通したあと、絃羽が畳んで隅へ戻しておいたままだった。
 敷居の内で膝をつき、断りを入れてから、絃羽は夜具を延べた。枕元に湯呑みを置き、掛け布団をめくる。手の置かれるあたりに、右と左、灰の袋をひとつずつ据えた。
 袋の上に、篝の目が落ちた。
 問われる前に、絃羽は言い添えた。

「燃えたあとのものは、もう燃えませんので」

 篝の口が、薄く開いて、閉じた。

「お前……」
「はい。殿下がお眠りになれるように、と」

 あとは、横になっていただくだけである。絃羽は膝を立てて、文机の前へ向かった。
 篝が、半歩下がる。離れられたので、半歩詰めた。
 それを何度か繰り返しているうちに、篝の背が壁の手前で止まる。喉の奥で、息がひとつ詰まった。

「な、なぜ近づく?」
「殿下が下がられるからでございます」

 訳なら、これだけだ。思えば、最初から絃羽がこうして近づくと、篝は離れていた。
 外套の前で、篝の手がひとつ握られて、ほどけた。

「……下がっているのは、お前のためだ」

 それも、もう伺っている。触れれば、流れ込む。九つの器は、もたなかった。つまりはそういうことだろう。
 絃羽は、頷いた。

「存じております。ですから、近づいております」

 壁の前で、篝は長いこと立っていた。
 やがて、外套の肩から力が抜けた。篝は外套を脱いで枕の脇へ畳み、夜具の上に腰を下ろした。横になるまでに、もうひと呼吸かかった。
 右の手は、据えた袋の上に落ちた。左の手は、袋から外れて、掛け布団の上で握られている。
 絃羽はにじり寄って、左の袋を、その手の下へ滑り込ませた。指先が、黒い革の甲に触れる。
 篝の手は、引かれなかった。
 目を閉じた篝の額に、髪がひと筋かかっている。火の赤に照らされても、顔の色は白いままだった。
 熱の具合を確かめるのに、ほかの手立てはない。絃羽は掌を、その額へ当てた。
 素肌である。だが、何も起こらなかった。
 そのまま、数を三つ数えていく。

「少し、お熱がございますね」

 掌の下で、篝の瞼は閉じたままだった。
 手を離して、絃羽は膝を引いた。火鉢に炭を足し、朝まで保つように、灰を寄せてかぶせる。
 障子の前で、振り返った。

「お休みなさいませ。わたくしは、外におりますので」

 障子を閉めて、絃羽は縁側に腰を下ろした。背を、桟に寄せる。蔵の格子より、あたりのやわらかい桟だった。
 焦げる匂いがすれば、すぐに分かる。ここにいれば、紙一枚の向こうだ。
 硝子戸の外に、月が出ていた。板に溜まった明かりが照り返して、縁側の天井に渡された梁を、薄く浮かせている。

       *

 七つ刻を過ぎても、障子の内から物音はしなかった。
 絃羽は、背を桟に寄せたまま耳を澄ましていた。
 紙の向こうで、息がゆっくりと出入りしている。長く吸って、長く吐く。その間が、揃っていた。
 それは……篝の寝息だった。

(よかった……)

 起こしてしまわないよう、絃羽は息を浅くした。衣擦れひとつ、立てないようにする。桟から、背は離さなかった。
 硝子戸の外が、少しずつ白んでいく。月は、いつの間にか沈んでいた。
 夜のうちに、足袋の先から上がってきた冷えが、いまは膝まで来ている。足の指を曲げようとすると、指のほうが遅れてついてきた。
 日が縁側の板へ届くころ、障子が内から開いた。

「殿下……?」

 篝が立っていた。寝乱れた髪が、額にかかっている。外套は、羽織っていなかった。
 その肩越しに、夜具が見えた。枕元の湯呑みは空で、灰の袋は、据えたとおりの場所にある。布に、焦げた色はなかった。灰は、勤めを果たしたらしい。
 立ち上がろうとして、絃羽の膝は、すぐには伸びなかった。

(あいたた……膝が固まってしまいました)

 板に手をついて、そろそろと身体を起こす。
 その手と膝に、篝の目が落ちた。

「……眠っていないのか」

 答える間は、なかった。

「昨夜、何をしていた?」

 夜のことなら、お伝えできることがある。絃羽は膝を揃えて、座り直した。

「少し、夜が長うございましたので、数を数えておりました」
「……何を、どれだけ数えた」

 篝の声が、低くなった。

「えっと……」

 絃羽は、縁側の天井を指で示した。月の照り返しで見えていた、あの梁である。

「梁の節を、四千ほどでしょうか」

 篝の目が、天井の梁へ上がって、それから戻ってきた。
 呆れたように、溜め息を吐く。

「はぁ……」

 しばらくして、篝が問うてきた。

「蔵でも、そうしていたのか?」

 絃羽は少し考えてから、頷いた。

「一晩だけ、ございました」

 蔵で数を数えた夜は、一度きりだ。
 そう。あの夜。あれから、夜の数は数えていない。
 篝は特に何も言わなかった。彼の喉が、小さく動いただけだ。
 話が途切れたので、絃羽は明るい報せをひとつ、差し上げることにした。

「殿下。書庫は、あとひと月ほどで片付きます」
「…………」

 朝の日が、篝の足元まで届いていた。篝は、そこから動こうとしない。
 片付いたあとのことも、申し上げておくべきだろう。お仕事が済めば、ここに置いていただく訳もなくなる。
 帯の前で指を揃えて、よい報せの形に、口元を整えた。

「片付きましたら、蔵へお戻しいただけるのでございますね」

 殿下は、何も答えなかった。