翌朝、絃羽が型を終えて縁側へ出ると、篝が渡り廊下から戻ってくるところだった。
外套の背は、こちらを振り向かないまま、東の端の障子へ入っていく。戸を閉めたのは、肘だった。左の手首には、まだ白い布が巻かれている。
ほどなく、板を擦る小刻みな足音が西から近づいてきた。宗次である。絃羽の前まで来ると、敷居の外で膝をついた。
「殿下が、お連れせよと」
どこへ、とは言わなかった。言われずとも、分かる。昨日の朝、二度お願いを申し上げて、二度とも諾をいただけなかった先だ。何がお心を変えたのかは、分からない。絃羽は帯の前で指を揃えた。
「……はい」
宗次の後ろについて、絃羽は縁側を東へ歩いた。空いた部屋の前を過ぎ、篝の部屋の前を過ぎる。障子の内から、音はしなかった。
縁側の突き当たりで、板敷きは渡り廊下に変わる。屋根はあるが、両脇に壁がなかった。冬枯れの庭の冷えが、足袋の上から足首へ回ってくる。
渡り廊下の先に、戸が一枚。
その前で宗次が足を止めるより早く、絃羽の足が止まった。
訊かずにおくと決めていた、あの戸である。
戸は、宗次の手で横へ引かれた。
暖かいものが、顔へ触れる。絃羽が敷居を跨ぐと、宗次はうしろ手に戸を閉めた。
戸の内側には、低い衝立がひとつ立っていた。風を除けるためのものらしい。その上を越えて、明るさが来る。障子の白と、硝子戸越しの日差し。縁側と同じ朝の光が、ここでは部屋の奥まで入っていた。
衝立の手前に、火鉢がひとつ。炭が赤く熾って、灰の上に薄く白い輪を作っている。床の間には、水仙が一輪挿しに活けてあった。部屋の暖かさに、甘い匂いが混じっている。
火鉢の脇に、文机が寄せてある。その上に、本が一冊。閉じた頁のあいだから、栞の紐が垂れていた。
宗次が、文机のほうへ小さく顎を向けた。
「殿下が、毎朝お読みになります」
毎朝の、あの声。途切れ途切れに縁側まで届いた、書かれたものを順に辿っていく運び。応える声は、なかった。
頬に、火の熱が上ってくる。冷えた指の甲を当てると、頬のほうが温かかった。
「宗次さん。こちらのお部屋は、暖こうございますね」
一度だけ、宗次の顔が衝立のほうへ向いた。
「……灯様のお部屋でございます」
灯様──弟君の、お名前だ。篝に灯。火の名が、ふたつ並んでいる。衝立の向こうに、いらっしゃるのだろう。
篝の部屋の火鉢は、絃羽が火を入れても、朝には灰だけになっている日がある。
口のほうが、先に動いた。
「殿下のお部屋より、ずっと」
宗次の白髪頭が、ゆっくりと下がった。
「はい」
続ける言葉を、絃羽は探した。しかし、見つからない。
「…………」
水仙の匂いが、火の熱に押されて、鼻先をゆるゆると過ぎていった。
宗次は膝をついたまま、節の太い手を膝の上で重ねていた。上の手の指が、下の手の甲をひとつ押さえている。
「十年、こうでございます」
十年。数えるまでもなく、覚えのある長さだ。
やがて宗次が膝を上げ、衝立の向こうへ絃羽を促した。宗次自身は衝立の端まで来て、そこでまた膝をつく。
窓辺に、人がひとり座っていた。
畳んだ布団を背に当てて、身体を支えられている。肩には綿入れが掛けてあった。立てば、絃羽より頭ひとつは高いだろう。手足が長いぶん、細さが際立った。
髪は、きれいに梳かしてある。目は開いていた。硝子戸の向こうの庭へ向いているが、どこも見てはいなかった。瞬きだけが、間を置いて落ちる。
目元が、篝によく似ている。
絃羽は、窓辺から二歩離れたところで膝をついた。両手を畳へつき、頭を下げる。
「はじめてお目にかかります。……柏木絃羽と申します」
返事は、なかった。音のひとつぶんもない。灯の目は、庭のほうを向いたままだった。
顔を上げると、絃羽の目は膝の上に置かれた手へ落ちる。人に会えば、まず手を見てしまうのだ。
指は長く、爪がきちんと切り揃えてあった。誰かが、揃えているのだろう。手の甲は白く、血の色が薄かった。火のそばにあるのに、冷えて見える。
「お手が、冷えておられますね」
絃羽はにじり寄って、灯の手を両の掌で包んだ。冬のあいだ、自分の手はこうして温めてきた。
冷たい。指の付け根まで、冷えが溜まっていた。
包んだまま、しばらく待つ。指は、握り返してこなかった。掌の中で、置かれたとおりの形をしていた。
こちらの熱が、少しずつ、向こうの甲へ移っていく。移っていくのは、熱だけだった。灯の目は、庭から動かない。
背中のほうで、宗次が息を吸う音がした。
「……柏木様」
呼ばれて、絃羽は手を包んだまま振り返った。
「はい」
宗次の口が、開いたまま止まっていた。節の太い手が、膝の上で重なり直す。
「……いえ」
それきり、宗次は続けなかった。
何を言いかけたのかは、分からない。絃羽は、灯のほうへ向き直った。
綿入れの袖口から、腕が覗いている。袖の上からでも、細さが知れた。手首から肘まで、骨の形がそのまま出ていた。動かさずにおいた腕は、こうなる。
灯の手をそっと膝の上へ戻して、絃羽は宗次のほうへ座り直した。
「宗次さん」
「はっ。なんでございましょう?」
「灯様の腕を、毎日少しずつ、動かしてさしあげてもよろしいでしょうか?」
「……腕を、でございますか?」
灯の腕と絃羽とを、宗次の目が行き来した。
絃羽は、意図を伝えた。
「はい。筋肉は、裏切りませんので」
そう言い終えたときである。襟足に冷たいものがひとすじ当たった。閉めたはずの戸口のほうから来ている。
絃羽は、そちらへ目を上げた。
──戸口に、篝が立っていた。
低い衝立の向こう、敷居の外である。いつからそこにいたのかは、分からない。足は敷居の手前で止まったまま、右の手が、手拭いの上から左の手首を掴んでいた。
(殿下……?)
篝は、何も言わなかった。
外套の裾が翻り、背が渡り廊下のほうへ消える。
戸口には、開いたままの戸だけが残った。
弟君のお手を、断りもなく取ってしまったこと。殿下のお許しが出たのはご挨拶までで、手を取ってよいとまでは伺っていない。
(ああ、わたくし……また出過ぎた真似を。数日で同じ轍を踏んでしまいました)
膝をついたまま、宗次は戸口のほうを向いて動かなかった。
灯の手は、膝の上で、絃羽が戻したとおりの形をしていた。
*
夕方、絃羽は炭の籠を抱えて、篝の部屋へ行った。
障子は閉まっていた。声を掛けると、入れとも、入るなとも、返ってこない。紙の向こうで、衣擦れがひとつ動いた。
敷居の外で膝を折って両手をついてから、障子を引く。
篝は、文机の前に立っていた。
火鉢の灰は白く、指を近づけても熱が来なかった。赤は、ひとつも残っていない。
絃羽は火箸で灰を均し、付け木に燐寸の火を移した。炭を組み、細く長く息を吹く。
手を動かしながら、絃羽は背中で待っていた。入れるな、と来るはずのお声も。今回は、来なかった。
三度目の息で、炭の角が赤くなってくる。
畳の上で、篝の足が動いた。火鉢から、昨日と同じだけ離れたところで止まる。
「……弟の手は、冷えていたか」
絃羽は火箸を灰に立てて、膝を篝のほうへ向けた。今朝、掌の中にあった冷たさを思い出す。
「はい。少し」
篝は、しばらく火を見ていた。
「そうか」
炭の爆ぜる音が、ひとつだけした。
火から絃羽へ、篝の目が移る。
「……腕を、動かすと言ったな」
聞かれていたのである。絃羽は畳に両手をついた。
「はい。出過ぎた真似を、いたしました。申し訳ございません」
頭を下げたまま、次の言葉を待つ。叱られるのなら、それも仕方がない。罰も受け入れよう。
しかし──降ってきた声は、低かった。
「朝、俺が出たあとにしろ」
やめろ、とは言わなかった。罰でもない。
お言いつけの形をした、お許しだった。
「……承知いたしました」
絃羽は顔を上げた。
炭が、ぱちりと鳴る。冷えた指を、絃羽は火の上へかざした。
その手に、篝の目が落ちる。あかぎれの筋が、火の赤に照らされて、甲まで走っていた。
「その手は、冬のせいか」
冬のせいと言われれば、そうなのだろう。絃羽は手を裏返して、掌の側を火へ向けた。
「少し、寒うございましたけれど」
篝の声が、また一段低くなった。
「お前の言う『それ』は……凍えたということだろう?」
凍えた──そんな大きな言葉を当てるほどのことでは、なかったはずである。
「まあ。それは大げさでございます、殿下」
絃羽は口元に指を添えた。
篝の吐いた息は、白くならなかった。
「大げさなのはお前のほうだ。逆の方向にな」
「逆の方向でございますか。どういうことでしょう?」
「そのままの意味だ」
「そのまま? ううん……?」
意味がわからず、絃羽は首を少し傾けた。大きく言うのと、小さく言うのと。どちらも、大げさのうちに入るものらしい。
火にかざした手が、温まってきた。今朝の灯の手も、しばらく包んでいるうちに、こうして熱が移ったものだ。
今日、戸を開けたときに火のあった部屋を、絃羽は指を折って数えてみた。灯の部屋で、一本。自分の部屋の手焙りで、もう一本。
「灯様のお部屋には、火がございました。わたくしの部屋にも、殿下のお言いつけで」
三本目の指は、折らないまま残った。
「寒いのは、殿下のお部屋だけでございますね」
そう。この家のどこもかしこも、暖かい。廊下でさえも、蔵より遥かに暖かかった。
だが、この部屋だけは──。
「……かもな」
篝はそう答えただけだった。
外套の背は、こちらを振り向かないまま、東の端の障子へ入っていく。戸を閉めたのは、肘だった。左の手首には、まだ白い布が巻かれている。
ほどなく、板を擦る小刻みな足音が西から近づいてきた。宗次である。絃羽の前まで来ると、敷居の外で膝をついた。
「殿下が、お連れせよと」
どこへ、とは言わなかった。言われずとも、分かる。昨日の朝、二度お願いを申し上げて、二度とも諾をいただけなかった先だ。何がお心を変えたのかは、分からない。絃羽は帯の前で指を揃えた。
「……はい」
宗次の後ろについて、絃羽は縁側を東へ歩いた。空いた部屋の前を過ぎ、篝の部屋の前を過ぎる。障子の内から、音はしなかった。
縁側の突き当たりで、板敷きは渡り廊下に変わる。屋根はあるが、両脇に壁がなかった。冬枯れの庭の冷えが、足袋の上から足首へ回ってくる。
渡り廊下の先に、戸が一枚。
その前で宗次が足を止めるより早く、絃羽の足が止まった。
訊かずにおくと決めていた、あの戸である。
戸は、宗次の手で横へ引かれた。
暖かいものが、顔へ触れる。絃羽が敷居を跨ぐと、宗次はうしろ手に戸を閉めた。
戸の内側には、低い衝立がひとつ立っていた。風を除けるためのものらしい。その上を越えて、明るさが来る。障子の白と、硝子戸越しの日差し。縁側と同じ朝の光が、ここでは部屋の奥まで入っていた。
衝立の手前に、火鉢がひとつ。炭が赤く熾って、灰の上に薄く白い輪を作っている。床の間には、水仙が一輪挿しに活けてあった。部屋の暖かさに、甘い匂いが混じっている。
火鉢の脇に、文机が寄せてある。その上に、本が一冊。閉じた頁のあいだから、栞の紐が垂れていた。
宗次が、文机のほうへ小さく顎を向けた。
「殿下が、毎朝お読みになります」
毎朝の、あの声。途切れ途切れに縁側まで届いた、書かれたものを順に辿っていく運び。応える声は、なかった。
頬に、火の熱が上ってくる。冷えた指の甲を当てると、頬のほうが温かかった。
「宗次さん。こちらのお部屋は、暖こうございますね」
一度だけ、宗次の顔が衝立のほうへ向いた。
「……灯様のお部屋でございます」
灯様──弟君の、お名前だ。篝に灯。火の名が、ふたつ並んでいる。衝立の向こうに、いらっしゃるのだろう。
篝の部屋の火鉢は、絃羽が火を入れても、朝には灰だけになっている日がある。
口のほうが、先に動いた。
「殿下のお部屋より、ずっと」
宗次の白髪頭が、ゆっくりと下がった。
「はい」
続ける言葉を、絃羽は探した。しかし、見つからない。
「…………」
水仙の匂いが、火の熱に押されて、鼻先をゆるゆると過ぎていった。
宗次は膝をついたまま、節の太い手を膝の上で重ねていた。上の手の指が、下の手の甲をひとつ押さえている。
「十年、こうでございます」
十年。数えるまでもなく、覚えのある長さだ。
やがて宗次が膝を上げ、衝立の向こうへ絃羽を促した。宗次自身は衝立の端まで来て、そこでまた膝をつく。
窓辺に、人がひとり座っていた。
畳んだ布団を背に当てて、身体を支えられている。肩には綿入れが掛けてあった。立てば、絃羽より頭ひとつは高いだろう。手足が長いぶん、細さが際立った。
髪は、きれいに梳かしてある。目は開いていた。硝子戸の向こうの庭へ向いているが、どこも見てはいなかった。瞬きだけが、間を置いて落ちる。
目元が、篝によく似ている。
絃羽は、窓辺から二歩離れたところで膝をついた。両手を畳へつき、頭を下げる。
「はじめてお目にかかります。……柏木絃羽と申します」
返事は、なかった。音のひとつぶんもない。灯の目は、庭のほうを向いたままだった。
顔を上げると、絃羽の目は膝の上に置かれた手へ落ちる。人に会えば、まず手を見てしまうのだ。
指は長く、爪がきちんと切り揃えてあった。誰かが、揃えているのだろう。手の甲は白く、血の色が薄かった。火のそばにあるのに、冷えて見える。
「お手が、冷えておられますね」
絃羽はにじり寄って、灯の手を両の掌で包んだ。冬のあいだ、自分の手はこうして温めてきた。
冷たい。指の付け根まで、冷えが溜まっていた。
包んだまま、しばらく待つ。指は、握り返してこなかった。掌の中で、置かれたとおりの形をしていた。
こちらの熱が、少しずつ、向こうの甲へ移っていく。移っていくのは、熱だけだった。灯の目は、庭から動かない。
背中のほうで、宗次が息を吸う音がした。
「……柏木様」
呼ばれて、絃羽は手を包んだまま振り返った。
「はい」
宗次の口が、開いたまま止まっていた。節の太い手が、膝の上で重なり直す。
「……いえ」
それきり、宗次は続けなかった。
何を言いかけたのかは、分からない。絃羽は、灯のほうへ向き直った。
綿入れの袖口から、腕が覗いている。袖の上からでも、細さが知れた。手首から肘まで、骨の形がそのまま出ていた。動かさずにおいた腕は、こうなる。
灯の手をそっと膝の上へ戻して、絃羽は宗次のほうへ座り直した。
「宗次さん」
「はっ。なんでございましょう?」
「灯様の腕を、毎日少しずつ、動かしてさしあげてもよろしいでしょうか?」
「……腕を、でございますか?」
灯の腕と絃羽とを、宗次の目が行き来した。
絃羽は、意図を伝えた。
「はい。筋肉は、裏切りませんので」
そう言い終えたときである。襟足に冷たいものがひとすじ当たった。閉めたはずの戸口のほうから来ている。
絃羽は、そちらへ目を上げた。
──戸口に、篝が立っていた。
低い衝立の向こう、敷居の外である。いつからそこにいたのかは、分からない。足は敷居の手前で止まったまま、右の手が、手拭いの上から左の手首を掴んでいた。
(殿下……?)
篝は、何も言わなかった。
外套の裾が翻り、背が渡り廊下のほうへ消える。
戸口には、開いたままの戸だけが残った。
弟君のお手を、断りもなく取ってしまったこと。殿下のお許しが出たのはご挨拶までで、手を取ってよいとまでは伺っていない。
(ああ、わたくし……また出過ぎた真似を。数日で同じ轍を踏んでしまいました)
膝をついたまま、宗次は戸口のほうを向いて動かなかった。
灯の手は、膝の上で、絃羽が戻したとおりの形をしていた。
*
夕方、絃羽は炭の籠を抱えて、篝の部屋へ行った。
障子は閉まっていた。声を掛けると、入れとも、入るなとも、返ってこない。紙の向こうで、衣擦れがひとつ動いた。
敷居の外で膝を折って両手をついてから、障子を引く。
篝は、文机の前に立っていた。
火鉢の灰は白く、指を近づけても熱が来なかった。赤は、ひとつも残っていない。
絃羽は火箸で灰を均し、付け木に燐寸の火を移した。炭を組み、細く長く息を吹く。
手を動かしながら、絃羽は背中で待っていた。入れるな、と来るはずのお声も。今回は、来なかった。
三度目の息で、炭の角が赤くなってくる。
畳の上で、篝の足が動いた。火鉢から、昨日と同じだけ離れたところで止まる。
「……弟の手は、冷えていたか」
絃羽は火箸を灰に立てて、膝を篝のほうへ向けた。今朝、掌の中にあった冷たさを思い出す。
「はい。少し」
篝は、しばらく火を見ていた。
「そうか」
炭の爆ぜる音が、ひとつだけした。
火から絃羽へ、篝の目が移る。
「……腕を、動かすと言ったな」
聞かれていたのである。絃羽は畳に両手をついた。
「はい。出過ぎた真似を、いたしました。申し訳ございません」
頭を下げたまま、次の言葉を待つ。叱られるのなら、それも仕方がない。罰も受け入れよう。
しかし──降ってきた声は、低かった。
「朝、俺が出たあとにしろ」
やめろ、とは言わなかった。罰でもない。
お言いつけの形をした、お許しだった。
「……承知いたしました」
絃羽は顔を上げた。
炭が、ぱちりと鳴る。冷えた指を、絃羽は火の上へかざした。
その手に、篝の目が落ちる。あかぎれの筋が、火の赤に照らされて、甲まで走っていた。
「その手は、冬のせいか」
冬のせいと言われれば、そうなのだろう。絃羽は手を裏返して、掌の側を火へ向けた。
「少し、寒うございましたけれど」
篝の声が、また一段低くなった。
「お前の言う『それ』は……凍えたということだろう?」
凍えた──そんな大きな言葉を当てるほどのことでは、なかったはずである。
「まあ。それは大げさでございます、殿下」
絃羽は口元に指を添えた。
篝の吐いた息は、白くならなかった。
「大げさなのはお前のほうだ。逆の方向にな」
「逆の方向でございますか。どういうことでしょう?」
「そのままの意味だ」
「そのまま? ううん……?」
意味がわからず、絃羽は首を少し傾けた。大きく言うのと、小さく言うのと。どちらも、大げさのうちに入るものらしい。
火にかざした手が、温まってきた。今朝の灯の手も、しばらく包んでいるうちに、こうして熱が移ったものだ。
今日、戸を開けたときに火のあった部屋を、絃羽は指を折って数えてみた。灯の部屋で、一本。自分の部屋の手焙りで、もう一本。
「灯様のお部屋には、火がございました。わたくしの部屋にも、殿下のお言いつけで」
三本目の指は、折らないまま残った。
「寒いのは、殿下のお部屋だけでございますね」
そう。この家のどこもかしこも、暖かい。廊下でさえも、蔵より遥かに暖かかった。
だが、この部屋だけは──。
「……かもな」
篝はそう答えただけだった。



