怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 翌朝、絃羽が型を終えて縁側へ出ると、篝が渡り廊下から戻ってくるところだった。
 外套の背は、こちらを振り向かないまま、東の端の障子へ入っていく。戸を閉めたのは、肘だった。左の手首には、まだ白い布が巻かれている。
 ほどなく、板を擦る小刻みな足音が西から近づいてきた。宗次である。絃羽の前まで来ると、敷居の外で膝をついた。

「殿下が、お連れせよと」

 どこへ、とは言わなかった。言われずとも、分かる。昨日の朝、二度お願いを申し上げて、二度とも諾をいただけなかった先だ。何がお心を変えたのかは、分からない。絃羽は帯の前で指を揃えた。

「……はい」

 宗次の後ろについて、絃羽は縁側を東へ歩いた。空いた部屋の前を過ぎ、篝の部屋の前を過ぎる。障子の内から、音はしなかった。
 縁側の突き当たりで、板敷きは渡り廊下に変わる。屋根はあるが、両脇に壁がなかった。冬枯れの庭の冷えが、足袋の上から足首へ回ってくる。
 渡り廊下の先に、戸が一枚。
 その前で宗次が足を止めるより早く、絃羽の足が止まった。
 訊かずにおくと決めていた、あの戸である。
 戸は、宗次の手で横へ引かれた。
 暖かいものが、顔へ触れる。絃羽が敷居を跨ぐと、宗次はうしろ手に戸を閉めた。
 戸の内側には、低い衝立がひとつ立っていた。風を除けるためのものらしい。その上を越えて、明るさが来る。障子の白と、硝子戸越しの日差し。縁側と同じ朝の光が、ここでは部屋の奥まで入っていた。
 衝立の手前に、火鉢がひとつ。炭が赤く熾って、灰の上に薄く白い輪を作っている。床の間には、水仙が一輪挿しに活けてあった。部屋の暖かさに、甘い匂いが混じっている。
 火鉢の脇に、文机が寄せてある。その上に、本が一冊。閉じた頁のあいだから、栞の紐が垂れていた。
 宗次が、文机のほうへ小さく顎を向けた。

「殿下が、毎朝お読みになります」

 毎朝の、あの声。途切れ途切れに縁側まで届いた、書かれたものを順に辿っていく運び。応える声は、なかった。
 頬に、火の熱が上ってくる。冷えた指の甲を当てると、頬のほうが温かかった。

「宗次さん。こちらのお部屋は、暖こうございますね」

 一度だけ、宗次の顔が衝立のほうへ向いた。

「……灯(ともし)様のお部屋でございます」

 灯様──弟君の、お名前だ。篝に灯。火の名が、ふたつ並んでいる。衝立の向こうに、いらっしゃるのだろう。
 篝の部屋の火鉢は、絃羽が火を入れても、朝には灰だけになっている日がある。
 口のほうが、先に動いた。

「殿下のお部屋より、ずっと」

 宗次の白髪頭が、ゆっくりと下がった。

「はい」

 続ける言葉を、絃羽は探した。しかし、見つからない。

「…………」

 水仙の匂いが、火の熱に押されて、鼻先をゆるゆると過ぎていった。
 宗次は膝をついたまま、節の太い手を膝の上で重ねていた。上の手の指が、下の手の甲をひとつ押さえている。

「十年、こうでございます」

 十年。数えるまでもなく、覚えのある長さだ。
 やがて宗次が膝を上げ、衝立の向こうへ絃羽を促した。宗次自身は衝立の端まで来て、そこでまた膝をつく。
 窓辺に、人がひとり座っていた。
 畳んだ布団を背に当てて、身体を支えられている。肩には綿入れが掛けてあった。立てば、絃羽より頭ひとつは高いだろう。手足が長いぶん、細さが際立った。
 髪は、きれいに梳かしてある。目は開いていた。硝子戸の向こうの庭へ向いているが、どこも見てはいなかった。瞬きだけが、間を置いて落ちる。
 目元が、篝によく似ている。
 絃羽は、窓辺から二歩離れたところで膝をついた。両手を畳へつき、頭を下げる。

「はじめてお目にかかります。……柏木絃羽と申します」

 返事は、なかった。音のひとつぶんもない。灯の目は、庭のほうを向いたままだった。
 顔を上げると、絃羽の目は膝の上に置かれた手へ落ちる。人に会えば、まず手を見てしまうのだ。
 指は長く、爪がきちんと切り揃えてあった。誰かが、揃えているのだろう。手の甲は白く、血の色が薄かった。火のそばにあるのに、冷えて見える。

「お手が、冷えておられますね」

 絃羽はにじり寄って、灯の手を両の掌で包んだ。冬のあいだ、自分の手はこうして温めてきた。
 冷たい。指の付け根まで、冷えが溜まっていた。
 包んだまま、しばらく待つ。指は、握り返してこなかった。掌の中で、置かれたとおりの形をしていた。
 こちらの熱が、少しずつ、向こうの甲へ移っていく。移っていくのは、熱だけだった。灯の目は、庭から動かない。
 背中のほうで、宗次が息を吸う音がした。

「……柏木様」

 呼ばれて、絃羽は手を包んだまま振り返った。

「はい」

 宗次の口が、開いたまま止まっていた。節の太い手が、膝の上で重なり直す。

「……いえ」

 それきり、宗次は続けなかった。
 何を言いかけたのかは、分からない。絃羽は、灯のほうへ向き直った。
 綿入れの袖口から、腕が覗いている。袖の上からでも、細さが知れた。手首から肘まで、骨の形がそのまま出ていた。動かさずにおいた腕は、こうなる。
 灯の手をそっと膝の上へ戻して、絃羽は宗次のほうへ座り直した。

「宗次さん」
「はっ。なんでございましょう?」
「灯様の腕を、毎日少しずつ、動かしてさしあげてもよろしいでしょうか?」
「……腕を、でございますか?」

 灯の腕と絃羽とを、宗次の目が行き来した。
 絃羽は、意図を伝えた。

「はい。筋肉は、裏切りませんので」

 そう言い終えたときである。襟足に冷たいものがひとすじ当たった。閉めたはずの戸口のほうから来ている。
 絃羽は、そちらへ目を上げた。
 ──戸口に、篝が立っていた。
 低い衝立の向こう、敷居の外である。いつからそこにいたのかは、分からない。足は敷居の手前で止まったまま、右の手が、手拭いの上から左の手首を掴んでいた。

(殿下……?)

 篝は、何も言わなかった。
 外套の裾が翻り、背が渡り廊下のほうへ消える。
 戸口には、開いたままの戸だけが残った。
 弟君のお手を、断りもなく取ってしまったこと。殿下のお許しが出たのはご挨拶までで、手を取ってよいとまでは伺っていない。

(ああ、わたくし……また出過ぎた真似を。数日で同じ轍を踏んでしまいました)

 膝をついたまま、宗次は戸口のほうを向いて動かなかった。
 灯の手は、膝の上で、絃羽が戻したとおりの形をしていた。

       *

 夕方、絃羽は炭の籠を抱えて、篝の部屋へ行った。
 障子は閉まっていた。声を掛けると、入れとも、入るなとも、返ってこない。紙の向こうで、衣擦れがひとつ動いた。
 敷居の外で膝を折って両手をついてから、障子を引く。
 篝は、文机の前に立っていた。
 火鉢の灰は白く、指を近づけても熱が来なかった。赤は、ひとつも残っていない。
 絃羽は火箸で灰を均し、付け木に燐寸の火を移した。炭を組み、細く長く息を吹く。
 手を動かしながら、絃羽は背中で待っていた。入れるな、と来るはずのお声も。今回は、来なかった。
 三度目の息で、炭の角が赤くなってくる。
 畳の上で、篝の足が動いた。火鉢から、昨日と同じだけ離れたところで止まる。

「……弟の手は、冷えていたか」

 絃羽は火箸を灰に立てて、膝を篝のほうへ向けた。今朝、掌の中にあった冷たさを思い出す。

「はい。少し」

 篝は、しばらく火を見ていた。

「そうか」

 炭の爆ぜる音が、ひとつだけした。
 火から絃羽へ、篝の目が移る。

「……腕を、動かすと言ったな」

 聞かれていたのである。絃羽は畳に両手をついた。

「はい。出過ぎた真似を、いたしました。申し訳ございません」

 頭を下げたまま、次の言葉を待つ。叱られるのなら、それも仕方がない。罰も受け入れよう。
 しかし──降ってきた声は、低かった。

「朝、俺が出たあとにしろ」

 やめろ、とは言わなかった。罰でもない。
 お言いつけの形をした、お許しだった。

「……承知いたしました」

 絃羽は顔を上げた。
 炭が、ぱちりと鳴る。冷えた指を、絃羽は火の上へかざした。
 その手に、篝の目が落ちる。あかぎれの筋が、火の赤に照らされて、甲まで走っていた。

「その手は、冬のせいか」

 冬のせいと言われれば、そうなのだろう。絃羽は手を裏返して、掌の側を火へ向けた。

「少し、寒うございましたけれど」

 篝の声が、また一段低くなった。

「お前の言う『それ』は……凍えたということだろう?」

 凍えた──そんな大きな言葉を当てるほどのことでは、なかったはずである。

「まあ。それは大げさでございます、殿下」

 絃羽は口元に指を添えた。
 篝の吐いた息は、白くならなかった。

「大げさなのはお前のほうだ。逆の方向にな」
「逆の方向でございますか。どういうことでしょう?」
「そのままの意味だ」
「そのまま? ううん……?」

 意味がわからず、絃羽は首を少し傾けた。大きく言うのと、小さく言うのと。どちらも、大げさのうちに入るものらしい。
 火にかざした手が、温まってきた。今朝の灯の手も、しばらく包んでいるうちに、こうして熱が移ったものだ。
 今日、戸を開けたときに火のあった部屋を、絃羽は指を折って数えてみた。灯の部屋で、一本。自分の部屋の手焙りで、もう一本。

「灯様のお部屋には、火がございました。わたくしの部屋にも、殿下のお言いつけで」

 三本目の指は、折らないまま残った。

「寒いのは、殿下のお部屋だけでございますね」

 そう。この家のどこもかしこも、暖かい。廊下でさえも、蔵より遥かに暖かかった。
 だが、この部屋だけは──。

「……かもな」

 篝はそう答えただけだった。