翌朝も、絃羽は七つ刻に目を覚ました。
畳の上で腕立てを二百と深屈伸を百。音の出ない型を済ませて障子を開けると、縁側はまだ暗く、硝子戸の外だけが薄く白んでいた。
その板の上を、外套の背が東へ行くところだった。
篝である。足音は、今朝も聞こえなかった。
絃羽は敷居の外へ出て、膝をついた。頭を下げて、上げる。
外套の袖口から、白いものが覗いていた。手首に巻いた手拭いだ。敷居の内に置いた手焙りが、そのあたりまで赤を投げていた。
昨日、絃羽が巻いたものではない。布が新しく、結び目が固く寄っていた。
昨日結んだのは、指一本ぶんの緩みを残した平たい結び目だった。いま見えているのは、端を引き込んで締めた小さな瘤だった。片手で結ぶと、ああなる。
(ご自分で、替えられたのですね)
巻き直すだけなら、人の手を借りたほうが早い。借りずに済ませたということだろう。
(言って下されば、替えますのに)
この方は、驚くほど人の手を借りない。いくらでも人を使える立場のはずなのに、不思議な人だった。
毎朝どちらへ行かれるのかは、この棟へ来た日から知らずにいる。訊く筋ではないと思っていたが、手首のことがある以上、様子は伺っておきたかった。
「殿下。毎朝、どちらへ?」
外套の背が、止まった。
「弟のところだ」
弟君。この宮に、もうひとかた殿下がいらっしゃったのだ。
奥の棟へ来てから、人がいると聞いたのは、宗次のほかでは初めてだった。渡り廊下の先から毎朝流れてくる炭の匂いと、返事のない低い声とが、そこで繋がる。あの部屋には、聞いている方がいらした。毎朝、欠かさずに、である。
絃羽は膝の上で指を揃え直した。
「弟君がいらっしゃるのですね」
「ああ。まあな」
篝は、半身だけこちらへ向けた。
同じ棟の先にいらして、まだ朝のご挨拶もしていないとは。絃羽の背筋が、自然と伸びた。
「では、今度ご挨拶をせねばなりませんね!」
そこで、外套の裾が板の上で動かなくなった。
「……やめておけ」
篝は静かにそう言い放つ。
止められる訳に、心当たりがなかった。
「なぜでございましょう?」
──右の手が左の手首へ伸びて、巻いた布の上で止まった。
「俺が壊した。十年前にな。今も、そのままだ」
声は低く、語尾が足元へ落ちて消えた。
(壊した……?)
その言葉を、絃羽は口の中で二度なぞった。
意味がわからない。壊したとはどういうことだろうか。
「…………」
足袋の下の板から、冷えが膝へ上がってきた。
壊れたもののことなら、少しは知っている。巣から落ちた雛も、脚の折れた鼠も、放っておけば弱っていくばかりだった。拾って、温めて、それでも助からないほうが多い。けれど、何もしないでいるよりは、よほどいいはずだ。
蔵で覚えたことのうち、それがいちばん確かだった。
絃羽は板へ両手をついて、頭を下げる。
「では、なおさら伺わねばなりません」
返事は、なかった。二度目の「やめておけ」も。
外套の背が、また東へ動き出す。縁側の突き当たりで板敷きは渡り廊下に変わり、その先の戸の前で、一度だけ止まった。
それから、戸は内から閉められた。
*
朝の日が上がりきる前に、絃羽は篝の部屋にいた。
留守のうちに入るときの断りは、初めの日と同じにしてある。敷居の外で膝をつき、誰もいない中へ両手をついてから、跨いだ。
火鉢の灰の底には、昨夜の赤がまだ残っていた。継ぎ足すだけで済んだので、炭は三つしか使っていない。
火箸で置き所を直してやると、赤は素直に移っていった。よく乾いた炭は、扱いも素直である。
(消さなかった日、でございますね)
書庫へ入る刻限は、近づいている。それでも、絃羽はそこを動かなかった。伺わねばならないことが、ひとつ残っている。
やがて、障子が開いた。
戻ってきた篝の外套から、炭の匂いがした。この部屋の火とは、立ち方が違う。長く焚き続けた炭の、底の重い匂いだった。
篝は敷居の内で足を止め、火鉢の前の絃羽を見て、それから火へ目を移した。
そこから先へは、来ない。昨日の庭で、杖の先が土を払っていた幅と、同じほどの隔たりだった。詰めてよい幅では、ないらしい。
訊いてよいことかどうかは、分からない。けれど、どこがどう壊れたのかを知らなければ、手当ての仕様がなかった。
絃羽は膝を揃えて、顔を上げた。
「あの、殿下」
「なんだ」
「壊した、とは……どのように?」
篝はしばらく黙っていた。それから、外套の前で黒い革の指を組んだ。
「結びというのは、管だ」
「管?」
水を落とす竹の筒なら、蔵の庇にも掛かっていた。雨の日には、上の口から入ったぶんが、下の口から出ていく。絃羽が見てきた管は、それだけだった。
「片方から入って、片方から出る。もらうだけということはないというわけだ」
入った分は、どこかから出ていく。絃羽は膝の上で、両の手を筒の形に重ねてみた。
「では、結ばれた方は、何かを差し出しているのですね」
「そうだ。気づいている者は、そう多くないがな」
当て推量で申し上げたことだったが、外れてはいなかったらしい。
篝の目が、自分の手袋へ落ちる。
「俺のは、それが太すぎるんだ。触れれば勝手に開くし、開けば勝手に流れ込む。厄介なものだ」
そこで、声が低くなった。
「九つの器は、もたなかった」
九つ。その数だけが、部屋の中に残った。
火鉢の炭は赤いまま、音も立てない。畳の目に薄く溜まった埃が、朝の光の中で止まって見えた。
器、という言い方を、絃羽はしばらく口の中で転がした。
水は入れただけ重くなるし、入れすぎれば縁から溢れる。溢れる前に割れるものもあると、蔵の水甕で知っていた。
誰の器のお話かは、訊かずにおいた。十年前、と今朝のお言葉だけが、勝手に隣へ並んだ。
篝は火のほうへ顔を向けて、続けた。
「〈過結〉と、宮中の記録には書かれている。だから……皆、俺のことをこう呼ぶのだ。〝触れずの殿下〟とな」
触れず。触れないことを、そのまま名にされている。
名は、呼ぶ側が決めるものだ。柏木の家で絃羽を指す言葉も、次女であった。
絃羽の目は、外套の前で組まれた手元へ動いた。黒い革。指の向きまで揃えて棚に並んでいた、あの替えと同じものだった。
見ていたのは、ほんの短いあいだ。それでも、篝は答えた。
「手袋で防げるわけではない」
右の手が、左の手の甲を覆う。
「薄くはなるがな。だが、それだけだ」
覆った手が、離れた。
絃羽の口からは、先に数が出た。
「……十年、薄くするためだけに」
火の赤が、革の甲に映っている。
「そうだ」
棚に並んだ替えは、その十年ぶんの用意であったらしい。
十年。ならば、昨日のあれは、どういうことになるのか。
『……殿下に触れて、無事だった方は、おりません』
宗次の言葉が、別の並びで立ち上がってくる。手の荒れの話では、なかったのだ。
絃羽は、膝の上の両手を浮かせた。篝の手首を、この指で下から支えている。
「あっ! では、わたくしは、とんだ粗相を……」
篝の目が、その手へ落ちた。
「ああ。お前は確かに触れた。それなのに……お前は、壊れていない。いや、それどころか全くの無事だ」
無事だと言われても、返す言葉がない。絃羽は指を膝へ戻した。
篝の手が、外套の前で開いた。
問いというより、こぼれたお声だった。
「何故だ? 何故お前は無事なのだ。それが、俺には分からない」
分からない、と殿下が仰るのなら、こちらから差し上げられるものはひとつしかない。
思い当たって、絃羽は膝を立てた。
「殿下、わかりました!」
篝の首が、わずかに傾く。
「む?」
絃羽は、胸を張った。
「筋肉でございますね!」
篝の肩から、長い息が抜けた。
「……はぁ」
殿下は、時どきこうして長い息を吐かれる。やはり、お疲れなのだろう。
額へ上がりかけた革の手が、途中で止まった。
「お前、自分が何をしているか分かっているか?」
「いえ。何かしてしまいましたでしょうか?」
覚えはなかった。絃羽は首を傾げた。
篝の手が、下りる。
「……いや」
気づかぬうちの粗相であれば、なおさら詫びておかねばならない。絃羽は畳へ手をついた。
「申し訳ございませんでした。以後、気をつけます」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
革の手が、宙で止まった。
火鉢の炭が、ひとつ小さく爆ぜる。
まだ、済んでいない話があった。
「殿下。弟君へ、どうかご挨拶させていただけないでしょうか?」
絃羽は膝を進めて、もう一度願い出た。
「……会って、どうする?」
篝が訊いてきた。
どうするも何も、順序は決まっている。はじめにご挨拶をして、それからお顔を拝見して、お加減を伺う。そう順に済ませるほかはなかった。
「ご挨拶を。お返事がなくても、ご挨拶はできますので」
篝の目が、火から絃羽へ動いた。そして、そのまま動かなくなってしまった。
やがて、外套の肩がわずかに下りる。
「蔵の冬は、どうだった?」
「蔵の冬ですか?」
冬のことなら、十度ぶん覚えている。
絃羽は帯の前で指を揃えた。
「静かな冬でございました」
篝の声が、もう一段低くなった。
「お前の言う『静かな冬』は……火もなく誰とも口をきかなかった、ということだろう?」
それは違う。絃羽は首を横に振った。
「いいえ」
梁の埃と、藁の擦れる音を思い出す。返事は、いつも音ひとつぶんだった。それで、足りていた。
「梁の上に、ネズミさんがおりましたので。毎朝、ご挨拶をさせていただいておりました」
絃羽の口元が、自然とほころんだ。
自分と言葉を交わしてくれる──正確には一方的に話しているだけだが──存在のことを、思い出す。
あの時は、それだけで満たされていた。
「……そうか」
篝はそれ以上、何も言わなかった。
畳の上で腕立てを二百と深屈伸を百。音の出ない型を済ませて障子を開けると、縁側はまだ暗く、硝子戸の外だけが薄く白んでいた。
その板の上を、外套の背が東へ行くところだった。
篝である。足音は、今朝も聞こえなかった。
絃羽は敷居の外へ出て、膝をついた。頭を下げて、上げる。
外套の袖口から、白いものが覗いていた。手首に巻いた手拭いだ。敷居の内に置いた手焙りが、そのあたりまで赤を投げていた。
昨日、絃羽が巻いたものではない。布が新しく、結び目が固く寄っていた。
昨日結んだのは、指一本ぶんの緩みを残した平たい結び目だった。いま見えているのは、端を引き込んで締めた小さな瘤だった。片手で結ぶと、ああなる。
(ご自分で、替えられたのですね)
巻き直すだけなら、人の手を借りたほうが早い。借りずに済ませたということだろう。
(言って下されば、替えますのに)
この方は、驚くほど人の手を借りない。いくらでも人を使える立場のはずなのに、不思議な人だった。
毎朝どちらへ行かれるのかは、この棟へ来た日から知らずにいる。訊く筋ではないと思っていたが、手首のことがある以上、様子は伺っておきたかった。
「殿下。毎朝、どちらへ?」
外套の背が、止まった。
「弟のところだ」
弟君。この宮に、もうひとかた殿下がいらっしゃったのだ。
奥の棟へ来てから、人がいると聞いたのは、宗次のほかでは初めてだった。渡り廊下の先から毎朝流れてくる炭の匂いと、返事のない低い声とが、そこで繋がる。あの部屋には、聞いている方がいらした。毎朝、欠かさずに、である。
絃羽は膝の上で指を揃え直した。
「弟君がいらっしゃるのですね」
「ああ。まあな」
篝は、半身だけこちらへ向けた。
同じ棟の先にいらして、まだ朝のご挨拶もしていないとは。絃羽の背筋が、自然と伸びた。
「では、今度ご挨拶をせねばなりませんね!」
そこで、外套の裾が板の上で動かなくなった。
「……やめておけ」
篝は静かにそう言い放つ。
止められる訳に、心当たりがなかった。
「なぜでございましょう?」
──右の手が左の手首へ伸びて、巻いた布の上で止まった。
「俺が壊した。十年前にな。今も、そのままだ」
声は低く、語尾が足元へ落ちて消えた。
(壊した……?)
その言葉を、絃羽は口の中で二度なぞった。
意味がわからない。壊したとはどういうことだろうか。
「…………」
足袋の下の板から、冷えが膝へ上がってきた。
壊れたもののことなら、少しは知っている。巣から落ちた雛も、脚の折れた鼠も、放っておけば弱っていくばかりだった。拾って、温めて、それでも助からないほうが多い。けれど、何もしないでいるよりは、よほどいいはずだ。
蔵で覚えたことのうち、それがいちばん確かだった。
絃羽は板へ両手をついて、頭を下げる。
「では、なおさら伺わねばなりません」
返事は、なかった。二度目の「やめておけ」も。
外套の背が、また東へ動き出す。縁側の突き当たりで板敷きは渡り廊下に変わり、その先の戸の前で、一度だけ止まった。
それから、戸は内から閉められた。
*
朝の日が上がりきる前に、絃羽は篝の部屋にいた。
留守のうちに入るときの断りは、初めの日と同じにしてある。敷居の外で膝をつき、誰もいない中へ両手をついてから、跨いだ。
火鉢の灰の底には、昨夜の赤がまだ残っていた。継ぎ足すだけで済んだので、炭は三つしか使っていない。
火箸で置き所を直してやると、赤は素直に移っていった。よく乾いた炭は、扱いも素直である。
(消さなかった日、でございますね)
書庫へ入る刻限は、近づいている。それでも、絃羽はそこを動かなかった。伺わねばならないことが、ひとつ残っている。
やがて、障子が開いた。
戻ってきた篝の外套から、炭の匂いがした。この部屋の火とは、立ち方が違う。長く焚き続けた炭の、底の重い匂いだった。
篝は敷居の内で足を止め、火鉢の前の絃羽を見て、それから火へ目を移した。
そこから先へは、来ない。昨日の庭で、杖の先が土を払っていた幅と、同じほどの隔たりだった。詰めてよい幅では、ないらしい。
訊いてよいことかどうかは、分からない。けれど、どこがどう壊れたのかを知らなければ、手当ての仕様がなかった。
絃羽は膝を揃えて、顔を上げた。
「あの、殿下」
「なんだ」
「壊した、とは……どのように?」
篝はしばらく黙っていた。それから、外套の前で黒い革の指を組んだ。
「結びというのは、管だ」
「管?」
水を落とす竹の筒なら、蔵の庇にも掛かっていた。雨の日には、上の口から入ったぶんが、下の口から出ていく。絃羽が見てきた管は、それだけだった。
「片方から入って、片方から出る。もらうだけということはないというわけだ」
入った分は、どこかから出ていく。絃羽は膝の上で、両の手を筒の形に重ねてみた。
「では、結ばれた方は、何かを差し出しているのですね」
「そうだ。気づいている者は、そう多くないがな」
当て推量で申し上げたことだったが、外れてはいなかったらしい。
篝の目が、自分の手袋へ落ちる。
「俺のは、それが太すぎるんだ。触れれば勝手に開くし、開けば勝手に流れ込む。厄介なものだ」
そこで、声が低くなった。
「九つの器は、もたなかった」
九つ。その数だけが、部屋の中に残った。
火鉢の炭は赤いまま、音も立てない。畳の目に薄く溜まった埃が、朝の光の中で止まって見えた。
器、という言い方を、絃羽はしばらく口の中で転がした。
水は入れただけ重くなるし、入れすぎれば縁から溢れる。溢れる前に割れるものもあると、蔵の水甕で知っていた。
誰の器のお話かは、訊かずにおいた。十年前、と今朝のお言葉だけが、勝手に隣へ並んだ。
篝は火のほうへ顔を向けて、続けた。
「〈過結〉と、宮中の記録には書かれている。だから……皆、俺のことをこう呼ぶのだ。〝触れずの殿下〟とな」
触れず。触れないことを、そのまま名にされている。
名は、呼ぶ側が決めるものだ。柏木の家で絃羽を指す言葉も、次女であった。
絃羽の目は、外套の前で組まれた手元へ動いた。黒い革。指の向きまで揃えて棚に並んでいた、あの替えと同じものだった。
見ていたのは、ほんの短いあいだ。それでも、篝は答えた。
「手袋で防げるわけではない」
右の手が、左の手の甲を覆う。
「薄くはなるがな。だが、それだけだ」
覆った手が、離れた。
絃羽の口からは、先に数が出た。
「……十年、薄くするためだけに」
火の赤が、革の甲に映っている。
「そうだ」
棚に並んだ替えは、その十年ぶんの用意であったらしい。
十年。ならば、昨日のあれは、どういうことになるのか。
『……殿下に触れて、無事だった方は、おりません』
宗次の言葉が、別の並びで立ち上がってくる。手の荒れの話では、なかったのだ。
絃羽は、膝の上の両手を浮かせた。篝の手首を、この指で下から支えている。
「あっ! では、わたくしは、とんだ粗相を……」
篝の目が、その手へ落ちた。
「ああ。お前は確かに触れた。それなのに……お前は、壊れていない。いや、それどころか全くの無事だ」
無事だと言われても、返す言葉がない。絃羽は指を膝へ戻した。
篝の手が、外套の前で開いた。
問いというより、こぼれたお声だった。
「何故だ? 何故お前は無事なのだ。それが、俺には分からない」
分からない、と殿下が仰るのなら、こちらから差し上げられるものはひとつしかない。
思い当たって、絃羽は膝を立てた。
「殿下、わかりました!」
篝の首が、わずかに傾く。
「む?」
絃羽は、胸を張った。
「筋肉でございますね!」
篝の肩から、長い息が抜けた。
「……はぁ」
殿下は、時どきこうして長い息を吐かれる。やはり、お疲れなのだろう。
額へ上がりかけた革の手が、途中で止まった。
「お前、自分が何をしているか分かっているか?」
「いえ。何かしてしまいましたでしょうか?」
覚えはなかった。絃羽は首を傾げた。
篝の手が、下りる。
「……いや」
気づかぬうちの粗相であれば、なおさら詫びておかねばならない。絃羽は畳へ手をついた。
「申し訳ございませんでした。以後、気をつけます」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
革の手が、宙で止まった。
火鉢の炭が、ひとつ小さく爆ぜる。
まだ、済んでいない話があった。
「殿下。弟君へ、どうかご挨拶させていただけないでしょうか?」
絃羽は膝を進めて、もう一度願い出た。
「……会って、どうする?」
篝が訊いてきた。
どうするも何も、順序は決まっている。はじめにご挨拶をして、それからお顔を拝見して、お加減を伺う。そう順に済ませるほかはなかった。
「ご挨拶を。お返事がなくても、ご挨拶はできますので」
篝の目が、火から絃羽へ動いた。そして、そのまま動かなくなってしまった。
やがて、外套の肩がわずかに下りる。
「蔵の冬は、どうだった?」
「蔵の冬ですか?」
冬のことなら、十度ぶん覚えている。
絃羽は帯の前で指を揃えた。
「静かな冬でございました」
篝の声が、もう一段低くなった。
「お前の言う『静かな冬』は……火もなく誰とも口をきかなかった、ということだろう?」
それは違う。絃羽は首を横に振った。
「いいえ」
梁の埃と、藁の擦れる音を思い出す。返事は、いつも音ひとつぶんだった。それで、足りていた。
「梁の上に、ネズミさんがおりましたので。毎朝、ご挨拶をさせていただいておりました」
絃羽の口元が、自然とほころんだ。
自分と言葉を交わしてくれる──正確には一方的に話しているだけだが──存在のことを、思い出す。
あの時は、それだけで満たされていた。
「……そうか」
篝はそれ以上、何も言わなかった。



