怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 柏木絃羽(かしわぎいとは)は、夜具の中で目を覚ました。
 息を吸うと、鼻の奥がつんと痛んだ。吐いた息は白い。夜具の重みの外で、蔵の空気が張りつめていた。
 指を握って、開く。二度握り直したところで、ようやく付け根まで曲がった。絃羽は、それを起きる刻限の合図と数えている。
 寒暖計は持っていなかった。しかし、その代わりならある。この身体だ。身体は正直で、しかも毎朝、同じことを教えてくれる。
 起き上がる前に、夜着の背へ両の手を回した。肩ではなく、帯の結び目のあたり、背の真ん中へ。届くところまで指を伸ばし、膝を胸に引き寄せて、そのまましばらく丸くなっていた。夜着越しに、掌のぬくみが薄く背へ移っていく。
 どれほどそうしていたかは、数えなかった。数えないことに、決めていた。
 格子はまだ黒い。桟と桟のあいだに、星がひとつ据わっていた。毎冬、この時期になると同じ位置へ帰ってくる星だ。
 星の高さを確かめてから、絃羽は口の中で言った。

「……七つ刻ですね」

 返事はない。星は桟の同じところに掛かったまま、瞬きもしなかった。

(そろそろ、起きましょうか)

 意を決して、夜具を出る。素足が板に触れてから、少し遅れて、冷たさが膝まで駆け上がってきた。夜具の角を揃えて畳み、格子の下の決まった場所へ重ねる。置き場所さえ決めておけば、暗くても手が覚えているからだ。
 その脇に、薬棚がある。荷箱の板を外して組んだ手製で、段ごとに擂鉢、小刀、格子の外から摘んで干した草の束。ひとつずつ指で触れて、所在をあらためていく。それが、朝の習慣だった。
 それから梁の上の暗がりへ向けて、小さく頭を下げる。

「おはようございます」

 藁の音は、まだ返ってこなかった。眠りの深い性分らしい。
 板間の真ん中に立って、帯を締め直す。
 そして──足を開いた。

「はぁッ!」

 気合の声とともに、四股を踏む。踏むたびに古い床板が低く鳴って、同じ音が同じ場所から返ってきた。最初の十で膝が温まり、五十で腿の裏が目を覚ます。百を数える頃には、吐く息の白がもう薄くなっていた。

「身体も温まって参りましたね。今日も鍛えて参りましょう!」

 明るく言って、腕立て伏せに移る。両の掌を板に置き、肘を折った。

「百九十八、百九十九……二百!」

 腕立ては、いつも二百回まで。数は変えない。十年、変えたことがなかった。増やさないのは、増やすと飯が足りなくなるからで、減らさないのは、減らす理由がひとつも見つからないからだ。

「ほっ──!」

 仕上げに梁へ飛びつき、ぶら下がって身体を引き上げた。指の節が軋んでも、順は崩さない。梁の埃が薄く落ちて、髪にひとひら、乗った。
 懸垂は、二十回を二組。これもいつものことだ。

「ふぅ……終わりました」

 降りる頃には、格子の黒がゆるんでいた。
 空が白む。桟のかたちが床に写り、細い光の筋が一本、板の上を静かに渡ってきた。
 筋の際に膝をつき、指でその先を辿っていく。筋の先は、空になった炭俵の縁に掛かっていた。俵の縁なら、霜月も半ばである。夏は水甕の胴、秋は薬棚の脚、冬は炭俵。暦を持たない代わりに、こうして床の光で日を数えてきた。十年分の目盛りが、この板間には引いてある。

「……昨日より、少し明るいですね」

 筋は答えない。ただ、指の幅ほど、静かに伸びた。
 北の隅の味噌樽へ膝を進め、蓋を開ける。塩の匂いの底に、豆の甘い匂いが沈んでいた。手前を避け、奥へ指を差し入れて、ひと掬い。舌に載せると、まず塩の角が立ち、遅れて甘みがゆっくり溶けて、喉の奥へ落ちていった。

(やっぱり、ここが一番美味しいですね)

 北の隅のものが、いちばん深い味がする。北の壁には日が当たらず、夏のあいだも冷えているからだろう。これも十年かけて確かめたことの、ひとつだ。
 蓋を戻し、薬棚から包みをひとつ下ろした。去年の冬に効いたものだ。甕の水をひと口含み、粉ごと飲み下す。苦みが舌の付け根にしばらく残って、やがて引いた。慣れれば、苦みも味のうちに入る。
 梁の上で、藁の擦れる音がした。乾いた音が、ひと擦れぶんだけ暗がりを転がる。
 包みを畳む手を止めて、絃羽は音のほうへ顔を上げた。

「ネズミさん、おはようございます。よくお休みになれましたか?」

 藁が、もうひと擦れだけ動く。

「それならよかったです」

 挨拶を終えて立ち上がると、床の筋がまた少し伸びていた。今日も、やることは決まっている。

       *

 扉の下の小窓が開いたのは、筋が床の半ばまで渡った頃だった。
 女中のたづが、蔵まで膳を届けにきてくれたのだ。彼女はもう、この役を十年ほど続けてくれている。

「おはようございます。お嬢様」
「おはようございます」

 絃羽は膝を進めて、小窓の前に座り直した。外の冷気が、四角い枠から流れ込んでくる。木の盆が敷居を擦り、低い音を引きながら差し込まれてきた。冷えた飯と汁、漬物がふた切れ。
 小窓の高さに、顔は来ない。見えるのは、いつも手だけだった。あかぎれの浮いた、指の太い手が盆の縁を最後まで支えている。
 汁の器を両の掌で包み、持ち上げて、底を確かめた。掌に移ってくる温みは、ない。面には脂がうすく固まっていた。
 盆から手が離れる前に、向こうで声がした。

「お嬢様。今日のお膳、昨日の残りで」
「まあ、ありがとうございます! 冷めた飯は噛む回数が増えるので、健康にいいと本にも書いてありました」

 器を包んだまま、口元を和らげる。
 そこで、たづの手が止まった。爪の際が、白く変わっている。

「……一昨日は、お運びできませんで」

 詫びを長引かせては、戸口に立つたづが冷える。絃羽は器を置き、箸を取って膝の上で揃えた。

「いえ、お気になさらずに。お腹の具合を見ておりました」
「…………」

 たづの手は、縁に掛かったまま動かない。
 気にせず、飯をひと口。ゆっくりと噛んだ。噛むほどに、冷えた飯は薄い甘みを返してくる。二十まで数えて、飲み込んだ。

「二日ほどでしたら、却って身体が軽うございます」

 そう返してみたものの、たづは黙ったままだ。
 本音だったのだが、何かまずい返事をしてしまっただろうか?
 どうしたものかと悩んでいたその時。
 庭のほうから、砂利を踏む音が近づいてきた。二人分だ。片方は軽く、片方は忙しない。軽いほうの若い声が、供の誰かへ投げられた。

「あいつ、まだ蔵にいるのでしょう?」

 姉の声だった。問いのかたちをしているが、答えを待つ間はない。

「よくあんな汚いところで生きれたものよ。あんなドブネズミが住むような場所で……いいえ。そんな場所に十年も住んでいるのだから、もうドブネズミそのものだわ!」

 姉の高笑いが響いた。
 その足音は生垣の向こうで緩みもせず、母屋のほうへ遠ざかっていく。届いた言葉のうちに、絃羽の名はなかった。
 母屋の人の耳に蔵の物音を入れないのは、作法だ。絃羽は箸を止めて、砂利の音が細くなり、途切れるまで待つ。
 小窓の向こうで、袖の擦れる音がした。布の張る音が短く続き、それきり、息の音が途切れる。
 やがて衣擦れが低く沈み、枠のなかへ、たづの顔が屈み込んできた。目の下に、影が差している。前に見たときより、濃かった。

「たづさん。お顔の色がすぐれませんよ? ちゃんと寝ていますか? どうか、無理なさらないでくださいましね」

 絃羽は箸を置いて、明るく言った。
 たづの口が開き、閉じて、もう一度開く。

「……わたくしのことは、よろしゅうございます」
「よろしくはございません。人は、顔に出ますので」

 膝を起こして、屈んだ顔と目の高さを合わせて伝える。

「お嬢様……ッ」

 たづはそう呟いたきり口を結び、枠の外へ顔を引いた。あかぎれの手だけが残って、敷居の際に掛かっている。

「ご馳走様でした。大変美味しゅうございました」

 膳を仕舞い、盆を敷居の上へ滑らせて戻した。盆は静かに引き取られ、外からは、もう言葉が返ってこない。小窓が閉じられ、足音が母屋のほうへ遠のいていった。
 床の筋は、俵の縁をとうに離れていた。

       *

 格子の筋が朱を帯びる頃、小窓の外へ足音が戻ってきた。

(あれ……? どうしたのでしょう?)

 絃羽は夕の型の途中だった。四股を五つ残して足を止め、乱れた息を三つで整えてから、小窓のほうへ膝を向けた。夕にひとが来るのは、月に幾度もない。
 小窓が開いた。たづの手が枠に掛かったまま、動かない。声は、なかなか出てこなかった。
 膝の上に手を重ねて、問う。

「たづさん、どうかしましたか?」
「……お嬢様。今年も、炭は」

 語尾が、枠の内で細くなった。言い切るまでには、まだ幾らかの息が要る。その分を省いてさしあげるつもりで、絃羽は先に頷いた。

「はい。伺っております」

 たづの手が、枠を掴み直した。節が浮いて、あかぎれの筋が赤い。

「……申し訳ございません」
「まあ。たづさんが謝ることではございません」

 膝の上で指を揃えた。
 それから、日和の話でもするように付け加える。

「去年も、静かな冬でございました」

 枠の手が、止まった。

「…………」
「それに、去年で分かりました。寝具を二枚重ねて、明け方に一度起きて型を繰り返せば、朝まで保ちます。何も、問題はございません」

 黙られた訳には思い当たらないまま、絃羽は指を一本ずつ折って、手順を並べていく。
 衣擦れが沈み、枠のなかへ、たづの顔が屈み込んできた。目の縁が赤い。

「……お嬢様は、いつもそうやって」
「はい?」

 絃羽は小さく首を傾げた。
 何のことを言っているのだろうか。
 たづは声を震わせて呟く。

「……わたくしを、楽にさせるばかりで」
「楽であるのは、よいことではございませんか」

 口元を和らげたまま、答えた。
 しかし、そこでたづが息を大きく吸ったかと思うと──。

「よくありませんッ!」

 たづは叫ぶようにして言った。
 彼女の声は土壁に当たって跳ね、梁の藁を短く鳴らして、消えた。

(ええ……? わたくし、何か気に障ることを言ってしまったのでしょうか?)

 揃えた指を膝に置いたまま、絃羽は考え込んだ。怒られたのだということは、わかった。しかし、その理由がわからない。
 小窓の向こうで、喉の詰まる音がした。

「…………ッ」

 ──夕の最後の筋が枠まで届いて、屈んだ頬の上で細く光った。
 枠の際まで膝を進め、身を乗り出す。

「たづさん?」

 返事の代わりに、光がひとつ、枠の下へ落ちた。

「まあ。どうなさいました? お顔が濡れておりますよ?」

 どうして泣くのかがわからず、絃羽はおろおろとして尋ねた。
 たづからの返事はなく──ただ彼女は声を押し殺し、袖で目元を覆っただけだった。