月影の皇子は女房腹の姫を選ぶ





 春の風が、藤原家の邸に花の香を運んでいた。
 北の対の縁に座り、綾は絹の束を仕分けていた。明後日には、異母姉の萩姫が嫁ぐ。庭では下働きの者たちが忙しなく行き交い、寝殿のほうからは笑いさざめく声と琴の音が聞こえてくる。あちらは光のなかにあり、こちらは、薄い影のなかにあった。

「綾姫様、この袿は萩姫様のお道具に入れてよろしいのでしょうか」

 衣を抱えた菖蒲が、困ったように尋ねる。十八になったばかりの彼女は、綾付きの女房のなかでいちばん口が軽く、いちばん正直だった。

「ええ。ただ、裏の縫い目をもう一度見ておきましょう。ほつれていては恥になるわ」

「それは、姫様がなさることではございません」

「では、誰がするの」


 穏やかに返すと、菖蒲は唇を尖らせて黙った。悔しげに膨らんだ頬を見て、綾はかえって少し笑ってしまう。怒ってくれる人がいる。それだけで十分だと思った。

 綾は二十二になる。父は公卿・藤原兼雅。母は、かつて父に仕えた女房であった。寵愛を受けて綾を産んだものの、北の方の反発を恐れた父に守られることはなく、後ろ盾も得ぬまま、いまはもうこの世にいない。

 だから綾は、邸のなかで「姫」と呼ばれながら、姫として扱われたことがない。裳着の祝いは異母姉たちのそれより格段に簡素で、持参する財もなく、縁談が持ち込まれたためしもない。そして此度の婚礼でも、綾の名は、招かれる者の列に載っていなかった。

「当日は、奥でお控えなさいませ」

 昨日、北の方付きの女房は、扇の陰でそう告げただけだった。理由は口にしなかった。口にせずとも、誰もが知っていた。女房腹の娘を、祝いの座に並べるわけにはいかないのだ。

 綾は針を持つ手を止めなかった。止めれば、指先の震えに菖蒲が気づいてしまう。

 母も、この縁で、同じように絹を仕分けていた。


『綾。与えられた場所を、選べないときもあるの。でもね、そこでどう咲くかは、自分で選べるのよ』


 幼い綾には、その言葉の意味が、よくわからなかった。いまも、わからないままだ。ただ、母の手つきを真似て、針を動かしている。


「姫様。殿がお呼びでございます」


 別の女房が告げに来たのは、日が傾きかけたころだった。