追放された祈祷師は、辺境の姫騎士様に拾われる。〜戦えない僕の祈りで〝呪われ姫〟を最強の神剣使いに。戻ってこいと言われても、もう遅い〜

 姫様専用の祈祷師宣言から、慌ただしく一日が暮れていき。砦にはしんとした夜が下りてきた。
 ルカにあてがわれたのは、砦の片隅の質素な一室。寝台と小さな机がひとつきりで、狭く飾り気もなかった。それでも、隙間風のない壁と暖を取れる火があるだけで、雪原をさまよったあの夜を思えば十分すぎるほどだ。

(終わったぁ……)

 長い、長い一日だった。追放され、雪原で死にかけ、姫騎士に拾われ、神剣を目覚めさせ、そして居場所を得た。それがたった数日のうちの出来事だとは、自分でもうまく信じられない。
 湯に浸かってひと息ついた頃、食堂へ呼ばれた。行ってみれば、粗末な木の机の上に、湯気の立つ料理が所狭しと並んでいた。

「砦の食事は、質素ですが……温かいものを、用意させました。たくさん食べてくださいね」

 イリアがにこにこと、向かいの椅子を勧めてくる。

「い、いや、あの、イリア様。さすがに、量が多すぎませんか? 僕ひとりでは、とても食べられる量じゃ……」

 並んだ皿の数を前に、ルカはたじろいだ。明らかに二人前以上ある。

「もちろんです」

 イリアは当然のように頷き、言葉を紡いだ。

「だって、私も、食べるんですから」
「姫様も!?」
「はい。よかったら、一緒に食べませんか?」

 小首を傾げて、そう言う。その屈託のなさに、ルカは返す言葉を失ってしまった。

(……また、そうやって)

 雪原で外套をかけてくれた時のように。村でまっすぐ微笑んでくれた時のように。この人はどうして、こう。何気ない仕草の一つ一つで、人の心を溶かしてしまうのだろう。無意識なのだから、なおたちが悪い。

(はあ……さっきの専属祈祷師発言と言い、ちょっとこの姫様無防備過ぎないか)

 照れ隠しに、ルカは木の椀を手に取った。啜ったスープは素朴な塩の味で、冷えきっていた身体の芯にじんわりと沁みていく。
 向かいでは、イリアが湯気の向こうで幸せそうに同じスープを口に運んでいた。
 温かいものが腹に落ちると、張り詰めていた気が少しずつ解けていく。
 彼女はルカの椀が空きかけるたびに、すかさずおかわりをよそい、パンを勧め、干し肉を皿に足した。痩せた小動物にせっせと餌をやる子供さながらの甲斐甲斐しさだ。

「ぼ、僕はいいから、姫様がお食べください」
「遠慮しないでください。ここ何日も、ろくに食べていないのでしょう?」
「う……。それは、はい。その通りです」

 図星だった。追放されてからというもの、口にしたのはあの老婆にもらった硬いパンの欠片くらい。言われて初めて、自分がひどく空腹だったことに気づいたほどだ。
 湯気と灯りと、向かいで笑う人。ほんの数日前まで雪の中で震えて死にかけていた自分が、今はこうして温かい食卓に着いている。
 その落差が、まだうまく飲み込めなかった。覚めない夢の続きでも見ているような、ふわふわとした心地がする。
 しばらく二人は黙って匙を動かした。
 やがてスープを飲み終えたイリアが、木の椀をそっと置きふと口を開く。

「ところで、ルカ。ひとつ、お願いがあるのですが」
「はい、なんでしょう」
「私に敬語を使うのは……やめていただけないでしょうか?」

 ルカは、匙を口へ運びかけた手を止めた。

「……え。そ、そんな……それは、無理です」
「どうして?」
「どうしてって……だって、イリア様は王女様ですよ? そんな、敬語も使わずに話すなんて、不敬にも程があるじゃないですか」

 慌てて首を振るルカに、イリアは少しだけ唇を尖らせた。

「ルカには……そういう肩書きで、区別されたくないんです」

 まっすぐな碧い瞳が、じっとルカを捉えている。冗談で言っているわけではなさそうだ。

「そ、そんなこと言われましても……」

 たじたじになりながら、ルカはなんとか反撃を試みる。

「それなら、姫様の方こそ敬語をやめてくださいよ。もっとこう……王女様らしく、偉そうにしてください」
「ふふっ。それは、無理な相談です」

 イリアは悪びれもせずに微笑んだ。

「この話し方は、昔からの癖みたいなものですから。今さら直りません。……だから、直すのはルカの方ですね」
「な、なんですか、その理屈は!」
「ほら。とりあえず、私にため口を利いてみてください」
「む、無理ですって! そんなことしたら……ガングさんに、殺されちゃいますよ!」

 昼間のあの古参兵の鋭い眼光を思い出して、ルカは本気で青ざめた。だが、イリアはいっこうに取り合わない。

「だーめ」

 人差し指を、ぴん、と立てる。

「これは、王女命令です」
「そ、そんな。こんなことに、王女の権利を使わないでくださいよ……」
「何に使うのかは、私の自由です」

 悪戯が成功した子供のような顔で、イリアは笑ってみせて。その笑顔の前では、どんな言い訳も雪のように溶けて消えてしまいそうだった。
 ルカは、とうとう観念して息を吐いた。

「わ、わかりました。……えっと」

 ごくり、と唾を飲み込む。たった一言、口調を崩すだけのことが、これほど難しいとは思ってもみなかった。三年間、身を縮めて生きてきたルカにとって、誰かに気安く話しかけることは、もう遠い昔に忘れた作法だ。

「よ、よろしく、ね。イリア……様」

 やっとの思いで絞り出した第一声は、情けないほどたどたどしい。結局、「様」だけはどうしても取れなかった。
 でも、それを聞いた途端、イリアの顔がぱっと花の綻ぶように明るくなった。

「はいっ。こちらこそ、よろしくお願いしますね、ルカ!」

 心の底から嬉しそうな、その笑顔。ルカの胸が、また、とくんと跳ねる。

(……なんだ、これ)

 たった、それだけのことだ。呼び方を少し崩しただけ。それなのに、この人はこんなにも嬉しそうに笑ってくれる。
 王都にいた頃には考えられなかった。無能と嗤われ、誰にも必要とされず、名前すら覚えてもらえなかった自分に。──今は、こんなふうに笑いかけてくれる人がいるだなんて。
 追放された、あの日。何もかも終わってしまったと思った。
 なのに、どういうわけか、今は悪くない気分だ。それどころか、ほんの少しだけ、幸せだと思ってしまっている。

(全部、姫様のお陰だなぁ)

 湯気の向こうで、その姫様は幸せそうにパンを頬張っていた。
 この、ささやかで温かい時間を。できることなら、ずっと守っていきたい。
 ルカは椀を両手で包んだまま、そっとそう願った。