追放された祈祷師は、辺境の姫騎士様に拾われる。〜戦えない僕の祈りで〝呪われ姫〟を最強の神剣使いに。戻ってこいと言われても、もう遅い〜

 春先の朝は、水の匂いがした。
 雪解けは、さらに進んでいた。中庭の土はもう半ば以上が顔を出し、踏まれて黒く光っている。軒の氷柱は根元まで細り、雫の落ちる音はいつのまにか、砦の朝の当たり前になっていた。
 その朝も、ルカは日課の検分を終えたところだった。
 主石から末端の石まで、ひとつずつ掌をかざして、式の脈を確かめて回る。光の糸は、今日もほつれていなかった。編み目の位置はもう、目を閉じていても指がたどれる。

「祈祷師様、おはようございます。今日はあったかいですね」
「おはようございます。……ほんとだ。もう、春だね」

 通りかかった兵と、朝の挨拶を交わす。
 冬のあいだ、ぴたりと絶えていた坂の往来も、戻ってきていた。行商が荷を背負って峠を越えてくる。礼を言いに、村の者が花を手に上ってしていた。凍てついて息を潜めていた辺境が、雪解けとともに少しずつ、息を吹き返している。

「そういえば」

 ふと気になって、ルカは兵に尋ねてみた。

「春になると、このあたりって美味しいものとか、あるの?」
「ありますとも!」

 兵は、待ってましたとばかりに身を乗り出した。

「雪の下で甘みを溜めた根菜がね、これがまた絶品なんですよ。あとは、山の芽吹きを摘んで、揚げたやつ。祈祷師様、あれはぜひ食っていただかねえと」
「それはそれは。王都じゃ食べたことないから、楽しみだよ」
「ははっ。姫様もいらした当初、まったく同じことを仰ってましたよ」
「そうなんだ。へえー……イリア様も」

 他愛のない話に、頬が緩んだ。
 目の前の兵は、ルカへ当たり前の敬意を向けてくれていた。無能を見る目でも、様子を窺う目でもない。ただの、砦の一員を見る目で。
 そんな光景を見ていて、ふと思う。

(……一年前の僕に今のことを教えても、絶対信じないだろうなぁ)

 この季節、自分は王都の大聖堂で、聖杯の列のいちばん後ろに立っていた。誰の隣にも座れず、近づけば人が半歩ずつ退いていく、あの列の最後尾に。
 あの頃の自分にこの朝を語って聞かせても、きっとただの絵空事だと笑うだろう。
 それだけ、置いておく。
 感慨に浸るには、この朝の光は眩しすぎた。
 朝の稽古を終えたイリアが、木剣を肩に、中庭を横切ってくる。
 額にうっすらと汗を光らせて。それを拭う仕草にも、以前のようなどこか張り詰めたものはなかった。

「姫様」

 ルカはその背へ、声をかけた。

「少しだけ……付き合ってほしいところがあるんだ」

 自分でも、声が硬くなるのがわかった。
 イリアは足を止めて、こちらを見る。
 いつもなら、軽口のひとつも返してくるところだ。だが、彼女はその声の色を、一拍で聞き分けたらしい。

「……はい。わかりました」

 何も訊かず、ただ静かに頷いた。
 二人で、門脇の主石へ向かう。
 道すがら、ルカは言葉を探していた。
 ずっと、呑んできたことだ。決戦の勝利にも、名誉回復の祝いにも、水を差したくなかった。だから、言い出せなかった。
 でも、と思う。
 二人で、選んで残ると決めた場所だ。その場所に巣くうものを隠したまま、この人の隣に立ち続けることは、したくない。
 主石の前で膝をつき、掌をかざした。

「姫様。視てほしいものがあるんだけど」
「視てほしい……? 私にですか?」
「うん。正確には、僕にしか視えないものなんだけどね。それを言葉で伝えたくて」

 自分の〝視〟をこの人に言葉で開くのは、初めてのことだった。

「実は……ずっと、黙ってたことがある」

 石の芯へ意識を沈めながら、切り出した。

「勝った後でも、空気が悪くなるかなって思うと言い出せなかったんだ。でも、ここに残るって二人で決めたからには、ちゃんと伝えておいた方がいいと思ってさ」

 ルカは、順に話した。
 まず、この主石のいちばん奥。編み直した式の下に、黒い染みが消えずに残っていること。決戦の前、あれを光の膜で内側へ封じ込めた。けれど、祓えてはいないこと。禊祷の祈りはそこまで届かなかったこと。
 それから、決戦の、あの核。

「あれを断ったとき……聞こえたのは、獣の断末魔じゃなかったんだ」
「獣では、なかった……?」

 イリアの眉が、寄る。

「では、何だったのですか?」
「人の……笑い声に、聞こえた」
「えっ。人、ですか!?」

 姫騎士の声が、跳ねた。
 当然だ。あの雪原に群れていたのは、獣ばかり。人など、どこにもいなかった。

「うん。粘つくみたいな、嫌な笑い方だった。核を断ったその手応えの奥から、聞こえたんだ」

 ルカは、掌の下の黒い脈を見つめた。

「だから、思ったんだよね。あの核は、たぶん手駒のひとつに過ぎないんだって。この染みを植えて、あの群れを差し向けた〝手〟は、まだどこかで動いてる」

 そして。
 いちばん言いにくいことを、口にした。

「それに、イリア様。……この染みと、姫様の鎖も」

 掌を、そっと彼女のほうへ向ける。

「視える色が、同じなんだよ。たぶん、同じ〝手〟が絡んでる。……いや、編んでる、っていうべきかな」

 しん、とあたりが静まった。
 あの夜、ルカは言った。これは災難なんかじゃない、ずっと続いている、はっきりとした悪意だ、と。
 その悪意の輪郭が、今、名指しされた。この地への呪いと、彼女の身を縛る鎖は、同じひとつの手から来ている。

「……そう、でしたか」

 イリアは、青ざめていた。
 だが、目を逸らさなかった。しばらく染みのほうをじっと見つめてから、ふぅ、と息を吐いた。
 その吐息は、恐れよりも別の色を帯びていた。

「ルカは……ずっと独りで抱えていたんですね」
「え」
「まったく。どうしてもっと早く相談してくれなかったんですか?」

 咎める口調ではなかった。むしろ、労わるような、そんな響きだ。その中に、もちろん微かな呆れも含まれていたが。ルカは答えた。

「いや、不安にさせちゃ悪いかなって思ってさ。確証を得てから言うつもりだったんだけど……何となく、それまで待ってる方が危ない気がしてきて」
「教えてくださって、ありがとうございます」

 イリアは、まっすぐにルカを見た。少し、叱るような目つきだ。

「でも、今度からそういう躊躇はしないで、なんでも話してください。ひとりで背負ってほしくないんです。危ないことでも、気分が滅入ることでも、知っておきたいですから」
「うん、ごめん。今度から気をつける」

 素直に、頷いた。
 すると、姫騎士は表情を緩めた。

「それにしても……顔も名前も視えない敵、ですか」

 そして、あろうことか、その唇に不敵な笑みを浮かべてみせた。

「いいじゃないですか。やってやりましょう」
「姫様?」


 思わぬ言葉に、ルカは目を丸くした。

「だって、今度は初めから二人なんですから。私たちが二人揃えば、何も恐れるものはありません。呪いなんて、へっちゃらです。でしょ?」

 イリアは腰の神剣に手を添えて、得意げに言ってみせる。
 その笑顔は、無理をしている風には見えなかった。
 打ち明けても、棘が消えたわけではない。むしろ、その輪郭はさっきより濃くなったくらいだ。
 なのに、肩がふしぎと軽くなった。
 分かち持つというのは、きっとこういうことなのだろう。

「……だね」

 ルカも、笑みを零した。

「僕らなら、へっちゃらだ」

 そう返したときだった。
 イリアが、北の空へ目を留めた。
 その表情は、みるみるうちに怪訝なものになっていく。

「ルカ。あれ……」

 その視線を追って、ルカも顔を上げる。
 北。冬を越えた山並みの、彼方。
 空に、鳥の群れが見えた。

「ワタリドリの群れかな。ん? でも……おかしいな」

 渡りの季節だ。空を渡る鳥の列は、めずらしくもない。……はずだった。

「ずっと、同じところで回ってる」

 その一群だけが、南へ渡ろうとしていなかった。
 同じ場所で、渦を巻いている。黒く、密で、遠目にも数が多かった。ぐるり、ぐるりと、山の上に澱のようにわだかまっている。
 イリアの顔が、怪訝なものから神妙なものに変わった。

「ルカ。何か感じますか?」
「……今のところは、何も」

 答えながら、ルカは風に意識を向けた。
 実際に、あの黒く嫌な感覚はない。
 と、思った矢先だった。
 風の中に、指先が微かなものを拾う。
 あの粘ついた核の残り滓から、うっすらと立ち上っていたあの気配と同じ質の、嫌な臭いだ。
 ほんの、一掠め。掴もうとした時には、もう消えていた。気のせいだと言い切れる、それくらいの淡さだ。

「気のせいだと……いいんだけどね」

 ルカは、そう漏らした。

「本当に、そう思ってますか?」

 イリアが問い返してくる。
 彼女も、何かを感じ取っているのだ。黒の鎖を持つ彼女だからこそ、似たようなものを肌で感じたのかもしれない。

「……いや。希望的観測かな」

 正直に、答えた。
 気のせいであってほしい。何もない。ただ、鳥の気分が乗らないだけだ。そういうことに、してほしかった。
 でも──祈祷師としての直感が、それを否定する。
 イリアが、もう一度溜め息を吐いた。それから、腰の柄に添えた手を握り直す。

「まったく……本当に休ませてくれませんね。この場所は」

 呆れたように言って、姫騎士はその鳥の群れを眺めた。
 ルカも、同じものをじっと見つめる。
 点は、まだ線にならない。染み、鎖、笑い声。そして、北の渦。
 ばらばらのそれが、いつか一本に繋がるとき。そのとき、あの〝手〟はきっと、またこちらへ伸びてくる。
 そんな気がしてならなかった。
 でも、今はまだ。淡い、予兆程度のもの。

「何が起こっても大丈夫さ。僕ら二人が一緒なら」

 ルカは、自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
 イリアも頷く。

「ええ。私たちが一緒なら、怖いものなんてありませんから」

 お互いにそう言い聞かせつつも、二人の目は鳥の群れの一点を見据えたままだった。
 その静けさを、破ったのは──。

「ルカ様、姫様ぁ!」

 砦のほうから、執事のヨナスの声が響いてきた。
 普段よりもだいぶ声を張っている。
 随分探させてしまったのかもしれない。

「お食事が冷めますぞーッ! 早く来てくださいませ!」

 北の空の重さが、その一声でふっと和らいだ。
 ルカとイリアは、ふと顔を見合わせる。笑いは、どちらからともなく零れた。
 もう一度だけ、北の渦へ目をやってから。二人は揃って、踵を返す。

「ふふっ……ですって。では、参りましょうか。私だけの祈祷師様?」

 イリアがいつもの調子で、悪戯っぽくこちらを覗き込んでくる。

「……その呼び方は心臓に悪いって、何度言えばわかってくれるの?」
「いいじゃないですか。ほら、いきますよっ」

 言うなり、イリアはルカの手を取った。

「わっ、ちょ……姫様!?」

 焦るルカを、意にも介さず。彼女の白い手が、ルカの手をそっと包み込んだ。そして、二人の手のひらは、自然と重ね合わされていく。
 手を繋いだまま、二人で砦のほうへ歩き出した。
 少しだけ弾んだその歩幅に、引かれるように。ルカも、足を踏み出していく。
 追放された祈祷師は、辺境の姫騎士様に拾われた。
 ……いや。
 拾われたのは、はじまりに過ぎない。
 そこから苦難を乗り越え、二人で選び合って、この朝の中に立っていた。捨てられた者と、捨てられかけた者が、互いを選んで、この辺境の地に。
 祈りは、ひとりでは遠くまで届かない。
 けれど──この人の隣でなら。
 軒先で、雪解けの雫がひとつ、光って落ちた。