追放された祈祷師は、辺境の姫騎士様に拾われる。〜戦えない僕の祈りで〝呪われ姫〟を最強の神剣使いに。戻ってこいと言われても、もう遅い〜

 次の使者が来たのは、それから数日後のことだった。

「街道に、騎馬! 王都の……使いのようです!」

 物見の声に、砦はまた一瞬、張り詰めた。あの勅使の記憶は、まだ新しい。門の内で、兵たちの目が鋭くなる。
 だが、今度の一行は何もかもが違っていた。
 数は、わずか数騎。装飾も、護衛の隊列もない。そして、先頭の使者は門前で自ら馬を降りた。
 深く一礼して、徒歩で門をくぐる。

「王命により、参上いたしました。……第三王女イリア様に、お取り次ぎを願いたい」

 その物腰に、居丈高なものは欠片もなかった。
 中庭に、イリアが出る。ルカも、ガングも、その傍らに並んだ。
 使者は勅書を捧げ持つと、あらためて深く頭を垂れてから、読み上げた。

「第三王女イリア様に、陛下より勅にございます。此度の、遠征以来の武功、ならびに辺境守護の功、まことに大なるものと認む。よって、殿下の御名にかけられたる、いわれなき〝呪われ〟の汚名を──公式に、雪ぐものとする」

 中庭が、ざわりと揺れた。
 汚名を、雪ぐ。
 呪われ姫。錆姫。この人が生まれてこのかた背負わされてきた、あの蔑称が。今、王の名において公式に消えた。

「あわせて。王太子の廃嫡に伴い、王女殿下の継承の位置づけを、あらためて詮議いたしたく——継承の儀の詮議のため、王都への御帰還を。陛下は、そう、望んでおられます」

 帰還。その単語に、ルカの胸が小さく跳ねた。
 使者は勅書を巻き納めると、懐からもう一通、小さな封書を取り出した。

「それと……これは、勅とは別に」

 両手で、恭しくイリアへ差し出す。

「陛下より直々に、王女様へ、と」
「……父上、から?」

 イリアの声が、掠れた。
 封を、ゆっくりと切る。白い指が、ほんのわずか震えていた。
 便箋は、一枚きりのようだった。
 彼女の目が、短い文面をなぞる。一度。二度。三度。
 それから。
 イリアはその文を、胸に押し当てた。
 目を伏せ、何も言わない。長い、長い沈黙だった。
 ルカには、その横顔から何も読み取れなかった。喜びなのか、積年の恨みなのか。その両方が、いっぺんに押し寄せているのか。十数年ぶんの父と娘のあいだにあるものは、隣に立つだけのルカには届かない深さにあった。
 ただ、睫毛が濡れて光っているのだけは、見えた気がする。
 やがてイリアは顔を上げ、使者へ王女の顔で告げた。

「……勅、確かに、承りました。御返事は、書面にて。数日、砦に逗留を」
「はっ」

 使者が下がり、中庭にざわめきが戻ってくる。姫様の汚名が雪がれた、と。兵たちの声は、明るい。
 その明るさの中で、ルカだけが、うまく笑えずにいた。

(……よかった。本当に、よかったんだ)

 心から、そう思う。この人の汚名が消えた。武功が認められた。父からの、文まで届いた。
 なのに。
 そのすぐ後ろから、冷たいものが音もなく、胸の底へ落ちてくる。
 王都への、帰還。
 名誉も。王女の座も。父も。この人が奪われてきたものの何もかもが、あの南の街道の先で、この人を待っている。
 あの夜、この人は言った。隣にいてくれますよね、と。あのとき自分は、選んで残ると答えた。
 白い息を、ひとつ、呑み込んだ。

(今度は僕が『行かないで』って? いや……さすがにそれは)

 言えるはずが、なかった。この人の幸せを数えたら、答えは、どう数えても王都にある。辺境になど、あるはずがなかった。
 その夜のことだ。
 人払いをした執務室で、ルカはいつものようにイリアの傍らに膝をついていた。
 蝋燭が一本。窓の外は、雪ではなく、静かな夜の闇。氷柱の溶けた雫が時折、軒を叩く音だけが遠く聞こえる。
 鎖に、禊祷を通していく。
 残りの鎖はまだ、幾重にも彼女を縛っている。締めつけを緩める、いつもの手当て。指先の下で、彼女の肩が今夜は少しだけ硬かった。
 昼の勅の話に、二人とも触れられずにいた。
 祈りの音のない音だけが、部屋を満たしている。沈黙が、いつもより重い。
 先に口を開いたのは、ルカだった。

「……イリア様は」

 声が、思ったより掠れた。

「戻るべきだと、思う」

 手当ての手を止めずに、目も合わせずに、言った。そうでもしないと、言えなかった。

「名誉も、戻ったんだ。継承の話まで、来てる。それに……お父上が、待ってるんだ。全部、向こうにはあるんだよ。イリア様が、ずっと奪われてきたものが」
「ルカ」
「全部、取り戻せるんだ。本来、いるべきだった場所に……戻れるんだよ。だから──」

 だから、行くべきだ。
 その一言が、どうしても形にならなかった。喉の奥で、つかえて崩れる。
 正しいことを、言っているはずだった。この人の幸せを思うなら、これしかない。わかっている。わかっているのに。
 膝の上の拳が、震えていた。
 行ってほしくない。
 その本音が、正しさの薄皮の下で、みっともないほど暴れていた。いつかの夜、狼狽しながら「失いたくない」とこぼした、この人と。今の自分は、同じだった。

「……ルカったら」

 イリアの声が、静かにそれを遮った。

「もう、決めていますよ」
「え?」

 ルカは、顔を上げた。
 蝋燭の灯りの中で、碧い瞳がまっすぐに、こちらを見ていた。もう、昼間の読めない横顔ではなかった。凪いだ、澄んだ目だった。

「名誉のことは、嬉しく思います。本当に、嬉しいです。……父上の文も」

 彼女は、ふっと目を細めた。
「『息災か』と。……たった、その一言だけだったんですよ? あんなに、待たせておいて。ひどくありません?」

 困ったように、笑う。その笑みの端が、かすかに震えていた。

「不器用な人なんです。昔から。でも……それが、嬉しかったんです。悔しいくらい、嬉しくて。私、バカですよね」
「……そんなこと」
「でも」

 イリアは、居住まいを正した。

「私が守ると誓ったのは……王都の玉座ではありません。この地の民です。私の剣は、いえ、あなたとの剣は、そのために在ります。それは、汚名が雪がれても、継承の話が来ても……何ひとつ変わりません。それに──」

 一語、一語、確かめるように言って。
 そこで彼女は、少しだけ言葉を切った。
 頬に、灯りのせいだけではない朱が差していく。

「あなたが、言ってくれたじゃないですか。……拾ってもらったから残るんじゃない、ここがいいから残るんだ、って」

 この前に、ルカが彼女に伝えた言葉だった。

「あの言葉に、私がどれだけ……」

 言いかけて、彼女は小さく首を振った。それから、あらためて言い直した。

「私も同じです。いえ……私にも、選ばせてください」

 彼女の手が、膝の上でそっと拳を作る。

「戻れるように、なりました。名誉も、座も、父も。……戻ろうと思えば、戻れます。だからこそ、こう言えるんです。これは、行き場がないからここにいるのではない、と。〝呪われ姫〟だから辺境に押し込められているのではない、と」

 碧い瞳が、揺れることなくルカを映していた。

「私は私の意思で、選びます。この場所を……あなたの、隣を」

 蝋燭の芯が、じじ、と小さく鳴った。
 上手く、言葉が出てこない。何を言えばいいのか、わからなかった。
 胸の底に沈んでいた、あの冷たいものが。ゆっくりと、ゆっくりと、溶けていく。

「本当に……いい、の?」

 ようやく出た声は、情けないほど小さかった。

「全部……向こうに、あるのに。あなたの安全も、幸せも」
「全部ではありません」

 イリアは、きっぱりと言って。

「いちばん失いたくないものが……ここに、ありますから」

 ふわりと笑い、小首を傾げた。
 いつもの隊長の顔でも、王女の顔でもない。そこにあったのは、年相応の、ひとりの少女の笑顔だった。

「それとも……私なんかが隣にいると、迷惑ですか? 私の祈祷師様は」
「そんなことない! そんなこと、あるわけないじゃないか……いてほしいに、決まってる」

 言ってから、自分の即答ぶりが恥ずかしくなって、ルカは慌てて俯いた。

「ずっと、いてほしい。……行くべきだ、なんて言ったくせに、ごめん。本当は、こんなこと言いたくなかった」
「知っています」

 イリアが、くすくす笑って言った。

「手が、震えていましたから」
「……見てたの?」
「ずっと、見ていました」

 顔が、熱かった。蝋燭のせいには、もうできそうにない。
 返書の文面は、その夜のうちに二人で決めた。
 継承の詮議を、辞退はしない。ただ、こうとだけ返す

『辺境守護の任、いまだ半ばにあるゆえ、この地を、動かず』

 務めの形で、帰還を断る。王女として、礼を尽くした断り方だ。
 書き上げた返書に封を落とすイリアの横顔には、迷いはなかった。

        *

 翌朝は、みごとに晴れた。
 返書を託された使者の一行が、南の街道へ発っていく。
 門の外まで、ルカとイリアはそれを見送りに出た。数騎の背中が、雪の緩んだ街道を小さくなっていく。
 あの日、傲然と乗り込んできた勅使の行列とも。礼を尽くして訪れた、この使者の来訪とも、違う。今度は、辺境から王都へ。この地で選ばれた答えが、南へ運ばれていく。
 姫様の汚名が、雪がれた。もう誰にも、〝呪われ姫〟とは呼ばせない。
 砦の中は、祝いの気配で満ちていた。
 兵たちの声は弾み、報せを聞きつけた近隣の村人たちが、朝から祝いの品を抱えて坂を上ってきた。干し肉だの、蜂蜜酒だの、木彫りの守り札だの。グラッテ村の老人が先頭で、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑っていた。

「姫様! 祈祷師様! めでたい、めでたいのう!!」
「ありがとうございます。……はい、ありがとうございます」

 イリアが、ひとりひとりの手を取って応えている。
 その喧噪の縁で、ルカはふと空を仰いだ。
 冬じゅう鉛色に塞がっていた空が、今日は高く、青い。
 隣に戻ってきたイリアが、南の街道の果てを眺めながら、ぽつりと言った。

「継承の話は……きっと、これで終わりではありません」

 その声は静かだったが、もう怖れてはいなかった。

「詮議は、いずれ形を変えて、また来るでしょう。王都との縁も、切れたわけでもありません。父上のことも……いつかはちゃんと向き合わなくては」
「うん」

 ルカは頷いた。

「それでも──」
「私たちは、ここで」

 見つめ合ってから、同時にこう言った。

「「生きていく」」

 見事に言葉が重なって、どちらからともなく噴き出した。
 ルカは小さく溜め息を吐くと、何となしに空を見上げる。

「これからも、きっと色々あるけどさ」

 まだ終わっていないものなら、いくらでも数えられる。王都との縁も。この人の身に残る、鎖も。
 それでも。

「頑張って、乗り越えていこう。僕らなら、できるさ」
「……はい」

 イリアが、頷いた。
 それから、少しだけ悪戯っぽく目を細めて。

「私だけの、祈祷師様」
「ッ……だ、だから! その呼び方は、心臓に悪いんだって!!」
「ふふっ。それも、知っています」

 相変わらず、姫騎士様は楽しそうに笑っていて。嬉しそうで。こうしてルカをからかっている時の姫は、本当に幸せそうだ。
 そんな時だった。
 軒先で、ぴちょんと音が響いた。
 氷柱の先から、雫がひとつ落ちた。ぴちょん、ぴちょん、とそれは続く。砦のあちこちで、冬のあいだ凍りついていたものが緩み、溶けて、滴りはじめていた。
 居場所は、拾われてできるものではない。
 選ぶものだ。
 自分がそうしたように。この人も、今日それを選んだ。
 ルカは目を閉じて、その音に耳を傾けていた。
 長い長い冬が終わりを告げる、雪解けの音を。