追放された祈祷師は、辺境の姫騎士様に拾われる。〜戦えない僕の祈りで〝呪われ姫〟を最強の神剣使いに。戻ってこいと言われても、もう遅い〜

 荷馬車は辺境の縁までしか進まなかった。
 御者が、振り返りもせずに言う。

「ここから北は、魔物が出る。悪いが、ここまでだ」

 それだけを告げて、馬車は雪煙の中へ引き返していった。残されたのは、薄い衣が一枚と、白く曇る自分の息だけ。
 ルカ=エルネストは、膝まで積もった雪の中に立ち尽くした。
 剣はない。攻撃魔法も使えない。食糧も着替えも防寒グッズもなかった。あるのは、誰にも通じなかった祈りのみ。死ねと言われているようなものだ。
 歯の根が、勝手に鳴っている。爪先は、とうに自分のものではなかった。白い息の間隔が、少しずつ短くなっていく。
 少し歩いた先に、小さな村があった。
 戸を叩き、暖を乞う。けれど、村人の顔はすぐに強張った。

「すまねえが、うちにも余裕がねえんだ。王都のことは……あんたに言っても、しょうがねえけどな」

 戸口の男はすまなそうに目を伏せて、そう言った。責める響きは、そこにはない。ただ、疲れきっていた。王都から流れてきた追放者を養う力など、魔物に晒され、見捨てられ続けてきたこの村には、もう残っていなかったのだ。
 それでも、老婆がひとり、擦り切れた外套を一枚だけ分けてくれた。

「北に、宿場があるわ。……そこまで保つといいがね」

 礼を言って、ルカはまた歩き出す。恨む気にはなれなかった。彼らもまた、王都に裏切られ続けてきた側なのだ。
 外套は薄く、風はすぐにその下へ潜り込んでくる。それでも、無いよりはずっとよかった。襟を掻き合わせ、雪を踏んで北を目指す。
 一歩ごとに、足が沈んだ。膝が笑い、息が上がる。立ち止まれば、そのまま雪に埋もれてしまいそうだった。それでも、歩くしかない。行く当てなど、どこにもないのに。
 ふと、北の空を見上げた。
 遠く、まだ鳥影が散っている。あの黒い群れは、あれから散らずにいた。

(あの神託は……外れなかったのだろうか)

 自分を追放した人たちの、無事を祈ったはずだった。それなのに、鳥は今も集まり続けている。
 祈りは、やはり届かなかったのだろう。三年間、ずっとそうだったように。
 雪原に出たところで、それは現れた。

「あっ……」

 黒い獣影だ。ひとつ、ふたつ──いや、群れだ。黒狼型の魔物。低く身を伏せ、雪を蹴って迫ってきた。速い。
 騎士なら、一匹くらいは仕留められるのだろう。だが、剣も魔法も持たないルカには、どうにもならない。

(け、結界を──!)

 咄嗟に手をかざし、祈る。薄い光の膜が、辛うじて張った。
 だが、黒狼の爪が一撫でしただけで、膜は呆気なく裂けてゆく。

「ああ……」

 絶望の声だけが、漏れる。

(やっぱり……僕の祈りじゃ、ダメなんだ)

 聖杯の前で出した結論と、同じだった。
 足がもつれ、雪に倒れ込む。牙が、目前まで迫っていた。

「う、わ……っ」

 黒狼の吐息が、頬にかかった。生臭く、熱い。ルカは、諦めたように目を閉じる。

(これが……僕の最後なのか)

 祈ることしかできない。しかし、その祈りすら、自分の身ひとつ守ってくれなかった。
 牙が、届く──。
 そう思った刹那、白銀の影が割り込んだ。
 風を巻いて、誰かが雪を蹴る。錆びた剣が一閃し、迫っていた黒狼が横ざまに薙ぎ払われた。

(え!?)

 驚いて、その影を目で追った。
 それは、白銀の鎧を纏った女騎士だった。銀の髪が、吹雪の中で長くたなびいている。伏せた睫毛の下で、碧い瞳が魔物だけを見据えていた。凍てつく吹雪の中で、その姿だけが、酷く鮮やかだ。
 だが、何故か彼女は、錆びた剣を用いていた。刃こぼれし、赤茶けて、そこには騎士らしさなどどこにもない。それなのに、その一振りは、黒狼を苦もなく裂いていた。
 二匹目が、横合いから飛びかかる。彼女は振り向きもせず、半歩だけ身を引いて、その喉を薙いだ。無駄のない、流れるような太刀筋だった。舞うようで、けれど、一切の甘さがない。
 女騎士は、倒れたルカを庇うように前へ立つ。

「下がってください。ここは、私が引き受けます」

 凛とした声。けれど、その言葉遣いには、どこか優しさを感じた。

「大丈夫です。怖いなら、目を閉じていて構いません」

 見知らぬ浮浪者同然の男を、この人は迷いなく庇っている。行き倒れの他人のために剣を抜くことを、当たり前のように、やってのけていた。
 その騎士は、黒狼を次々に斬り伏せていく。三体、四体。剣技だけで、群れを削っていた。

(一体何者なんだ……あれ?)

 五体目を斬ったところで、彼女の動きがいきなり鈍った。
 剣先が揺れて、片膝が雪に落ちた。彼女は錆びた剣を杖のように地に突き、荒い息を吐く。

「くっ……こんな時にッ!」

 女騎士の口から、苦悶の声が漏れる。
 その胸元に、腕に、そして剣に、黒い紋様が、じわりと滲み出していた。傍目には、呪いに苦しむ騎士の姿にしか映らないだろう。
 けれど、ルカには違って見えた。

(あれは……鎖か?)

 黒く濡れた鎖が、彼女の身体に幾重にも巻きついている。魂そのものを、外側から縛り上げるように。祈祷庁で目にした、どんな呪紋とも違っていた。
 そして、その黒の、濡れたような質感。ぬめり。
 ルカはそれに、覚えがあった。言葉にはできない。
 ただ、聖杯の前で視た、あの脈打つ黒い杭。あれと、どこか似ている。
 まるで彼女は、有り余る力を外から縛り上げられて、その軋みに耐えているようだった。溢れそうな水を、無理やり細い管に押し込めているような、そんな苦しみ方。
 おそらくこの人は、本当はとても強い力を持っている。いや、誰よりも強いのかもしれない。ただ、その力を、何かに閉じ込められているだけだ。
 じっとしていられなかった。無能と呼ばれた自分にできることなど、たかが知れている。それでも、目の前で、力を縛られたまま膝をついている人を、見過ごすことはできなかった。

「あなた、何かに──呪われてるんじゃないですか?」

 思わず、口をついて出る。
 ルカの言葉に、碧い瞳が見開かれた。

「……わかる、んですか?」

 声が、掠れて揺れる。それまでの凛とした響きが、その一言だけ、幼い子供のように頼りなかった。

「はい。僕には、黒い鎖が見えます」

 ルカは、見えたものを、見えたまま告げる。

「その鎖が、あなたの力を封じているんです。溢れるくらいの力を、外から縛り上げている。だから──本来の、半分も振るえていない」

 ルカがそう言うと、女騎士の瞳がキッと厳しくなった。そして、剣をルカの顔の横に突き出す。
 耳元で、すぶりと肉を貫く音が聞こえた。
 ルカの背後に、魔物が潜んでいたのだ。
 女が息も絶え絶えに訊いた。

「あなたは、一体何者なんですか……?」
「今は、それどころではありません。僕にできることは──」

 言葉を切って、ルカは雪の上に膝をついた。
 そして、両手をかざして──祈る。
 さっき自分の身を守ろうとして張った、あの弱いものと同じだ。
 これまでと何も変わらないかもしれない。
 でも、自分も、祈祷師の端くれなら。祈ることしかできないなら。せめて、この人が少しでも戦いやすくなるように祈りたかった。
 目の前に、民を守るために剣を抜いた人がいる。行き倒れの他人のために、迷わず前に立った人が。
 そんな人のために、何かしたかった。
 すると──何かが応えるかのように。
 彼女の誓いも、ルカの祈りが触れた気がした。
 ぎしり、と。
 女騎士を縛り付ける黒い鎖の、その一本が、軋んで緩む。
 何だか、いつもと違う手応えだ。ルカは不安げに訊いた。

「ど、どうでしょう……?」
「…………」

 白銀の少女は、答えなかった。
 代わりに、雪に突いていた手を、ゆっくりと握り込む。開いて、また握る。その手のひらに、久しく忘れていた力が戻ってくるのを、確かめるように。
 息を呑む音がして。少しの沈黙のあと、彼女は静かに言った。

「──十分です」

 女が、力強く立ち上がる。
 残った黒狼の群れが、再び牙を剥いた。
 だが、もう遅い。
 緩んだ鎖の分だけ、戻ってきた本来の剣技。錆びた剣が、雪の中で唸りを上げる。速く、鋭く、寸分の無駄もなかった。一体、また一体。群れは、見る間に数を減らしていく。その凄まじさに、息をすることさえ忘れてしまっていた。

(力を封じられていて……それで、あんな錆びた剣を使っていて、これなのか)

 ルカは、二重に圧倒されていた。
 ひとつは、彼女の純粋な強さに。
 もうひとつは、自分の祈りが、初めて誰かの役に立ったという、その事実に。

(僕の祈りが……届いたんだ。この人に)

 三年間、聖杯を一度も動かせなかった祈り。無能と嗤われ、白を剥がされた祈り。それが今、初めて、意味を持った。
 胸の奥が、じん、と熱くなる。泣きそうな、それでいて、悪くない熱だった。
 最後の一体を斬り伏せて、女騎士が剣を収める。
 そして、雪の上で震えるルカに歩み寄ると、おもむろに、自分の白銀の外套を脱いだ。

「え……!?」

 ふわり、と。それが、ルカの肩にかけられる。
 まだ彼女の体温が残っていて、微かに、雪と鉄と、それから花に似た匂いがした。

(あたたかい……)

 思わず、鼻の奥がつんと痛んだ。
 剥ぎ取られたときは、あんなに寒かったのに。かけられた一枚は、こんなにも温かい。優しさに包まれた気がした。
 女騎士はルカの前に立つと、柔らかく微笑んだ。そして、白い手を差し伸べる。

「祈祷師様。どうか、私と一緒に来て下さいませんか?」
「え? でも、僕は……」

 ルカは口ごもって、彼女から視線を逸らす。

「僕は、王国を追放された祈祷師です。戦えませんし、何の役にも立てません……僕の祈りに、価値なんて」
「そんなことありません」

 彼女は柔らかい笑みのまま、ルカの言葉を遮った。

「だって、あなたの祈りに、私は今救われたじゃないですか」
「え……?」

 信じられない思いだった。
 自分の祈りが、誰かを救う。
 そんなことが起こるなんて、夢にも思わなかった。

「それに、民が凍え死ぬのを見ていられません」
「民……?」

 呆然とするルカに、女騎士は悪戯っぽく目を細めた。

「申し遅れました。私は、イリア=ルーヴェンハルト。……これでも一応、ルーヴェンハルト王国の第三王女なんですよ?」

 王女。全く聞き慣れない言葉に、一瞬思考が固まり──。

「はいいいいいい!? 王女様ァ!?」

 ルカの吃驚の悲鳴が、響き渡る。
 こんな辺境の雪原で、行き倒れの追放者に手を差し伸べる人が。
 なぜ、こんな場所に。なぜ、呪われて。問いだけが、いくつも胸に浮かんで、理解が追いつかなかった。

「ほら、自己紹介は後です。このままでは、本当に凍死してしまいます」

 王女と名乗った少女はそれでも優しく手を差し伸べてくれていて。
 ルカは──その手を、取った。
 冷えきった指を、彼女の掌がしっかりと握り返してくる。指先に、体温が沁みた。
 こうして、ルカは。
 王国に捨てられた後、辺境の姫騎士に拾われた。
 立ち上がりながら、もう一度、彼女を仰ぐ。
 緩んだだけの鎖は、まだそこにあった。彼女の魂を、今もなお縛りつけたままだ。
 この鎖を、いつか、断ち切れる日が来るのだろうか。
 まだ名も知らぬその誓いのために、ルカは胸の内で祈った。