キュー、君が僕を見つける日

「いらっしゃい、鶴海くん」
「お邪魔します」

 二〇二七年、一月。お正月の三が日を過ぎ、俺と鶴海くんは初めての「おうちデート」の日を迎えた。 クリスマスの再会以来、メッセージのやりとりはほぼ毎日続いていた。しかもお互いに即既読がつく。 食事中も入浴中も次の返信が気になってしまい、用事を早々に済ませてはスマホにかじりつく日々。その結果、スクリーンタイムはとんでもない数字を弾き出していた。
 そして決まって夜、眠る前にはベッドの中でビデオ通話をした。他愛もない話をしているうちに、いつの間にか「好き」「俺も好きだよ」なんて言い合うようになって、気付けば通話を繋いだまま寝落ちする夜も少なくない。翌朝確認すると、通話時間が八時間を超えていたことすらあった。
 そんな日々を重ねてきたからこそ、一週間ぶりに直接会えるこの日を、俺は(きっと鶴海くんも)ずっと楽しみにしていた。
玄関のドアを開けた瞬間、大きなラッコのぬいぐるみを抱えた鶴海くんが、ぺこりと頭を下げる。緩む口元を隠しきれずにいると、俺の後ろから母さんがそっと車椅子に手を添えて一歩前へ出た。

「今日は来てくれてありがとうね。外、寒かったでしょう」
「いえ、無理言ってお邪魔しちゃってすみません」
「いいのよ、水季も私も心待ちにしてたから。さぁ、上がって」

 くるりと背中を向けた母さんの後ろで、俺たちはこっそり顔を見合わせて笑い合う。(わざわざ持ってきてくれたの?)と目でラッコを指すと、鶴海くんは「当然」とでも言いたげな余裕の笑みを返してきた。

「鶴海くんは、冬期講習とか、親戚のお家に帰省する予定はないの?」
「俺、塾には行ってないんで。親戚の家も遠いし、弟がまだ長距離の移動は無理なんですよね」
「そういえば……去年の、事故の件でお宅へ伺った時に、赤ちゃんがいたわね」
「はい。最近は家の中をめっちゃハイハイしまくってますね」

 鶴海くんのスマホに映る波瑠くんの写真を見た母さんは、まるで少女のように声を弾ませて「可愛い」を連発した。そわそわしはじめた俺を横目に、鶴海くんは少し得意げに微笑む。

「鶴海くん、コーヒーとお茶ならどっちがいいかしら」
「じゃあ、コーヒーでお願いします」
「あら、水季と違って飲めるのね」
「え、先輩飲めないんすか」
「そうなのよ、まだまだお子ちゃまよね」

 俺を置いてきぼりにして盛り上がる二人に、軽く不服の視線を送った。「じゃあ、そろそろ行くわね」と母さんは笑って玄関へ向かう。母さんの仕事は、海運会社の運航管理だ。俺の意識が回復してからは、仕事の時間も日数も、以前と同じペースに戻しつつある。
 二人で母さんの出社を見送ってから、俺は鶴海くんを部屋に案内した。ビデオ通話ではいつも壁ばかり映していたし、鶴海くんが実際にこの部屋に来るのは初めてだ。実は少しだけ、緊張している。

「水季の部屋って感じがする」
「なにそれ、どういうこと?」

 苦笑いしながら、「はい」と渡されたラッコを車椅子の上で抱きしめる。久しぶりの対面にぎゅッと抱き寄せると、鶴海くんは嬉しそうに口元を緩め、照れくさそうに頬を掻いた。
 あれ以来、鶴海くんは俺のことを「キュー」とは呼ばなくなった。一応、初めは年上だからと「水季先輩」と呼ばれていたのが、「やっぱ、名前で呼びたいから」と、鶴海くんのほうから言ってくれた。
 でも、正直に言えば少しだけ寂しさもある。あのあだ名を、俺はそれくらい特別に思っていたから。
一方で、俺が鶴海くんを「航平くん」と呼べないのは、やっぱり気恥ずかしいからだ。この前も電話口で「こっ、こっ、こ……!」とどもっていたら、鶴海くんは咳き込むほど笑っていた。

「電車の中で鶴海くんがこれ持ってるの想像すると、なかなかにシュールだね」
「それな。知らない女子たちにジロジロ見られて、すげぇ恥ずかしかった。袋に入れてくれば良かったんだけど」
「けど?」
「水季が喜んでくれるかなって、それしか考えてなくて。電車に乗るまでマジで気付かなかった」

 鶴海くんが「俺、結構バカかもしんない」と真剣な顔でこめかみを掻く。
 こういう抜けた一面があると知るたびに愛おしいと思うし、年下の彼を愛でたい気持ちが、じわじわと胸に広がっていく。

「やっぱ水季が海の生き物を好きなのは、親父さんの影響?」
「うん。海沿いに、菖蒲田水族館ってあるじゃん。あそこの二階から、港に停泊してる父さんの船を見るのが好きだったんだ」

 部屋に飾ってある海洋生物の図鑑や自分で撮った海の写真、家族旅行で買った沖縄のサンゴ礁のポストカードを、鶴海くんはひとつひとつ眺めていく。
 両親が与えてくれた海の記憶と、ずっと変わらない俺の好きなものが、この部屋のあちこちに詰まっている。
 記憶と過去を取り戻した俺は、鶴海くんに自分がどんな人間かを知ってもらいたくて、覚えている限りのさまざまな思い出を、この二週間の間に伝えてきた。まだ話していないことも、まだたくさんある。

「やっぱ、運命感じるよな。お互いの親が船乗りって」
「……うん、そうだね」

 鶴海くんの顔を見上げて、思わず目を細めた。電話を重ねるうちに知ったことだけれど、俺たちがどうしても運命を感じてしまう理由の一つが、まさにこれだった。鶴海くんの父さんは海上保安庁の職員で、俺の父さんは貨物船の航海士。しかも、お互いの名前に海をモチーフにした漢字が入っていると気づいた時の高揚は、今でも鮮明に残っている。

「せっかくの冬休みなのに、鶴海くんとどこにも行けなくて残念」
「何言ってんだよ。春になったら、どこにでも俺が連れて行ってやるって」

 まだ車椅子生活で、入院期間が長かった俺は感染症のリスクもあり、外出は最低限に留められていた。家から出られない毎日は正直退屈だけれど、この冬休みが明けて春になれば、俺と鶴海くんは同級生になる。
 というのも、出席日数が足りず三年生には進級できなかったからだ。特例での進級という話も出たらしいけれど、何より大学受験に必要な勉強が圧倒的に足りていない。加えて、復帰して早々にハードな特進科の授業についていくのは、体力的にも厳しいだろうというのが先生と両親の見立てだった。
 そこで俺は、有名大学進学を目指す特進科から、鶴海くんと同じ普通科へ転科することになった。もう一度、二年生をやり直す。簡単に言えば留年だ。
 復学にあたって、学校側はさまざまな配慮を用意してくれた。車椅子での移動をスムーズにするため、ベニヤ板で簡易的な補助スロープを設置してくれたし、具合が悪くなればいつでも保健室で休める。そして何より、その新しい学校生活の中に、同じクラスメイトとして鶴海くんがいてくれる。それが俺にとって、一番の安心材料だった。
 部屋の壁際にあるハンガーラックには、普通科の新しい制服が、まだ袋をかぶったまま掛かっている。鶴海くんと同じ、ネクタイつきの制服だ。
 特進科のボタンダウンしか知らなかった俺にとって、初めて結ぶネクタイになる。

「少しでも具合が悪くなったら、すぐに教えろよ?」
「…………」
「おい、水季」
「だって折角、こうして鶴海くんと会えたのに」
「気持ちはわかるけど。無理は禁物って言われてるだろ」

 地道にリハビリを重ねて、今は少しだけ自力で動けるようになったものの、長時間立っているのはまだ難しい。長らく寝たきりだった反動もあって疲れやすく、日中のほとんどを車椅子で過ごしている。
 鶴海くんはハンガーにダウンをかけると、車椅子に座ったままの俺を見下ろして言った。

「水季はどこに座る?」
「ん、じゃあベッドに移ろうかな」

 タイヤにロックをかけ、フットレストを外す。横移動しようとしたところで、鶴海くんが頭の上から「待った」をかけた。

「車椅子に座ってるより、ベッドの方が良い?」
「うん、平気だよ。むしろその方がラクだから――」

 言い終えるより先に、俺の背中に右手が回った。硬く筋張った腕が、服の上からでも分かるくらいの力強さで体を支える。膝裏に差し込まれた左手にぐっと力がこもったかと思うと、次の瞬間には身体がふわりと宙に浮いていた。

「つ、鶴海くん、ちょっ、これは……」

 抱き上げられた、というだけで頭の中が真っ白になる。俺は慌てて鶴海くんの首に両腕を回してしがみついた。間近に迫った首筋から、石鹸とは違う、鶴海くん自身の匂いがふわりと香る。

「はい、到着」

 尻餅をつかないように慎重に腰を落として、脚と背中を支えていた腕をそっと外される。触れていた場所からすっと熱が引いていくのを、名残惜しく感じている自分に気づいた。「大丈夫だった?」と顔を覗き込まれて、俺は何度も頷きながら自分の膝をゆっくりと伸ばした。
 不意打ちのお姫様抱っこで、心臓が身体の内側で暴れている。心の中の俺も「やばい、なに今の」と白旗をぶんぶん振って悶えていた。スマートな動作でなんでもさらりとやってのける鶴海くんに、相変わらずドキドキしっぱなしだ。

「……ちょっとやばいかも」
「なにがやばいの?」
「今日、水季の親が家にずっと居ると思ってたから。まさか二人きりだとは」
「ごめんね、あの……この日を選んだのは、その……わざと、です」

 鶴海くんからメッセージが来た時、俺はわざと母さんに休みの日を先に尋ねて、両親が居ない日を鶴海くんに伝えた。ずるいことをしている、とは思ったけれど、好きな人が家に来てくれるなら、どうしても二人きりになりたいから。

「……あー、もう。なにそれ、ずるいって」

 手の甲を指で撫でられて、早々に勉強どころではなくなってしまった。お互いに指先へ視線を落としたまま、沈黙が続く。口に出して伝え合ったことはなかったけれど、多分、俺と鶴海くんが今考えていることは同じな気がする。だって、頬はピンク色になってるし、恥ずかしさを我慢して眉が下がっている。

「鶴海くん、あの……」
「うん?」
「会えなかった分。いっぱい、くっつきたいなって俺は思ってるんだけど」
「…………」

 言い出したのは俺だ。なのに、顔がどんどん熱を帯びていく。鶴海くんの手にそっと指先を絡めてジッと顔を見つめると、微かに息を呑む気配が伝わってきた。何か言おうとして、結局言葉にならなかったらしい。そのまま体を傾けて、額と額が重なる。意を決して瞼をそっと閉じると、鶴海くんは優しく俺の顎に手を添えて軽く持ち上げた。

「なんでそういうこと言うの」
「ご、ごめん。でも、俺、鶴海くんとずっと……」
「ずっと、なに? ちゃんと言って」
「ハグとか……キスしたいなって、思ってたから」

 もし、独りよがりな願望だったらどうしよう。そんな不安を拭い去るように、鶴海くんは黙ったまま俺の下唇をすり、と親指の腹で撫でた。すぐそばに、吐息を感じる。触れるか触れないか、ちょっと不安になって薄く瞳を開くと、鶴海くんはじっと俺の瞳の奥を覗きこんでいた。
 黒目の奥まで見透かすような、真っ直ぐな眼差し。普段の柔らかい表情とは違う、男の顔だ。逃げ場を探して視線を彷徨わせても、その瞳に搦め捕られて動けない。見つめられているだけなのに、まるで肌に直接触れられているみたいに、体の奥がずくんと疼いた。

「まだリハビリ中なのは、もちろんだけど。水季のこと、すげぇ大事にしたいって思ってるから、そういうの……あんま焦んないようにしようって決めてた」

 逃げ場のない距離で見つめ返された瞬間、胸の奥がきゅうっと切なく締め付けられる。でも、苦しくはない。迷いを溶かすように、額が触れて、鼻先がくっついて――横髪を耳へかけられる。触れ合うところはどれも、温かくて、柔らかい。
 なのに、唇はまだ触れない。あと少し、ほんの数センチの距離を鶴海くんはなかなか縮めようとしなくて、焦らされているみたいに息が浅くなる。鼻先が掠めるたび、吐息が唇の上で溶けて、それだけでどうにかなってしまいそうだった。早く、と思う自分と、このままでいたいと思う自分がせめぎ合う。

「水季。本当にキスしていいの?」
「……うん、いいよ」

 熱のこもった声で名前を呼ばれて、返事をする代わりに鶴海くんの裾を片手で掴む。初めてのキスだったけれど、鶴海くんは続きを求めるように何度か角度を変えて、最後に下唇をゆっくりと食んだ。誰とも比較しようがないけれど、多分鶴海くんはキスが上手い。し方だけじゃなく、雰囲気というか、そういうものを全部含めて。

「睫毛の先まで可愛いって、どういうこと?」

 下瞼の際をそっと撫でられて思わず目を閉じると、今度は頭にも手を添えられて、髪の感触まで確かめるように指先で撫でられる。緊張で固く閉じていた唇を舌先で優しく開かれると、鶴海くんの濡れた舌が割り込んできた。

「んー……、つるみく、ん」
「名前。俺の名前、ちゃんと呼んで」
「ん、う、航平……くん」

 ありのままの自分で愛されるのが、どうしようもなく幸せだった。ただひたすらに優しくて、甘いキス。ちょっとだけ大人の階段を上って、いけないことをしている気持ちになる。そっと唇が離れると、鶴海くんはふーっと息を吐きながら、「続きはもう少し後でな」と耳元で囁いた。いつか、鶴海くんとこの先のことも出来たら……きっと幸せ、だと思う。
 鶴海くんは俺の身体を抱きしめると、何度も啄むようなキスで限界まで溜め込んだ気持ちを伝えてくれた。

「ごめん、勉強しようって誘ったの、半分嘘だった」
「……うん、俺もだよ」

 まだこの身体じゃ、どこにもデートには行けないから。じゃあ、家で勉強するって親に言おうよ。ゆっくり過ごして、いっぱい喋ろう。そんな約束をしたはずなのに。課題のワークは、鞄の中で眠っている。DVDのケースも、カゴに入れられたままだ。
 その代わりに、「部屋がちょっと寒いから」なんて理由をつけて、ベッドの中でそっと身体を寄せ合った。触れるだけの優しいキスを何度も交わしながら、あの七日間の出来事を、一つずつ確かめるように語り合う。答え合わせをするみたいに、あの時どんな気持ちでいたのかを、時間をかけて言葉にしていった。鶴海くんの声が、記憶の中の景色に静かに色を足す。
 どれだけ時間が流れても、この腕の中にいたい。鶴海くんへの想いと、交わす言葉と、伝わってくるぬくもりで――ただ静かに、心が満たされていく。

「ごめん、もう一個ダサいこと言ってもいい?」
「いいよ」
「……腕が痺れた。腕枕、反対の腕にさせて」
「鶴海くん、可愛いね」
「は? どこがだよ。どっからどう見ても可愛いのは水季のほうだろ」
「そういう意味じゃなくて。なんていうか……」
「「愛おしい?」」

 綺麗に重なった声に、俺たちは二人で「ふはっ」と声を上げて笑い合うと、目が合ってどちらからともなく、またキスをした。