キュー、君が僕を見つける日

 ああ、なんだか眩しい。もう朝が来たのかな。
 そう思ってゆっくりと瞼を開こうとするのに、瞼はひどく重く、まるで長い眠りの底で錆びついてしまったかのように言うことを聞かない。何度か瞬きを繰り返し、ようやく薄目を開けると、滲んだ視界の向こうに白い格子模様の天井と、クリーム色のカーテンがぼんやりと浮かび上がった。
 ピッ、ピッ、という電子音が鳴っている。それが自分の心電図の音だと気づくまでに、しばらく時間がかかった。体は重く、指先すら思うように動かせない。それでも、深く吸い込む空気は不思議なほど新鮮だった。
 ぼんやりと霞む視界の中、誰かがすぐ傍にいる気配がする。焦点を合わせるように何度か瞬きを繰り返すと、目の前にいる女性――白い制服を着た看護師さんの姿が、少しずつ像を結んでいった。こちらを覗き込んだまま、固まっている。静かな部屋に、その人の戸惑いの声が小さく響いた。

「……え?」

 俺の顔を見て、まるで信じられないものを見るように目を見張っている。その表情がみるみる強張り、次いで大きく揺れ動くのが分かった。胸ポケットに差し込んでいたスマホを慌ただしく取り出し、ベッドの横にあるナースコールのボタンを押し込んでいる。

「雨宮先生っ、三〇三号室の患者さんが目を覚ましました!」

 その声は廊下の奥まで響き渡り、遠くからバタバタと激しい足音がいくつも近づくのが聞こえた。勢いよく開かれた扉から、白衣を翻して男の人が飛び込んでくる。お医者さんだ。その人は驚いた表情のまま俺のもとへ駆け寄ると、ペンライトを手に、じっと瞳を覗き込むように尋ねてくる。

「ここは国立病院です。私は、あなたの担当医をしている雨宮です。聞こえますか。私の声が分かったら、二回瞬きをして下さい」

 聞こえている。話されている内容の意味も、ちゃんと分かる。その声に応えるように、俺はゆっくりと二度、瞬きをした。
 先生の顔に、安堵の色がふっと浮かぶ。強張っていた表情が緩み、隣にいた看護師さんと短く視線を交わし合うのが見えた。

「すぐにご家族へ連絡を」
「面会ホールにいらっしゃると思うので、声をかけてきます」
「それと、脳神経外科のドクターも呼んでくれ」

 先生がそう言うのが聞こえたかと思うと、ざわざわと波立つ意識の中、ベッドを囲む数人の看護師さんを掻き分けるようにして、誰かがこちらへ小走りに歩み寄ってくる気配がした。

「瞳孔の反応も良好ですし、反応も返ってきました。これから精密検査をして、今後のリハビリの方針も含めてご説明しますね。今は、彼のそばにいてあげて下さい」
「……っ、良かった……!」

 母さんの声だ。ベッドの脇に崩れ落ちるように膝をつくと、震える両手でそっと手を包み込まれる。その手のひらから伝わってくる温もりは温かく、俯いた顔からはとめどなく涙が頬を伝い落ちていた。

「ごめんね……ずっと、ずっと待ってたから。ほら、あなたも声を掛けて」

 その後ろで、父さんの肩が小刻みに震えているのが見えた。いつもは冷静で、めったに感情を表に出さない父さんが、ぐっと噛み締めた唇の隙間から絞り出すような嗚咽を漏らしている。そんな姿を見るのは生まれて初めてだった。次第に堪えきれなくなったのか、父さんの目からも大粒の涙があふれ出し、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
 まだ体は思うように動かず、声を出すことさえ出来ない。それでも、繋がれた母さんの手のぬくもりと、傍らで肩を震わせる父さんの姿、そしてほっとしたような看護師さんたちの笑顔が、確かに「生きている」ということを教えてくれる。
 ようやく戻ってきた世界の眩しさに、俺はゆっくりと目を細めた。

 ***

「……それじゃあ、これまでの治療の経過について改めて整理しようか。君も自分がどういう状態でここに来たのか、そろそろ知りたい頃だろうしね」

 雨宮先生はカルテを閉じ、ベッドの脇に置かれた椅子に腰を下ろした。隣には、少し緊張した面持ちで母さんが座っている。
 今日は十月二十六日。俺が意識を取り戻してから、あっという間に数日が過ぎていた。

「君が交通事故に遭ったのは、今年の四月十三日。搬送されてきたときの状態は、正直に言ってかなり深刻だった」

 先生は一枚の紙を俺の前に置き、名札にぶら下がっていたボールペンを握ると、棒人間の頭の部分に大きな赤色のバツ印を書き込んだ。

「まず、頭部。外傷性脳損傷と、急性硬膜下血腫を起こしていた。頭蓋骨を開けて、脳の圧を下げる緊急手術を行ったんだ。それから、全身の外傷。右の大腿骨と骨盤も骨折していたから、ボルトで固定する手術もした。……命が助かったのは、本当に奇跡的な確率だったんだよ」

 なんだか難しい医療用語で具体的なイメージは分からないけれど、とにかくひどい怪我だったのだということは伝わってきた。横に居る母さんが口元を隠して涙ぐんでいるのが見えて、どれほどの心配をかけたかが伝わってくる。

「事故のショックや、急に長い時間が経っていたことへの戸惑いで、心が追いつくのにはもう少し時間がかかると思う。けれど、うちの専門医たちが協力して、君を退院までしっかりサポートするからね」

 それから雨宮先生は、退院までの具体的な道筋を教えてくれた。退院出来るのは、早くても十二月。まずは身体を少しずつ起こす練習。それができるようになってきたら、ようやく座る練習にステップアップするらしい。

(早く外に出られるようになりたいのに、まだ二ヶ月も先だなんて……)

 鶴海くんに一刻も早く会いたい。浦嶋さんの身体で最後に会ってから、もう一週間が経過している。
 雨宮先生が病室を出て行ったあと、母さんは俺の意識がない間に、クラスのみんなが届けてくれたという千羽鶴をみせてくれた。造花のアレンジメントには、『待ってるね! 二年一組一同』とカラフルな文字で書かれたメッセージカードが差し込まれている。

「あの……母さん、聞きたいことがあるんだけど」
「なに、どうしたの?」

 ごにょごにょと小さい声で尋ねると、母さんはちょっと屈んで顔を近づけるようにして、俺の話に耳を傾けてくれた。

「あの事故の時に俺のことを助けてくれた人がいるって、父さんが昨日言ってたんだ。それで……その人の名前を、教えて欲しくて」

 答え合わせがしたい。あの夢のような七日間が、決して俺の頭の中だけで起きたことじゃないって、安心できるものが欲しい。
 母さんは、困ったように眉を下げて黙り込むと、何かを決心したような表情で一枚のメモを見せてくれた。

【汐見台高校 普通科・一年四組 鶴海航平
 住所 七ヶ浜町汐見台七丁目】

 鶴海くんの文字だ。はらいの部分を少しだけ長く伸ばす、癖のある文字。この紙を持っている理由を俺が尋ねるより先に、母さんはその答えをくれた。

「鶴海くんが事故現場に居合わせて、学校に通報してくれたっていうのは、お父さんからも聞いてるわよね?」
「うん」
「救急車が来るまで、あなたの手を握って励まし続けてくれたのよ。それに、ここに転院したあとも、月末になると必ずお見舞いに来てくれていたの」
「えっ……」
「四月から、七月までずっと。面会制限があるから会えないって分かってるのに、いつもこれくらいの小さいお花を持って来てくれてね。申し訳ないし、ご両親に挨拶にも伺いたいから、住所を教えてって頼んだのよ」

 鶴海くんの家を訪れた父さんと母さんは、通報してくれたことへのお礼と共に、それ以上の気遣いをしないよう丁重にお断りをしたらしい。そして、夏休み以降は、鶴海くんが一人で病院にやって来ることはなくなったという。
 俺が逸る気持ちで起き上がろうとすると、母さんは慌てて手を添えた。

「どうしたの、急に慌てて」
「鶴海くんに会わせて。俺、ちゃんと顔を見てお礼がしたいんだ」
「……落ち着いて。気持ちはわかるけれど、とてもじゃないけどその身体では無理よ」
「一日だけ車椅子で外に出るとか」
「まだ目が覚めたばかりなのよ。貧血になったり、吐き気がすることもあるって先生が言ってたでしょう」
「お願い。電話だけでもいいから」
「病棟の中は、通話禁止よ。一階の公衆電話の前か、外に出ないと」

 それでも食い下がろうとする俺に、母さんは必死で涙を堪えるように呟いた。

「凄く不安なのよ。急に具合が悪くなる事だってあるかもしれない。せめて退院するまでは、治療とリハビリに専念してちょうだい」

 ***

 鶴海くんと最後にベンチで会った日から、二ヶ月。心だけが前へ前へと焦る一方で、俺の身体はちっとも治ることを急いではくれなかった。
 予定より数週間遅れで俺は病院を退院し、自宅療養の期間に入っていた。高校はすでに冬休みに突入していて、俺が意識を取り戻したことも、退院したことも誰にも知られていない。「復学支援会議」という面談を終えて学校が受け入れる態勢を整えるまでは、クラスメイトたちの混乱を防ぐために情報を伏せていてほしい、と学校側から頼まれていたからだ。
 退院後も週に一度は通院して経過観察が必要で、今でも車椅子が欠かせない。窓の外を流れていく景色を眺めながら、膝の上に置いた両手をぼんやりと見下ろす。

(こんなに寂しい気持ちで迎えるクリスマスなんて、生まれて初めてかも)

 午後の外来での定期通院を終えて、学校に提出するための診断書を受け取り、母さんの車で病院から汐見台駅方面に向かっている最中だった。窓ガラスに映る自分の顔は、あれだけ取り戻したがっていた「本当の顔」のはずなのに、いつも悲しそうに口角が下がっている。

「ねぇ、この近くに美味しいケーキ屋さんが出来たみたいなの。そこでケーキを買って帰るのはどう?」
「うん、じゃあ俺は車で待ってるね」

 家から離れた駅前の風景は、街路樹がイルミネーションの電飾をまとい、どのお店もクリスマスカラーに溢れていた。両親と手を繋いで歩く子どもたちが楽しげな笑顔で通り過ぎていくのを、羨ましい気持ちで見つめる。
 クリスマスプレゼントがもらえる年齢を過ぎているのは十分わかっているけれど、俺が欲しいものはただ一つに決まっていた。

(一分でもいいから、鶴海くんに会える時間が欲しい……)

 一緒に過ごした七日間は、誰にも言えないまま今も胸にしまってある。話せば壊れてしまいそうで、この思い出が終わってしまうのも怖くて、ずっと心のなかに残しておきたかった。
 あの時の声は、今でも頭の中で何度も俺を呼んでいる。
 辛いリハビリを頑張る時、その姿を一番に見てほしいと心に思い浮かべる相手も、やっぱり鶴海くんだった。

(退院したら、真っ先に会いに行きたかったのに)

 抱きしめてくれた時のぬくもりは消えないままだ。伝えたい言葉が届け先をなくして、胸の中を漂っている。
 時間が経てば経つほど、もう頑張って忘れようと思えば思うほど、その存在が心の中で輪郭を濃くしていく。心の中で、光のように輝き続けている。
 病院から出られず、会えない間に俺に出来たことは、鶴海くんがくれた想いと言葉、ぬくもりを忘れてしまわないように――あの七日間を、日記に書き綴ることだった。

「お待たせ! たくさん種類があって悩んじゃった。後はまっすぐ帰っていいわよね?」
「……遠回りしたい」
「遠回りって、どうして」
「久しぶりに、高校の前を通る道で帰りたい。ダメかな?」

 後部座席から少しだけ前屈みになって、膝に掛けられたブランケットを握りしめながら提案すると、母さんは少し悩んでから困ったように微笑んで、車のハンドルを反対方向に切った。
 鶴海くんと初めて出会ったのは、あの事故の時というのが正しいんだろうか。
 俺はその時のことを殆ど覚えていないから、どちらかというと湊くんの身体で後ろから話しかけられた時の印象の方が強い。
 通学路沿いで深い秋の色をまとっていた木々は葉を落とし、寒々しい枝ばかりに変わっていた。

「学校に戻れるのはもう二、三か月先になるけれど。これからはお父さんと交代で送り迎えをするからね」
「うん、ありがとう。……迷惑ばっかりかけて、ごめんね」
「何言ってるの。親なんだから、当たり前のことよ」

 両親にかけた心配を考えれば、それは当然の提案だと思う。俺の家は汐見台から離れた所にあって、自転車だと片道四十分はかかる。もう自転車に乗ることはしばらく出来ないだろうし、バスや電車に乗るのだって介助が無ければ無理だ。
校門前で停まっていた車が再び動き出す。坂を下る途中、鈍色の海が見えて来た。波は暗く沈んだ色をしていて、ところどころに白波が砕けている。

(こんなに寒々しい景色だったっけか)

 変な理由をつけてここまで来たのは、いっそ鶴海くんのことを諦めたかったからなのかもしれない。全部を無かったことにしたくはないけれど、あれからもう二ヶ月も経っている。傷つきたくないから、期待しちゃいけないって、分かっているのに。
 祈るように指を交差させながら、公園へと続く道にふと視線を向けると――。

「……母さん、止まって」
「えっ?」
「お願い、車を止めて!」

 俺の大声に驚いて、母さんは急ブレーキを踏んだ。バックミラー越しに目が合ったけれど、俺はすぐにパワーウインドウのスイッチを押し、黒いダウンを着て俯き加減に歩く背中に向かって声を張った。

「鶴海くん!」

 今までこんなに大きな声で誰かを呼んだのなんて、それこそ小学生以来じゃないだろうか。
 俺に呼びかけられた鶴海くんは停止した車に気付いて顔を上げると、驚いた表情のまま近づいてきた。

「……こんにちは」

 俺の顔を見て、すぐに運転席の母さんに向かって頭を下げる。なんというか、まさかの相手に出会ってしまったような、緊張で強張った顔をしていた。

「あら、鶴海くんじゃない。こんなところで会うなんて」
「お久し振りです。というか、あの……」

 後部座席に座ったまま、半分だけ開いた窓越しに俺の顔を二度、三度と確認するたびに目が合う。母さんは、意識が戻って自宅療養をしていること、復学は来春になることを伝えると、まだそのことを周りの友達には言わないでほしいと念を押した。

「母さん。俺、鶴海くんと少し話がしたいんだけど」
「何言ってるの、だめよ。こんなに寒いのに」
「ちゃんと、助けてくれたことをお礼したいんだ。それに……」

 むっとした表情をされたけれど、俺も食い下がる。鶴海くんは「あの」と控えめに手を挙げて、短く会話に割って入った。

「車椅子は俺が押して行くので。そこの下にあるベンチで、ちょっとだけ、話すのはだめですか?」
「……っ、母さん。お願い」

 俺たち二人の視線に耐えかねたように母さんは溜め息をつくと、「十五分だけなら」と渋々首を縦に振って許してくれた。
 公園の脇に母さんが車を停め、東屋のベンチまで鶴海くんが車椅子を押した。その間、何から話そうかと頭の中で必死に会話の糸口を探していたけれど、俺と鶴海くんはお互いに黙ったままだ。
 車椅子をベンチの脇に寄せると、鶴海くんはスペースを空けて左隣に座った。

「……え、っと……」
「あー、初めまして、でいいのかな。普通科一年の鶴海航平って言います。先輩が事故った時、たまたまその場に居合わせて」

 まさかの敬語に俺がぱちぱちと瞬きを繰り返すと、鶴海くんはもっと驚いたような顔をしていた。そこで、はたと気づく。

(そ、そっか。俺……鶴海くんから見たら、初めて喋る『先輩』なのか)

 すごく変な感じだ。だって、鶴海くんが俺をQだと認識してからは、どちらかというと俺の方がいつもリードしてもらって、鶴海くんが何かとお世話を焼いてくれていたから。

「あの、事故の時まで喋ったことは無かったですけど。先輩のこと、ずっと心配で……お見舞いは夏休みまでしか行けなかったんすけど。でも、良かった。マジで良かったです」
「あ、ありがとう。本当に、命の恩人です」
「いや、そこまでのことは。ただ、学校に連絡しただけなんで。……それより、身体の具合は」
「まだ、自力じゃ歩くのにはふらついちゃうから車椅子なんだ。リハビリは通院しながら続けていて、今のところ順調って言われてはいるんだけど……」
「そうなんすね。俺もその……先輩と比べるのはおかしいっすけど、脚を怪我した事があるんで。そういうリハビリの大変さみたいなのは、ちょっと分かるっていうか」

 どうしよう、なんて言って切り出そう。
 めちゃくちゃ深刻そうな顔をして、しかも時折こっちの顔をちらちら盗み見てくる鶴海くん。 目が合うと、照れくさいのかぱっと逸らされてしまう。

「すんません」
「えっ?」
「ぶっちゃけどういう距離感で喋ったらいいのか、テンパってて」
「あ、そっか……そうだよね、ごめんね急に呼び止めちゃって」

 今までに見たことのない年下の男子っぽい顔だなぁ、なんて可愛く思える。
 俺はふと、鶴海くんがモールで言ったセリフを思い出していた。「まさかの年上説」だとふざけていたあの日。あんなに騒がしく笑い合っていたのに、今は敬語で向かい合っている。この落差がおかしくて、口元がすっかり緩んでしまうのを隠しきれなかった。

「ふふ」
「え……先輩、どうかしました?」
「鶴海くん、ちゃんとこっち向いて?」

 ブランケットからそっと手を覗かせて、顔の横でピースの指先を二回曲げて見せる。
 鶴海くんの瞳が、大きく見開かれた。弾かれたように立ち上がったかと思うと、次の瞬間には俺の前で膝から崩れ落ちるようにしゃがみ込み、そのままの勢いでお腹に顔を埋めるようにして、両腕をきつく巻きつけてくる。

「わっ、えっ、鶴海くん……!?」

 あまりの勢いに、車椅子ごと後ろに倒れそうになった。慌ててロックに手を添えるけれど、鶴海くんは離れる気配もなく、むしろもっと強く抱きしめてくる。ブランケットに顔を押し付けたまま、くぐもった声が聞こえた。

「……なんで早く言わねぇんだよ」
「また、そう言われちゃうなぁと思ったんだけど。たくさん意地悪しちゃった」
「たくさんって、どの意地悪のことだよ。俺の前から黙って二ヶ月も消えたこと? それとも、俺が先輩相手にチキってるのを黙って見てたことに対して?」

 鶴海くんは涙を堪えるように鼻をすすると、コンクリートに膝をついたまま、俺の腰に回した腕は離さずに、そっと顔だけを斜めに傾けて見上げてきた。小さい子どもが様子を伺いながら甘えてくるみたいなその仕草に、微笑みたいのと、目の前の鶴海くんを愛でたい気持ちとで胸がいっぱいになる。

「ごめん、どっちもだね」

 短くそう答えた俺に、鶴海くんは不安げな声で尋ねた。

「どうして二ヶ月も会いに来なかったんだよ」
「つ、鶴海くん。落ち着いて」
「落ち着けるかよ! 今ここで別れたら、次はいつ会えるかわかんねぇのに」

 どんな姿になっても、いつだって「待ってる」と笑いかけてくれた鶴海くんからは想像もできないような余裕のない顔だった。
 鶴海くんに会いたい一心で俺は二ヶ月を過ごしてきたけれど、何も状況が分からなかった鶴海くんの感情をぶつけられて、「そうだよね、不安だったよね」とそっと両手で髪を梳くように撫でる。
 どんな言い訳をここで並べるよりも先に、鶴海くんに言わなければならないことがある。はぁ、と息を吐いて涙をダウンの袖で拭う横姿を見つめながら、俺はひんやりと冷たい大きな手のひらをそっと両手で包み込んだ。

「あのね。俺は、もう誰の身体も借りないんだ、鶴海くん」
「何だよそれ、どういう――」
「明日も、明後日も。これから先、何回でも会おうって約束ができるんだ。だから、もう一度やり直してもいいかな」
「やり直す、って」

 すぐ隣のベンチに座るように促すと、鶴海くんはまだ現実を受け容れられないような顔ですとんと腰を下ろした。
 両手を繋いだまま、俺はしっかりとその瞳を見つめて笑って見せる。

「初めまして、望月水季(もちづきみずき)です。鶴海航平くん、君のことが大好きです」