昨日までの雨が嘘のように晴れ渡り、障子の隙間から朝陽が畳の上に細長く差し込んでいる。その向こうから、雀の声が聞こえた。
奥に見える小さな庭では、雨に濡れた枝葉からぽとり、ぽとりと滴が落ちている。土と濡れた草の匂いが、むわりと立ち上ってきた。庭の隅に置かれた古い甕には雨水が溜まり、水面に光がゆらゆらと反射している。
しばらく、その揺らめきをぼんやりと眺めた。何かを思い出せそうで、思い出せない。そのもどかしさが、胸の奥で小さく波打っている。
ふと体を起こそうとした瞬間、急な息苦しさに襲われた。
「……ゴホッ、ゲホッ……コホッ!」
咳き込むと、身体の節々が軋むように痛む。腕を持ち上げるだけで、こんなにも時間がかかるものだったろうか。ゆっくりと身を起こすと、うっすらと骨が浮き出た皺だらけの手が頼りなく震えていた。
「浦嶋さーん、大丈夫ですか? 介護士の河村ですよ。まずは誤嚥しないように、体を前に倒してみましょうか」
上体を前に倒すように言われ、背中を下から上へとさすられる。呼吸が少しずつ落ち着き始めると、介護士だというその人は俺をベッドから「いち、にの、さんっ」という合図に合わせて、滑らせるようにゆっくりと椅子へ移動させてくれた。目が合うと、「おはようございます。昨日の雨はすごかったですね」と微笑まれて、俺はゆっくりと無言で頷く。まだ若い女性だ。二十代後半、くらいだろうか。
台所から急須と茶筒を持って来ると、河村さんは世間話をしながら慣れた手つきで緑茶を淹れ始めた。振り子つきのクラシックな壁掛け時計が鳴り、午前九時を示している。手渡された新聞をそっと受け取り、俺は今日が十月十九日であることを確認した。
(月曜日の朝になってる。今日も学校の生徒じゃない、知らないおじいさんだ……)
湯呑みを置いてくれた河村さんのポロシャツに、『訪問介護ケア・汐見台』と刺繍されているのが見える。そう遠くに来てしまったわけではないと分かって安心していると、すぐ傍の棚の中に飾られている写真を見つけた。初老の女性だ。たぶん、このおじいさんの奥さんなんじゃないかと思う。
辺りを見渡すけれど、その姿は見えないし、室内干しされた着替えも男性用のものしかない。そこでもう一度その写真を見やると、河村さんは眉を下げて微笑んだ。
「今日は奥様の月命日ですもんね。お買い物の時、お仏壇に供える花を買ってきましょうか」
「あ、あぁ……すまないね」
言葉をすぐに返すことが出来なくて、曖昧な受け答えになってしまう。
俺の心にあるのは、今日は鶴海くんに会えないまま、一日が終わってしまうんだろうか、というその一点だけだった。
「でも、メルが帰ってきて良かったですね。自分でお家に戻って来てくれて、本当にラッキーでした」
「……メル?」
「浦嶋さんが、奥さまと飼った黒猫ちゃんの名前ですよ」
河村さんはちらりとちゃぶ台の前で丸まっている猫に視線を向けて言った。
そうか、メルはこのおじいちゃんの飼い猫だったのか。昨日の俺は文字通りずぶ濡れだったけれど、雨が止むのを待っている間に眠ってしまったのかもしれない。
そわそわと落ち着かない気持ちで一口お茶を啜り、まだ寝間着姿であることに気が付いて、そばに置かれたスラックスとシャツを引き寄せる。すると河村さんは、ぴきっと表情を強張らせて苦笑いを向けた。
「浦嶋さん、お散歩にはまだ早いと思いますけど」
「……ちょっと、近所を歩いて来るだけなんじゃがのう」
絞り出した声はしわがれている。動揺する俺をよそに、河村さんは唇を尖らせながら言った。
「朝ごはんを食べてから一緒じゃないと。また一人で出歩いて転んでしまったら、私だって所長に怒られちゃうんですよ?」
言い方こそ優しいけれど、俺を行かせまいと肩に触れる手には力がこもっていた。
うーん、まずい。今までは自由に出歩くことが出来たけれど、このままだと一人で家を出ることすら叶わないかもしれない。
鶴海くんはきっと、学校で俺のことを探しているだろう。登校して一時間経っても俺が現れなかったら、あのベンチに俺が来るまで本当に何時間でも待っていそうな気がする。
「とりあえず、朝ごはんにしましょう。今日は浦嶋さんの好きな塩鯖を焼いておきましたから」
ねっ、と目を細めて顔を覗き込まれる。一分一秒でも早く出たいと思うのに、外に出て行く為のうまい言い訳が思いつかない。
メルがふあぁ……と大きな口を開けてあくびをしているのを見ながら、まず俺は河村さんに着替えを手伝ってもらった。朝食が出来るまでの間、全然興味のない川柳の番組にテレビのチャンネルを変えられて、時計の針とにらめっこする。
「浦嶋さん、今日は食が進んでいますね。お腹空いてました?」
「そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん」
「あははっ、何ですかそれ~。でも嬉しい、ここ最近は元気がなかったから」
「そうかのぅ」
「良いことですよ。ゆっくり噛んで食べてくださいね」
食卓に並んだ小鉢の数々を完食して「元気ですよアピール」をする俺は、河村さんの話に相槌を打ちながら、頭の片隅で家から出る口実を考えていた。
***
河村さんが車で買い出しに行ってくれている間に、俺はこっそりと家を抜け出すことにした。
震える手でしたためた手紙をテーブルに残して、姿見の前に立つ。腰の曲がった小さなおじいさんの姿だ。
靴箱の天面に置かれたハンチング帽と杖、使い込まれたリュックを背負って外に出る。なんだか、いつもより肌寒いような気がするのは気のせいだろうか。
杖なんてつくのは初めてのはずなのに、気付けばすっかり使いこなして歩いていた。家の角を曲がると、大きな道路の向こうには昨日見た団地の景色や駐輪場が見えてきて、鶴海くんと約束した公園がそう遠くはないと分かる。
本来は歩いて数十分の距離のはずなのだけれど、一度でも足を止めたらもう二度と歩けなくなりそうなくらい、おじいさんの身体は弱り切っていた。
「っはぁ、はぁ……。これまた随分と時間が掛かりそうじゃのう……」
同級生から家族へ近づいたと思ったら、猫になって。今日は近所のおじいさんになって、鶴海くんと話すことも、顔を合わせることも次第に難しくなっているような気がする。どうして急にこうなったのかは分からないけれど、もしかしたら今までとは違う変化が起きているんだろうか。
「……なんだかなぁ」
独り言のように呟いて、足が自然と止まった。最初はあんなに自分を取り戻したがっていたのに。今さら俺は、なにを怖がっているんだろう。
鶴海くんは一緒に居られるなら、その他のことなんて気にしないと言ってくれた。記憶を取り戻すなんて、無茶な俺の願いにも付き合ってくれている。
なのに、ふたりで過ごす時間がかけがえのないものだと思うたびに、今の自分を失うのが怖くて仕方がない。鶴海くんと、絶対に離れない約束が欲しい。
(そんなの、悲しくて言えないよ)
心の奥で、膝を抱えた俺が背中を向けて呟いている。ずんと暗い気持ちになっているのは、それが叶わないと、頭のどこかで諦めているからだ。
思い出と時間が増える度に、鶴海くんへの想いが強くなっている。けれど、その積み重ねの先で笑い合う未来を思い描くことが出来ない。
「はーっ……はぁっ……」
たった数十メートルの距離で、すでに疲労困憊だった。
公園の入り口で、車避けの銀色の雀の一羽に、体重をかけるように手を添える。顔を上げた先、約束をした東屋の下にあるベンチには、制服姿の鶴海くんが座っていた。
(やっぱり、待っていてくれたんだ)
前屈みになって、何を見るでもなく項垂れている。臆病な自分が「会ったらもっと寂しくなるかもしれないよ?」と問いかけて来て、思わず一歩後ずさると――足音に振り返った鶴海くんが、俺の姿を見てぺこっと頭を下げた。
「こんちわっす」
「……どうも、ご機嫌よう」
予想外の挨拶をされて、つい、おじいさんになりきって返事をしてしまった。
鶴海くんは学校をサボっているのが後ろめたいのか、どこかバツが悪そうに視線を外して顔を背ける。よそゆきの顔をされるのがなんだかおかしくて、さっきまで心の中でぴんと張りつめていた糸も少しずつ緩んでいく。
俺がさり気なく真ん中を開けて左隣に「よっこらしょ」と腰を下ろすと、鶴海くんはぎょっとしていた。突然、知らないおじいさんが自分のすぐ隣に座るとは思いもしなかったんだろう。目があって気まずそうに目を逸らす鶴海くんに、俺はそっと微笑みかけながら尋ねた。
「青年、今日は学校に行かないのかい?」
「……あー、もう終わって帰って来た感じです」
「そうかい、随分と早いんだね」
「午前授業、的なやつです」
首を掻きながらなんとか誤魔化そうとする鶴海くんに、口角が上がるのを堪える。俺のことを探すように顔を左から右へと動かしているのを見て、とんとんと肩を叩くと、振り返った鶴海くんにゆっくりとピースを曲げて見せた。
「学校はサボっちゃいかんじゃろう、鶴海くん」
満面の笑みでピースをする俺を前に、鶴海くんはぽかんと口を開いてから勢いよく立ち上がって、大きな声で叫んだ。
「……っ、キュー、お前! 最初っからハンドサインしろって。俺がどんだけ心配したと思って――」
「昨日は実は……知らないお宅の子供に憑依してしまってのう。外に出られなかったんじゃよ」
「波瑠に話しかけても赤ちゃんに戻ってるし、昨日もベンチに来ねぇし。てっきり、もう会えないんだと……」
「はっはっは、まだ成仏しとらんよ。ずっと、ここで待っててくれたのかい?」
「いや、雨が降ってきたから途中で帰った。一時間くらい、だな」
耳朶に触れながら目を逸らす鶴海くんは、優しい嘘をついていた。もっと長い間、あのベンチで待っていてくれたのを知っているよ、と言えない言葉を拳の中で握りつぶす。
「そうかい。すまんのう、会えずじまいで」
昨日、猫の姿になっていたことは正直に言えなかった。だって、鶴海くんが俺の前で弱音を吐いたことを知ったら、自分のことを責めてしまうような気がしたから。
「んで、今日はじいさんになってんのかよ。なんで?」
「わしも驚いたよ。まさか一気にこんなに歳を取るなんてのう」
「…………」
「とにかく訳もなく眠たい。耳も遠くて、鶴海くんの声も物凄く聞こえにくいんじゃ」
努めて明るく振舞うけれど、鶴海くんの表情は険しいままだった。その次に何を言われるのか怖くて、沈黙を埋めるためにひたすら喋り続けて笑顔を作る。
「波瑠くんの身体に入った時も、お昼寝しただけで次の体に変わっておってのう。そりゃあもう、たまげた」
「なぁ、キュー……」
「てっきりわしは、夜の間にお化けのようにに彷徨って、相手の体に入ってるのかと思ってたんじゃがな」
お化けが手を前にだらりとさせるポーズを真似てみせると、鶴海くんは苦しそうな顔で言葉を被せてきた。
「お前の身体に、今までと違うことが起きてるんじゃないか?」
俺がいちばん、触れてほしくなかった話題だ。真正面から向き合われて、なんて返事したらいいのか分からなくなる。気まずさに目を逸らし、固く口を噤む俺の顔を覗き込むと、鶴海くんは困ったように柔らかく微笑みながら言った。
「だって、おかしいだろ。日を追うごとに、どんどん俺の周りから離れてるし。元の体に戻ろうとしてんのか、あるいは……」
「そうじゃのう、もしかしたら『終わり』に向かっているのかもしれん」
「お前は何も感じてねぇの? いつもとなんか違う気がするとか、思い出したことが増えたとか」
ぎゅっと手を勢いよく握られて、無言のまま見つめ合う。体温の高い手のひらから伝わる熱に、俺は鶴海くんと昼寝した日に見た夢を思い返していた。
顔をはっきりと見たわけじゃないけれど、この手の感触が夢のなかの「彼」と同じような気がしてならない。だとしたら本当の俺は、俺の身体は――。
「繋がりが弱まってるんだとしても、俺はお前ともっと一緒に居てぇんだよ」
俺もだよ、と言いたいのに、伝える勇気がない。
応えるように微笑みかけると、鶴海くんはくしゃりと自分の髪に指先をつっこんで頭を掻いた。
「お前に会えなくなるのは無理」
「鶴海くん……」
「明日も、明後日も俺はここに来る。キューに会いにくるから」
「約束は出来ないんじゃよ。どれだけ会いたいと思っていたとしても、必ずここに来られる保証は……」
そこまで言いかけて、俺は激しく咳き込んだ。慌てて口を押えるけれど、一度始まったそれはひゅう、ひゅうという喘鳴も混じってなかなか収まってくれそうにない。鶴海くんは背中を何度もさすり、俺の呼吸が落ち着くのを待ってくれた。
鼻の奥がツンと痛んで、喉の奥に何かがつかえたように苦しい。言葉にしたい、けれど「伝えてはいけない」と葛藤する気持ちを、俺はもう一度咳で誤魔化した。
「キュー、大丈夫か?」
「……怒鳴ってしまって、すまんのう」
どうして鶴海くんのこととなると、俺はこんなに取り乱してしまうんだろう。気持ちがぐちゃぐちゃで、心臓はずっと激しく脈打っている。
かと思えば、鶴海くんの声や体温、その香りに包まれると、不思議と心がほどけていく。相反する感情が同時に存在していることが自分でももどかしく、その理由を辿っていくと、行き着く先にはひとつの答えがあった。
(たぶん俺は、鶴海くんのことが好きなんだ)
毎日会いたいと思うのも、この先も離れたくないと願うのもきっと、友達に向ける感情以上のものだ。けれど、この姿で「好きだ」と伝えたところで、今よりもっと鶴海くんを困らせるに違いない。毎日外見の変わる人間と、まともな恋愛なんて出来るわけがない。
何か話さなきゃ、と次の言葉を探しても、頭の中は鶴海くんのことでいっぱいだった。強い眼差しの奥にふっと覗く優しさ。手を引いて「こっち」と連れ出してくれる、あの明るさ。ひとつひとつを思い返すたび、「好きだ」という気持ちが、静かに胸の底からふつふつと浮かんでくる。
ずっと遠くにある灯台と海を見つめていた俺に、鶴海くんはもう一度、手を握ってはっきりとした声で言った。
「……俺とデートして」
「えっ?」
「明日、キューと一緒にデートがしたい」
弾かれたように振り向くと、鶴海くんは至って真剣な顔でまっすぐに俺の瞳を見つめている。それは、曇り空から一筋の強烈な光が急に差し込んできたような、そんな一言だった。
「おじいさん相手に、急に何を言うとるんじゃ。鶴海くん」
「だから何。俺だっていつかは爺さんになるんだから、結局は同じだろ」
「若いもんは、そうやって簡単に言うがのう」
「簡単になんか言ってねぇよ」
「今日に限った話じゃあない。もっと離れて行って……色んな姿になって、本当の自分には戻れんままかもしれんのじゃぞ」
「俺には、キューが見えるんだよ。姿は違っても、そこに『お前がいる』って分かる」
「ど、どうしてじゃ」
「そこまで言わす? 一緒に居る時間も、離れてる間も、ずっとお前のことを考えてたからだよ」
あっさりと言い切られた言葉なのに、耳から胸へ落ちるまでに、とても時間がかかった気がした。嬉しさと驚きで目を見開くと、鶴海くんは目を逸らさずに、頬へそっと片手を添える。張りのない肌から、鶴海くんの手の温もりだけが伝わってきた。
「キューは、俺のことどう思ってる?」
「……それは、その」
「隠さないでほしい。お前の本音が知りたい」
その真摯な言葉に胸を打たれて、ずっと抑え込んでいた気持ちが、カタカタと蓋を揺らし始める。どれだけ上から押し込んでも、もうしまっておけそうにない。
「俺は、キューのことが好きだよ。返事、今ここで聞かせて」
好きな人に自分の存在も未来も全肯定されて、かっこつけた綺麗なさよならを言えるほど、俺の心は「大人」に成長していなかった。
鶴海くんの視線が、まっすぐにこっちへ向いている。逃げ場を探すように、皺だらけの自分の手のひらに目を落とした。こんな姿で、「好きだ」なんて言っていいんだろうか。
「……あの」
「うん」
一度口を開いたのに、続きが出てこない。鶴海くんは急かさず、ただじっと待っていた。その静かな眼差しに、余計に胸の奥が締め付けられる。
「わ、わしも鶴海くんのことが好きじゃ――」
言葉ごと受け止めるように、鶴海くんに身体を抱きしめられた。シャツ越しに伝わってくる鶴海くんのがっしりとした筋肉の感触と、ちょっと汗の混じった香水の匂い。全身から若さと生命力が溢れ出ているように感じるのは、俺がいま、すっかり縮んでしまった体に憑依しているからだろう。かさついた自分の手を鶴海くんの背中にそっと添えると、その頼りなさに、少しだけ泣きたくなる。
「……普通に嬉しすぎるんだけど。マジで?」
「マジじゃ。噓は言わん」
「うわ、待って。ガチで嬉しいんだけど」
「……鶴海くん?」
「いや、なんか変な声出そうになった」
鶴海くんの声が、珍しく上擦っている。抱きしめる腕にぎゅっと力がこもって、骨ばった背中が軋むくらいに強く抱き寄せられた。痛いくらいなのに、離れたくないと思ってしまう。
「明日も、ここで待ってる。俺が必ず、合図で『今日』のキューを見つけるから」
鶴海くんに耳元で言われ、俺は二度頷いた。身体を離した鶴海くんは、想いを伝えられたからか、すっきりとした表情を浮かべている。
青く揺れる海を見つめながら、話せなかった二日分の時間を埋めるように、俺たちは肩を並べて話し込んだ。
ふたりの間にできる隙間すら、なくしてしまいたい。
そう伝え合うように、節ばった指を、鶴海くんの指にそっと絡めながら。
***
名残惜しさをお互いの顔に浮かべたまま、俺と鶴海くんはベンチで別れた。いくら置き手紙を残してきたとはいえ、何時間も帰らなかったら河村さんが施設に連絡して、俺を捜すだろうと思ったからだ。
「浦嶋さんっ! もう、本当に心配したんですよ。一体どこまでお散歩してきたんですか」
「すまんのう。どうしても、大切な人に会いに行きたくてな」
帽子を外して、深々と頭を下げる。河村さんはそっと俺の左胸に手を置くと、穏やかな口調で言った。
「姿がもう見えなくても、美恵子さんはずっと浦嶋さんの『ここ』に居るんですよ。だから、もうどこにも探しに行かないで下さい」
河村さんの顔を見ながら何度も頷いて、俺は玄関の段差を上がるのを手伝ってもらった。身体はへとへとで、ほんの少し足をあげればいいだけなのに、ぜぇぜぇと息切れしてしまう。
けれど、どれだけ自分の身体が苦しくても、鶴海くんに会いに行けたことに悔いはなかった。気持ちを伝え合ったことで帳消しに出来るくらい、この身体の奥にある俺の心は満たされている。
作りおきの夜ご飯を食べて、夜は早めにベッドに入った。朝早起きをしたわけでもないのに、とにかく身体がだるい。きっと、年齢によるものだ。
ベンチで鶴海くんに、もし今度海に行ったら何がしてみたいかと尋ねられた時、俺は唸りながら考え込んでしまった。それでも鶴海くんは急かさずに返事を待ってくれて、たっぷり間を置いてから「貝殻やシーグラスを拾ってみたい」と答えた俺に、「いいじゃん」と笑みを深めて頷いてくれた。今思えば、ちょっと地味すぎたかもしれない。
『すっげー楽しみ』
その返事に俺も静かに頷いて、明日の約束を叶えたいと心から思った。なのに、どうしてだろう。瞼が鉛を流し込まれたみたいに重い。眠りに落ちていくんじゃない。もっと底の方へ、暗く冷たい水の中に沈められていくみたいな感覚だ。
(もう、誰にもなれないのかな)
雪見障子越しに見える月を見つめながら、ぐ、と布団を握りしめた。
もしも、本当にこの憑依が終わりを迎えるなら、俺は鶴海くんに言えなかったことが三つある。
一つは、本当は猫の姿に憑依したことを黙っていて、ごめんねという謝罪。
そしてもう一つは――あの事故の夢は、途切れ途切れでおぼろげだけれど、やっぱり俺自身の記憶のような気がすること。自転車で車に轢かれた生徒こそが自分で、その場に居合わせて、救急車が来るまでの間、手を握り続けてくれたのが――きっと鶴海くんなんだよね、と心の中で問いかける。
ちゃんと面と向かって言えなかったのは、そうだとしたら鶴海くんとの明るい未来は望めないと思ったからだ。
きっとこれは、もうすぐやってくる「お迎え」の前に、神様が用意してくれた最後の時間だ。消えかける意識の中で、たった七日間だけ許された、せめてもの人生の続きだったのかもしれない。
(独りじゃないって言ってくれたの、嬉しかったなぁ)
きっとどれだけ離れていても、会えなくても、鶴海くんは俺のことを探そうとするかもしれない。そう思えるのは、そういう鶴海くんの真っ直ぐな姿をたくさん見てきたし、言葉ではっきりと伝えられたからだ。
鶴海くんを好きなまま消えるのは、どうやっても気持ちを整理できなかった。今すぐに会って、抱きしめてほしい。大丈夫だよと笑って、離さないでほしい。
両手で顔を覆うようにして涙を堪えるけれど、これがもし本当に俺の最期なら。せめて笑顔で、言えなかった三つ目の言葉を言いたい。
「……ありがとう、鶴海くん」
そっと外した両手のひらに、涙の雫がぽたりと落ちる。枕に頭を預けて瞼を閉じると、薄水色の光が滲み、その向こうで遠く鶴海くんの声がした。寄せては返す波の音がそれに重なって、耳の奥でずっと鳴り続けている。
砂まみれの裸足で振り返った鶴海くんが、陽射しに目を細めながら、右手を大きく振っていた。一人で眠っているはずなのに、心までゆっくりと溶けていくような、あたたかい夢だった。
差し出された真っ白な貝殻には、放射状に広がる凹凸に滴がついて、きらきらと揺れている。
ゆっくりと指先を伸ばし、その手のひらに触れようとした瞬間――視界が静かに滲み、瞼を閉じるように光を失った。
奥に見える小さな庭では、雨に濡れた枝葉からぽとり、ぽとりと滴が落ちている。土と濡れた草の匂いが、むわりと立ち上ってきた。庭の隅に置かれた古い甕には雨水が溜まり、水面に光がゆらゆらと反射している。
しばらく、その揺らめきをぼんやりと眺めた。何かを思い出せそうで、思い出せない。そのもどかしさが、胸の奥で小さく波打っている。
ふと体を起こそうとした瞬間、急な息苦しさに襲われた。
「……ゴホッ、ゲホッ……コホッ!」
咳き込むと、身体の節々が軋むように痛む。腕を持ち上げるだけで、こんなにも時間がかかるものだったろうか。ゆっくりと身を起こすと、うっすらと骨が浮き出た皺だらけの手が頼りなく震えていた。
「浦嶋さーん、大丈夫ですか? 介護士の河村ですよ。まずは誤嚥しないように、体を前に倒してみましょうか」
上体を前に倒すように言われ、背中を下から上へとさすられる。呼吸が少しずつ落ち着き始めると、介護士だというその人は俺をベッドから「いち、にの、さんっ」という合図に合わせて、滑らせるようにゆっくりと椅子へ移動させてくれた。目が合うと、「おはようございます。昨日の雨はすごかったですね」と微笑まれて、俺はゆっくりと無言で頷く。まだ若い女性だ。二十代後半、くらいだろうか。
台所から急須と茶筒を持って来ると、河村さんは世間話をしながら慣れた手つきで緑茶を淹れ始めた。振り子つきのクラシックな壁掛け時計が鳴り、午前九時を示している。手渡された新聞をそっと受け取り、俺は今日が十月十九日であることを確認した。
(月曜日の朝になってる。今日も学校の生徒じゃない、知らないおじいさんだ……)
湯呑みを置いてくれた河村さんのポロシャツに、『訪問介護ケア・汐見台』と刺繍されているのが見える。そう遠くに来てしまったわけではないと分かって安心していると、すぐ傍の棚の中に飾られている写真を見つけた。初老の女性だ。たぶん、このおじいさんの奥さんなんじゃないかと思う。
辺りを見渡すけれど、その姿は見えないし、室内干しされた着替えも男性用のものしかない。そこでもう一度その写真を見やると、河村さんは眉を下げて微笑んだ。
「今日は奥様の月命日ですもんね。お買い物の時、お仏壇に供える花を買ってきましょうか」
「あ、あぁ……すまないね」
言葉をすぐに返すことが出来なくて、曖昧な受け答えになってしまう。
俺の心にあるのは、今日は鶴海くんに会えないまま、一日が終わってしまうんだろうか、というその一点だけだった。
「でも、メルが帰ってきて良かったですね。自分でお家に戻って来てくれて、本当にラッキーでした」
「……メル?」
「浦嶋さんが、奥さまと飼った黒猫ちゃんの名前ですよ」
河村さんはちらりとちゃぶ台の前で丸まっている猫に視線を向けて言った。
そうか、メルはこのおじいちゃんの飼い猫だったのか。昨日の俺は文字通りずぶ濡れだったけれど、雨が止むのを待っている間に眠ってしまったのかもしれない。
そわそわと落ち着かない気持ちで一口お茶を啜り、まだ寝間着姿であることに気が付いて、そばに置かれたスラックスとシャツを引き寄せる。すると河村さんは、ぴきっと表情を強張らせて苦笑いを向けた。
「浦嶋さん、お散歩にはまだ早いと思いますけど」
「……ちょっと、近所を歩いて来るだけなんじゃがのう」
絞り出した声はしわがれている。動揺する俺をよそに、河村さんは唇を尖らせながら言った。
「朝ごはんを食べてから一緒じゃないと。また一人で出歩いて転んでしまったら、私だって所長に怒られちゃうんですよ?」
言い方こそ優しいけれど、俺を行かせまいと肩に触れる手には力がこもっていた。
うーん、まずい。今までは自由に出歩くことが出来たけれど、このままだと一人で家を出ることすら叶わないかもしれない。
鶴海くんはきっと、学校で俺のことを探しているだろう。登校して一時間経っても俺が現れなかったら、あのベンチに俺が来るまで本当に何時間でも待っていそうな気がする。
「とりあえず、朝ごはんにしましょう。今日は浦嶋さんの好きな塩鯖を焼いておきましたから」
ねっ、と目を細めて顔を覗き込まれる。一分一秒でも早く出たいと思うのに、外に出て行く為のうまい言い訳が思いつかない。
メルがふあぁ……と大きな口を開けてあくびをしているのを見ながら、まず俺は河村さんに着替えを手伝ってもらった。朝食が出来るまでの間、全然興味のない川柳の番組にテレビのチャンネルを変えられて、時計の針とにらめっこする。
「浦嶋さん、今日は食が進んでいますね。お腹空いてました?」
「そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん」
「あははっ、何ですかそれ~。でも嬉しい、ここ最近は元気がなかったから」
「そうかのぅ」
「良いことですよ。ゆっくり噛んで食べてくださいね」
食卓に並んだ小鉢の数々を完食して「元気ですよアピール」をする俺は、河村さんの話に相槌を打ちながら、頭の片隅で家から出る口実を考えていた。
***
河村さんが車で買い出しに行ってくれている間に、俺はこっそりと家を抜け出すことにした。
震える手でしたためた手紙をテーブルに残して、姿見の前に立つ。腰の曲がった小さなおじいさんの姿だ。
靴箱の天面に置かれたハンチング帽と杖、使い込まれたリュックを背負って外に出る。なんだか、いつもより肌寒いような気がするのは気のせいだろうか。
杖なんてつくのは初めてのはずなのに、気付けばすっかり使いこなして歩いていた。家の角を曲がると、大きな道路の向こうには昨日見た団地の景色や駐輪場が見えてきて、鶴海くんと約束した公園がそう遠くはないと分かる。
本来は歩いて数十分の距離のはずなのだけれど、一度でも足を止めたらもう二度と歩けなくなりそうなくらい、おじいさんの身体は弱り切っていた。
「っはぁ、はぁ……。これまた随分と時間が掛かりそうじゃのう……」
同級生から家族へ近づいたと思ったら、猫になって。今日は近所のおじいさんになって、鶴海くんと話すことも、顔を合わせることも次第に難しくなっているような気がする。どうして急にこうなったのかは分からないけれど、もしかしたら今までとは違う変化が起きているんだろうか。
「……なんだかなぁ」
独り言のように呟いて、足が自然と止まった。最初はあんなに自分を取り戻したがっていたのに。今さら俺は、なにを怖がっているんだろう。
鶴海くんは一緒に居られるなら、その他のことなんて気にしないと言ってくれた。記憶を取り戻すなんて、無茶な俺の願いにも付き合ってくれている。
なのに、ふたりで過ごす時間がかけがえのないものだと思うたびに、今の自分を失うのが怖くて仕方がない。鶴海くんと、絶対に離れない約束が欲しい。
(そんなの、悲しくて言えないよ)
心の奥で、膝を抱えた俺が背中を向けて呟いている。ずんと暗い気持ちになっているのは、それが叶わないと、頭のどこかで諦めているからだ。
思い出と時間が増える度に、鶴海くんへの想いが強くなっている。けれど、その積み重ねの先で笑い合う未来を思い描くことが出来ない。
「はーっ……はぁっ……」
たった数十メートルの距離で、すでに疲労困憊だった。
公園の入り口で、車避けの銀色の雀の一羽に、体重をかけるように手を添える。顔を上げた先、約束をした東屋の下にあるベンチには、制服姿の鶴海くんが座っていた。
(やっぱり、待っていてくれたんだ)
前屈みになって、何を見るでもなく項垂れている。臆病な自分が「会ったらもっと寂しくなるかもしれないよ?」と問いかけて来て、思わず一歩後ずさると――足音に振り返った鶴海くんが、俺の姿を見てぺこっと頭を下げた。
「こんちわっす」
「……どうも、ご機嫌よう」
予想外の挨拶をされて、つい、おじいさんになりきって返事をしてしまった。
鶴海くんは学校をサボっているのが後ろめたいのか、どこかバツが悪そうに視線を外して顔を背ける。よそゆきの顔をされるのがなんだかおかしくて、さっきまで心の中でぴんと張りつめていた糸も少しずつ緩んでいく。
俺がさり気なく真ん中を開けて左隣に「よっこらしょ」と腰を下ろすと、鶴海くんはぎょっとしていた。突然、知らないおじいさんが自分のすぐ隣に座るとは思いもしなかったんだろう。目があって気まずそうに目を逸らす鶴海くんに、俺はそっと微笑みかけながら尋ねた。
「青年、今日は学校に行かないのかい?」
「……あー、もう終わって帰って来た感じです」
「そうかい、随分と早いんだね」
「午前授業、的なやつです」
首を掻きながらなんとか誤魔化そうとする鶴海くんに、口角が上がるのを堪える。俺のことを探すように顔を左から右へと動かしているのを見て、とんとんと肩を叩くと、振り返った鶴海くんにゆっくりとピースを曲げて見せた。
「学校はサボっちゃいかんじゃろう、鶴海くん」
満面の笑みでピースをする俺を前に、鶴海くんはぽかんと口を開いてから勢いよく立ち上がって、大きな声で叫んだ。
「……っ、キュー、お前! 最初っからハンドサインしろって。俺がどんだけ心配したと思って――」
「昨日は実は……知らないお宅の子供に憑依してしまってのう。外に出られなかったんじゃよ」
「波瑠に話しかけても赤ちゃんに戻ってるし、昨日もベンチに来ねぇし。てっきり、もう会えないんだと……」
「はっはっは、まだ成仏しとらんよ。ずっと、ここで待っててくれたのかい?」
「いや、雨が降ってきたから途中で帰った。一時間くらい、だな」
耳朶に触れながら目を逸らす鶴海くんは、優しい嘘をついていた。もっと長い間、あのベンチで待っていてくれたのを知っているよ、と言えない言葉を拳の中で握りつぶす。
「そうかい。すまんのう、会えずじまいで」
昨日、猫の姿になっていたことは正直に言えなかった。だって、鶴海くんが俺の前で弱音を吐いたことを知ったら、自分のことを責めてしまうような気がしたから。
「んで、今日はじいさんになってんのかよ。なんで?」
「わしも驚いたよ。まさか一気にこんなに歳を取るなんてのう」
「…………」
「とにかく訳もなく眠たい。耳も遠くて、鶴海くんの声も物凄く聞こえにくいんじゃ」
努めて明るく振舞うけれど、鶴海くんの表情は険しいままだった。その次に何を言われるのか怖くて、沈黙を埋めるためにひたすら喋り続けて笑顔を作る。
「波瑠くんの身体に入った時も、お昼寝しただけで次の体に変わっておってのう。そりゃあもう、たまげた」
「なぁ、キュー……」
「てっきりわしは、夜の間にお化けのようにに彷徨って、相手の体に入ってるのかと思ってたんじゃがな」
お化けが手を前にだらりとさせるポーズを真似てみせると、鶴海くんは苦しそうな顔で言葉を被せてきた。
「お前の身体に、今までと違うことが起きてるんじゃないか?」
俺がいちばん、触れてほしくなかった話題だ。真正面から向き合われて、なんて返事したらいいのか分からなくなる。気まずさに目を逸らし、固く口を噤む俺の顔を覗き込むと、鶴海くんは困ったように柔らかく微笑みながら言った。
「だって、おかしいだろ。日を追うごとに、どんどん俺の周りから離れてるし。元の体に戻ろうとしてんのか、あるいは……」
「そうじゃのう、もしかしたら『終わり』に向かっているのかもしれん」
「お前は何も感じてねぇの? いつもとなんか違う気がするとか、思い出したことが増えたとか」
ぎゅっと手を勢いよく握られて、無言のまま見つめ合う。体温の高い手のひらから伝わる熱に、俺は鶴海くんと昼寝した日に見た夢を思い返していた。
顔をはっきりと見たわけじゃないけれど、この手の感触が夢のなかの「彼」と同じような気がしてならない。だとしたら本当の俺は、俺の身体は――。
「繋がりが弱まってるんだとしても、俺はお前ともっと一緒に居てぇんだよ」
俺もだよ、と言いたいのに、伝える勇気がない。
応えるように微笑みかけると、鶴海くんはくしゃりと自分の髪に指先をつっこんで頭を掻いた。
「お前に会えなくなるのは無理」
「鶴海くん……」
「明日も、明後日も俺はここに来る。キューに会いにくるから」
「約束は出来ないんじゃよ。どれだけ会いたいと思っていたとしても、必ずここに来られる保証は……」
そこまで言いかけて、俺は激しく咳き込んだ。慌てて口を押えるけれど、一度始まったそれはひゅう、ひゅうという喘鳴も混じってなかなか収まってくれそうにない。鶴海くんは背中を何度もさすり、俺の呼吸が落ち着くのを待ってくれた。
鼻の奥がツンと痛んで、喉の奥に何かがつかえたように苦しい。言葉にしたい、けれど「伝えてはいけない」と葛藤する気持ちを、俺はもう一度咳で誤魔化した。
「キュー、大丈夫か?」
「……怒鳴ってしまって、すまんのう」
どうして鶴海くんのこととなると、俺はこんなに取り乱してしまうんだろう。気持ちがぐちゃぐちゃで、心臓はずっと激しく脈打っている。
かと思えば、鶴海くんの声や体温、その香りに包まれると、不思議と心がほどけていく。相反する感情が同時に存在していることが自分でももどかしく、その理由を辿っていくと、行き着く先にはひとつの答えがあった。
(たぶん俺は、鶴海くんのことが好きなんだ)
毎日会いたいと思うのも、この先も離れたくないと願うのもきっと、友達に向ける感情以上のものだ。けれど、この姿で「好きだ」と伝えたところで、今よりもっと鶴海くんを困らせるに違いない。毎日外見の変わる人間と、まともな恋愛なんて出来るわけがない。
何か話さなきゃ、と次の言葉を探しても、頭の中は鶴海くんのことでいっぱいだった。強い眼差しの奥にふっと覗く優しさ。手を引いて「こっち」と連れ出してくれる、あの明るさ。ひとつひとつを思い返すたび、「好きだ」という気持ちが、静かに胸の底からふつふつと浮かんでくる。
ずっと遠くにある灯台と海を見つめていた俺に、鶴海くんはもう一度、手を握ってはっきりとした声で言った。
「……俺とデートして」
「えっ?」
「明日、キューと一緒にデートがしたい」
弾かれたように振り向くと、鶴海くんは至って真剣な顔でまっすぐに俺の瞳を見つめている。それは、曇り空から一筋の強烈な光が急に差し込んできたような、そんな一言だった。
「おじいさん相手に、急に何を言うとるんじゃ。鶴海くん」
「だから何。俺だっていつかは爺さんになるんだから、結局は同じだろ」
「若いもんは、そうやって簡単に言うがのう」
「簡単になんか言ってねぇよ」
「今日に限った話じゃあない。もっと離れて行って……色んな姿になって、本当の自分には戻れんままかもしれんのじゃぞ」
「俺には、キューが見えるんだよ。姿は違っても、そこに『お前がいる』って分かる」
「ど、どうしてじゃ」
「そこまで言わす? 一緒に居る時間も、離れてる間も、ずっとお前のことを考えてたからだよ」
あっさりと言い切られた言葉なのに、耳から胸へ落ちるまでに、とても時間がかかった気がした。嬉しさと驚きで目を見開くと、鶴海くんは目を逸らさずに、頬へそっと片手を添える。張りのない肌から、鶴海くんの手の温もりだけが伝わってきた。
「キューは、俺のことどう思ってる?」
「……それは、その」
「隠さないでほしい。お前の本音が知りたい」
その真摯な言葉に胸を打たれて、ずっと抑え込んでいた気持ちが、カタカタと蓋を揺らし始める。どれだけ上から押し込んでも、もうしまっておけそうにない。
「俺は、キューのことが好きだよ。返事、今ここで聞かせて」
好きな人に自分の存在も未来も全肯定されて、かっこつけた綺麗なさよならを言えるほど、俺の心は「大人」に成長していなかった。
鶴海くんの視線が、まっすぐにこっちへ向いている。逃げ場を探すように、皺だらけの自分の手のひらに目を落とした。こんな姿で、「好きだ」なんて言っていいんだろうか。
「……あの」
「うん」
一度口を開いたのに、続きが出てこない。鶴海くんは急かさず、ただじっと待っていた。その静かな眼差しに、余計に胸の奥が締め付けられる。
「わ、わしも鶴海くんのことが好きじゃ――」
言葉ごと受け止めるように、鶴海くんに身体を抱きしめられた。シャツ越しに伝わってくる鶴海くんのがっしりとした筋肉の感触と、ちょっと汗の混じった香水の匂い。全身から若さと生命力が溢れ出ているように感じるのは、俺がいま、すっかり縮んでしまった体に憑依しているからだろう。かさついた自分の手を鶴海くんの背中にそっと添えると、その頼りなさに、少しだけ泣きたくなる。
「……普通に嬉しすぎるんだけど。マジで?」
「マジじゃ。噓は言わん」
「うわ、待って。ガチで嬉しいんだけど」
「……鶴海くん?」
「いや、なんか変な声出そうになった」
鶴海くんの声が、珍しく上擦っている。抱きしめる腕にぎゅっと力がこもって、骨ばった背中が軋むくらいに強く抱き寄せられた。痛いくらいなのに、離れたくないと思ってしまう。
「明日も、ここで待ってる。俺が必ず、合図で『今日』のキューを見つけるから」
鶴海くんに耳元で言われ、俺は二度頷いた。身体を離した鶴海くんは、想いを伝えられたからか、すっきりとした表情を浮かべている。
青く揺れる海を見つめながら、話せなかった二日分の時間を埋めるように、俺たちは肩を並べて話し込んだ。
ふたりの間にできる隙間すら、なくしてしまいたい。
そう伝え合うように、節ばった指を、鶴海くんの指にそっと絡めながら。
***
名残惜しさをお互いの顔に浮かべたまま、俺と鶴海くんはベンチで別れた。いくら置き手紙を残してきたとはいえ、何時間も帰らなかったら河村さんが施設に連絡して、俺を捜すだろうと思ったからだ。
「浦嶋さんっ! もう、本当に心配したんですよ。一体どこまでお散歩してきたんですか」
「すまんのう。どうしても、大切な人に会いに行きたくてな」
帽子を外して、深々と頭を下げる。河村さんはそっと俺の左胸に手を置くと、穏やかな口調で言った。
「姿がもう見えなくても、美恵子さんはずっと浦嶋さんの『ここ』に居るんですよ。だから、もうどこにも探しに行かないで下さい」
河村さんの顔を見ながら何度も頷いて、俺は玄関の段差を上がるのを手伝ってもらった。身体はへとへとで、ほんの少し足をあげればいいだけなのに、ぜぇぜぇと息切れしてしまう。
けれど、どれだけ自分の身体が苦しくても、鶴海くんに会いに行けたことに悔いはなかった。気持ちを伝え合ったことで帳消しに出来るくらい、この身体の奥にある俺の心は満たされている。
作りおきの夜ご飯を食べて、夜は早めにベッドに入った。朝早起きをしたわけでもないのに、とにかく身体がだるい。きっと、年齢によるものだ。
ベンチで鶴海くんに、もし今度海に行ったら何がしてみたいかと尋ねられた時、俺は唸りながら考え込んでしまった。それでも鶴海くんは急かさずに返事を待ってくれて、たっぷり間を置いてから「貝殻やシーグラスを拾ってみたい」と答えた俺に、「いいじゃん」と笑みを深めて頷いてくれた。今思えば、ちょっと地味すぎたかもしれない。
『すっげー楽しみ』
その返事に俺も静かに頷いて、明日の約束を叶えたいと心から思った。なのに、どうしてだろう。瞼が鉛を流し込まれたみたいに重い。眠りに落ちていくんじゃない。もっと底の方へ、暗く冷たい水の中に沈められていくみたいな感覚だ。
(もう、誰にもなれないのかな)
雪見障子越しに見える月を見つめながら、ぐ、と布団を握りしめた。
もしも、本当にこの憑依が終わりを迎えるなら、俺は鶴海くんに言えなかったことが三つある。
一つは、本当は猫の姿に憑依したことを黙っていて、ごめんねという謝罪。
そしてもう一つは――あの事故の夢は、途切れ途切れでおぼろげだけれど、やっぱり俺自身の記憶のような気がすること。自転車で車に轢かれた生徒こそが自分で、その場に居合わせて、救急車が来るまでの間、手を握り続けてくれたのが――きっと鶴海くんなんだよね、と心の中で問いかける。
ちゃんと面と向かって言えなかったのは、そうだとしたら鶴海くんとの明るい未来は望めないと思ったからだ。
きっとこれは、もうすぐやってくる「お迎え」の前に、神様が用意してくれた最後の時間だ。消えかける意識の中で、たった七日間だけ許された、せめてもの人生の続きだったのかもしれない。
(独りじゃないって言ってくれたの、嬉しかったなぁ)
きっとどれだけ離れていても、会えなくても、鶴海くんは俺のことを探そうとするかもしれない。そう思えるのは、そういう鶴海くんの真っ直ぐな姿をたくさん見てきたし、言葉ではっきりと伝えられたからだ。
鶴海くんを好きなまま消えるのは、どうやっても気持ちを整理できなかった。今すぐに会って、抱きしめてほしい。大丈夫だよと笑って、離さないでほしい。
両手で顔を覆うようにして涙を堪えるけれど、これがもし本当に俺の最期なら。せめて笑顔で、言えなかった三つ目の言葉を言いたい。
「……ありがとう、鶴海くん」
そっと外した両手のひらに、涙の雫がぽたりと落ちる。枕に頭を預けて瞼を閉じると、薄水色の光が滲み、その向こうで遠く鶴海くんの声がした。寄せては返す波の音がそれに重なって、耳の奥でずっと鳴り続けている。
砂まみれの裸足で振り返った鶴海くんが、陽射しに目を細めながら、右手を大きく振っていた。一人で眠っているはずなのに、心までゆっくりと溶けていくような、あたたかい夢だった。
差し出された真っ白な貝殻には、放射状に広がる凹凸に滴がついて、きらきらと揺れている。
ゆっくりと指先を伸ばし、その手のひらに触れようとした瞬間――視界が静かに滲み、瞼を閉じるように光を失った。



