湿った風が吹いて、さわさわと葉が揺れる音で目が覚めた。吸い込んだ空気は土の香りと、潮の匂い。なんだかすごく寒いな……と肩を竦めようとすると、ぶるりと体が先に震える。
目の前には草むらが広がっていて、ポツ、ポツと体に雨粒が落ちてきた。辺りを見渡そうとして、視点が異様に低いことに気付く。
地面がすぐそこにある。いつもなら見下ろしているはずの雑草が、今は顔の高さまで迫ってきていて、一本一本の葉先がやけに近くはっきりと見える。かと思えば、少し先にある団地は見上げるほど巨大だ。身の回りのものの大きさが、これまでの自分の感覚とまるで違っていた。
(ここ、高校の近くの空き地だ。でも……)
色合いがおかしい。階段の色、傘をさして歩く人の服――どれもが灰色がかって、くすんで見える。消火栓の赤も、こんな暗い色じゃないはずだ。反対に、水たまりに映る空の青さや、遠くの自販機の灯りだけは、鮮やかに目に飛び込んでくる。
「あーっ、見てみて。あそこに猫がいるよ。可愛い~」
「本当だ、首輪してるじゃん。飼い猫なんじゃない?」
「近所のおじいちゃんが、いつも抱っこして散歩してる子に似てる気がする」
俺を指差して、中学生くらいの女子達が三人ともこっちを見ている。
はた、と気付いて自分の足元に視線を落とすと、黒々とした毛に覆われた猫の前足が見えた。
「名前なんだっけ、『メル』だったかな?」
「メルちゃん、おいで~」
おじいちゃんの家に連れて行ってあげるよ、と猫の鳴き声を真似て手招きされる。ついに動物になるとは思ってもみなかったけれど、このままじゃ知らない家に放り込まれて、きっと外に出られなくなってしまう。
(鶴海くんはどこ?)
さっきまで、隣でいっしょにお昼寝していたはずなのに。一度目覚めた記憶も、あの家で夜を一緒に過ごした記憶も無い。もしかすると、波瑠くんの身体で眠ってしまったから、また身体が変わってしまったんだろうか。
女の子たちが少しずつ距離を詰めてきている。抱き上げられるのをかわすべく、俺はぴょんと勢いよく茂みの奥に身を潜めた。
「あーあ、逃げちゃった」
「怖いのかもしれないよ。もう行こう」
三人は残念そうな声で言うと、強くなってきた雨を避けるように傘を差して足早に階段を下りて行く。いま、一体何時なんだろう。今日が何月何日なのかさえ、俺には分からない。
鶴海くんがこれから公園に来てくれるのか、すでに行ってしまった後なのかも分からない。もしかしたら、約束の日はとっくに過ぎているのかもしれない。
分からないことだらけの中で、ひとつだけはっきりしているのは、鶴海くんがベンチで待っていてくれているかもしれないこと。その可能性がゼロじゃない限り、行かない理由にはならない。まだ陽が落ちてはいないから、全力で走れば――。
茂みから飛びだして、はっ、はっ、と静かに息を切らしながら、細い裏道を駆け抜ける。結構遠いみたいだけれど、このまま坂を下っていけば、約束した公園にたどり着けるはずだ。
(鶴海くん、待ってて。急いで行くから!)
きっと鶴海くんも俺が今度は猫になってしまったと知ったら、驚くにちがいない。というか、この場合はどうやって俺が『キュー』だと伝えたらいいんだろう。柔らかそうな肉球と、そこに隠れている鋭い爪しかないことに気付いて、困り果てる。昨日は赤ちゃんと言えど「キュー」くらいはなんとか言えたし、ハンドサインも見せることが出来た。でも、この身体じゃあ……。
『待ってるから』
そう言ってくれた時の鶴海くんの顔を思い出す。知らないことの方が多いはずなのに、鶴海くんは絶対にその約束を守ってくれるって信じられるのはどうしてだろう。雨が降ろうが、雪が降ろうが、鶴海くんはあの場所で俺が来るのを待っているに違いない。
『なんでもかんでも諦めることねぇだろ』
鶴海くんのくれた言葉を思い出して、たたっと向かい側の道路へ渡る。四本足で歩くのは、まだ慣れなくてぎこちない。それでも、止まっている場合じゃなかった。早く会いたい。そんな一心で、脇にあるゴミ置き場を通り過ぎようとした、その時だった。
「カアッ、カァッ」
ばさばさっ、という羽音と共に、飛んできた大きなカラスに嘴で体を突かれた。びっくりして見上げると、その近くには何羽もの仲間の姿がある。ゴミ袋を漁っていたところを、邪魔しに来たとでも思われたんだろうか。
「ニャア!」
違うよ、君たちに何かしようとしたわけじゃない。声にならない声で訴えても、猫の鳴き声にしかならないのがもどかしい。必死で避けながら前に進もうとしても、気が立っているカラスたちは俺の頭の上すれすれを何度も低空飛行して、嘴や爪で威嚇や攻撃を繰り返してくる。背中やお腹をつつかれて、とうとう体勢を崩してしまった。
(痛い! もうやめて)
地面にぺたっと倒れ込む。嵐が過ぎ去るのを待つように前足で顔を庇っていると、バタバタという足音とともに、大きな怒鳴り声が辺りに響き渡った。
「おい、やめろ! 離れろって!」
俺は呆然としたまま空を見上げた。鶴海くんだ。長袖のシャツにジーンズを穿いて、大きなビニール傘を差している。鶴海くんは反対の手にコンビニの袋を下げ、カラスたちから守るように俺を抱き上げると、そのまま小走りで住宅街を走り抜けた。どうしてここに居るの、と聞きたいのに、猫の姿では「みゃう」と鳴くことしか出来ない。
「びっくりしたよな、大丈夫か」
鶴海くんは駐輪場の前で立ち止まると、屋根の下に入って、傷がないか心配そうに確かめてくれた。俺に向けられた優しさじゃない。ただ道端で襲われた猫を憐れんでるのだと分かっていても、どうしようもなく嬉しくて、安心してしまう。
どうしたらいいんだろう。坂の下から歩いて来てくれたってことは、きっと俺は待ち合わせの時間に間に合わなかったのかもしれない。
(鶴海くん。こんな雨の中、たくさん待たせてごめんね)
時間も分からないのにそう思ったのは、俺を抱く鶴海くんの腕が服の上からでも分かるほど冷えていて、ジーンズの裾も十分すぎるほどに濡れていたからだ。どれほど長い間、約束したベンチで俺が来るのを待っていてくれたのだろう。
鶴海くんは服が汚れるのもいとわずに、駐輪場のコンクリートに座り込んだ。
「あーぁ、止みそうにねぇなぁ……」
どんよりと曇った灰色の空を見上げながら、鶴海くんは疲れ切った声で呟いた。早くおうちに帰って、あたたかいシャワーを浴びてほしい。このままじゃ、風邪を引いてしまうかもしれない。
コンビニ袋からスポーツドリンクを手に取った鶴海くんは、キャップを回して一口飲むと、なにかを探すように中を覗き込んだ。
「ごめんな、お前にあげられそうな食い物はなんも持ってねぇんだ」
中に入っていたのは、シーチキンと梅のおにぎり。たまごサンドと、紙容器に入った唐揚げだった。それに、チョコレートとグミの袋がいくつか。
もしかして、と顔をあげる俺に、鶴海くんは困ったように深い溜息をついた。
「すげー食いしん坊なヤツと、待ち合わせしてたんだけどさ。来られなかったっぽい」
どうして、と聞きたかった。どうしてそんなに残念そうな顔をするの。どうしてそこまで辛そうにするの、って。
なのに、口から出てくるのは、か細い「みゃあ」という鳴き声だけだった。
「あそこでずっと待っていれば、会えるだろって思ったんだけど。俺の考えが甘かったっぽい」
独り言のように呟いて肩を落とす鶴海くんの太腿に、そっと身を寄せる。
すると、鶴海くんは俺の顎の下を丸めた指先でマッサージするように撫でてくれた。その気持ち良さに、思わずうっとりと目を細めてしまう。毛流れに沿っておでこへ指を滑らせると、鶴海くんは雨雲を見上げながら言った。
「すんげぇ泣き虫で、なんつーか……繊細で」
「ミャオ」
「……外見がどんだけ変わっても、お前は今ここに存在してるじゃんって。だから、独りじゃないし焦らなくていいって、伝えたかったんだけどな」
今だけは、自分が猫で良かったと思ってしまった。
猫が悲しさで涙を流す生き物じゃないおかげで、また鶴海くんに『泣き虫』って言われなくて済むから。
「もしもあいつが本当に幽霊なら、成仏したら会えなくなるんだよ。でも、元の体に戻ったとしても、また会える可能性なんて……」
俯く鶴海くんに、どんな言葉を掛けてあげたらいいんだろう。
俺よりよっぽど辛そうなその横顔を見て、俺の口はきゅっと閉じられたままだったけれど、本当はくしゃくしゃに歪めたくてたまらなかった。
「こんなん、格好悪すぎて。誰にも言えねぇし、見せらんねえよな」
鶴海くんは猫相手に喋っている自分に呆れたように笑った。
袋の中で転がったお菓子に視線を落とし、撫でていた手をすっと放して立ち上がる。まだ雨は強く打ち付けて、コンクリートの上に出来た水溜りにいくつもの波紋を広げていた。
「……そろそろ、行かねーと」
その声にハッとして、弾かれるように俺は身体を起こした。待って、行かないで鶴海くん。俺のこと、ひとりぼっちにしないで。どうしよう。目の前に居るのに、伝え方が分からない。
傘を広げた鶴海くんは、ポケットにいれていたタオルハンカチでそっと俺の濡れた毛を拭うと、背中を向けた。その寂しげな後ろ姿に、ずきんずきんと胸が痛む。
「ミャウ」
俺は足元に擦り寄るようにして、鶴海くんの顔を見上げた。
「ごめんな。連れてってやりたいけど、お前にも帰る家があるだろ? 雨が止んだら、ちゃんと戻るんだぞ」
頷くことも、返事することも出来ないまま、俺はその背中を見上げていた。白い息が、輪郭をぼやけさせてすぐに溶けていく。鶴海くんの足が一歩、また一歩とアスファルトを踏むたびに、水たまりに波紋が広がって、街灯の滲んだ光がゆらゆらと揺れた。
追いかけたら、鶴海くんは優しいからきっと俺を抱きしめてくれるだろう。この濡れた毛並みごと、迷わず腕の中に閉じ込めてくれるはずだ。
分かっているのに、足が動かない。冷たい雨粒が背中を叩くたび、体温がどんどん奪われていくみたいに、体の内側まで冷えていく。
約束も果たせないくせに、行かないで、離れないでと思うなんて。いつから俺はこんなに我が儘になったんだろう。
(……鶴海くん)
この雨が止んだ後、俺はどこに帰ったらいいのかな。
目の前には草むらが広がっていて、ポツ、ポツと体に雨粒が落ちてきた。辺りを見渡そうとして、視点が異様に低いことに気付く。
地面がすぐそこにある。いつもなら見下ろしているはずの雑草が、今は顔の高さまで迫ってきていて、一本一本の葉先がやけに近くはっきりと見える。かと思えば、少し先にある団地は見上げるほど巨大だ。身の回りのものの大きさが、これまでの自分の感覚とまるで違っていた。
(ここ、高校の近くの空き地だ。でも……)
色合いがおかしい。階段の色、傘をさして歩く人の服――どれもが灰色がかって、くすんで見える。消火栓の赤も、こんな暗い色じゃないはずだ。反対に、水たまりに映る空の青さや、遠くの自販機の灯りだけは、鮮やかに目に飛び込んでくる。
「あーっ、見てみて。あそこに猫がいるよ。可愛い~」
「本当だ、首輪してるじゃん。飼い猫なんじゃない?」
「近所のおじいちゃんが、いつも抱っこして散歩してる子に似てる気がする」
俺を指差して、中学生くらいの女子達が三人ともこっちを見ている。
はた、と気付いて自分の足元に視線を落とすと、黒々とした毛に覆われた猫の前足が見えた。
「名前なんだっけ、『メル』だったかな?」
「メルちゃん、おいで~」
おじいちゃんの家に連れて行ってあげるよ、と猫の鳴き声を真似て手招きされる。ついに動物になるとは思ってもみなかったけれど、このままじゃ知らない家に放り込まれて、きっと外に出られなくなってしまう。
(鶴海くんはどこ?)
さっきまで、隣でいっしょにお昼寝していたはずなのに。一度目覚めた記憶も、あの家で夜を一緒に過ごした記憶も無い。もしかすると、波瑠くんの身体で眠ってしまったから、また身体が変わってしまったんだろうか。
女の子たちが少しずつ距離を詰めてきている。抱き上げられるのをかわすべく、俺はぴょんと勢いよく茂みの奥に身を潜めた。
「あーあ、逃げちゃった」
「怖いのかもしれないよ。もう行こう」
三人は残念そうな声で言うと、強くなってきた雨を避けるように傘を差して足早に階段を下りて行く。いま、一体何時なんだろう。今日が何月何日なのかさえ、俺には分からない。
鶴海くんがこれから公園に来てくれるのか、すでに行ってしまった後なのかも分からない。もしかしたら、約束の日はとっくに過ぎているのかもしれない。
分からないことだらけの中で、ひとつだけはっきりしているのは、鶴海くんがベンチで待っていてくれているかもしれないこと。その可能性がゼロじゃない限り、行かない理由にはならない。まだ陽が落ちてはいないから、全力で走れば――。
茂みから飛びだして、はっ、はっ、と静かに息を切らしながら、細い裏道を駆け抜ける。結構遠いみたいだけれど、このまま坂を下っていけば、約束した公園にたどり着けるはずだ。
(鶴海くん、待ってて。急いで行くから!)
きっと鶴海くんも俺が今度は猫になってしまったと知ったら、驚くにちがいない。というか、この場合はどうやって俺が『キュー』だと伝えたらいいんだろう。柔らかそうな肉球と、そこに隠れている鋭い爪しかないことに気付いて、困り果てる。昨日は赤ちゃんと言えど「キュー」くらいはなんとか言えたし、ハンドサインも見せることが出来た。でも、この身体じゃあ……。
『待ってるから』
そう言ってくれた時の鶴海くんの顔を思い出す。知らないことの方が多いはずなのに、鶴海くんは絶対にその約束を守ってくれるって信じられるのはどうしてだろう。雨が降ろうが、雪が降ろうが、鶴海くんはあの場所で俺が来るのを待っているに違いない。
『なんでもかんでも諦めることねぇだろ』
鶴海くんのくれた言葉を思い出して、たたっと向かい側の道路へ渡る。四本足で歩くのは、まだ慣れなくてぎこちない。それでも、止まっている場合じゃなかった。早く会いたい。そんな一心で、脇にあるゴミ置き場を通り過ぎようとした、その時だった。
「カアッ、カァッ」
ばさばさっ、という羽音と共に、飛んできた大きなカラスに嘴で体を突かれた。びっくりして見上げると、その近くには何羽もの仲間の姿がある。ゴミ袋を漁っていたところを、邪魔しに来たとでも思われたんだろうか。
「ニャア!」
違うよ、君たちに何かしようとしたわけじゃない。声にならない声で訴えても、猫の鳴き声にしかならないのがもどかしい。必死で避けながら前に進もうとしても、気が立っているカラスたちは俺の頭の上すれすれを何度も低空飛行して、嘴や爪で威嚇や攻撃を繰り返してくる。背中やお腹をつつかれて、とうとう体勢を崩してしまった。
(痛い! もうやめて)
地面にぺたっと倒れ込む。嵐が過ぎ去るのを待つように前足で顔を庇っていると、バタバタという足音とともに、大きな怒鳴り声が辺りに響き渡った。
「おい、やめろ! 離れろって!」
俺は呆然としたまま空を見上げた。鶴海くんだ。長袖のシャツにジーンズを穿いて、大きなビニール傘を差している。鶴海くんは反対の手にコンビニの袋を下げ、カラスたちから守るように俺を抱き上げると、そのまま小走りで住宅街を走り抜けた。どうしてここに居るの、と聞きたいのに、猫の姿では「みゃう」と鳴くことしか出来ない。
「びっくりしたよな、大丈夫か」
鶴海くんは駐輪場の前で立ち止まると、屋根の下に入って、傷がないか心配そうに確かめてくれた。俺に向けられた優しさじゃない。ただ道端で襲われた猫を憐れんでるのだと分かっていても、どうしようもなく嬉しくて、安心してしまう。
どうしたらいいんだろう。坂の下から歩いて来てくれたってことは、きっと俺は待ち合わせの時間に間に合わなかったのかもしれない。
(鶴海くん。こんな雨の中、たくさん待たせてごめんね)
時間も分からないのにそう思ったのは、俺を抱く鶴海くんの腕が服の上からでも分かるほど冷えていて、ジーンズの裾も十分すぎるほどに濡れていたからだ。どれほど長い間、約束したベンチで俺が来るのを待っていてくれたのだろう。
鶴海くんは服が汚れるのもいとわずに、駐輪場のコンクリートに座り込んだ。
「あーぁ、止みそうにねぇなぁ……」
どんよりと曇った灰色の空を見上げながら、鶴海くんは疲れ切った声で呟いた。早くおうちに帰って、あたたかいシャワーを浴びてほしい。このままじゃ、風邪を引いてしまうかもしれない。
コンビニ袋からスポーツドリンクを手に取った鶴海くんは、キャップを回して一口飲むと、なにかを探すように中を覗き込んだ。
「ごめんな、お前にあげられそうな食い物はなんも持ってねぇんだ」
中に入っていたのは、シーチキンと梅のおにぎり。たまごサンドと、紙容器に入った唐揚げだった。それに、チョコレートとグミの袋がいくつか。
もしかして、と顔をあげる俺に、鶴海くんは困ったように深い溜息をついた。
「すげー食いしん坊なヤツと、待ち合わせしてたんだけどさ。来られなかったっぽい」
どうして、と聞きたかった。どうしてそんなに残念そうな顔をするの。どうしてそこまで辛そうにするの、って。
なのに、口から出てくるのは、か細い「みゃあ」という鳴き声だけだった。
「あそこでずっと待っていれば、会えるだろって思ったんだけど。俺の考えが甘かったっぽい」
独り言のように呟いて肩を落とす鶴海くんの太腿に、そっと身を寄せる。
すると、鶴海くんは俺の顎の下を丸めた指先でマッサージするように撫でてくれた。その気持ち良さに、思わずうっとりと目を細めてしまう。毛流れに沿っておでこへ指を滑らせると、鶴海くんは雨雲を見上げながら言った。
「すんげぇ泣き虫で、なんつーか……繊細で」
「ミャオ」
「……外見がどんだけ変わっても、お前は今ここに存在してるじゃんって。だから、独りじゃないし焦らなくていいって、伝えたかったんだけどな」
今だけは、自分が猫で良かったと思ってしまった。
猫が悲しさで涙を流す生き物じゃないおかげで、また鶴海くんに『泣き虫』って言われなくて済むから。
「もしもあいつが本当に幽霊なら、成仏したら会えなくなるんだよ。でも、元の体に戻ったとしても、また会える可能性なんて……」
俯く鶴海くんに、どんな言葉を掛けてあげたらいいんだろう。
俺よりよっぽど辛そうなその横顔を見て、俺の口はきゅっと閉じられたままだったけれど、本当はくしゃくしゃに歪めたくてたまらなかった。
「こんなん、格好悪すぎて。誰にも言えねぇし、見せらんねえよな」
鶴海くんは猫相手に喋っている自分に呆れたように笑った。
袋の中で転がったお菓子に視線を落とし、撫でていた手をすっと放して立ち上がる。まだ雨は強く打ち付けて、コンクリートの上に出来た水溜りにいくつもの波紋を広げていた。
「……そろそろ、行かねーと」
その声にハッとして、弾かれるように俺は身体を起こした。待って、行かないで鶴海くん。俺のこと、ひとりぼっちにしないで。どうしよう。目の前に居るのに、伝え方が分からない。
傘を広げた鶴海くんは、ポケットにいれていたタオルハンカチでそっと俺の濡れた毛を拭うと、背中を向けた。その寂しげな後ろ姿に、ずきんずきんと胸が痛む。
「ミャウ」
俺は足元に擦り寄るようにして、鶴海くんの顔を見上げた。
「ごめんな。連れてってやりたいけど、お前にも帰る家があるだろ? 雨が止んだら、ちゃんと戻るんだぞ」
頷くことも、返事することも出来ないまま、俺はその背中を見上げていた。白い息が、輪郭をぼやけさせてすぐに溶けていく。鶴海くんの足が一歩、また一歩とアスファルトを踏むたびに、水たまりに波紋が広がって、街灯の滲んだ光がゆらゆらと揺れた。
追いかけたら、鶴海くんは優しいからきっと俺を抱きしめてくれるだろう。この濡れた毛並みごと、迷わず腕の中に閉じ込めてくれるはずだ。
分かっているのに、足が動かない。冷たい雨粒が背中を叩くたび、体温がどんどん奪われていくみたいに、体の内側まで冷えていく。
約束も果たせないくせに、行かないで、離れないでと思うなんて。いつから俺はこんなに我が儘になったんだろう。
(……鶴海くん)
この雨が止んだ後、俺はどこに帰ったらいいのかな。



