翌日の土曜日。いつものように身体を起こそうとしたら、なぜか体がころんと寝返りを打つように横向きにしかなれなかった。目の前に見えるのは、木製の柵のような……いや、これはどこからどう見ても柵だ。
(なんで俺、柵のなかに入れられてるんだ……?)
仰向けになろうとすると「あう」と間抜けな声が出た。舌っ足らず過ぎて、自分でもびっくりするくらい恥ずかしい。
頭の上では、パステルカラーの物体がゆっくりと回転している。なんだあれ、と目を凝らしてみるけれど、遠くていまいちハッキリと見えない。もう一度「えいっ」と気合を入れて体を動かすと、俯せになった途端に口からたらりと涎が垂れてきた。どうして勝手に出てきちゃうんだろう。ダラダラ止まらないし、自分で拭うことすら叶わない。
「ふえぇ……?」
なんで、と言ったはずの口から出てきたのは、赤ちゃんの泣き声そのものだ。
腹這いの体勢のまま、頭を持ち上げようと必死で顔を上げる。手のひらは信じられないほど小さくて、ぷにぷにと見るからに柔らかそうな丸みを帯びていた。
「あら、波瑠くん起きちゃった? おはよう、ママはここにいるよ~」
明るい穏やかな声が聞こえる。一体どこから……とキョロキョロしていると、脇の下に手を入れられて、部屋全体を見渡せるくらいの視界の高さまで一気に持ち上がった。
視線の先には、初めて見るテレビやテーブル、ソファ。そして、さっきまで俺が寝ていたメリー付きのベビーベッドがあった。
(なっ、なんで今日に限って赤ちゃんなの!?)
きっと世界中を探しても、起きて早々にこんな絶望的な気持ちになっている赤ちゃんなんてどこにも居ないだろう。
母親らしきその人は赤ちゃん用の椅子に俺を座らせ、カウンターキッチンの奥に向かった。電子レンジの音と、炊き立てのご飯の匂いがする。朝ごはんを用意してくれているのかな、とその背中を見つめていると、テーブルの上でピンク色のスマホが振動し始めた。
「やだ、職場からだわ。ねぇー、ちょっと降りてきて手伝ってくれない?」
(今日の俺の)母さんは廊下に繋がっているドアを開けると、階段に向かって叫んだ。誰を呼んでいるんだろう。リビングの天井から、ドン、バタンという物音が聞こえる。しばらくして、足音とともに現れたのは――。
「航平、波瑠にご飯あげておいてくれる?」
「ん、了解」
制服ではない、ゆったりとした上下スウェット姿の鶴海くんだった。
いつもセットされている髪は寝癖がついて後ろがピョンと跳ねているし、ズボンの紐もトップスの裾から「こんにちは」している。
ふぁ……と大きな欠伸をしながらキッチンに向かった鶴海くんは、手に小さなお椀とスプーン、赤ちゃん用の水筒を持って、目の前にドサッと腰を下ろした。ちょん、と人差し指で俺の頬に触れて、もにもにとその柔らかさを確かめるように何度も軽く押してくる。寝起きとは思えないその笑顔に、俺はドキドキと胸が高鳴るのを感じていた。
「おはよ、波瑠」
「うゆ……」
今日は、鶴海くんの弟に憑依しているらしい。これはものすごいラッキーが起きたと言っていいんじゃなかろうか。俺はここにいるよ、と教えてあげたい。
けれど、その興奮も虚しく、俺の呼びかけは見事な赤ちゃん語に変換された。
「ちゅゆみく」
「ん?」
「ちゅゆみく、ちゅうみく!」
「チュー? 初めて聞いた波瑠語だな。マグマグのことか?」
水を欲しがっていると勘違いした鶴海くんに、ベビーマグを手渡される。
「ちあう!」
そうじゃない、と俺がぶんぶんと頭を振ると、鶴海くんは「はいはい」と困ったような、それでいてたまらなく愛おしそうな笑みを浮かべた。
(えっ、うわっ、何その顔! 鶴海くん、顔が溶けちゃってるよ)
こんな鶴海くんの顔を見るのは初めてだ。でも、そうなるのも無理はない。十五歳近く離れた弟だなんて、そりゃあ可愛くて仕方がないだろう。
しかも、ぷっくりとした頬っぺたに、ちぎりパンみたいにムチムチとした腕。ふよふよと風で揺れる、たんぽぽの綿毛のような細い髪。窓ガラスに反射した今日の俺の外見は、鶴海家の美形遺伝子を色濃く受け継いだ子役みたいな赤ちゃんだった。
「波瑠、どうした。手に何かついてた?」
ハンドサインをしようと、右手をもにょもにょと動かす。その不思議な動きが気になったのか、鶴海くんは覗き込むように俺の小さな手を見つめて、パーの形に開いて見せた。
(ちがう、鶴海くん。俺がしたいのはピースの形なんだよ。これじゃあ、いつまで経ってもハンドサインが送れないよ!)
鶴海くんはくすぐり遊びをするように、俺の手のひらをこちょこちょと指先でくすぐり始めた。
「えへへ、えへへっ」
「波瑠、超可愛い。なぁ、今日もアレやっていい?」
お腹に顔を近づけた鶴海くんに、ふーっと息をかけられ、ぐりぐりと顔を押し付けられる。まさかの愛情表現に驚く間もなく、抵抗する術のない俺は口を大きく開けてきゃっきゃと笑い転げた。
(やめてよ、鶴海くん。くすぐったい!)
気が済んだのか、鶴海くんは「よし」と短く息を吐いて水色のエプロンをパチンと俺の首の後ろで留めた。なんだこれ、と見下ろすと、エプロンの垂れの部分にはポケットのようなものが付いている。
「ほら、朝ご飯食べるぞ」
「ごあん?」
「ご・は・ん。今日は波瑠の好きなお粥とかぼちゃだって」
そう言ってお椀の中身を見せてくれる。こう言っては失礼だと思うけれど……全然美味しそうには見えない。波瑠くんにとってはご馳走なのかもしれないけれど、その身体に憑依している俺からしてみれば、ただすり潰されただけのご飯と南瓜だ。
「せーの、いただきます。ほら、あーんして」
「あい!」
スプーンで掬ってくれる鶴海くんの顔を見つめながら、ぱかっと口が勝手に開いてしまった。恐るべし、赤ちゃんの反射神経。歯茎と舌でもぐもぐと咀嚼すると、想像していた味とは少し違っていた。味覚も赤ちゃんになってしまっているせいなんだろう、ほんのりとした甘みを感じる。
「美味しい?」
「おいち」
気付けば、俺は勝手に手のひらを右頬にあててニコッと笑っていた。自分でやろうと思った動作じゃない。鶴海くんの『美味しい?』に勝手に身体が反応して、やってしまった仕草だ。もしかしたら、波瑠くんのベビーサインってやつなのかもしれない。鶴海くんは「よかったな」と満足そうに微笑んでいる。
二口、三口と夢中で食べ進めると、鶴海くんはぽんぽんと頭を撫でてくれた。その仕草一つで、俺の心の奥がほわ、と温かくなる。
「いっぱい食べて偉いなぁ。水飲むか?」
「んっ」
ゴクゴクと赤ちゃんらしからぬ飲みっぷりを見せる俺に鶴海くんは「ウケる」と言いながらスマホを取り出し、動画を撮影し始めた。
なんとなくさっきから気付いてはいたけれど、鶴海くんって実はかなりのブラコンだったりするんだろうか。弟相手にこんなに緩みきった顔をするなんて、ちょっと……いや、かなりイメージからかけ離れている。
「よし、ごちそうさまでした」
食べ終えたものをさっとキッチンへと片づけると、鶴海くんは椅子から俺を抱き上げて、後ろから抱きしめるようにしてソファーに座った。
流石に恥ずかしい。照れくさい、とかじゃなくて羞恥心の方だ。俺を抱っこしてるつもりはないって分かってる。分かってるのだけれど……。
鶴海くんは俺のお腹にしっかりと手を回したまま、後頭部に鼻を寄せてスンスン、とつむじの匂いを嗅ぎ始めた。振り返ることも出来ずに、されるがままになる。
「なんで波瑠はこんないい匂いがするんだろうな」
「い?」
「うん、すげぇいい匂い」
正面を向いたまま、鶴海くんの温もりに包まれる。そういう鶴海くんからは香水の匂いがして、俺の小さな心臓がどきっとした。湊くんの身体で、鶴海くんに初めて会った日のことを思い出す。今さらだけど、俺は割と鶴海くんのまとう香りが好きなのかもしれない。
「どうした、波瑠。『ぺたん』したいのか?」
「ないない」
「えっ、俺とくっ付くの嫌?」
「なーないっ」
赤ちゃんだと意思疎通が出来ないと思っていたけれど、鶴海くんは俺が喃語で喋っても「そうそう」とか「ダーメ」なんてきちんと理解したうえで返事をしていた。すごい、流石はお兄ちゃんだ。
「そろそろ、波瑠の好きな番組始まるんじゃね?」
くんくんしたい衝動は一通り落ち着いたのか、鶴海くんがリモコンでテレビのチャンネルを順番に変えている。何個かボタンを押して切り替えると、あるニュースの特集画面でぴたりとその手を止めた。
『続いて、県内のニュースをお伝えします。県が推進する秋の交通安全運動に合わせて、市内にある汐見台高校の生徒たちが、安全運転をドライバーに呼びかけるチラシ配布を行いました。この高校では、半年前に起きた交通事故で生徒一人が重傷を負い、現在も意識不明の重体となっています。事故が起きたのは、菖蒲田浜交差点。以前から交通量が多く、県内でも二番目に事故が多い場所でもあります』
それは、俺が沢村先生の身体を借りていた時、職員会議で取り上げられていたテレビ局のニュースだった。
事故当時の現場の様子だろうか、画面の右上には「事故当時・ことし四月」のテロップが表示されている。道路に黒い番号札を置く鑑識の人たちの姿と、大破した水色の自転車。破片のようなものが、あちこちに散らばっている。
(なんでだろう。見てるだけなのに、すごく怖い……)
不安を伝えたくて鶴海くんの顔を見上げても、その視線は真っ直ぐ画面に向けられたまま、リモコンを持つ手も動く気配がない。
不思議に思って首をかしげると、鶴海くんにぎゅっと抱き締められた。顔を見たくても、ぐりぐりと肩口のところに顔を埋められて動けない。頑張って手を伸ばし、俺は鶴海くんの肩のあたりをペチペチと両手のひらで叩いた。
「ちゅーみく?」
「あぁ、ごめん。怖い話だから、チャンネル変えような」
リモコンのボタンを押すと、画面がぱっと切り替わった。子供向け番組で、歌のおねえさんとおにいさんが『虹』の歌を歌っているところだ。鶴海くんは低い声でそれを口ずさみながら、ゆらゆらと俺を抱っこして背中を撫でてくれた。
(鶴海くんは歌も上手なんだなぁ)
ぽて、と俺が頭を鶴海くんの右肩にのせると、今までのなかで一番近くに鶴海くんを感じた。あったかい。ハンドサインをしなきゃと思うのに、もうちょっとだけ、という気持ちで頭がいっぱいになる。肌が触れ合うだけで、こんなに温かくて幸せな気持ちになるなんて。
「あら、波瑠が珍しく大人しいわね。航平に『遊んで』って言わないの?」
「んー、甘えん坊モードなんじゃね?」
なでなで、とまあるいお尻を撫でられて、恥ずかしさで俺の口から「ひゃぅ」と声が漏れる。鶴海くんは顎まで垂れた俺のよだれを拭きながら、お母さんの背中に向かって声を掛けた。
「てか、なに。母さん今日って休みじゃねぇの?」
「急に欠勤が出ちゃったから、夕方まで出ることになったの。お父さんは昼過ぎには帰って来るけど……航平、アンタ一人でも波瑠のことお世話出来るわよね?」
「出来るけど、今日は昼から友だちと会う約束が――」
「なら、うちに呼べばいいじゃない。ほら、これでお昼はその子と、好きなものでも宅配するなりしなさい」
鶴海くんのお母さんは財布からお札を数枚テーブルの上に置くと、バタバタと慌てた様子で髪をさっとお団子にまとめ始めた。
一方の鶴海くんは、俺が公園にやって来ると思っているからか、悩んだようにリビングの時計を見つめている。
行ってきます、と家を出て行くお母さんを見送り、家の中はとうとう俺と鶴海くんの二人きりになった。
(どうにかして、鶴海くんが公園に行く前に気付いてもらわないと)
赤ちゃん生活を満喫しすぎて、ハンドサインのことをすっかり忘れていた。
たかがピース、されどピース。ぴんと指を二本立てたいだけなのに、こんなにも大変だなんて。赤ちゃんの人生は、ふにゃふにゃとした見た目以上にハードだ。
「波瑠、お昼になったらにぃにの友達が来るかもしんねーから、その前にお散歩行くか」
「にーに?」
「うん、にぃにの友達」
鶴海くんが自分のことを『にぃに』と呼んでいる。なにそれ可愛い~とひとり胸を弾ませてしまったけれど、鏡に映る自分は手をグーにしたまま、目を輝かせてヨダレを垂らしている赤ちゃんでしかない。
そんなことより、早く公園に行くのを止めないと、鶴海くんが何時間も待ちぼうけを食うはめになる。それだけは避けないと。
(うわーっ、何回やっても手が勝手に開いちゃう。どうしよう)
目の前に絵本やオモチャをいそいそと運んでくれる鶴海くんを尻目に、俺は左手でお豆のような指先をつまむようにして固定した。ぷるぷる、と手が震えている。
「にぃに、にぃに」
「ん? 分かった、ちょっと待ってな」
鶴海くん、こっち見て! お願い、今すぐじゃないと、また手が離れちゃう。そう心の中で何度も繰り返し呼びかける俺に、積木を運んでいた鶴海くんはふと視線を持ち上げた。
「でちた」
「波瑠?」
「ぴしゅ、ぴしゅ」
ピース出来たよ、と三本の指を動かないようにぎゅっと左手で抑える。
ぐにゃ、とは上手く曲げられないけれど、鶴海くんはぴたりと動きを止めて、しばし無言で俺の手を見つめていた。
「……いや、まさか」
「きゅ、ぴしゅ!」
「マジで波瑠じゃなくて、キューなのか?」
「んっ、きゅ、きゅう」
コクコクと頷いて、俺は鶴海くんに目でも訴えかけた。指はこれ以上曲げられないけれど、一応ピースの形にはなっている。ふにゃっと笑ってもう一度、へたっぴなハンドサインを鶴海くんに見せる。 ひたすら鳴き声のように「きゅ」を繰り返す俺に、鶴海くんは言葉を失ったように絶句し、目を合わせるように抱き上げてジッと見つめたまま言った。
「今日は俺の弟に憑依したってこと?」
「うゆ、ちゅゆみく」
「それ、どういう意味? 『ちゅゆみく』って」
あぁ、やっぱり伝わっていない。自分的にはいつも通り「鶴海くん」って呼んでいるんだけどな。どうしたら、分かってもらえるんだろう。鶴海くんを指差しながら、俺は何度も名前を呼んだ。
「にぃにー、ちゅゆみく!」
「……もしかして『鶴海くん』って言ってんの?」
鶴海くんは首をかしげたものの、頷く俺を見てすぐに両手をパンと叩いた。
納得がいったらしい。よかった、なんとか理解してもらえて。
「いや、にしても……ごめん、さっきの。あんなベタベタ触ったりして」
きょとんとして首を傾げたものの、合点がいった俺はふぃっと目を逸らした。気まずすぎる。さすがの鶴海くんもスキンシップが度を超えていた自覚はあるのか、みるみるうちに頬が赤く染まっていく。それに気付いてしまった俺は、どうしようもなく落ち着かない気持ちになった。
恥ずかしいけれど、平気だよと伝えたくてふるふると頭を左右に振って見せる。
「キモいって思ってねぇ? キューだって分かんなかったとはいえ、やり過ぎた」
「なーないっ」
「本当に?」
「とっ!」
「……なんか、せっかく憑依出来たのに、ちゃんと喋れないって不便だな」
鶴海くんは俺の顔を一度見て、すっと視線を逸らした。その気持ちは、俺も同じだよって言えたらいいのに。舌っ足らずな波瑠くんの身体では、言葉一つ紡ぐのも満足にできない。
俺は咄嗟に鶴海くんの胸に飛び込むように抱きついて、ぽんぽんと両手で肩甲骨のあたりを撫でた。
「ちゅーみく。だいじ、だいじ」
大丈夫だよ、明日もきっと別の人になれるだろうし。その時にいっぱい、今日の分も喋ろうよ。そんな気持ちをこめて、すりすりと広い背中に手を這わせると、鶴海くんは鋭い目尻を下げるように微笑んだ。
「大丈夫だ、って励ましてくれてんの?」
頷く俺に鶴海くんは「ふ」と笑って俺を抱き上げると、階段を上がって二階へ向かった。廊下の先にあったのは、鶴海くんの自室だ。ベッドの上に腰を下ろして、またしても膝の上に座らせられる。
そばには、俺のために獲ってくれたあのラッコのぬいぐるみが置かれていた。
「今日はどこにも遊びに行けねーけど、ふたりでゆっくり過ごそうな」
……なんて優しいんだろう。嬉しさで顔を見上げると、視線に気づいた鶴海くんはぽんぽんと頭を撫でてくれる。今この瞬間の俺と出来る過ごし方を考えてくれることが、たまらなく嬉しい。
「キューにだけ、特別に見せてやるよ」
鶴海くんが手に取ったのは、机の引き出しにしまわれたアルバムだった。
友達との楽しそうな日々に混じって、体育館のような場所でユニフォーム姿の写真が何枚もある。なんのスポーツをしていたんだろう、と俺はそのなかの一枚を指差した。
「こで、ちゅーみく!」
「あぁ、それはスポ少でハンドボールやってた時の写真。反抗期だったから、ふてくされた顔ばっかりだな」
鶴海くんは懐かしむように、小学生から中学生まで打ち込んだというハンドボールの話をしてくれた。ポジションはセンターバックという、攻撃を組み立てる司令塔らしい。俺はスポーツのことをよく分からないけれど、鶴海くんの性分にぴったり合っているように思った。
「この大会で最終的にチームは優勝したんだけど、俺は後半戦で右ひざの靭帯を怪我してさ」
「たいたい?」
「うん、まぁ痛かったわ。人生の痛みベストスリーには入るくらい」
「よちよち」
「あはは、ありがとうな。もう痛くねぇから平気だよ。……この写真の時は、勝って嬉しいふりしてた。心から喜べなかった……っていうか」
鶴海くんの苦笑いに、俺は何も言葉を返すことが出来なかった。それは決して波瑠くんの身体だからなんて理由じゃなくて、どんな慰めも励ましも、軽々しくなってしまうような気がしたからだ。
「んぐ……うぅ」
「なんでキューが泣きそうになってんの。ギャン泣きは勘弁してくれよ」
「ぎゃん?」
「うん、波瑠も泣く時めちゃくちゃ声デケぇから」
うるうると目が潤んで泣きそうになる俺に、鶴海くんはちょんと人差し指で鼻先に触れた。ぱち、と瞬きをすると睫毛がしっとりと濡れる感覚がする。
「でも、辛い思い出だけじゃねぇから。大会の帰り、遠征のバスから海が見えてさ」
そう言って何枚かページを捲った先には、海の写真が収められていた。汐見台の坂の上から見える海も綺麗だったけれど、写真に写るこの海は、それよりももっと透明度が高い。実際に見に行けたら、どんなに綺麗なんだろう。
「汐見台の海も好きだけど、日本海ってこんなにデカくて綺麗なのかーって衝撃を受けて。俺の悩んでたことってちっせぇなーとか、帰ったらリハビリするしかねぇよなって気持ちも切り替えられたんだ」
鶴海くんが今までどんな日々を過ごしてきたのか。教えてほしい、もっと知りたい。そんな気持ちで振り返れば、鶴海くんの嬉しそうな顔が間近にある。
小さな体いっぱいに、トクン、トクンと心臓は何度も強く脈を打っていた。
「……本当なら、今日はキューと一緒に汐見台の海を見に行きたかった。俺が育った町をもっと案内したかったし、それでまた何か思い出せればいいなって考えてたんだけど」
それは、俺もすごく行きたかったな。けれど、子守りをお母さんに頼まれてしまった上に、鶴海くんが俺を連れて海まで行くのはきっと大変だろう。
残念だなぁ、いつか叶うかなぁ……と心の中で思いながら俯く俺に、鶴海くんは切なさを滲ませた笑顔でスマホを取り出した。
「そんな顔すんなって」
「んー……」
「あとで超うまい昼飯作ろうぜ」
「めち?」
「んで、食い終わったら一緒に昼寝しよう。そうじゃないと、波瑠の体力がもたないから」
どれがいい? とスマホで鶴海くんは赤ちゃん用のレシピを検索してくれた。そっか、今日は夜まで一緒に居られて、ご飯が食べられるんだ……って思ったけど、自分に歯がちょっとしか生えていないのを忘れていた。
『離乳食後期』と書かれたページには、ツナ缶や納豆、里芋を材料にして作れる美味しそうなおやきの画像が並んでいる。
「おいち?」
「わかんねー、多分おいちいんじゃね?」
つられて赤ちゃん言葉になっている鶴海くんを「いひひ」と笑うと、恥ずかしそうに唇を尖らせて脇をくすぐられる。鶴海くんのこんな顔が見られるなら、赤ちゃんライフも悪くない、なんて思ってしまう。
そのあと、俺たちは一緒に洗濯物を干したり、お昼の前にDVDを見ながらおやつをたくさん食べた。鶴海くんは意外にも、休日はランニングや筋トレをしたあとは家でまったり映画を観るのが好きらしい。ネトフリのラインナップを表示しながら、お気に入りだという作品の話をしてくれる。
「……そろそろ、波瑠のメシ作るか。俺は冷凍のお好み焼きでいいや」
歩行器に俺の身体をすぽっと入れると、鶴海くんは慣れた手つきでツナと納豆のおやきを焼いてくれた。ダイニングテーブルに並んで座り、早めのお昼ご飯だ。
「なんか、キューと一緒に暮らしてるみたいだな」
「いちょ」
「うん、一緒。見た目は波瑠だから、すげー変な感じがするけど」
確かに、言われてみればそうだ。俺は「目覚めたら他人の家にいました」という日々がすでに五日目に突入していて、だんだん違和感が薄れてきている。よほど仲の良い友だちでもない限り、自分の家に招くなんてしないはずだ。
なのに俺は、波瑠くんという弟のポジションで、鶴海くんとナチュラルに同居気分になっている。
(なんか俺……浮かれてる?)
もじもじと膝を擦り合わせる俺に、鶴海くんは「オムツ替えるか?」とあまりにもけろっと訊いてきた。いち、に、さんと数える間が空くほどの沈黙のあと、俺たちはぼっと火が点いたように赤面して、無言で目を逸らし合う。
それから、若干の気まずい空気のなかでお昼ご飯を食べ終え、後片付けをする鶴海くんの背中をぼんやり眺めているうちに、いつのまにか眠気がやってきていた。まだ眠りたくないのに、さっきから俺の身体は船を漕ぎ始めている。鶴海くんの作ったおやきを食べすぎたせいなのかもしれない。
リビングのカーテンの隙間から、プレイマットに差し込む光をぼんやりと眺めていると、隣の部屋にお布団を敷き終えた鶴海くんがやって来て、俺をそこへぽすんと仰向けに寝かせた。
「そろそろ体力の限界だろ。俺も隣に居るから、昼寝しよ」
「ねんね?」
「うん、ねんね。起きたら親父も帰って来るだろうし、夕方は買い物に行ったりするかもしれないから」
それまでに体力回復しような、とおでこを優しく撫でられる。うぅ、そんな風にされるとすぐにでも眠っちゃいそうだ。俺はもっと、鶴海くんと楽しいこといっぱいしたいんだけど。
すぐ隣で横向きに腕枕している鶴海くんに、トン、トン……と一定のリズムで優しくお腹を叩かれる。ぱちぱちと瞬きをする俺を前に、鶴海くんも次第に眠たくなって来たのか、欠伸を噛み殺してうっすらと息を吐いていた。
「……おやすみ、キュー」
先に眠ってしまったらしい寝顔を見て、俺は顔の傍に置かれた右手の人差し指を、五本指でぎゅっと掴んだ。こうされるの、嫌じゃないかな。今だけなら、触ってもいいかな。
ずっと胸がドキドキして、指の先までじんじんと脈打っている。俺はそっと瞼を閉じて、しっとりと温かなその指を握ったまま、近くへと顔を寄せた。
たとえどんな姿になっても、優しくして、面倒を見てくれる。そこに特別な理由がなかったとしても……この瞬間、隣に居られることがいちばん幸せで、心地良い。
起きたら、さっきの写真の続きが見たい。洗濯物の靴下を丸めて、コロコロ転がすキャッチボールもまたやりたい。お絵かき帳にクレヨンで描いた、やたらと胴の長いライオンとか、目つきの悪いキリンとか。この身体でも、一緒に過ごしたい。……でも、今は。
(おやすみなさい、鶴海くん)
***
『おい、大丈夫か。おい!』
誰かに強い力で肩を叩かれた。そして、それよりも強烈なズキンズキンとした痛みを全身に感じる。身体中のあちこちが痛すぎて、一体どこが痛んでいるのかも分からないくらいだ。
『今、学校に――……から。このまま、体……すなよ』
キーンと大きな耳鳴りがする。男の人の声が一生懸命俺に向かって話しかけているのだけれど、水の中にいるみたいにこもった音で響いてよく聴き取れない。
(すごく痛い。体が……動かせない?)
微かに瞼を持ち上げると、目の前にはアスファルトが広がっていた。ずっと向こうに、人だかりのようなものが出来ているのが見える。
『もうすぐ――が来るから』
大きな手のひらが、俺の手を力強く握ってくれていた。ぬるぬるするのは、べったりと付いた血のせいだろう。頭にズキズキと刺すような痛みと、激しいめまいが交互にやって来る。なんでこんなに痛いんだろう。どうして、と瞬きをすると、俺の手を握っているその人は太陽を背に顔を覗き込んできた。逆光で、影になったその顔は殆ど見えない。
『大丈夫、絶対に……から。大丈夫だからな』
痛い。怖い。本当に何が起きたのか分からない。
彼の声にどうにか応えようと、精一杯の力を込めて人差し指を握り返すと、それよりもずっと強い力で握り返された。
(なんで俺、柵のなかに入れられてるんだ……?)
仰向けになろうとすると「あう」と間抜けな声が出た。舌っ足らず過ぎて、自分でもびっくりするくらい恥ずかしい。
頭の上では、パステルカラーの物体がゆっくりと回転している。なんだあれ、と目を凝らしてみるけれど、遠くていまいちハッキリと見えない。もう一度「えいっ」と気合を入れて体を動かすと、俯せになった途端に口からたらりと涎が垂れてきた。どうして勝手に出てきちゃうんだろう。ダラダラ止まらないし、自分で拭うことすら叶わない。
「ふえぇ……?」
なんで、と言ったはずの口から出てきたのは、赤ちゃんの泣き声そのものだ。
腹這いの体勢のまま、頭を持ち上げようと必死で顔を上げる。手のひらは信じられないほど小さくて、ぷにぷにと見るからに柔らかそうな丸みを帯びていた。
「あら、波瑠くん起きちゃった? おはよう、ママはここにいるよ~」
明るい穏やかな声が聞こえる。一体どこから……とキョロキョロしていると、脇の下に手を入れられて、部屋全体を見渡せるくらいの視界の高さまで一気に持ち上がった。
視線の先には、初めて見るテレビやテーブル、ソファ。そして、さっきまで俺が寝ていたメリー付きのベビーベッドがあった。
(なっ、なんで今日に限って赤ちゃんなの!?)
きっと世界中を探しても、起きて早々にこんな絶望的な気持ちになっている赤ちゃんなんてどこにも居ないだろう。
母親らしきその人は赤ちゃん用の椅子に俺を座らせ、カウンターキッチンの奥に向かった。電子レンジの音と、炊き立てのご飯の匂いがする。朝ごはんを用意してくれているのかな、とその背中を見つめていると、テーブルの上でピンク色のスマホが振動し始めた。
「やだ、職場からだわ。ねぇー、ちょっと降りてきて手伝ってくれない?」
(今日の俺の)母さんは廊下に繋がっているドアを開けると、階段に向かって叫んだ。誰を呼んでいるんだろう。リビングの天井から、ドン、バタンという物音が聞こえる。しばらくして、足音とともに現れたのは――。
「航平、波瑠にご飯あげておいてくれる?」
「ん、了解」
制服ではない、ゆったりとした上下スウェット姿の鶴海くんだった。
いつもセットされている髪は寝癖がついて後ろがピョンと跳ねているし、ズボンの紐もトップスの裾から「こんにちは」している。
ふぁ……と大きな欠伸をしながらキッチンに向かった鶴海くんは、手に小さなお椀とスプーン、赤ちゃん用の水筒を持って、目の前にドサッと腰を下ろした。ちょん、と人差し指で俺の頬に触れて、もにもにとその柔らかさを確かめるように何度も軽く押してくる。寝起きとは思えないその笑顔に、俺はドキドキと胸が高鳴るのを感じていた。
「おはよ、波瑠」
「うゆ……」
今日は、鶴海くんの弟に憑依しているらしい。これはものすごいラッキーが起きたと言っていいんじゃなかろうか。俺はここにいるよ、と教えてあげたい。
けれど、その興奮も虚しく、俺の呼びかけは見事な赤ちゃん語に変換された。
「ちゅゆみく」
「ん?」
「ちゅゆみく、ちゅうみく!」
「チュー? 初めて聞いた波瑠語だな。マグマグのことか?」
水を欲しがっていると勘違いした鶴海くんに、ベビーマグを手渡される。
「ちあう!」
そうじゃない、と俺がぶんぶんと頭を振ると、鶴海くんは「はいはい」と困ったような、それでいてたまらなく愛おしそうな笑みを浮かべた。
(えっ、うわっ、何その顔! 鶴海くん、顔が溶けちゃってるよ)
こんな鶴海くんの顔を見るのは初めてだ。でも、そうなるのも無理はない。十五歳近く離れた弟だなんて、そりゃあ可愛くて仕方がないだろう。
しかも、ぷっくりとした頬っぺたに、ちぎりパンみたいにムチムチとした腕。ふよふよと風で揺れる、たんぽぽの綿毛のような細い髪。窓ガラスに反射した今日の俺の外見は、鶴海家の美形遺伝子を色濃く受け継いだ子役みたいな赤ちゃんだった。
「波瑠、どうした。手に何かついてた?」
ハンドサインをしようと、右手をもにょもにょと動かす。その不思議な動きが気になったのか、鶴海くんは覗き込むように俺の小さな手を見つめて、パーの形に開いて見せた。
(ちがう、鶴海くん。俺がしたいのはピースの形なんだよ。これじゃあ、いつまで経ってもハンドサインが送れないよ!)
鶴海くんはくすぐり遊びをするように、俺の手のひらをこちょこちょと指先でくすぐり始めた。
「えへへ、えへへっ」
「波瑠、超可愛い。なぁ、今日もアレやっていい?」
お腹に顔を近づけた鶴海くんに、ふーっと息をかけられ、ぐりぐりと顔を押し付けられる。まさかの愛情表現に驚く間もなく、抵抗する術のない俺は口を大きく開けてきゃっきゃと笑い転げた。
(やめてよ、鶴海くん。くすぐったい!)
気が済んだのか、鶴海くんは「よし」と短く息を吐いて水色のエプロンをパチンと俺の首の後ろで留めた。なんだこれ、と見下ろすと、エプロンの垂れの部分にはポケットのようなものが付いている。
「ほら、朝ご飯食べるぞ」
「ごあん?」
「ご・は・ん。今日は波瑠の好きなお粥とかぼちゃだって」
そう言ってお椀の中身を見せてくれる。こう言っては失礼だと思うけれど……全然美味しそうには見えない。波瑠くんにとってはご馳走なのかもしれないけれど、その身体に憑依している俺からしてみれば、ただすり潰されただけのご飯と南瓜だ。
「せーの、いただきます。ほら、あーんして」
「あい!」
スプーンで掬ってくれる鶴海くんの顔を見つめながら、ぱかっと口が勝手に開いてしまった。恐るべし、赤ちゃんの反射神経。歯茎と舌でもぐもぐと咀嚼すると、想像していた味とは少し違っていた。味覚も赤ちゃんになってしまっているせいなんだろう、ほんのりとした甘みを感じる。
「美味しい?」
「おいち」
気付けば、俺は勝手に手のひらを右頬にあててニコッと笑っていた。自分でやろうと思った動作じゃない。鶴海くんの『美味しい?』に勝手に身体が反応して、やってしまった仕草だ。もしかしたら、波瑠くんのベビーサインってやつなのかもしれない。鶴海くんは「よかったな」と満足そうに微笑んでいる。
二口、三口と夢中で食べ進めると、鶴海くんはぽんぽんと頭を撫でてくれた。その仕草一つで、俺の心の奥がほわ、と温かくなる。
「いっぱい食べて偉いなぁ。水飲むか?」
「んっ」
ゴクゴクと赤ちゃんらしからぬ飲みっぷりを見せる俺に鶴海くんは「ウケる」と言いながらスマホを取り出し、動画を撮影し始めた。
なんとなくさっきから気付いてはいたけれど、鶴海くんって実はかなりのブラコンだったりするんだろうか。弟相手にこんなに緩みきった顔をするなんて、ちょっと……いや、かなりイメージからかけ離れている。
「よし、ごちそうさまでした」
食べ終えたものをさっとキッチンへと片づけると、鶴海くんは椅子から俺を抱き上げて、後ろから抱きしめるようにしてソファーに座った。
流石に恥ずかしい。照れくさい、とかじゃなくて羞恥心の方だ。俺を抱っこしてるつもりはないって分かってる。分かってるのだけれど……。
鶴海くんは俺のお腹にしっかりと手を回したまま、後頭部に鼻を寄せてスンスン、とつむじの匂いを嗅ぎ始めた。振り返ることも出来ずに、されるがままになる。
「なんで波瑠はこんないい匂いがするんだろうな」
「い?」
「うん、すげぇいい匂い」
正面を向いたまま、鶴海くんの温もりに包まれる。そういう鶴海くんからは香水の匂いがして、俺の小さな心臓がどきっとした。湊くんの身体で、鶴海くんに初めて会った日のことを思い出す。今さらだけど、俺は割と鶴海くんのまとう香りが好きなのかもしれない。
「どうした、波瑠。『ぺたん』したいのか?」
「ないない」
「えっ、俺とくっ付くの嫌?」
「なーないっ」
赤ちゃんだと意思疎通が出来ないと思っていたけれど、鶴海くんは俺が喃語で喋っても「そうそう」とか「ダーメ」なんてきちんと理解したうえで返事をしていた。すごい、流石はお兄ちゃんだ。
「そろそろ、波瑠の好きな番組始まるんじゃね?」
くんくんしたい衝動は一通り落ち着いたのか、鶴海くんがリモコンでテレビのチャンネルを順番に変えている。何個かボタンを押して切り替えると、あるニュースの特集画面でぴたりとその手を止めた。
『続いて、県内のニュースをお伝えします。県が推進する秋の交通安全運動に合わせて、市内にある汐見台高校の生徒たちが、安全運転をドライバーに呼びかけるチラシ配布を行いました。この高校では、半年前に起きた交通事故で生徒一人が重傷を負い、現在も意識不明の重体となっています。事故が起きたのは、菖蒲田浜交差点。以前から交通量が多く、県内でも二番目に事故が多い場所でもあります』
それは、俺が沢村先生の身体を借りていた時、職員会議で取り上げられていたテレビ局のニュースだった。
事故当時の現場の様子だろうか、画面の右上には「事故当時・ことし四月」のテロップが表示されている。道路に黒い番号札を置く鑑識の人たちの姿と、大破した水色の自転車。破片のようなものが、あちこちに散らばっている。
(なんでだろう。見てるだけなのに、すごく怖い……)
不安を伝えたくて鶴海くんの顔を見上げても、その視線は真っ直ぐ画面に向けられたまま、リモコンを持つ手も動く気配がない。
不思議に思って首をかしげると、鶴海くんにぎゅっと抱き締められた。顔を見たくても、ぐりぐりと肩口のところに顔を埋められて動けない。頑張って手を伸ばし、俺は鶴海くんの肩のあたりをペチペチと両手のひらで叩いた。
「ちゅーみく?」
「あぁ、ごめん。怖い話だから、チャンネル変えような」
リモコンのボタンを押すと、画面がぱっと切り替わった。子供向け番組で、歌のおねえさんとおにいさんが『虹』の歌を歌っているところだ。鶴海くんは低い声でそれを口ずさみながら、ゆらゆらと俺を抱っこして背中を撫でてくれた。
(鶴海くんは歌も上手なんだなぁ)
ぽて、と俺が頭を鶴海くんの右肩にのせると、今までのなかで一番近くに鶴海くんを感じた。あったかい。ハンドサインをしなきゃと思うのに、もうちょっとだけ、という気持ちで頭がいっぱいになる。肌が触れ合うだけで、こんなに温かくて幸せな気持ちになるなんて。
「あら、波瑠が珍しく大人しいわね。航平に『遊んで』って言わないの?」
「んー、甘えん坊モードなんじゃね?」
なでなで、とまあるいお尻を撫でられて、恥ずかしさで俺の口から「ひゃぅ」と声が漏れる。鶴海くんは顎まで垂れた俺のよだれを拭きながら、お母さんの背中に向かって声を掛けた。
「てか、なに。母さん今日って休みじゃねぇの?」
「急に欠勤が出ちゃったから、夕方まで出ることになったの。お父さんは昼過ぎには帰って来るけど……航平、アンタ一人でも波瑠のことお世話出来るわよね?」
「出来るけど、今日は昼から友だちと会う約束が――」
「なら、うちに呼べばいいじゃない。ほら、これでお昼はその子と、好きなものでも宅配するなりしなさい」
鶴海くんのお母さんは財布からお札を数枚テーブルの上に置くと、バタバタと慌てた様子で髪をさっとお団子にまとめ始めた。
一方の鶴海くんは、俺が公園にやって来ると思っているからか、悩んだようにリビングの時計を見つめている。
行ってきます、と家を出て行くお母さんを見送り、家の中はとうとう俺と鶴海くんの二人きりになった。
(どうにかして、鶴海くんが公園に行く前に気付いてもらわないと)
赤ちゃん生活を満喫しすぎて、ハンドサインのことをすっかり忘れていた。
たかがピース、されどピース。ぴんと指を二本立てたいだけなのに、こんなにも大変だなんて。赤ちゃんの人生は、ふにゃふにゃとした見た目以上にハードだ。
「波瑠、お昼になったらにぃにの友達が来るかもしんねーから、その前にお散歩行くか」
「にーに?」
「うん、にぃにの友達」
鶴海くんが自分のことを『にぃに』と呼んでいる。なにそれ可愛い~とひとり胸を弾ませてしまったけれど、鏡に映る自分は手をグーにしたまま、目を輝かせてヨダレを垂らしている赤ちゃんでしかない。
そんなことより、早く公園に行くのを止めないと、鶴海くんが何時間も待ちぼうけを食うはめになる。それだけは避けないと。
(うわーっ、何回やっても手が勝手に開いちゃう。どうしよう)
目の前に絵本やオモチャをいそいそと運んでくれる鶴海くんを尻目に、俺は左手でお豆のような指先をつまむようにして固定した。ぷるぷる、と手が震えている。
「にぃに、にぃに」
「ん? 分かった、ちょっと待ってな」
鶴海くん、こっち見て! お願い、今すぐじゃないと、また手が離れちゃう。そう心の中で何度も繰り返し呼びかける俺に、積木を運んでいた鶴海くんはふと視線を持ち上げた。
「でちた」
「波瑠?」
「ぴしゅ、ぴしゅ」
ピース出来たよ、と三本の指を動かないようにぎゅっと左手で抑える。
ぐにゃ、とは上手く曲げられないけれど、鶴海くんはぴたりと動きを止めて、しばし無言で俺の手を見つめていた。
「……いや、まさか」
「きゅ、ぴしゅ!」
「マジで波瑠じゃなくて、キューなのか?」
「んっ、きゅ、きゅう」
コクコクと頷いて、俺は鶴海くんに目でも訴えかけた。指はこれ以上曲げられないけれど、一応ピースの形にはなっている。ふにゃっと笑ってもう一度、へたっぴなハンドサインを鶴海くんに見せる。 ひたすら鳴き声のように「きゅ」を繰り返す俺に、鶴海くんは言葉を失ったように絶句し、目を合わせるように抱き上げてジッと見つめたまま言った。
「今日は俺の弟に憑依したってこと?」
「うゆ、ちゅゆみく」
「それ、どういう意味? 『ちゅゆみく』って」
あぁ、やっぱり伝わっていない。自分的にはいつも通り「鶴海くん」って呼んでいるんだけどな。どうしたら、分かってもらえるんだろう。鶴海くんを指差しながら、俺は何度も名前を呼んだ。
「にぃにー、ちゅゆみく!」
「……もしかして『鶴海くん』って言ってんの?」
鶴海くんは首をかしげたものの、頷く俺を見てすぐに両手をパンと叩いた。
納得がいったらしい。よかった、なんとか理解してもらえて。
「いや、にしても……ごめん、さっきの。あんなベタベタ触ったりして」
きょとんとして首を傾げたものの、合点がいった俺はふぃっと目を逸らした。気まずすぎる。さすがの鶴海くんもスキンシップが度を超えていた自覚はあるのか、みるみるうちに頬が赤く染まっていく。それに気付いてしまった俺は、どうしようもなく落ち着かない気持ちになった。
恥ずかしいけれど、平気だよと伝えたくてふるふると頭を左右に振って見せる。
「キモいって思ってねぇ? キューだって分かんなかったとはいえ、やり過ぎた」
「なーないっ」
「本当に?」
「とっ!」
「……なんか、せっかく憑依出来たのに、ちゃんと喋れないって不便だな」
鶴海くんは俺の顔を一度見て、すっと視線を逸らした。その気持ちは、俺も同じだよって言えたらいいのに。舌っ足らずな波瑠くんの身体では、言葉一つ紡ぐのも満足にできない。
俺は咄嗟に鶴海くんの胸に飛び込むように抱きついて、ぽんぽんと両手で肩甲骨のあたりを撫でた。
「ちゅーみく。だいじ、だいじ」
大丈夫だよ、明日もきっと別の人になれるだろうし。その時にいっぱい、今日の分も喋ろうよ。そんな気持ちをこめて、すりすりと広い背中に手を這わせると、鶴海くんは鋭い目尻を下げるように微笑んだ。
「大丈夫だ、って励ましてくれてんの?」
頷く俺に鶴海くんは「ふ」と笑って俺を抱き上げると、階段を上がって二階へ向かった。廊下の先にあったのは、鶴海くんの自室だ。ベッドの上に腰を下ろして、またしても膝の上に座らせられる。
そばには、俺のために獲ってくれたあのラッコのぬいぐるみが置かれていた。
「今日はどこにも遊びに行けねーけど、ふたりでゆっくり過ごそうな」
……なんて優しいんだろう。嬉しさで顔を見上げると、視線に気づいた鶴海くんはぽんぽんと頭を撫でてくれる。今この瞬間の俺と出来る過ごし方を考えてくれることが、たまらなく嬉しい。
「キューにだけ、特別に見せてやるよ」
鶴海くんが手に取ったのは、机の引き出しにしまわれたアルバムだった。
友達との楽しそうな日々に混じって、体育館のような場所でユニフォーム姿の写真が何枚もある。なんのスポーツをしていたんだろう、と俺はそのなかの一枚を指差した。
「こで、ちゅーみく!」
「あぁ、それはスポ少でハンドボールやってた時の写真。反抗期だったから、ふてくされた顔ばっかりだな」
鶴海くんは懐かしむように、小学生から中学生まで打ち込んだというハンドボールの話をしてくれた。ポジションはセンターバックという、攻撃を組み立てる司令塔らしい。俺はスポーツのことをよく分からないけれど、鶴海くんの性分にぴったり合っているように思った。
「この大会で最終的にチームは優勝したんだけど、俺は後半戦で右ひざの靭帯を怪我してさ」
「たいたい?」
「うん、まぁ痛かったわ。人生の痛みベストスリーには入るくらい」
「よちよち」
「あはは、ありがとうな。もう痛くねぇから平気だよ。……この写真の時は、勝って嬉しいふりしてた。心から喜べなかった……っていうか」
鶴海くんの苦笑いに、俺は何も言葉を返すことが出来なかった。それは決して波瑠くんの身体だからなんて理由じゃなくて、どんな慰めも励ましも、軽々しくなってしまうような気がしたからだ。
「んぐ……うぅ」
「なんでキューが泣きそうになってんの。ギャン泣きは勘弁してくれよ」
「ぎゃん?」
「うん、波瑠も泣く時めちゃくちゃ声デケぇから」
うるうると目が潤んで泣きそうになる俺に、鶴海くんはちょんと人差し指で鼻先に触れた。ぱち、と瞬きをすると睫毛がしっとりと濡れる感覚がする。
「でも、辛い思い出だけじゃねぇから。大会の帰り、遠征のバスから海が見えてさ」
そう言って何枚かページを捲った先には、海の写真が収められていた。汐見台の坂の上から見える海も綺麗だったけれど、写真に写るこの海は、それよりももっと透明度が高い。実際に見に行けたら、どんなに綺麗なんだろう。
「汐見台の海も好きだけど、日本海ってこんなにデカくて綺麗なのかーって衝撃を受けて。俺の悩んでたことってちっせぇなーとか、帰ったらリハビリするしかねぇよなって気持ちも切り替えられたんだ」
鶴海くんが今までどんな日々を過ごしてきたのか。教えてほしい、もっと知りたい。そんな気持ちで振り返れば、鶴海くんの嬉しそうな顔が間近にある。
小さな体いっぱいに、トクン、トクンと心臓は何度も強く脈を打っていた。
「……本当なら、今日はキューと一緒に汐見台の海を見に行きたかった。俺が育った町をもっと案内したかったし、それでまた何か思い出せればいいなって考えてたんだけど」
それは、俺もすごく行きたかったな。けれど、子守りをお母さんに頼まれてしまった上に、鶴海くんが俺を連れて海まで行くのはきっと大変だろう。
残念だなぁ、いつか叶うかなぁ……と心の中で思いながら俯く俺に、鶴海くんは切なさを滲ませた笑顔でスマホを取り出した。
「そんな顔すんなって」
「んー……」
「あとで超うまい昼飯作ろうぜ」
「めち?」
「んで、食い終わったら一緒に昼寝しよう。そうじゃないと、波瑠の体力がもたないから」
どれがいい? とスマホで鶴海くんは赤ちゃん用のレシピを検索してくれた。そっか、今日は夜まで一緒に居られて、ご飯が食べられるんだ……って思ったけど、自分に歯がちょっとしか生えていないのを忘れていた。
『離乳食後期』と書かれたページには、ツナ缶や納豆、里芋を材料にして作れる美味しそうなおやきの画像が並んでいる。
「おいち?」
「わかんねー、多分おいちいんじゃね?」
つられて赤ちゃん言葉になっている鶴海くんを「いひひ」と笑うと、恥ずかしそうに唇を尖らせて脇をくすぐられる。鶴海くんのこんな顔が見られるなら、赤ちゃんライフも悪くない、なんて思ってしまう。
そのあと、俺たちは一緒に洗濯物を干したり、お昼の前にDVDを見ながらおやつをたくさん食べた。鶴海くんは意外にも、休日はランニングや筋トレをしたあとは家でまったり映画を観るのが好きらしい。ネトフリのラインナップを表示しながら、お気に入りだという作品の話をしてくれる。
「……そろそろ、波瑠のメシ作るか。俺は冷凍のお好み焼きでいいや」
歩行器に俺の身体をすぽっと入れると、鶴海くんは慣れた手つきでツナと納豆のおやきを焼いてくれた。ダイニングテーブルに並んで座り、早めのお昼ご飯だ。
「なんか、キューと一緒に暮らしてるみたいだな」
「いちょ」
「うん、一緒。見た目は波瑠だから、すげー変な感じがするけど」
確かに、言われてみればそうだ。俺は「目覚めたら他人の家にいました」という日々がすでに五日目に突入していて、だんだん違和感が薄れてきている。よほど仲の良い友だちでもない限り、自分の家に招くなんてしないはずだ。
なのに俺は、波瑠くんという弟のポジションで、鶴海くんとナチュラルに同居気分になっている。
(なんか俺……浮かれてる?)
もじもじと膝を擦り合わせる俺に、鶴海くんは「オムツ替えるか?」とあまりにもけろっと訊いてきた。いち、に、さんと数える間が空くほどの沈黙のあと、俺たちはぼっと火が点いたように赤面して、無言で目を逸らし合う。
それから、若干の気まずい空気のなかでお昼ご飯を食べ終え、後片付けをする鶴海くんの背中をぼんやり眺めているうちに、いつのまにか眠気がやってきていた。まだ眠りたくないのに、さっきから俺の身体は船を漕ぎ始めている。鶴海くんの作ったおやきを食べすぎたせいなのかもしれない。
リビングのカーテンの隙間から、プレイマットに差し込む光をぼんやりと眺めていると、隣の部屋にお布団を敷き終えた鶴海くんがやって来て、俺をそこへぽすんと仰向けに寝かせた。
「そろそろ体力の限界だろ。俺も隣に居るから、昼寝しよ」
「ねんね?」
「うん、ねんね。起きたら親父も帰って来るだろうし、夕方は買い物に行ったりするかもしれないから」
それまでに体力回復しような、とおでこを優しく撫でられる。うぅ、そんな風にされるとすぐにでも眠っちゃいそうだ。俺はもっと、鶴海くんと楽しいこといっぱいしたいんだけど。
すぐ隣で横向きに腕枕している鶴海くんに、トン、トン……と一定のリズムで優しくお腹を叩かれる。ぱちぱちと瞬きをする俺を前に、鶴海くんも次第に眠たくなって来たのか、欠伸を噛み殺してうっすらと息を吐いていた。
「……おやすみ、キュー」
先に眠ってしまったらしい寝顔を見て、俺は顔の傍に置かれた右手の人差し指を、五本指でぎゅっと掴んだ。こうされるの、嫌じゃないかな。今だけなら、触ってもいいかな。
ずっと胸がドキドキして、指の先までじんじんと脈打っている。俺はそっと瞼を閉じて、しっとりと温かなその指を握ったまま、近くへと顔を寄せた。
たとえどんな姿になっても、優しくして、面倒を見てくれる。そこに特別な理由がなかったとしても……この瞬間、隣に居られることがいちばん幸せで、心地良い。
起きたら、さっきの写真の続きが見たい。洗濯物の靴下を丸めて、コロコロ転がすキャッチボールもまたやりたい。お絵かき帳にクレヨンで描いた、やたらと胴の長いライオンとか、目つきの悪いキリンとか。この身体でも、一緒に過ごしたい。……でも、今は。
(おやすみなさい、鶴海くん)
***
『おい、大丈夫か。おい!』
誰かに強い力で肩を叩かれた。そして、それよりも強烈なズキンズキンとした痛みを全身に感じる。身体中のあちこちが痛すぎて、一体どこが痛んでいるのかも分からないくらいだ。
『今、学校に――……から。このまま、体……すなよ』
キーンと大きな耳鳴りがする。男の人の声が一生懸命俺に向かって話しかけているのだけれど、水の中にいるみたいにこもった音で響いてよく聴き取れない。
(すごく痛い。体が……動かせない?)
微かに瞼を持ち上げると、目の前にはアスファルトが広がっていた。ずっと向こうに、人だかりのようなものが出来ているのが見える。
『もうすぐ――が来るから』
大きな手のひらが、俺の手を力強く握ってくれていた。ぬるぬるするのは、べったりと付いた血のせいだろう。頭にズキズキと刺すような痛みと、激しいめまいが交互にやって来る。なんでこんなに痛いんだろう。どうして、と瞬きをすると、俺の手を握っているその人は太陽を背に顔を覗き込んできた。逆光で、影になったその顔は殆ど見えない。
『大丈夫、絶対に……から。大丈夫だからな』
痛い。怖い。本当に何が起きたのか分からない。
彼の声にどうにか応えようと、精一杯の力を込めて人差し指を握り返すと、それよりもずっと強い力で握り返された。



