翌朝、時計と教室の入り口を落ち着きなく交互に見ていると、予鈴ギリギリになって鶴海くんがやって来た。俺の目の前で鞄を手に持ったまま、教室の中をぐるりと見渡す。その口元はへの字に曲がっていて、とてもじゃないけれど機嫌が良さそうには見えない。
「鶴海、どうしたん?」
「別に」
「別にって顔じゃねーだろ、めっちゃ怖い顔してるじゃん」
「うるせぇ、お前には関係ない」
「うわ、鬼不機嫌かよ」
教室の一番後ろで輪になっていた湊くんたち三人に声を掛けられても、鶴海くんは「またあとで」とぶっきらぼうに返事をしただけで、そのまま教室を出て行った。慌てて椅子から立ち上がり、その後を追いかける。
ずんずんと長い脚で迷いなく向かう先は、やっぱりというか何というか、沼田くんがいる一年七組の教室だった。
「なぁ、沼田。ちょっといいか」
廊下に来い、と手招きする鶴海くんに、沼田くんはビクッと大袈裟なほど肩をこわばらせて席を立った。額に浮かぶ珠のような汗を、何度もハンカチで拭う。狭い机の間を縫うように歩くけれど、太ももやお尻がぶつかってガコン、ガタンと揺れるのを、そのたびに抑えながら進んでくる。
「つ、鶴海くん? 何の御用でしょうか」
怯えて敬語になっている沼田くんを見下ろすように腕を組み、鶴海くんが話しかけている。沼田くんは今にも泣きそうな顔で、必死に受け答えを繰り返していた。
「なぁ。昨日、俺と喋ったこと覚えてるか?」
「え、えっと……?」
「朝、絡まれたところ助けて。図書室に移動しただろうが」
「図書室? 鶴海くんと僕が?」
おろおろしている沼田くんに対して、鶴海くんの全身からは苛立ちのオーラが漂っている。本人にそのつもりはないのかもしれないけれど、質問というより尋問に近い。
「なんも覚えてねえの? 昨日学校に来たのくらいは、流石に記憶にあんだろ」
「そ、それは、覚えてます……多分」
「多分ってなんだよ、はっきりしろよ」
「す、すみません、その……あまりにも急に話しかけられたから、うまく話せなくて」
沼田くんが考え込むように床を見つめている。その間にもたらりと汗が頬に一筋流れると、決して演技ではないその様子に鶴海くんの方が今度は戸惑っているようだった。どうしよう、沼田くんもパニックになっている。
膠着状態になったふたりの間に入るように俺はひょこっと顔を覗かせると、鶴海くんに向かって笑顔を作ってみせた。ヤンキーって、こんな感じでいいのかな。それとも、もっとオラついていた方が「それっぽい」だろうか。
「おい、鶴海。なに沼田に絡んでんの」
「……清水?」
目と目が合って、顔の横にピースをしてみせた。指先を二回曲げて、合図であるハンドサインを送る。それを見て鶴海くんは一瞬言葉を失ったようにかたまり、すぐに俺と沼田くんを交互に見た。表情からすっと苛立ちが抜け落ちて、まるで見間違いを疑うような瞬きをしている。視線は、俺の指先に釘付けになったまま動かない。声には出していないのに、その葛藤が手に取るように伝わってきた。
信じたくない、でも目の前の光景を説明できる理由が他に見当たらない――そんな表情で、ゆっくりと上靴の爪先をこちらに向け近づいて来る。
「沼田と清水ってグルなん?」
「グル? ぼっ、僕と清水くんがですか?」
「そうだよ、なんか企んでんのかって聞いてんだよ」
「あ、あの、本当に何も」
「じゃあなんでコイツ急に出てきたんだよ」
「そ、それは僕にも分からないんですけど……」
沼田くんは、ますます意味が分からないという顔をしている。けれど、何かまずいトラブルに巻き込まれていることを察したのか、俺より先にさっきより大きな声で弁明した。
「僕は、清水くんと喋ったことすらないです。同じ普通科だから顔は見覚えあるけれど……どう見たって、接点があるようには思えないんじゃないかと」
ねっ、と同意を求められて俺も頷く。金髪のヤンキーと、分厚い眼鏡姿の沼田くんが親友だなんて、誰からどう見てもそうは思えないだろう。
「……もういい、悪かった。急に変なこと言って」
「い、いえ、大丈夫です」
「ビビらせて悪かったな」
鶴海くんはむっとした顔のままそう言うと、今度は俺の方へ視線を寄越した。
オタク仲間らしき友人たちに「貴様は一体なにをしでかしたんだ」「一軍の鶴海と孤高のドヤンキーが下界になんの用事だったんだ?」と沼田くんは席に戻るなり、質問攻めに遭っている。鶴海くんは未だに到底受け入れられないという顔のまま、俺の手首をぐっと掴んだ。
「お前……今日は清水に乗り移ってるってこと?」
「おう。話が早くて助かるわ」
腕を組んで頷くと、鶴海くんはグイグイと手首を引いて歩き出した。教室のドアを勢いよく開き、机に置きっぱなしの通学鞄を肩に担ぐ。
「つ、鶴海? どこ行くんだよ」
「決まってんだろ、話す場所探すんだよ」
「学校でいいだろ、別に」
「教室でこの話できるわけねぇだろうが」
状況を呑み込めない俺をよそに、鶴海くんは腕を離さないまま、床に座り込む湊くんたちの輪に向かって声を掛けた。
「俺と清水、早退するから。担任には適当に言っておいてくんね?」
「え、なんで清水? つーか、授業が始まる前に帰るのは『早退』って言わねえだろ」
「うるせぇ、細かいこと気にすんな」
「気にするだろ、日本語おかしいし」
すかさず潤くんが冷静なツッコミをいれて、帆高くんがそこへ「欠席だわな」と言葉を補う。湊くんはスマホを横向きにしてゲームをしながら、鶴海くんに向かってひらりと手をあげて言った。
「んー、おっけ。テキトーに誤魔化しとくわ」
「サンキュ、湊」
「珍しいコンビだな、鶴海と清水って」
「珍しくて悪いかよ」
「別に悪くはねぇけど」
その返事を聞くと、鶴海くんは「行くぞ」と低い声で俺を促し、足早に昇降口へと向かった。
***
「じゃあまず、湊の身体になってる時の朝のやりとりから。出来るだけ詳しく言ってみて」
「えっと……最初に、ピアスを付けて来なかったことをキレられて。『俺の顔面偏差値なら、何開けても似合うって言ったのはお前のくせに』って言われた。本当はピアスの付け方が分かんねぇし、自分の物なのかどうか知らねぇから、付けるっていう発想がなかっただけなんだけどな」
「それから?」
「昇降口で上靴の場所が分からないでいたら、鶴海が俺に『ガラスの靴です』ってふざけて用意してくれた。最初は何されてるのか分からなくて、ちょっと照れるっつーか……結構、恥ずかしかったわ」
鶴海くんは俺の言葉に顔を背けると、片手で鼻と口を覆い隠すように押さえた。指の隙間から覗く耳や首筋まで、隠しきれずにじわじわと赤くなっている。
「あれ、冗談だから。湊との悪ふざけっつーか」
「んなこと、分かってる」
「喋り方が昨日と違うのはなんでなん?」
「いつも通り喋りてぇのに、なんでかこういう言葉遣いになっちまう」
「まぁ、確かに清水は口も態度も悪いもんな」
学校を早退(というか欠席)した俺たちは、学校の坂を下ったところにあるファミレスに来ていた。平日の開店してすぐの店内は、まだ客もまばらだ。アメリカンダイナーを模した内装らしく、天井近くにはネオン管の看板が飾られ、洋楽のBGMが低く流れている。
もちろんこの店に来るのは初めてで、目に入るものすべてが新鮮だ。原色に近いポップな壁紙の色、座面がふかふかと沈み込むレトロな赤い丸椅子。ステンレスのテーブルには、うっすらと自分たちの顔が映り込んでいて、物珍しさについきょろきょろと視線を彷徨わせる。テーブルを挟んで対面する形で座る鶴海くんは、まだ落ち着かない様子で、眉間の皺をほぐすように中指でぐりぐりと押していた。
「……なら、放課後の説明も出来んの?」
「うん。俺と鶴海、帆高、潤の四人でマックに行った。頼まれたから俺が一番隅っこの席をとって、鶴海がナゲットを運んで来てくれて。マスタードを渡されたのに怒らなかったから、様子が変だって鶴海が心配してくれた」
「……んで?」
「帆高がハッピーセットを頼んで、水鉄砲を欲しがったのを『マジでガキだ』って」
目の前に並んだふたつのコーラに、口をつけられる空気ではなかった。
鶴海くんの表情はさっきより険しくないものの、引きつった笑みを浮かべている。
「じゃあ、次。海里ちゃんの身体に乗り移った時は」
「うーんと……鶴海の手当をした後、湊の様子が変だったって相談を受けて。帰り際に『海里ちゃん今日いいことあった? 今日はなんか機嫌よさそう』って」
「……そんで、海里ちゃんの返事は?」
「教室に戻りなさい、っつったな。怪しまれたらやべぇと思ったし」
「うーわ……マジか。え、ちょっと待って。最後にもう一個だけ。湊の身体だったってことは、あいつの部屋も見たことがあるってことだよな?」
「おう」
「あいつの机の上に飾られてる物が、なんだったか言ってみろよ。それだけは、清水は絶対に知らないと思うから」
口を開いた瞬間、自分でも驚くほど乱暴な言葉が飛び出した。
「あ? なんでだよ」
俺なら絶対に使わない荒々しい響き。反射的に、体の方が勝手にそう喋ることを覚えているみたいだ。
「だって、清水って俺らとグループ違うっつーか。いつも一匹狼だし、湊の家になんか行くわけねぇって思ったから」
「あぁ、なるほどな」
確かに、今朝目覚めてすぐに鏡を確認しに行くと、いかにもな不良男子になっていた。湊くんの身体にいたとき、鶴海くんの後ろの席に座っていたから覚えている。名前は清水凛くん。ブリーチされた髪に、鶴海くんと同じくらいの高身長。でも、教室でのイメージとは違って、彼の部屋にはメカニックに関する本がいくつも並び、教科書や参考書も右から背の順に整理整頓されていた。湊くんもそれはカッコいいのだけれど、清水くんはなんというか、治安悪めのヤンキー系イケメンだ。
俺は湊くんの部屋にあったものを思い浮かべながら、順番にそれを声に出して説明した。
「黒色の四角い置時計と、ゲームのキャラクターの……こんくらいの大きさのフィギュア。あとは多分卒業式だと思うんだけど、鶴海とふたりで卒業証書を持って撮った写真があったな」
俺が思い出せる限りで答えると、鶴海くんは一度頭を抱えて「マジかー……」と唸った。受け容れよう、信じようとしてくれているのかな、とその様子をじっと黙って見つめる。そして、一度深呼吸をしてから、鶴海くんは真っ直ぐなまなざしを俺に向けた。
「分かった。信じるわ。一日目は湊で、二日目は沢村先生。三日目が沼田で、今日は清水の身体……で、合ってんだよな?」
「合ってる」
「じゃあマジで幽霊とか、そういう類なんだな、お前」
「多分な。他に説明のしようがねぇもん。にしても、意外とあっさり信じるんだな、鶴海。怖くねぇの」
「別に怖くはねぇけど、コミュ強すぎてついに幽霊とダチになるんかって感じ」
鶴海くんがそう言って目を逸らすと、コーラのグラスのなかで氷が溶けてカランと涼やかな音が響いた。
「なんで俺の周りの奴らにばっかり憑依してわけ?」
「知るかよ。でも毎日遭遇すんのはお前だけ。今のところな」
「沼田に話したのってガキの頃だし、今は特に霊感とかねぇんだけど」
「じゃあなんでお前の周りばっかなんだろな」
「さぁ。俺に言われても分かんねぇよ」
「そりゃそうか」
鶴海くんは水滴で濡れたグラスのストローを咥えると、喉を鳴らしながら渇きを潤すように一気に飲み干していく。
「自分のことは何も覚えてねぇけど、未練を解消しないと天国に行くのは無理なんかも」
「そう決めつけんのはまだ早くね? 死んでない可能性だってあるかもしれないだろ」
「えっ」
「ちょい待ち。絵に描いて説明した方が分かりやすいかも」
鶴海くんの指摘に、俺はコーラへ伸ばしかけた手を止める。視線の先で机に頬杖をした鶴海くんは、鞄の中からルーズリーフとシャープペンを取り出すと、さらさらと絵を描き始めた。
「この真ん中に居るのが俺で、湊・先生・沼田・清水って周りの人間がいるとするじゃん。そんで、お前の『本体』はどこかしらにあるわけだ」
五人分の棒人間を描いた鶴海くんは、離れた位置にもう一人を描き足すと、その顔の真ん中に『Q』というアルファベットを書き足した。
「この身体が死んでるか生きてるかは分からねぇんじゃねぇのかなって。もしかしたら、生きてる状態で念みたいなのを飛ばして、乗り移ってる可能性もなくはないだろ」
「……それは考えたことなかったわ」
「だろ? 俺、頭いいから」
「自分で言うなよ」
「あくまで可能性の話な。肝心の記憶がないから、何とも言えねぇけど」
シャープペンシルを唇の横に添えて、鶴海くんは「天国」と「この世」というふたつの文字を「Q」の横に、ルート分岐のように書き加えた。
もし、俺の身体がまだ生きてるとしたら。一体何歳なのか、何をしているのかは分からないけれど。自分の本当の姿に戻りたいし、記憶だって取り戻したい。それが途方もない夢だったとしても、そう願う気持ちは諦めることも消すこともできない。
俯く俺に、鶴海くんはメニュー表を広げてぶっきらぼうに押しつけてきた。
「……お前の魂、っていえばいいのかな。どっからどう見ても清水の顔なんだけど、話してて人となりみたいなのは伝わってくる。すげー真面目そうで、一生懸命。あと演技は絶望的に下手」
「へ、下手」
「うん。演劇部だったら即クビだわ」
「そこまで言うか」
「言うね。マジで棒読みだったし。……まぁ、見たこともない赤の他人になるわけだから下手で当然だとは思うけど。お前が湊と海里ちゃんに乗り移ってる時のことを今になって思い返すと、確かに色々おかしかったなって思うわ」
鶴海くんは、そう言って初めて俺に向かって笑いかけた。ただ目を見つめられているだけなのに、胸の奥をきゅうっと締め付けられるような痛みが走る。
少しずつ俺のことを「人」として扱ってくれていることが嬉しくて、一気に体の奥から熱が上がってくるような気がした。
「んで、聞くけどさ。俺にお前はどうして欲しかったわけ?」
「そ……それは……」
鶴海くんを巻き込んでおいて、俺は「自分のしたいこと」が急に分からなくなってしまった。確かにこの憑依生活からは抜け出したいし、本当の自分のことを知りたい。生きているにせよ、死んでいるにせよ、この現状が続くのがしんどいことに変わりはない。でも、それよりも今は……。
(俺は、自分の身に起きた事を話して、共感してくれる相手が欲しかったんだ)
誰とも話していない訳じゃない。身体に憑依している間、家族や友達、職場や学校の色んな人と会話はしている。でも、それは「俺」としてではなく、借りている相手の一日を、その人として振舞っているだけだ。
勢いに任せて縋る気持ちで鶴海くんを頼ってしまったけれど、今更になってそれを申し訳なく思い始めていた。
「思った以上に幽霊ライフは孤独っつーか……寂しくて」
歯切れ悪く返事を誤魔化す俺に、鶴海くんはしばし俺の顔を見つめてから、けろりとした調子で言った。
「中身が違うっつーのは分かってるけど、清水の顔で『寂しい』とか言われるとマジで鳥肌立つんだけど」
「あぁ? 俺にはどうしようもねぇんだから、仕方ねぇだろ」
「つーかさ。今から、どっか遊びにでも行くか」
「へっ?」
「ゲーセン行ったり、カラオケ行ったり。あー、でも流石にそれは制服のままだとやべぇかな」
「な、なんだよ急に」
タブレットの画面に、ポテトやドリアをタップで追加していく。その長い指先を見つめていると、頬杖をした鶴海くんが俺の顔を覗き込んできた。
「四日連続で憑依して、それが毎日俺の周りの人間だったとしてもさ。厳密に言えば明日も同じことが起きるとは限らないわけじゃん? もしかしたら、起きたら全然知らない町で、オッサンになってる可能性だってあるわけだ」
「おう」
「だとしたら、今日くらいは悔いが無いって言えるくらい遊びまくる日にすんのはどう? もしも俺が同じ状況に置かれたら、『いまこの瞬間』をめちゃくちゃ楽しくしたい、って思うけどな」
笑顔を向けられて、俺は唇に力を込めてなんとか涙を堪えていた。泣いちゃダメだ。ここで泣いたら、せっかく鶴海くんが提案してくれた「楽しい一日」が台無しになってしまう。ずず、と鼻をすすりながら目元を手の甲で拭う俺に、鶴海くんは眉を下げて微笑みながら言った。
「……お前って結構泣き虫だったりすんの?」
「分かんねぇ。ただ、そう言ってくれるとは思ってなかったから」
「昨日図書室でも、その口の形してたぞ。記憶はないけど、そういうお前が『本当の自分』だった頃の癖とかは、身体を離れても残るものなのかもな」
ぽんぽん、と頭を二度優しく撫でられて、必死で我慢して目の縁に溜まっていたあたたかい涙がぽろっとこぼれ落ちた。
鶴海くんの面倒見のよさと、優しさ。人としてのぬくもりを向けられて、初めて自分の存在を認めてもらえたような気がする。
「あっ、悪い。俺、弟がいるからさ。泣かれるとつい」
「つ、るみ?」
「清水の顔で目ぇウルウルさせんなよ。調子狂う」
「俺じゃなくて体が勝手に」
「……泣き止んで腹ごしらえしたら、今日は連れ回すからな。色々見て、なにか思い出すことがあるかもしんねぇし。お前は何食う?」
「えっと……鶴海と同じドリアと、小エビのサラダ。あとハンバーグセットに、ライスも付けたい」
「ぶはっ! フードファイター並みに食うじゃん」
最後の晩餐かよ、とおどけた鶴海くんの一言に、俺がまた「うぅ~」と声を漏らして呻くように泣きはじめると、不良を泣かせている鶴海くんに店員さんが訝しむ様な視線を送ってくる。慌てて鶴海くんは俺に向かって両手を合わせながら「ごめん、今の言葉はノンデリ過ぎた」と謝り倒してきた。
***
財布の中のお金が減ったら、清水くんがビックリしてしまう。 鶴海くんはそう言ってファミレスでの食事代を奢ってくれて、通学定期も持っていないと分かると、最寄駅までのバス代とショッピングモールに向かうまでの電車代を出してくれた。「連れ回す」と言ったのが鶴海くんの提案とはいえ、ここまでしてもらうのはさすがに居心地が悪い。
「おい、清水。こっち来いよ」
鶴海くんに名前を呼ばれて、俺がぽけーっとしながらワンテンポ遅れて振り返ると、すごく不思議そうな顔をされてしまった。
「どうした?」
「毎日名前が変わってっからさ。反応するのが遅れるっつーか……」
「あー、それは仕方ねぇか」
「だろ? もう頭がバグってんの」
苦笑いして「悪い」と笑顔を作ってみせると、鶴海くんは一拍間をおいてから、片手を額に当てて「あー」と納得したように二度頷いた。
「でも、自分の本当の名前は思い出せないんだよな?」
「だな。苗字も名前もさっぱり」
「じゃあ、いま名前決めようぜ。俺もお前のこと、ちゃんと名前で呼びたいし」
目尻に皺を寄せるように、くしゃりと笑う鶴海くん。俺は期待に胸を膨らませながら頷き、揺れる電車のつり革に手を伸ばした。
「でもなぁ。清水の顔に向かって、他人の名前で呼びかけるのも変な感じがする」
清水は清水だし、と鶴海くんは少し困ったように首をかしげた。
確かに、それはそうだ。クラスメイトを急に違う名前で呼ぶなんて、俺が同じ立場だったらすぐに出来るとは思えない。
「んー、でも名前は今後も必要だよな。お前とまた明日以降も会う可能性の方が高いわけだし」
「何でもよくね、鶴海が呼びやすい名前なら」
「投げやりだな、お前」
「投げやりっていうか、任せる」
「じゃあガチで考えるぞ」
それに、鶴海くんしか呼んでくれる人は居ないしね。そう心の中で独り言を付け足したら、なんだか悲しくなってきた。
憑依した相手の名前で呼ばれることはあっても、俺が名前を思い出さない限りは、もう二度と本当の自分を呼んでくれる人はいないのかもしれない。
暗い方へと気持ちが傾きかけた瞬間、鶴海くんは「じゃあさ」と明るい調子で切り出した。
「キュー、って名前はどう?」
「きゅう?」
「正体不明、クエスチョンのQ。響きもなんかお前にぴったりだし、割と良くね?」
「単純すぎねぇか、それ」
「シンプルなのが逆にいいんだよ」
「まあ、覚えやすいのは覚えやすいけど」
どことなく照れくさそうに、だけど嬉しそうに鶴海くんは頭を掻く。
ちょっとこそばゆいけれど、確かに似合っているんじゃないかな。
「いいよ。じゃあ、今日から『キュー』って呼べよ」
少しだけ恥ずかしくなった俺は「付けてくれてサンキュ」と照れくささを誤魔化すように笑って見せる。すると、鶴海くんは笑みを深めて、つかんでいた俺の手を握ると、誘うように駅のホームへと降り立った。
「行くぞ、キュー」
「……おう」
妙に得意げな顔で振り返る鶴海くんから、目が離せない。自分が付けた名前を、誇らしげに思っているのが伝わってくる。こんな表情もするんだ、と俺は無性にそのギャップが可愛く思えて仕方がなかった。
***
駅に直結したショッピングモールの中に足を踏み入れると、平日の午前中にもかかわらず、館内は大学生くらいのグループやカップルで賑わっていた。
三階建ての至る所に『オータムバーゲン』と書かれたポスターが飾られている。ショーウィンドウのマネキンはどれもニットやコート姿で、季節を先取りしたアイテムを着せられていた。柱にあるフロアマップを見れば、二階には映画館、三階にはフードコートとゲームセンターがあるらしい。
「んじゃ、まずはあそこに行きますか」
「えっ、どっ、どこに?」
「俺、ガキの時からここに来てるから。遊び方なら任せといて」
「頼もしいけど、ちょっと張り切りすぎじゃね」
「張り切って悪いかよ」
「悪くはねぇけど」
そう言って鶴海くんが最初に入ったお店は、おしゃれな服や雑貨が並んだ古着系のアパレルショップだった。かすれたプリントのTシャツやスウェット。デニムジャケットを手に取りながら、鶴海くんは楽しげに振り返る。
「キューはどういう服が好きなん?」
「はぁ……でも、俺は本当に何も」
「覚えてない、じゃなくて。今のキューが『好きだな』とか『いいな』って思うものが、どういうのか知りたくて聞いてんの」
「……うーん、こういう水色は割と好きかもしんねぇ。派手すぎんのはあんまり」
「ウケる、そんだけ顔良くて派手なの嫌いとか」
「だって、中に居るのは『清水くん』じゃねぇし」
「だろ? だから、俺はお前のことを知りたいって言ってる」
ぐしゃ、と前髪を指先で乱されて、両手でボサボサになった毛先を押さえる。別に、動揺なんてしていない。そのはずなのに、なんとなく鏡を覗き込むと、手櫛で前髪を整える俺の頬はすこぶる血色がよかった。
……いやいや、これは清水くんの体質のせいだ。きっとそう。
昨日の沼田くんが汗をかきやすかったみたいに、清水くんが赤面しやすい体質なだけだろう。そうじゃなかったら、俺が一方的に鶴海くんのことを意識していることになってしまう。
(かもしれないじゃなくて、絶対そう!)
自分に言い聞かせるように、何でもない顔を装っていると、背後からぬっと手が伸びてきて、伊達眼鏡をかけられた。
「うん、似合うじゃん。てか、マジで男前」
「それは俺も思った」
「湊もだけどさ、清水は骨格からして違うっつーか」
「わかる。自分でも、周りの人にすげぇ見られてる感じするもん。あー、俺の顔に見惚れてるなって」
鶴海くんの意見に、両頬を手のひらで押さえながら賛同すると、通りすがりのカップルに変な目で見られてしまった。どうしてだろう、と呆然とする俺の後ろで、鏡越しに鶴海くんは盛大に吹き出す。
「他人からしてみれば、今のはすんげぇナルシストに聞こえたかもな」
「あ、そうか。いや、俺は『清水くん』の顔面を褒めただけなんだけど」
「俺には伝わってるから、別に他人のことなんか気にしなくて良くね? ……なぁ、この眼鏡に合わせてコーデ組んでみようぜ」
両肩を押されて、フードつきのパーカーがデザイン違いで並んだラックの前に連れて行かれる。この顔に似合うものを選んでくれているんだと、てっきり俺は思っていたのだけれど……。
「これとこれなら、キューはどっちが好き?」
「こっちかな。鶴海は?」
「俺もグレーのが好き。このロンTに、あっちにあるボトムスとか合わせたら良さげじゃん?」
「鶴海って、古着とか好きなん」
「んー、割と。潤ともよく街中の店巡りしたりするし。……おっ、こういうのはどうよ」
俺の好きなものを聞いて、どういうところが好きなのか、さりげなく尋ねられる。鶴海くんがひととなりを知ろうとしてくれているのが嬉しくて、心は少しずつ明るくなっていく。
「うわ、このロゴスウェット良いな」
「おぉー、鶴海っぽい。すげぇ似合ってると思う」
「いくらだろう。割とマジで欲しいかもしんない」
鶴海くんが服の中に入り込んでいた値札のタグを裏返すと、俺たちは同時に顔を見合わせた。
「「七千九百円⁉」」
綺麗に声が重なって、笑いながらハンガーにかかったスウェットをラックへ戻す。到底、高校生のお小遣いでは買えない値段だ。それでも鶴海くんはがっかりするどころか、とても嬉しそうに笑っている。
「アルバイトでもしないと、絶対に買えんやつ」
「でも、うちの高校は普通科も特進科もバイト禁止だからなぁ。しゃーなし」
「じゃあ、もし働けるならどういう店がいい?」
「んー、理想はアパレルだけど……高校生は無理なところが殆どだし。現実的に考えたら、飲食とか?」
「鶴海なら、どこでもアルバイトリーダーになれそうだな」
「そうか? まぁ、そういう役割は嫌いじゃねぇけど」
お店を出て隣を歩く俺に向かって、鶴海くんはなんてことのない口調で尋ねてきた。
「なぁ。キューが元の自分に戻れたら、またこの店にふたりで来るのはどう?」
「また、って」
「本当のお前の顔に似合う服、一緒に選んでやりたいし」
喉元まで出かかった「それは難しいんじゃないかな」という言葉の代わりに、やんわりとその誘いを否定した。
「俺、ワンチャン鶴海よりも年上説ある。こういう若者向けの服は似合わねぇかも」
「なんでそう思うんだよ」
「湊の身体を借りた時、高一の数学が簡単に解けたから。最初は単に湊の得意科目なんだって思ったけど、先生が驚いていたし。そうじゃねぇんだって気付いて」
俺自身も、知識を忘れない理由は分からない。苦笑いしてみせると、鶴海くんは口元に手を添えながら思い浮かべるように視線を上へ持ち上げた。
「確かに、湊は理数系苦手だからな。じゃあ、そういう過去の知識みたいなのは残ってるってこと?」
「多分な。だから、少なくとも高校一年生よりは上の年齢なんかも」
「まさかの年上説で地味にショックなんだけど」
「えっ、なんでだよ」
「話してる感じ、キューは俺より年下っぽく感じるから」
「はぁ⁉ それって、俺がガキっぽいってこと⁉」
鶴海くんは逃げるように笑いながらエスカレーターへ先に乗り込んだ。かと思うと、俺が慌てて追いかけた瞬間、一段上からするりと降りてきて、いつの間にか俺のすぐ下に回り込んでいる。なぜか俺の一段下、階段側に立つ位置取りだった。急にどうしたんだろう、と振り返ると、鶴海くんはもうこっちを見ておらず、スマホを取り出して検索窓に何かを打ち込んでいる。
「キューが生きてるのか死んでるのかは一旦置いておくとして。過去の記憶がないのに、知識だけ覚えてるのは何でなんだろうな」
「ものすごく数学が好きだった、とかじゃね?」
「だとしたら、一概に年上って決めつけることも出来ないよな。小学生でも高校生くらいの問題を解く奴だって居るわけだし」
三階に着くと、俺たちはカフェで飲み物を注文した。透明なプラカップに筆記体の英語が書かれていて、一番上にはチョコチップを散りばめたホイップクリームがこんもりと乗っている。ザ・海外のお洒落なドリンクって感じだ。
一番奥の二人掛けの席に座って、鶴海くんは左手で何回かスマホをスクロールすると、その画面を俺に向けて見せてくれた。
「キュー、これ見てみろよ」
「……『エピソード記憶と意味記憶』?」
鶴海くんの調べてくれた画面には、それぞれの記憶の違いについて要約された文章が表示されていた。エピソード記憶は、自分の名前、過去の体験、特定の場所など、自分だけの個人的な思い出のことで、側頭葉という部分に保存されるらしい。
それに対して、意味記憶は社会的なルール、言葉の意味、知識のこと。人生の中で何度も繰り返し学習することで、脳のなかで強烈に定着するから、身体にショックを受けても非常に消えにくい、と書いてある。
続きを読もうとすると、読み込み画面がくるくると回り続けたまま、画面がフリーズしてしまった。鶴海くんは「Wi-Fiが死んだ」とスマホをテーブルに伏せると、チョコレートラテを一口吸ってから言った。
「さっきのをヒントにするなら、キューが自分の身体でやってきたことに関しては、無意識レベルで身体が覚えてるってことだよな?」
「うん、多分な」
「んじゃあ、湊の時にピアスの付け方が分からなかったのは、本体のキューにはその習慣が無いせいかもな」
鶴海くんはカップを置いて、腕組みをしながら視線を俺へ向けてきた。
他に俺が出来なかったことって何かあっただろうか、とつられて考え込む。
「……ネクタイもだ」
「ん?」
「ネクタイの結び方が分からなかった。だから、湊のスマホで調べたんだよ」
「じゃあ学生だとしても、ネクタイのある制服ではなかったんだろうな。……もしくは」
「もしくは?」
「やーっぱ小学生とか、中学生なんじゃね?」
「分かんねぇよ。俺の『本体』が実は大人で、すんごい強面の男だったらどうする」
「えー、今より治安悪いってこと?」
「ゴリマッチョっつーかさ、筋肉隆々で……金剛力士像みたいな!」
ドヤ顔で力こぶを作ってみせると、鶴海くんは人目もはばからず「ぶっはは」と豪快に仰け反って大爆笑した。湊くんの身体を借りていた時ですら、こんなに楽しそうな顔は見たことがない。よほどツボに入ったんだろうか。
「鶴海は、それでも俺と仲良くしてくれんの?」
「当たり前じゃん」
即答だった。あまりの速さに何を肯定されたのか分からず、一瞬言葉に詰まる。鶴海くんはじっとこちらを見つめたまま、迷いのない表情で言った。
「なんで?」
「だって、キューが元の身体に戻れるのが一番良いに決まってっし」
「じゃあ、鶴海よりイケ散らかした顔面で颯爽と現れたい」
「俺より? じゃあ芸能人でもない限り無理だろ」
「自覚あり、と」
「てか、わかんねぇぞ。毎日男の身体を借りてるだけで、本当は女子の可能性だってあるかもしれねーし」
ただ笑いかけられただけなのに、なんだか無性に落ち着かない気持ちになった。 湊くんの身体にいる時から、俺は無意識に自分のことを『俺』と言っている。
ということは、本体も男性の可能性が高い。 そんなことを考えながら、飲みかけのカップを両手で包み、鶴海くんの顔と手元を交互に見比べる。
「それって、俺がすんげー可愛い女の子だったらいいのになって思ってるってこと?」
何気なく出た言葉だった。鶴海くんを困らせるつもりなんてなかったのに、自分でもびっくりするぐらい拗ねた言い方だ。
「なんでそうなる。拡大解釈しすぎだろ」
「だって、鶴海は男だし。可愛くて優しい女子の方が、男に再会するよりはロマンがあっていいんじゃねぇかなって」
そう思っただけだよ、と心の中で呟く俺は、鶴海くんからぷいっと顔を背けていた。それがバレないようにストローを咥えて、ずずず……と底の方まで飲み干す。
鶴海くんは少し困ったような顔をしたあと、カップの中身を混ぜるようにくるりと手首を使って回してみせた。
「別に、性別とかどうでもよくね。俺より年下でも、年上でも。もうなんでもいいよ」
「……もし、俺が皺だらけのジジイだったらどうするよ」
「キューと一緒に居るの、思った以上に割と楽しいし。一緒に居られるなら、その他のことなんて俺は気にしない」
「なんも話合わねぇかもよ。趣味は囲碁と犬の散歩かも」
「俺、小学生ん時に囲碁やってたからルールなら分かるぜ。あ、でも盆栽とかゲートボールはやったことねぇわ」
「ジジイと遊ぶ気満々かよ」
「満々っつーか、キューがジジイでも普通に面白そうじゃん」
鶴海くんにとってはそれが当たり前で、別に格好つけた言葉なんかじゃなかったとしても、俺にとってそれはとんでもなく嬉しい言葉だった。何か言わなきゃ、と思うのに、頭の中で言葉がもつれて返事が出来ない。
飲み終えたドリンクとトレーを返却口に置くと、鶴海くんは席に座ったまま手を差し出してきた。
「ほら、行こうぜ」
手首を引かれるまま、今度は店の外へ向かう。次なる目的地だというゲームセンターに着くまでのあいだ、鶴海くんの楽しげに笑う横顔を、俺は何度も見上げた。初めはどうなることかと思ったけれど、気づけば二人でちょっとした冒険をしている気分だ。だんだんドキドキが増して、ワクワクが弾けて、はやく、はやくと足が勝手に動く。
……鶴海くんも、俺と同じ気持ちだったらいいのにな。
***
「うわぁああ! 鶴海、ゾンビ! ゾンビが来た!」
「キューの仲間みてぇなもんだろ、ビビってんじゃねぇよ」
「俺はゾンビじゃねぇって!」
大音量のBGMと電子音が飛び交うゲームセンターで、俺と鶴海くんは体験型のホラーゲームに挑戦していた。ふたりで横並びに座って、銃で画面に現れるゾンビを撃ちまくり、どんどんステージをクリアしていく。
いいところまで進むと毎回コンティニュー画面が出てきて、その度に鶴海くんは「全クリしたい」と躍起になって、百円玉を入れていた。
(ガチャガチャの時も思ったけど、意外と子供っぽい所があるんだよなぁ)
学校に居る時の鶴海くんはもっとクールで、大人っぽくて。その場にいるだけで「本当に高校生なの?」と聞きたくなるような雰囲気を纏っている。
憑依体質の時点で俺の存在は『特別』だとは思うのだけれど、鶴海くんのこういう顔が見られるのは自分だけなのかな、なんて思うと嬉しくなる。
ほくほくと一人で胸を温めていると、機械が背後から冷たい風を勢いよくジェット噴射し、思わず俺は「うぎゃあああ!」と悲鳴を上げて飛び上がった。助けを求めるように、隣の鶴海くんにありったけの力でしがみつく。
「鶴海っ、いま後ろからなんか出て来た!」
「おい、心臓が止まるかと思ったわ! キュー、お前の声デカすぎだろ」
「ぎゃーっ! ほら、なんかキモいのが来てる! ぐちゃって画面にくっついてるうぅ!」
「落ち着け、それただの演出だから」
「演出でもキモいもんはキモいんだよ!」
「叫びすぎ、店員さん見てるって」
腕を絡めたまま半泣きで大騒ぎする俺を見て、鶴海くんはお腹を片手で押さえながら大爆笑した。確かにみっともないけれど、そんなに笑わなくたっていいと思う。
「はー、腹痛ぇ。耐性皆無どころか、ビビり過ぎだろお前」
「うるせぇ、色んな意味で初見殺しだわ」
抱きついてしまった手を離しながら、火照った頬に手の甲を軽くあてがう。
目尻に浮かぶ涙を拭った鶴海くんは、俺の言葉にぴたりと銃を操作する手を止めて振り返った。
「初見ってのは記憶がないからって意味? それとも、お前自身が経験したことないって思い出したってこと?」
「わ、分かんねぇ……なんか、無意識にパッと出た言葉だった。ゲーセンの記憶とか、そういうのはマジでないんだけど」
もしもこれがエピソード記憶だとするならば、少しずつ自分を取り戻す作業が始まっている……のかもしれない。
言いようのない、身体の奥から滲み出てくるような不安。戸惑いながら答える俺と鶴海くんの前で、画面は目を離した隙にゲームオーバーの表示に切り替わっていた。
「まぁ、それっていい兆候なんじゃね? やっぱり色々見たり感じたりすれば、思い出すヒントになるのかもしれないな」
「そうだといいけど」
「絶対そうだって。焦らずいこうぜ」
「焦ってねぇし」
「今、めっちゃ焦った顔してっけどな」
他にも思い出せそうなことはないかな、と視線を膝に落として黙り込む俺に、鶴海くんは「そろそろ行くか」と声をかけて入口のカーテンを開けると、くぐりやすいように押さえてくれた。
「……あ」
「ん、なに。どうしたん」
出口の方向へ向かって歩く途中、UFOキャッチャーの大きなラッコのぬいぐるみと目が合う。可愛い。いいなと思って一度立ち止まると、鶴海くんは台を正面と横から覗き込んで、水色の貝殻を両手で抱えるラッコを指差した。
「コイツ、欲しい?」
「いや、いい。だって、取れたとしても家には置けねぇし」
「そんなん、俺の家に置いておけばいいだけの話じゃん」
「いや、そこまでしてもらう理由ないだろ」
「理由とかいらねぇよ、欲しいなら取ればいいだろ」
「そういう問題じゃなくて」
「そういう問題だよ、いいから見てろって」
取れることが大前提で話が進んでいる。俺が「大きくて無理だと思う」と言うより先に、鶴海くんは百円を投入すると、迷わず横方向へ進むボタンを押した。台の横に回りこんで、奥へと進むアームを慣れた手つきで操作している。
「本当にいい、やらなくていいって!」
「この台楽勝だわ。一発で取れる」
その言葉通り、ツメがぱかっと開いてラッコの体をがしりと掴んだ。その様はキャッチというよりも捕獲という言葉がぴったりだ。ゆらゆらと不安定に揺れながら胴体が持ち上がると、アームが開いて取出口にラッコがぽすんと落ちてきた。
「す、すご……。こんなにデカいのに一回で取れるなんて」
「ゲーセンは湊たちとよく来てるから。割と得意なんだよ」
「ありがとな、鶴海」
ラッコを手渡されて、つい子どものように両手で抱き寄せてしまった。こんなに大きいぬいぐるみが一発で取れるなんて、鶴海くんは天才かもしれない。
スマホのカメラを向け、シャッターボタンを押した鶴海くんが眩しそうに笑った。その曇りのない笑顔に見惚れ、気付けば腕の中で抱きしめていたラッコがほっそり体型になっている。
「キューが明日も明後日も、他の誰かの体になってたとしても。俺の家にあれば無くならないし。なんでもかんでも諦めることねえだろ」
鶴海くんが明日も俺のことを待ってくれているなら、こんなに楽しくて、居心地の良い時間が続くのなら。……なんだか、明日も楽しみだと思える。
「明日は誰になってんだろうな」
「もし首相とかになってたら、週休六日の法案制定出来るじゃん」
「確かにそれは天才だわ」
「だろ? マジでなれたらやっとくから、任しといて」
「確率は一億二千万分の一だけどな。まぁ、今までの法則でいくなら、汐見台に通ってる男子か。同じ人間の体に留まるのって、無理なもんなの?」
「やったことねぇけど、無理じゃね? 眠って、朝気付いたら変わってるし」
「例えば、寝ないで朝まで起きてるとか」
確かに、その手はアリかもしれない。そうすれば清水くんの体のまま、鶴海くんに会える明日がやってくるのかもしれない。でもその間、清水くんの記憶と意識は、俺が奪うことになる。極端に言えば、俺が憑依することで清水くんの「生きている時間」を削っているのだ。友達と楽しく過ごしたり、家族と団らんする時間がなくなる。そう思うと、なんだか罪悪感でいっぱいになって、少しでも良いアイディアだと感じてしまった自分が嫌な人間のように思えた。
鶴海くんはスマホで時間を確認すると、短く「あっ」と声を漏らす。
「どうかした?」
「いや、明日って土曜日じゃん」
「うん」
「てことは、学校で会うのは無理なんじゃねーかなって思って」
「……あ、そっか」
今日は金曜日だ。土日の二日間は、学校で顔を合わせることができない。しかも、どこに住んでいるかもわからない相手にまた憑依することになるから、下手に約束も出来ない。
その期間はなんとか一人で過ごすしかないんだろうか、と気落ちしていると、鶴海くんは一度立ち止まってマップを開いて見せた。
「キュー、これ見ろよ」
「……汐見台の地図?」
「そう。学校の近くに『汐見台公園』っていう場所があって……こんな感じで、目の前に海が見える。東屋とベンチが奥にあるんだ」
画面を左へスクロールしながら、鶴海くんと一緒に公園の風景を収めた画像を覗き込む。こじんまりとした場所だけれど、学校の通学路で見たパノラマのような海が広がっていた。
「学校を出たら、今日通ったファミレスの坂を下って、とにかく道なりに進む。灯台が正面に見えて来たら、そこを右に曲がって降りていくと、この公園に繋がってる。そこで、待ち合わせすんのはどうよ」
「待ち合わせ?」
「昼の十二時に集合な。顔が清水じゃなくても、ハンドサインしてくれればもう俺は分かるし」
「でも、もし鶴海の周りにいる人に憑依しなかったらどうする?」
「その時は、仕方がねぇよ。でも、待てるだけ待つから」
「待てるだけって、どんくらいだよ」
「知らねぇけど、出来る限り待つ」
「もし、そのまま日曜日になっても、月曜日になっても会えなかったら?」
本当の身体に戻りたい、と思っていたはずなのに、鶴海くんに会えないことが怖くなっている自分に気付いて、言葉は尻すぼみになっていった。
鶴海くんの優しさに触れて、気持ちをどう整理したらいいのか分からない。
(また、ひとりぼっちになるのは嫌だな)
視界がぼんやりと滲んで、つんと鼻の奥が痛んだ。これはどう考えても、清水くんの涙腺が弱いんじゃなくて、元の俺が泣き虫に違いない。
「絶対、大丈夫だから」
「こ、根拠がないだろ」
「根拠なんかなくても、俺がそう決めたから大丈夫なんだよ」
「意味わかんねぇ理屈だな、それ」
「わかんなくてもいいんだよ、こういうのは」
なんでそう言えるの、と言い返したいのに、あだ名を呼ばれただけでぽろりと涙が零れた。人差し指の腹で、そっと鶴海くんに拭われる。
「会えないとしても、もしかしたら日を跨いで会えることだってあるかもしれないだろ」
どうしてだろう。鶴海くんが力強い口調で言うたびに、不思議と大丈夫だって、信じたいって思う。
俺がくすん……と子どもみたいに鼻を鳴らして泣き始めると、鶴海くんは親愛を込めるようにそっと背中に手を回して、軽くハグしながら言った。
「あー、もう。泣くなって、ほら」
「だ、だって。鶴海が……」
「なに、泣かせてんのは俺のせいなの?」
「ち、ちがう……ような、合ってるような」
ひっく、ひっくと喉を鳴らす俺の涙をワイシャツの袖で拭うと、鶴海くんは正面に向き直って微笑んだ。
「待ってるから。明日も二人でどっか行こうぜ」
「……おう。頑張って公園まで会いに行くわ」
こくんと頷くと、胸を貸してくれた鶴海くんのブレザーが濡れているのに気づく。涙の痕が濃く残るのを見て慌てて謝ると、鶴海くんは「こんなん気にしなくていいから」とやっぱりあの明るい笑顔で俺のグズグズを吹き飛ばしてくれた。
清水くんの家に着いたあと、スマホで「今日はありがとう」と送りたくなってメッセージアプリを立ち上げる。友達の欄にその名前がないことに気がついて、そういえば普段は接点がないんだった……と俺は肩を落とした。
また明日な、とけろりとした調子で手を振ってくれた、鶴海くんの姿を思い出す。電車に乗った俺の姿が見えなくなるまで見送ってくれるのも、鶴海くんらしいというか、何というか。
(すんごい、楽しかったなぁ)
ラッコのぬいぐるみは鶴海くんに預かってもらった。明日のお昼になれば、公園のベンチできっと会える。
ベッドのなかで体を丸めながら、俺はこのまま眠ってしまいたくないと初めて思った。明け方まで起きていられれば、そのまま体も夜を越えられるような気がする。なのに、瞼は重くなる一方で、うとうとと居眠りを繰り返していた。
(ああ、嫌だな。ずっとこのままでいいのに)
より一層身体を小さく丸めて、つま先にきゅっと力を込める。
もしもこの身体で夢が見られるなら、俺は「本当の自分」の姿になって鶴海くんに会えるんだろうか。
「鶴海、どうしたん?」
「別に」
「別にって顔じゃねーだろ、めっちゃ怖い顔してるじゃん」
「うるせぇ、お前には関係ない」
「うわ、鬼不機嫌かよ」
教室の一番後ろで輪になっていた湊くんたち三人に声を掛けられても、鶴海くんは「またあとで」とぶっきらぼうに返事をしただけで、そのまま教室を出て行った。慌てて椅子から立ち上がり、その後を追いかける。
ずんずんと長い脚で迷いなく向かう先は、やっぱりというか何というか、沼田くんがいる一年七組の教室だった。
「なぁ、沼田。ちょっといいか」
廊下に来い、と手招きする鶴海くんに、沼田くんはビクッと大袈裟なほど肩をこわばらせて席を立った。額に浮かぶ珠のような汗を、何度もハンカチで拭う。狭い机の間を縫うように歩くけれど、太ももやお尻がぶつかってガコン、ガタンと揺れるのを、そのたびに抑えながら進んでくる。
「つ、鶴海くん? 何の御用でしょうか」
怯えて敬語になっている沼田くんを見下ろすように腕を組み、鶴海くんが話しかけている。沼田くんは今にも泣きそうな顔で、必死に受け答えを繰り返していた。
「なぁ。昨日、俺と喋ったこと覚えてるか?」
「え、えっと……?」
「朝、絡まれたところ助けて。図書室に移動しただろうが」
「図書室? 鶴海くんと僕が?」
おろおろしている沼田くんに対して、鶴海くんの全身からは苛立ちのオーラが漂っている。本人にそのつもりはないのかもしれないけれど、質問というより尋問に近い。
「なんも覚えてねえの? 昨日学校に来たのくらいは、流石に記憶にあんだろ」
「そ、それは、覚えてます……多分」
「多分ってなんだよ、はっきりしろよ」
「す、すみません、その……あまりにも急に話しかけられたから、うまく話せなくて」
沼田くんが考え込むように床を見つめている。その間にもたらりと汗が頬に一筋流れると、決して演技ではないその様子に鶴海くんの方が今度は戸惑っているようだった。どうしよう、沼田くんもパニックになっている。
膠着状態になったふたりの間に入るように俺はひょこっと顔を覗かせると、鶴海くんに向かって笑顔を作ってみせた。ヤンキーって、こんな感じでいいのかな。それとも、もっとオラついていた方が「それっぽい」だろうか。
「おい、鶴海。なに沼田に絡んでんの」
「……清水?」
目と目が合って、顔の横にピースをしてみせた。指先を二回曲げて、合図であるハンドサインを送る。それを見て鶴海くんは一瞬言葉を失ったようにかたまり、すぐに俺と沼田くんを交互に見た。表情からすっと苛立ちが抜け落ちて、まるで見間違いを疑うような瞬きをしている。視線は、俺の指先に釘付けになったまま動かない。声には出していないのに、その葛藤が手に取るように伝わってきた。
信じたくない、でも目の前の光景を説明できる理由が他に見当たらない――そんな表情で、ゆっくりと上靴の爪先をこちらに向け近づいて来る。
「沼田と清水ってグルなん?」
「グル? ぼっ、僕と清水くんがですか?」
「そうだよ、なんか企んでんのかって聞いてんだよ」
「あ、あの、本当に何も」
「じゃあなんでコイツ急に出てきたんだよ」
「そ、それは僕にも分からないんですけど……」
沼田くんは、ますます意味が分からないという顔をしている。けれど、何かまずいトラブルに巻き込まれていることを察したのか、俺より先にさっきより大きな声で弁明した。
「僕は、清水くんと喋ったことすらないです。同じ普通科だから顔は見覚えあるけれど……どう見たって、接点があるようには思えないんじゃないかと」
ねっ、と同意を求められて俺も頷く。金髪のヤンキーと、分厚い眼鏡姿の沼田くんが親友だなんて、誰からどう見てもそうは思えないだろう。
「……もういい、悪かった。急に変なこと言って」
「い、いえ、大丈夫です」
「ビビらせて悪かったな」
鶴海くんはむっとした顔のままそう言うと、今度は俺の方へ視線を寄越した。
オタク仲間らしき友人たちに「貴様は一体なにをしでかしたんだ」「一軍の鶴海と孤高のドヤンキーが下界になんの用事だったんだ?」と沼田くんは席に戻るなり、質問攻めに遭っている。鶴海くんは未だに到底受け入れられないという顔のまま、俺の手首をぐっと掴んだ。
「お前……今日は清水に乗り移ってるってこと?」
「おう。話が早くて助かるわ」
腕を組んで頷くと、鶴海くんはグイグイと手首を引いて歩き出した。教室のドアを勢いよく開き、机に置きっぱなしの通学鞄を肩に担ぐ。
「つ、鶴海? どこ行くんだよ」
「決まってんだろ、話す場所探すんだよ」
「学校でいいだろ、別に」
「教室でこの話できるわけねぇだろうが」
状況を呑み込めない俺をよそに、鶴海くんは腕を離さないまま、床に座り込む湊くんたちの輪に向かって声を掛けた。
「俺と清水、早退するから。担任には適当に言っておいてくんね?」
「え、なんで清水? つーか、授業が始まる前に帰るのは『早退』って言わねえだろ」
「うるせぇ、細かいこと気にすんな」
「気にするだろ、日本語おかしいし」
すかさず潤くんが冷静なツッコミをいれて、帆高くんがそこへ「欠席だわな」と言葉を補う。湊くんはスマホを横向きにしてゲームをしながら、鶴海くんに向かってひらりと手をあげて言った。
「んー、おっけ。テキトーに誤魔化しとくわ」
「サンキュ、湊」
「珍しいコンビだな、鶴海と清水って」
「珍しくて悪いかよ」
「別に悪くはねぇけど」
その返事を聞くと、鶴海くんは「行くぞ」と低い声で俺を促し、足早に昇降口へと向かった。
***
「じゃあまず、湊の身体になってる時の朝のやりとりから。出来るだけ詳しく言ってみて」
「えっと……最初に、ピアスを付けて来なかったことをキレられて。『俺の顔面偏差値なら、何開けても似合うって言ったのはお前のくせに』って言われた。本当はピアスの付け方が分かんねぇし、自分の物なのかどうか知らねぇから、付けるっていう発想がなかっただけなんだけどな」
「それから?」
「昇降口で上靴の場所が分からないでいたら、鶴海が俺に『ガラスの靴です』ってふざけて用意してくれた。最初は何されてるのか分からなくて、ちょっと照れるっつーか……結構、恥ずかしかったわ」
鶴海くんは俺の言葉に顔を背けると、片手で鼻と口を覆い隠すように押さえた。指の隙間から覗く耳や首筋まで、隠しきれずにじわじわと赤くなっている。
「あれ、冗談だから。湊との悪ふざけっつーか」
「んなこと、分かってる」
「喋り方が昨日と違うのはなんでなん?」
「いつも通り喋りてぇのに、なんでかこういう言葉遣いになっちまう」
「まぁ、確かに清水は口も態度も悪いもんな」
学校を早退(というか欠席)した俺たちは、学校の坂を下ったところにあるファミレスに来ていた。平日の開店してすぐの店内は、まだ客もまばらだ。アメリカンダイナーを模した内装らしく、天井近くにはネオン管の看板が飾られ、洋楽のBGMが低く流れている。
もちろんこの店に来るのは初めてで、目に入るものすべてが新鮮だ。原色に近いポップな壁紙の色、座面がふかふかと沈み込むレトロな赤い丸椅子。ステンレスのテーブルには、うっすらと自分たちの顔が映り込んでいて、物珍しさについきょろきょろと視線を彷徨わせる。テーブルを挟んで対面する形で座る鶴海くんは、まだ落ち着かない様子で、眉間の皺をほぐすように中指でぐりぐりと押していた。
「……なら、放課後の説明も出来んの?」
「うん。俺と鶴海、帆高、潤の四人でマックに行った。頼まれたから俺が一番隅っこの席をとって、鶴海がナゲットを運んで来てくれて。マスタードを渡されたのに怒らなかったから、様子が変だって鶴海が心配してくれた」
「……んで?」
「帆高がハッピーセットを頼んで、水鉄砲を欲しがったのを『マジでガキだ』って」
目の前に並んだふたつのコーラに、口をつけられる空気ではなかった。
鶴海くんの表情はさっきより険しくないものの、引きつった笑みを浮かべている。
「じゃあ、次。海里ちゃんの身体に乗り移った時は」
「うーんと……鶴海の手当をした後、湊の様子が変だったって相談を受けて。帰り際に『海里ちゃん今日いいことあった? 今日はなんか機嫌よさそう』って」
「……そんで、海里ちゃんの返事は?」
「教室に戻りなさい、っつったな。怪しまれたらやべぇと思ったし」
「うーわ……マジか。え、ちょっと待って。最後にもう一個だけ。湊の身体だったってことは、あいつの部屋も見たことがあるってことだよな?」
「おう」
「あいつの机の上に飾られてる物が、なんだったか言ってみろよ。それだけは、清水は絶対に知らないと思うから」
口を開いた瞬間、自分でも驚くほど乱暴な言葉が飛び出した。
「あ? なんでだよ」
俺なら絶対に使わない荒々しい響き。反射的に、体の方が勝手にそう喋ることを覚えているみたいだ。
「だって、清水って俺らとグループ違うっつーか。いつも一匹狼だし、湊の家になんか行くわけねぇって思ったから」
「あぁ、なるほどな」
確かに、今朝目覚めてすぐに鏡を確認しに行くと、いかにもな不良男子になっていた。湊くんの身体にいたとき、鶴海くんの後ろの席に座っていたから覚えている。名前は清水凛くん。ブリーチされた髪に、鶴海くんと同じくらいの高身長。でも、教室でのイメージとは違って、彼の部屋にはメカニックに関する本がいくつも並び、教科書や参考書も右から背の順に整理整頓されていた。湊くんもそれはカッコいいのだけれど、清水くんはなんというか、治安悪めのヤンキー系イケメンだ。
俺は湊くんの部屋にあったものを思い浮かべながら、順番にそれを声に出して説明した。
「黒色の四角い置時計と、ゲームのキャラクターの……こんくらいの大きさのフィギュア。あとは多分卒業式だと思うんだけど、鶴海とふたりで卒業証書を持って撮った写真があったな」
俺が思い出せる限りで答えると、鶴海くんは一度頭を抱えて「マジかー……」と唸った。受け容れよう、信じようとしてくれているのかな、とその様子をじっと黙って見つめる。そして、一度深呼吸をしてから、鶴海くんは真っ直ぐなまなざしを俺に向けた。
「分かった。信じるわ。一日目は湊で、二日目は沢村先生。三日目が沼田で、今日は清水の身体……で、合ってんだよな?」
「合ってる」
「じゃあマジで幽霊とか、そういう類なんだな、お前」
「多分な。他に説明のしようがねぇもん。にしても、意外とあっさり信じるんだな、鶴海。怖くねぇの」
「別に怖くはねぇけど、コミュ強すぎてついに幽霊とダチになるんかって感じ」
鶴海くんがそう言って目を逸らすと、コーラのグラスのなかで氷が溶けてカランと涼やかな音が響いた。
「なんで俺の周りの奴らにばっかり憑依してわけ?」
「知るかよ。でも毎日遭遇すんのはお前だけ。今のところな」
「沼田に話したのってガキの頃だし、今は特に霊感とかねぇんだけど」
「じゃあなんでお前の周りばっかなんだろな」
「さぁ。俺に言われても分かんねぇよ」
「そりゃそうか」
鶴海くんは水滴で濡れたグラスのストローを咥えると、喉を鳴らしながら渇きを潤すように一気に飲み干していく。
「自分のことは何も覚えてねぇけど、未練を解消しないと天国に行くのは無理なんかも」
「そう決めつけんのはまだ早くね? 死んでない可能性だってあるかもしれないだろ」
「えっ」
「ちょい待ち。絵に描いて説明した方が分かりやすいかも」
鶴海くんの指摘に、俺はコーラへ伸ばしかけた手を止める。視線の先で机に頬杖をした鶴海くんは、鞄の中からルーズリーフとシャープペンを取り出すと、さらさらと絵を描き始めた。
「この真ん中に居るのが俺で、湊・先生・沼田・清水って周りの人間がいるとするじゃん。そんで、お前の『本体』はどこかしらにあるわけだ」
五人分の棒人間を描いた鶴海くんは、離れた位置にもう一人を描き足すと、その顔の真ん中に『Q』というアルファベットを書き足した。
「この身体が死んでるか生きてるかは分からねぇんじゃねぇのかなって。もしかしたら、生きてる状態で念みたいなのを飛ばして、乗り移ってる可能性もなくはないだろ」
「……それは考えたことなかったわ」
「だろ? 俺、頭いいから」
「自分で言うなよ」
「あくまで可能性の話な。肝心の記憶がないから、何とも言えねぇけど」
シャープペンシルを唇の横に添えて、鶴海くんは「天国」と「この世」というふたつの文字を「Q」の横に、ルート分岐のように書き加えた。
もし、俺の身体がまだ生きてるとしたら。一体何歳なのか、何をしているのかは分からないけれど。自分の本当の姿に戻りたいし、記憶だって取り戻したい。それが途方もない夢だったとしても、そう願う気持ちは諦めることも消すこともできない。
俯く俺に、鶴海くんはメニュー表を広げてぶっきらぼうに押しつけてきた。
「……お前の魂、っていえばいいのかな。どっからどう見ても清水の顔なんだけど、話してて人となりみたいなのは伝わってくる。すげー真面目そうで、一生懸命。あと演技は絶望的に下手」
「へ、下手」
「うん。演劇部だったら即クビだわ」
「そこまで言うか」
「言うね。マジで棒読みだったし。……まぁ、見たこともない赤の他人になるわけだから下手で当然だとは思うけど。お前が湊と海里ちゃんに乗り移ってる時のことを今になって思い返すと、確かに色々おかしかったなって思うわ」
鶴海くんは、そう言って初めて俺に向かって笑いかけた。ただ目を見つめられているだけなのに、胸の奥をきゅうっと締め付けられるような痛みが走る。
少しずつ俺のことを「人」として扱ってくれていることが嬉しくて、一気に体の奥から熱が上がってくるような気がした。
「んで、聞くけどさ。俺にお前はどうして欲しかったわけ?」
「そ……それは……」
鶴海くんを巻き込んでおいて、俺は「自分のしたいこと」が急に分からなくなってしまった。確かにこの憑依生活からは抜け出したいし、本当の自分のことを知りたい。生きているにせよ、死んでいるにせよ、この現状が続くのがしんどいことに変わりはない。でも、それよりも今は……。
(俺は、自分の身に起きた事を話して、共感してくれる相手が欲しかったんだ)
誰とも話していない訳じゃない。身体に憑依している間、家族や友達、職場や学校の色んな人と会話はしている。でも、それは「俺」としてではなく、借りている相手の一日を、その人として振舞っているだけだ。
勢いに任せて縋る気持ちで鶴海くんを頼ってしまったけれど、今更になってそれを申し訳なく思い始めていた。
「思った以上に幽霊ライフは孤独っつーか……寂しくて」
歯切れ悪く返事を誤魔化す俺に、鶴海くんはしばし俺の顔を見つめてから、けろりとした調子で言った。
「中身が違うっつーのは分かってるけど、清水の顔で『寂しい』とか言われるとマジで鳥肌立つんだけど」
「あぁ? 俺にはどうしようもねぇんだから、仕方ねぇだろ」
「つーかさ。今から、どっか遊びにでも行くか」
「へっ?」
「ゲーセン行ったり、カラオケ行ったり。あー、でも流石にそれは制服のままだとやべぇかな」
「な、なんだよ急に」
タブレットの画面に、ポテトやドリアをタップで追加していく。その長い指先を見つめていると、頬杖をした鶴海くんが俺の顔を覗き込んできた。
「四日連続で憑依して、それが毎日俺の周りの人間だったとしてもさ。厳密に言えば明日も同じことが起きるとは限らないわけじゃん? もしかしたら、起きたら全然知らない町で、オッサンになってる可能性だってあるわけだ」
「おう」
「だとしたら、今日くらいは悔いが無いって言えるくらい遊びまくる日にすんのはどう? もしも俺が同じ状況に置かれたら、『いまこの瞬間』をめちゃくちゃ楽しくしたい、って思うけどな」
笑顔を向けられて、俺は唇に力を込めてなんとか涙を堪えていた。泣いちゃダメだ。ここで泣いたら、せっかく鶴海くんが提案してくれた「楽しい一日」が台無しになってしまう。ずず、と鼻をすすりながら目元を手の甲で拭う俺に、鶴海くんは眉を下げて微笑みながら言った。
「……お前って結構泣き虫だったりすんの?」
「分かんねぇ。ただ、そう言ってくれるとは思ってなかったから」
「昨日図書室でも、その口の形してたぞ。記憶はないけど、そういうお前が『本当の自分』だった頃の癖とかは、身体を離れても残るものなのかもな」
ぽんぽん、と頭を二度優しく撫でられて、必死で我慢して目の縁に溜まっていたあたたかい涙がぽろっとこぼれ落ちた。
鶴海くんの面倒見のよさと、優しさ。人としてのぬくもりを向けられて、初めて自分の存在を認めてもらえたような気がする。
「あっ、悪い。俺、弟がいるからさ。泣かれるとつい」
「つ、るみ?」
「清水の顔で目ぇウルウルさせんなよ。調子狂う」
「俺じゃなくて体が勝手に」
「……泣き止んで腹ごしらえしたら、今日は連れ回すからな。色々見て、なにか思い出すことがあるかもしんねぇし。お前は何食う?」
「えっと……鶴海と同じドリアと、小エビのサラダ。あとハンバーグセットに、ライスも付けたい」
「ぶはっ! フードファイター並みに食うじゃん」
最後の晩餐かよ、とおどけた鶴海くんの一言に、俺がまた「うぅ~」と声を漏らして呻くように泣きはじめると、不良を泣かせている鶴海くんに店員さんが訝しむ様な視線を送ってくる。慌てて鶴海くんは俺に向かって両手を合わせながら「ごめん、今の言葉はノンデリ過ぎた」と謝り倒してきた。
***
財布の中のお金が減ったら、清水くんがビックリしてしまう。 鶴海くんはそう言ってファミレスでの食事代を奢ってくれて、通学定期も持っていないと分かると、最寄駅までのバス代とショッピングモールに向かうまでの電車代を出してくれた。「連れ回す」と言ったのが鶴海くんの提案とはいえ、ここまでしてもらうのはさすがに居心地が悪い。
「おい、清水。こっち来いよ」
鶴海くんに名前を呼ばれて、俺がぽけーっとしながらワンテンポ遅れて振り返ると、すごく不思議そうな顔をされてしまった。
「どうした?」
「毎日名前が変わってっからさ。反応するのが遅れるっつーか……」
「あー、それは仕方ねぇか」
「だろ? もう頭がバグってんの」
苦笑いして「悪い」と笑顔を作ってみせると、鶴海くんは一拍間をおいてから、片手を額に当てて「あー」と納得したように二度頷いた。
「でも、自分の本当の名前は思い出せないんだよな?」
「だな。苗字も名前もさっぱり」
「じゃあ、いま名前決めようぜ。俺もお前のこと、ちゃんと名前で呼びたいし」
目尻に皺を寄せるように、くしゃりと笑う鶴海くん。俺は期待に胸を膨らませながら頷き、揺れる電車のつり革に手を伸ばした。
「でもなぁ。清水の顔に向かって、他人の名前で呼びかけるのも変な感じがする」
清水は清水だし、と鶴海くんは少し困ったように首をかしげた。
確かに、それはそうだ。クラスメイトを急に違う名前で呼ぶなんて、俺が同じ立場だったらすぐに出来るとは思えない。
「んー、でも名前は今後も必要だよな。お前とまた明日以降も会う可能性の方が高いわけだし」
「何でもよくね、鶴海が呼びやすい名前なら」
「投げやりだな、お前」
「投げやりっていうか、任せる」
「じゃあガチで考えるぞ」
それに、鶴海くんしか呼んでくれる人は居ないしね。そう心の中で独り言を付け足したら、なんだか悲しくなってきた。
憑依した相手の名前で呼ばれることはあっても、俺が名前を思い出さない限りは、もう二度と本当の自分を呼んでくれる人はいないのかもしれない。
暗い方へと気持ちが傾きかけた瞬間、鶴海くんは「じゃあさ」と明るい調子で切り出した。
「キュー、って名前はどう?」
「きゅう?」
「正体不明、クエスチョンのQ。響きもなんかお前にぴったりだし、割と良くね?」
「単純すぎねぇか、それ」
「シンプルなのが逆にいいんだよ」
「まあ、覚えやすいのは覚えやすいけど」
どことなく照れくさそうに、だけど嬉しそうに鶴海くんは頭を掻く。
ちょっとこそばゆいけれど、確かに似合っているんじゃないかな。
「いいよ。じゃあ、今日から『キュー』って呼べよ」
少しだけ恥ずかしくなった俺は「付けてくれてサンキュ」と照れくささを誤魔化すように笑って見せる。すると、鶴海くんは笑みを深めて、つかんでいた俺の手を握ると、誘うように駅のホームへと降り立った。
「行くぞ、キュー」
「……おう」
妙に得意げな顔で振り返る鶴海くんから、目が離せない。自分が付けた名前を、誇らしげに思っているのが伝わってくる。こんな表情もするんだ、と俺は無性にそのギャップが可愛く思えて仕方がなかった。
***
駅に直結したショッピングモールの中に足を踏み入れると、平日の午前中にもかかわらず、館内は大学生くらいのグループやカップルで賑わっていた。
三階建ての至る所に『オータムバーゲン』と書かれたポスターが飾られている。ショーウィンドウのマネキンはどれもニットやコート姿で、季節を先取りしたアイテムを着せられていた。柱にあるフロアマップを見れば、二階には映画館、三階にはフードコートとゲームセンターがあるらしい。
「んじゃ、まずはあそこに行きますか」
「えっ、どっ、どこに?」
「俺、ガキの時からここに来てるから。遊び方なら任せといて」
「頼もしいけど、ちょっと張り切りすぎじゃね」
「張り切って悪いかよ」
「悪くはねぇけど」
そう言って鶴海くんが最初に入ったお店は、おしゃれな服や雑貨が並んだ古着系のアパレルショップだった。かすれたプリントのTシャツやスウェット。デニムジャケットを手に取りながら、鶴海くんは楽しげに振り返る。
「キューはどういう服が好きなん?」
「はぁ……でも、俺は本当に何も」
「覚えてない、じゃなくて。今のキューが『好きだな』とか『いいな』って思うものが、どういうのか知りたくて聞いてんの」
「……うーん、こういう水色は割と好きかもしんねぇ。派手すぎんのはあんまり」
「ウケる、そんだけ顔良くて派手なの嫌いとか」
「だって、中に居るのは『清水くん』じゃねぇし」
「だろ? だから、俺はお前のことを知りたいって言ってる」
ぐしゃ、と前髪を指先で乱されて、両手でボサボサになった毛先を押さえる。別に、動揺なんてしていない。そのはずなのに、なんとなく鏡を覗き込むと、手櫛で前髪を整える俺の頬はすこぶる血色がよかった。
……いやいや、これは清水くんの体質のせいだ。きっとそう。
昨日の沼田くんが汗をかきやすかったみたいに、清水くんが赤面しやすい体質なだけだろう。そうじゃなかったら、俺が一方的に鶴海くんのことを意識していることになってしまう。
(かもしれないじゃなくて、絶対そう!)
自分に言い聞かせるように、何でもない顔を装っていると、背後からぬっと手が伸びてきて、伊達眼鏡をかけられた。
「うん、似合うじゃん。てか、マジで男前」
「それは俺も思った」
「湊もだけどさ、清水は骨格からして違うっつーか」
「わかる。自分でも、周りの人にすげぇ見られてる感じするもん。あー、俺の顔に見惚れてるなって」
鶴海くんの意見に、両頬を手のひらで押さえながら賛同すると、通りすがりのカップルに変な目で見られてしまった。どうしてだろう、と呆然とする俺の後ろで、鏡越しに鶴海くんは盛大に吹き出す。
「他人からしてみれば、今のはすんげぇナルシストに聞こえたかもな」
「あ、そうか。いや、俺は『清水くん』の顔面を褒めただけなんだけど」
「俺には伝わってるから、別に他人のことなんか気にしなくて良くね? ……なぁ、この眼鏡に合わせてコーデ組んでみようぜ」
両肩を押されて、フードつきのパーカーがデザイン違いで並んだラックの前に連れて行かれる。この顔に似合うものを選んでくれているんだと、てっきり俺は思っていたのだけれど……。
「これとこれなら、キューはどっちが好き?」
「こっちかな。鶴海は?」
「俺もグレーのが好き。このロンTに、あっちにあるボトムスとか合わせたら良さげじゃん?」
「鶴海って、古着とか好きなん」
「んー、割と。潤ともよく街中の店巡りしたりするし。……おっ、こういうのはどうよ」
俺の好きなものを聞いて、どういうところが好きなのか、さりげなく尋ねられる。鶴海くんがひととなりを知ろうとしてくれているのが嬉しくて、心は少しずつ明るくなっていく。
「うわ、このロゴスウェット良いな」
「おぉー、鶴海っぽい。すげぇ似合ってると思う」
「いくらだろう。割とマジで欲しいかもしんない」
鶴海くんが服の中に入り込んでいた値札のタグを裏返すと、俺たちは同時に顔を見合わせた。
「「七千九百円⁉」」
綺麗に声が重なって、笑いながらハンガーにかかったスウェットをラックへ戻す。到底、高校生のお小遣いでは買えない値段だ。それでも鶴海くんはがっかりするどころか、とても嬉しそうに笑っている。
「アルバイトでもしないと、絶対に買えんやつ」
「でも、うちの高校は普通科も特進科もバイト禁止だからなぁ。しゃーなし」
「じゃあ、もし働けるならどういう店がいい?」
「んー、理想はアパレルだけど……高校生は無理なところが殆どだし。現実的に考えたら、飲食とか?」
「鶴海なら、どこでもアルバイトリーダーになれそうだな」
「そうか? まぁ、そういう役割は嫌いじゃねぇけど」
お店を出て隣を歩く俺に向かって、鶴海くんはなんてことのない口調で尋ねてきた。
「なぁ。キューが元の自分に戻れたら、またこの店にふたりで来るのはどう?」
「また、って」
「本当のお前の顔に似合う服、一緒に選んでやりたいし」
喉元まで出かかった「それは難しいんじゃないかな」という言葉の代わりに、やんわりとその誘いを否定した。
「俺、ワンチャン鶴海よりも年上説ある。こういう若者向けの服は似合わねぇかも」
「なんでそう思うんだよ」
「湊の身体を借りた時、高一の数学が簡単に解けたから。最初は単に湊の得意科目なんだって思ったけど、先生が驚いていたし。そうじゃねぇんだって気付いて」
俺自身も、知識を忘れない理由は分からない。苦笑いしてみせると、鶴海くんは口元に手を添えながら思い浮かべるように視線を上へ持ち上げた。
「確かに、湊は理数系苦手だからな。じゃあ、そういう過去の知識みたいなのは残ってるってこと?」
「多分な。だから、少なくとも高校一年生よりは上の年齢なんかも」
「まさかの年上説で地味にショックなんだけど」
「えっ、なんでだよ」
「話してる感じ、キューは俺より年下っぽく感じるから」
「はぁ⁉ それって、俺がガキっぽいってこと⁉」
鶴海くんは逃げるように笑いながらエスカレーターへ先に乗り込んだ。かと思うと、俺が慌てて追いかけた瞬間、一段上からするりと降りてきて、いつの間にか俺のすぐ下に回り込んでいる。なぜか俺の一段下、階段側に立つ位置取りだった。急にどうしたんだろう、と振り返ると、鶴海くんはもうこっちを見ておらず、スマホを取り出して検索窓に何かを打ち込んでいる。
「キューが生きてるのか死んでるのかは一旦置いておくとして。過去の記憶がないのに、知識だけ覚えてるのは何でなんだろうな」
「ものすごく数学が好きだった、とかじゃね?」
「だとしたら、一概に年上って決めつけることも出来ないよな。小学生でも高校生くらいの問題を解く奴だって居るわけだし」
三階に着くと、俺たちはカフェで飲み物を注文した。透明なプラカップに筆記体の英語が書かれていて、一番上にはチョコチップを散りばめたホイップクリームがこんもりと乗っている。ザ・海外のお洒落なドリンクって感じだ。
一番奥の二人掛けの席に座って、鶴海くんは左手で何回かスマホをスクロールすると、その画面を俺に向けて見せてくれた。
「キュー、これ見てみろよ」
「……『エピソード記憶と意味記憶』?」
鶴海くんの調べてくれた画面には、それぞれの記憶の違いについて要約された文章が表示されていた。エピソード記憶は、自分の名前、過去の体験、特定の場所など、自分だけの個人的な思い出のことで、側頭葉という部分に保存されるらしい。
それに対して、意味記憶は社会的なルール、言葉の意味、知識のこと。人生の中で何度も繰り返し学習することで、脳のなかで強烈に定着するから、身体にショックを受けても非常に消えにくい、と書いてある。
続きを読もうとすると、読み込み画面がくるくると回り続けたまま、画面がフリーズしてしまった。鶴海くんは「Wi-Fiが死んだ」とスマホをテーブルに伏せると、チョコレートラテを一口吸ってから言った。
「さっきのをヒントにするなら、キューが自分の身体でやってきたことに関しては、無意識レベルで身体が覚えてるってことだよな?」
「うん、多分な」
「んじゃあ、湊の時にピアスの付け方が分からなかったのは、本体のキューにはその習慣が無いせいかもな」
鶴海くんはカップを置いて、腕組みをしながら視線を俺へ向けてきた。
他に俺が出来なかったことって何かあっただろうか、とつられて考え込む。
「……ネクタイもだ」
「ん?」
「ネクタイの結び方が分からなかった。だから、湊のスマホで調べたんだよ」
「じゃあ学生だとしても、ネクタイのある制服ではなかったんだろうな。……もしくは」
「もしくは?」
「やーっぱ小学生とか、中学生なんじゃね?」
「分かんねぇよ。俺の『本体』が実は大人で、すんごい強面の男だったらどうする」
「えー、今より治安悪いってこと?」
「ゴリマッチョっつーかさ、筋肉隆々で……金剛力士像みたいな!」
ドヤ顔で力こぶを作ってみせると、鶴海くんは人目もはばからず「ぶっはは」と豪快に仰け反って大爆笑した。湊くんの身体を借りていた時ですら、こんなに楽しそうな顔は見たことがない。よほどツボに入ったんだろうか。
「鶴海は、それでも俺と仲良くしてくれんの?」
「当たり前じゃん」
即答だった。あまりの速さに何を肯定されたのか分からず、一瞬言葉に詰まる。鶴海くんはじっとこちらを見つめたまま、迷いのない表情で言った。
「なんで?」
「だって、キューが元の身体に戻れるのが一番良いに決まってっし」
「じゃあ、鶴海よりイケ散らかした顔面で颯爽と現れたい」
「俺より? じゃあ芸能人でもない限り無理だろ」
「自覚あり、と」
「てか、わかんねぇぞ。毎日男の身体を借りてるだけで、本当は女子の可能性だってあるかもしれねーし」
ただ笑いかけられただけなのに、なんだか無性に落ち着かない気持ちになった。 湊くんの身体にいる時から、俺は無意識に自分のことを『俺』と言っている。
ということは、本体も男性の可能性が高い。 そんなことを考えながら、飲みかけのカップを両手で包み、鶴海くんの顔と手元を交互に見比べる。
「それって、俺がすんげー可愛い女の子だったらいいのになって思ってるってこと?」
何気なく出た言葉だった。鶴海くんを困らせるつもりなんてなかったのに、自分でもびっくりするぐらい拗ねた言い方だ。
「なんでそうなる。拡大解釈しすぎだろ」
「だって、鶴海は男だし。可愛くて優しい女子の方が、男に再会するよりはロマンがあっていいんじゃねぇかなって」
そう思っただけだよ、と心の中で呟く俺は、鶴海くんからぷいっと顔を背けていた。それがバレないようにストローを咥えて、ずずず……と底の方まで飲み干す。
鶴海くんは少し困ったような顔をしたあと、カップの中身を混ぜるようにくるりと手首を使って回してみせた。
「別に、性別とかどうでもよくね。俺より年下でも、年上でも。もうなんでもいいよ」
「……もし、俺が皺だらけのジジイだったらどうするよ」
「キューと一緒に居るの、思った以上に割と楽しいし。一緒に居られるなら、その他のことなんて俺は気にしない」
「なんも話合わねぇかもよ。趣味は囲碁と犬の散歩かも」
「俺、小学生ん時に囲碁やってたからルールなら分かるぜ。あ、でも盆栽とかゲートボールはやったことねぇわ」
「ジジイと遊ぶ気満々かよ」
「満々っつーか、キューがジジイでも普通に面白そうじゃん」
鶴海くんにとってはそれが当たり前で、別に格好つけた言葉なんかじゃなかったとしても、俺にとってそれはとんでもなく嬉しい言葉だった。何か言わなきゃ、と思うのに、頭の中で言葉がもつれて返事が出来ない。
飲み終えたドリンクとトレーを返却口に置くと、鶴海くんは席に座ったまま手を差し出してきた。
「ほら、行こうぜ」
手首を引かれるまま、今度は店の外へ向かう。次なる目的地だというゲームセンターに着くまでのあいだ、鶴海くんの楽しげに笑う横顔を、俺は何度も見上げた。初めはどうなることかと思ったけれど、気づけば二人でちょっとした冒険をしている気分だ。だんだんドキドキが増して、ワクワクが弾けて、はやく、はやくと足が勝手に動く。
……鶴海くんも、俺と同じ気持ちだったらいいのにな。
***
「うわぁああ! 鶴海、ゾンビ! ゾンビが来た!」
「キューの仲間みてぇなもんだろ、ビビってんじゃねぇよ」
「俺はゾンビじゃねぇって!」
大音量のBGMと電子音が飛び交うゲームセンターで、俺と鶴海くんは体験型のホラーゲームに挑戦していた。ふたりで横並びに座って、銃で画面に現れるゾンビを撃ちまくり、どんどんステージをクリアしていく。
いいところまで進むと毎回コンティニュー画面が出てきて、その度に鶴海くんは「全クリしたい」と躍起になって、百円玉を入れていた。
(ガチャガチャの時も思ったけど、意外と子供っぽい所があるんだよなぁ)
学校に居る時の鶴海くんはもっとクールで、大人っぽくて。その場にいるだけで「本当に高校生なの?」と聞きたくなるような雰囲気を纏っている。
憑依体質の時点で俺の存在は『特別』だとは思うのだけれど、鶴海くんのこういう顔が見られるのは自分だけなのかな、なんて思うと嬉しくなる。
ほくほくと一人で胸を温めていると、機械が背後から冷たい風を勢いよくジェット噴射し、思わず俺は「うぎゃあああ!」と悲鳴を上げて飛び上がった。助けを求めるように、隣の鶴海くんにありったけの力でしがみつく。
「鶴海っ、いま後ろからなんか出て来た!」
「おい、心臓が止まるかと思ったわ! キュー、お前の声デカすぎだろ」
「ぎゃーっ! ほら、なんかキモいのが来てる! ぐちゃって画面にくっついてるうぅ!」
「落ち着け、それただの演出だから」
「演出でもキモいもんはキモいんだよ!」
「叫びすぎ、店員さん見てるって」
腕を絡めたまま半泣きで大騒ぎする俺を見て、鶴海くんはお腹を片手で押さえながら大爆笑した。確かにみっともないけれど、そんなに笑わなくたっていいと思う。
「はー、腹痛ぇ。耐性皆無どころか、ビビり過ぎだろお前」
「うるせぇ、色んな意味で初見殺しだわ」
抱きついてしまった手を離しながら、火照った頬に手の甲を軽くあてがう。
目尻に浮かぶ涙を拭った鶴海くんは、俺の言葉にぴたりと銃を操作する手を止めて振り返った。
「初見ってのは記憶がないからって意味? それとも、お前自身が経験したことないって思い出したってこと?」
「わ、分かんねぇ……なんか、無意識にパッと出た言葉だった。ゲーセンの記憶とか、そういうのはマジでないんだけど」
もしもこれがエピソード記憶だとするならば、少しずつ自分を取り戻す作業が始まっている……のかもしれない。
言いようのない、身体の奥から滲み出てくるような不安。戸惑いながら答える俺と鶴海くんの前で、画面は目を離した隙にゲームオーバーの表示に切り替わっていた。
「まぁ、それっていい兆候なんじゃね? やっぱり色々見たり感じたりすれば、思い出すヒントになるのかもしれないな」
「そうだといいけど」
「絶対そうだって。焦らずいこうぜ」
「焦ってねぇし」
「今、めっちゃ焦った顔してっけどな」
他にも思い出せそうなことはないかな、と視線を膝に落として黙り込む俺に、鶴海くんは「そろそろ行くか」と声をかけて入口のカーテンを開けると、くぐりやすいように押さえてくれた。
「……あ」
「ん、なに。どうしたん」
出口の方向へ向かって歩く途中、UFOキャッチャーの大きなラッコのぬいぐるみと目が合う。可愛い。いいなと思って一度立ち止まると、鶴海くんは台を正面と横から覗き込んで、水色の貝殻を両手で抱えるラッコを指差した。
「コイツ、欲しい?」
「いや、いい。だって、取れたとしても家には置けねぇし」
「そんなん、俺の家に置いておけばいいだけの話じゃん」
「いや、そこまでしてもらう理由ないだろ」
「理由とかいらねぇよ、欲しいなら取ればいいだろ」
「そういう問題じゃなくて」
「そういう問題だよ、いいから見てろって」
取れることが大前提で話が進んでいる。俺が「大きくて無理だと思う」と言うより先に、鶴海くんは百円を投入すると、迷わず横方向へ進むボタンを押した。台の横に回りこんで、奥へと進むアームを慣れた手つきで操作している。
「本当にいい、やらなくていいって!」
「この台楽勝だわ。一発で取れる」
その言葉通り、ツメがぱかっと開いてラッコの体をがしりと掴んだ。その様はキャッチというよりも捕獲という言葉がぴったりだ。ゆらゆらと不安定に揺れながら胴体が持ち上がると、アームが開いて取出口にラッコがぽすんと落ちてきた。
「す、すご……。こんなにデカいのに一回で取れるなんて」
「ゲーセンは湊たちとよく来てるから。割と得意なんだよ」
「ありがとな、鶴海」
ラッコを手渡されて、つい子どものように両手で抱き寄せてしまった。こんなに大きいぬいぐるみが一発で取れるなんて、鶴海くんは天才かもしれない。
スマホのカメラを向け、シャッターボタンを押した鶴海くんが眩しそうに笑った。その曇りのない笑顔に見惚れ、気付けば腕の中で抱きしめていたラッコがほっそり体型になっている。
「キューが明日も明後日も、他の誰かの体になってたとしても。俺の家にあれば無くならないし。なんでもかんでも諦めることねえだろ」
鶴海くんが明日も俺のことを待ってくれているなら、こんなに楽しくて、居心地の良い時間が続くのなら。……なんだか、明日も楽しみだと思える。
「明日は誰になってんだろうな」
「もし首相とかになってたら、週休六日の法案制定出来るじゃん」
「確かにそれは天才だわ」
「だろ? マジでなれたらやっとくから、任しといて」
「確率は一億二千万分の一だけどな。まぁ、今までの法則でいくなら、汐見台に通ってる男子か。同じ人間の体に留まるのって、無理なもんなの?」
「やったことねぇけど、無理じゃね? 眠って、朝気付いたら変わってるし」
「例えば、寝ないで朝まで起きてるとか」
確かに、その手はアリかもしれない。そうすれば清水くんの体のまま、鶴海くんに会える明日がやってくるのかもしれない。でもその間、清水くんの記憶と意識は、俺が奪うことになる。極端に言えば、俺が憑依することで清水くんの「生きている時間」を削っているのだ。友達と楽しく過ごしたり、家族と団らんする時間がなくなる。そう思うと、なんだか罪悪感でいっぱいになって、少しでも良いアイディアだと感じてしまった自分が嫌な人間のように思えた。
鶴海くんはスマホで時間を確認すると、短く「あっ」と声を漏らす。
「どうかした?」
「いや、明日って土曜日じゃん」
「うん」
「てことは、学校で会うのは無理なんじゃねーかなって思って」
「……あ、そっか」
今日は金曜日だ。土日の二日間は、学校で顔を合わせることができない。しかも、どこに住んでいるかもわからない相手にまた憑依することになるから、下手に約束も出来ない。
その期間はなんとか一人で過ごすしかないんだろうか、と気落ちしていると、鶴海くんは一度立ち止まってマップを開いて見せた。
「キュー、これ見ろよ」
「……汐見台の地図?」
「そう。学校の近くに『汐見台公園』っていう場所があって……こんな感じで、目の前に海が見える。東屋とベンチが奥にあるんだ」
画面を左へスクロールしながら、鶴海くんと一緒に公園の風景を収めた画像を覗き込む。こじんまりとした場所だけれど、学校の通学路で見たパノラマのような海が広がっていた。
「学校を出たら、今日通ったファミレスの坂を下って、とにかく道なりに進む。灯台が正面に見えて来たら、そこを右に曲がって降りていくと、この公園に繋がってる。そこで、待ち合わせすんのはどうよ」
「待ち合わせ?」
「昼の十二時に集合な。顔が清水じゃなくても、ハンドサインしてくれればもう俺は分かるし」
「でも、もし鶴海の周りにいる人に憑依しなかったらどうする?」
「その時は、仕方がねぇよ。でも、待てるだけ待つから」
「待てるだけって、どんくらいだよ」
「知らねぇけど、出来る限り待つ」
「もし、そのまま日曜日になっても、月曜日になっても会えなかったら?」
本当の身体に戻りたい、と思っていたはずなのに、鶴海くんに会えないことが怖くなっている自分に気付いて、言葉は尻すぼみになっていった。
鶴海くんの優しさに触れて、気持ちをどう整理したらいいのか分からない。
(また、ひとりぼっちになるのは嫌だな)
視界がぼんやりと滲んで、つんと鼻の奥が痛んだ。これはどう考えても、清水くんの涙腺が弱いんじゃなくて、元の俺が泣き虫に違いない。
「絶対、大丈夫だから」
「こ、根拠がないだろ」
「根拠なんかなくても、俺がそう決めたから大丈夫なんだよ」
「意味わかんねぇ理屈だな、それ」
「わかんなくてもいいんだよ、こういうのは」
なんでそう言えるの、と言い返したいのに、あだ名を呼ばれただけでぽろりと涙が零れた。人差し指の腹で、そっと鶴海くんに拭われる。
「会えないとしても、もしかしたら日を跨いで会えることだってあるかもしれないだろ」
どうしてだろう。鶴海くんが力強い口調で言うたびに、不思議と大丈夫だって、信じたいって思う。
俺がくすん……と子どもみたいに鼻を鳴らして泣き始めると、鶴海くんは親愛を込めるようにそっと背中に手を回して、軽くハグしながら言った。
「あー、もう。泣くなって、ほら」
「だ、だって。鶴海が……」
「なに、泣かせてんのは俺のせいなの?」
「ち、ちがう……ような、合ってるような」
ひっく、ひっくと喉を鳴らす俺の涙をワイシャツの袖で拭うと、鶴海くんは正面に向き直って微笑んだ。
「待ってるから。明日も二人でどっか行こうぜ」
「……おう。頑張って公園まで会いに行くわ」
こくんと頷くと、胸を貸してくれた鶴海くんのブレザーが濡れているのに気づく。涙の痕が濃く残るのを見て慌てて謝ると、鶴海くんは「こんなん気にしなくていいから」とやっぱりあの明るい笑顔で俺のグズグズを吹き飛ばしてくれた。
清水くんの家に着いたあと、スマホで「今日はありがとう」と送りたくなってメッセージアプリを立ち上げる。友達の欄にその名前がないことに気がついて、そういえば普段は接点がないんだった……と俺は肩を落とした。
また明日な、とけろりとした調子で手を振ってくれた、鶴海くんの姿を思い出す。電車に乗った俺の姿が見えなくなるまで見送ってくれるのも、鶴海くんらしいというか、何というか。
(すんごい、楽しかったなぁ)
ラッコのぬいぐるみは鶴海くんに預かってもらった。明日のお昼になれば、公園のベンチできっと会える。
ベッドのなかで体を丸めながら、俺はこのまま眠ってしまいたくないと初めて思った。明け方まで起きていられれば、そのまま体も夜を越えられるような気がする。なのに、瞼は重くなる一方で、うとうとと居眠りを繰り返していた。
(ああ、嫌だな。ずっとこのままでいいのに)
より一層身体を小さく丸めて、つま先にきゅっと力を込める。
もしもこの身体で夢が見られるなら、俺は「本当の自分」の姿になって鶴海くんに会えるんだろうか。



