翌朝、微睡みながらベッドの中で寝返りを打っていると、なんだか不快な香りが鼻先に届いた。遠くから聞こえてくるのは、ウィーン……という連続したモーターのような音。鼻をツンと刺す、焦げた苦みと酸味が混ざり合った香りが、部屋中にその濃さをどんどん増しながら立ち込めている。
すん、ともう一度吸い込んで、俺は思い切り顔をしかめた。
(なんでこんな朝早くから、コーヒーの匂いがしてるんだ?)
重い瞼を手で擦りながら上体を起こすと、見慣れないダークネイビーの壁紙が目に入った。昨日まであったはずの学習机も、脱ぎ散らかした服も、コードがぐちゃぐちゃに絡まり合った充電器もない。
目の前には、まるでショールームのようなお洒落なインテリアが並んでいる。シンプルだけど、そのどれもがこだわって選んであるのが分かる凝ったデザインだ。
「んぇ? ちょっ、えっ。何ここ、誰の家……?」
昨日、自分が居たはずの部屋とは全く違っている。ぐるりと部屋を見渡すと、キッチンと玄関までがひと続きになったワンルームだった。朝陽が差し込む窓辺には、鉢に入った観葉植物と水の入ったスプレーボトルが置かれている。
信じられない気持ちで瞬きを繰り返し、ベランダの向こうの景色を見渡す。目の前に広がっているのは、なんてことのない住宅街だ。けれど、昨日帰って来たはずの家の周りの風景とは、何もかもが違っている。
いま俺がいるこの部屋は二階か三階かの高さがあって、向かい側には、物干し竿に洗濯物が並ぶアパートのベランダが見える。その周囲一帯には一軒家が建ち並び、向かって右には駅らしき建物の屋根が見えた。
タタン、タタンと電車がフェンスの奥で通り抜けて行くのを呆然と見つめて、もう一度部屋のなかを見渡す。
「マジでどうなってんの?」
どう考えたって、絶対におかしいだろう。だって、昨日はちゃんと自分の家に帰ってきて、港とダイニングでカレーを食べて。いつもは山盛りにしていた(らしい)福神漬けを、「何で食わねぇの」と指摘されたから、それ以上一緒に居るとボロが出そうで、すぐに自室に戻った。
(そのあとしばらく、鶴海くんたちとメッセのやり取りもして……)
スマホでカメラロールを眺め、画像の一枚一枚を見て必死に自分の思い出を補おうとした。鶴海くんと二人で出掛けた日の行く先々で撮ったらしい写真や、数週間前の体育祭の写真もあった。そのうち眠たくなってきて……ちゃんと、自分のベッドで寝た。あの部屋の匂いも、羽毛布団の心地よい柔らかさに包まれたことも覚えている。眠りにつく瞬間まで、たしかに俺は自分の部屋に居た。けれど、今の状況から思うに――
「あれは全部夢、だったってこと……?」
キッチンからコーヒーメーカーのピロリロンと軽快な音が響く。くらりと眩暈がするほど苦手な香りに思わず鼻をつまみ、俺はカップの上にティッシュの箱を乗せた。立ち上る湯気を閉じ込めるように、マグカップの口をしっかりと塞ぐ。
(ていうか、そもそもここは誰の家なんだ?)
もし万が一、部屋で家主に鉢合わせた時のことを考える。
玄関に並んだ靴を見てみたものの、スニーカーと革靴が置かれているだけで、吊戸棚に入っている食器の数からしても、ひとり暮らしの部屋のようだ。
ふと何気なく顔を上げると、クローゼットの扉部分にある鏡に、見知らぬ姿が映った。ボタンつきのパジャマ姿で、鳥の巣のように爆発している黒髪。鏡の中のその男と目が合うと、俺は一際大きな声を上げた。
「なっ、なんで? 何だこれ!」
麗しい男子高校生の顔はどこへやら、目の前で二度目となるムンクの『叫び』ポーズをしているのは、どこからどう見ても二十代を過ぎた大人の男だった。
ボサボサ頭の前髪を、額を出すように両手でかき上げてみる。昨日のくりっとした目ではない。奥二重の涼しげな目元に、面長な輪郭。何て言ったらいいんだろう、寝癖がひどいのは別として、クールビューティーという言葉がしっくりくる顔立ちをしている。
(え、もしかしてこれって……大人になった俺の顔なの?)
けれど、どう考えても、昨日の自分の顔ではない。単に歳をとった顔になっているのではなく、全くの別人としか思えないレベルで、違う顔だ。
ぺた、と頬の感触を確かめて、無駄に口をあーんと大きく開けてみる。そんなことをしてもどうにもならないのは分かってるけど、この異常事態はさすがについていけない。
一日目は記憶がないだけなんだと思っていた。家族がいて、友達がいて、名前を呼ばれれば一応「湊」として振る舞えた。けれど、今日は身体そのものが全くの別人になっている。
鏡の中の男の輪郭を指でなぞりながら、俺は自分がどんどん遠いところへ押し流されていくような、不思議な感覚に襲われた。まさか、十年くらいタイムリープでもしちゃったんだろうか。だとしたら、ここは俺の家ってこと?
カレンダーを探すけれど、部屋にはそれらしきものが見当たらない。ローテーブルの上に置かれていたスマホのホームボタンを押してみると、画面には二〇二六年十月十四日(水)と表示されている。
「……ちゃんと次の日になってる」
さっそく「未来の世界説」が候補から消えたところで、とりあえずスマホの連絡先やカメラロール、メールなどを一通り開いてみることにした。
連絡先には大量の名前と電話番号が並んでいて、ぱっと見た限りでは手がかりになりそうなものはない。カメラロールを開くと、直近で撮った写真には旅先で撮ったのか、海や夕陽を収めた画像が残っていた。
風景や食べ物の合間にツーショットが何枚かあって、隣に映るのはどれも同じ女性だ。指輪はしていないけれど、頬を寄せ合う距離感からして、おそらく彼女……なんだと思う。
(昨日と同じだ。何も身の回りのことが思い出せない)
この人にも、俺と同じように今日という日常があったはずなのに。そう思うと、またしても無断で他人の人生を覗き見しているような、後ろめたさがじわりと心に影を落とす。
メールの受信フォルダには、オンラインストアのメルマガとネトフリの新作通知のメールが何通か開封済みになっているだけだった。何か身元が分かりそうなものとか、ないだろうか。例えば、運転免許証とか。
ソファーの横に置かれたビジネスバッグを手に取る。中に入っていたのは、ファイルに挟まれた書類と細長い筆箱。財布が見当たらず、俺はその中から、厚みのあるスケジュール手帳を手に取った。
最初の四月のページを開くと、ブルーのインクでびっしりと予定が書き込まれている。十月のインデックスがついた今月の欄までパラパラとめくると、今日の日付のマスには「午前・職員会議」と記されていた。その翌日には「十時から心理カウンセリング」の文字。心理学系の仕事をしている人なんだろうか。
そっと手帳を鞄に戻すと、鞄の底にネームホルダーのようなものが見えた。それを裏返すと――
「汐見台高校、養護教諭。沢村海里……?」
昨日は記憶喪失で、鈴木湊という男子高校生だった。それが今日は、名前も知らない大人の男性。しかも、昨日の俺が通っていた同じ高校の先生ときた。
(えぇ……? マジで意味わかんないって)
自分の本当の名前も、顔も分からない。それでいて、目が覚めると記憶にない他人の身体になっている。あまりにも非科学的だし、まだ夢から覚めてないんじゃないかって思うけれど。
(まさか、俺の魂が色んな人に乗り移ってる、とか?)
よろけながらベッドに腰を下ろして、頭を抱えた。自分がこうして人の身体になっていることよりも、「もしかしたら既に死んでいるのかもしれない」という可能性を考えることの方が、よっぽどショッキングだ。
「だとしたら、俺はいつの間に死んだんだよ……」
自分が幽霊だなんて、絶対に信じたくない。もしそれが本当なのだとしたら、俺はきっと何か未練を残して死んだから、この世に取り残された地縛霊になって違う人の身体に取り憑いているのかもしれない。
(じゃあ、これから先ずっと、天国にも行けずにこの世界を彷徨い続けるってことなのか)
鈴木湊も、沢村海里も自分の身体じゃないのだとしたら「本当の自分」はどこにいるんだろう。魂はここにあったとしても、身体は……と想像して、自分の身に起きたことを必死に思い出そうとするけれど、思い出せるのは『湊』として過ごした昨日の記憶だけ。
気を紛らわせるためにテレビをつけてみると、天気予報の画面には晴れマークが並んでいた。
『続いて汐見台にあるスタジオから、天気予報をお送りいたします。全国的な高気圧に覆われ、朝から青空が広がっています。日中の最高気温は平年より高く、秋晴れの一日となりそうです』
まだ心の整理はつかないけれど、「沢村海里」として今日一日を乗り切らなければいけない。俺は立ち上がってクローゼットの扉を開くと、その中に並んだ通勤服らしきシャツとネクタイを手に取った。
***
スティーブ・ジョブズとグーグルマップのある時代に生まれて良かった。
スマホのマップ機能を頼りに、俺は沢村先生の家から汐見台方面行きの通勤電車に揺られた。そこからさらにバスを乗り継いで、最寄りのバス停から徒歩五分。昨日と同じ校門をくぐり、昇降口に向かおうとして「あっ」と短く声が漏れた。危ない。うっかり生徒の気分でいたけれど、今日の俺は先生なんだってことを忘れてた。
不自然な動きで慌てて方向転換し、職員玄関の重いガラス戸を押し開ける。靴箱に書かれた「沢村」の苗字を見つけ、俺は中にあった黒いサンダルに履き替えた。
「沢村先生、おはようございます」
「おはようございます」
すれ違う生徒たちに頭を下げられるのは、すごく変な感じがした。だって声をかけてきたのは、昨日まで同じ教室で一緒に授業を受けていたクラスメイトたちだから。
(でも……憑り付いたのが、養護教諭で良かった。ずっと保健室に居るだけでいいわけだし)
そこで、はたと気づく。自分にまつわる記憶は何もないけれど、そういえば昨日の授業には普通について行けていた。数Ⅰ、現代文、保健体育。午後は地学と日本史。湊としての記憶は思い出せないままだったのに、どの科目も問題を解いたり、すんなりと理解することが出来たのはどうしてなんだろう。
(あの感じだと、普段の湊くんが勉強熱心だとは思えない。だとしたら……高一の授業は知識として、記憶されてるってこと?)
記憶と知識の境界が曖昧で、その線引きがわからない。人間の脳は、意外とシステムが複雑なんだろうか。
湊くんがいつも通り登校していたとしたら、昨日のことを彼はちゃんと記憶しているのかも気になるところだ。確認する方法を考えてみるけれど、いきなり保健室の先生が教室に行って、生徒に話しかけるのは不自然だろう。せめて、遠巻きにでも様子を見ることが出来ればいいのだけれど……。
(もしも、湊くんに昨日の記憶がないことがバレたら。一緒に過ごした鶴海くんたちも、戸惑うに決まってる)
二階へと続く階段を上がり、角を曲がってすぐの所にあるのが職員室だ。
まさかこんな形で役に立つとは思わなかったけれど、昨日の移動教室の時に覚えておいて良かった。ここからはちゃんと、沢村先生のふりをしないと。
緊張でバクバクと鳴る心臓を抑えるように手を胸に添えて、細く長い息を吐き出す。意を決して職員室のドアを開けると、ずらっと並んだ教員机の周りにはいくつものパイプ椅子が置かれていた。
「沢村先生、おはようございます」
「おはようございます」
「もうすぐ職員会議が始まるので、資料配布を手伝って貰っても良いですか」
「あっ、はい。分かりました」
席は好きな場所に座って下さいね、と微笑まれる。プリントの束を受け取りながら、怪しまれない程度にちらりと先生の顔を確認し、通勤鞄を一番隅の席に置く。
「あの……これ、会議の資料です」
「ありがとうございます。沢村先生がこんな時間に来るなんて珍しい」
「えーっと……実は、電車を一本逃してしまいまして」
「ああ、通勤快速ね。あれを逃しちゃうと結構な時間かかりますもんね」
苦笑いでごまかしつつ、先生たちに挨拶をしながら資料を配る。良かった、昨日と違って喋り方ではバレていないっぽい。敬語で喋ってれば安心かもと気を緩めていると、職員室の後ろのドアが勢いよく開いて年配の先生が入って来た。
「えー、おはようございます。先生方がお揃いのようですので、職員会議をはじめたいと思います」
その声を合図に、職員室にいた先生達は一斉に頭を下げた。
校長先生なのか、教頭先生なのかは分からないけれど、つるぴかの頭に浮かぶ汗を必死に拭っている。たぶん、この中でも偉い方の先生なんだろう。同じように俺も頭を下げて、バインダーにさっきの会議資料を挟んだ。
「では、重要なものから確認してまいりたいと思います。まず一つ目。今年の四月に起きた交通事故から、昨日で半年が経過しました。本日は、汐見台放送局が当時の事故現場周辺を撮影した後、本校に赴いて校長に簡単な取材を行う予定です」
資料に全員が視線を落とし、職員室には重い空気が漂い始めた。ぴりりとした緊張感も相まって、前屈みの姿勢で俺も資料を覗き込む。そこには、汐見台高校に通う生徒が通学中に事故に巻き込まれたことが記されていた。
(事故発生年月日、四月十三日……春休み明けってこと? 新学期が始まってすぐだったんじゃ……)
それは気の毒だな、と黒塗りになった被害生徒の名前に視線を落とす。
事故発生現場は、菖蒲田浜交差点付近。昨日、湊くんのお母さんの車に乗っていた時に「行かないで」と言っていたのは、この事故があったからなのかもしれない。
人差し指で文章をなぞっていると、隣に座っていた女性教諭が声をひそめ、手をかざしながら耳打ちしてきた。
「ねぇ、沢村先生。これは私が個人的に思うことなんだけど……冬休みに入る前に、生徒の親御さんとお話しする必要があるんじゃないかしら。来年度の彼の学籍をどうするかは、来春までに決めなきゃならないでしょう?」
「は……はい、そうですね」
同意を求められて、俺は曖昧に頷いて微笑んでみせる。
すると、俺の向かい側に座っていた男性教諭が続いて立ち上がった。
「テレビ局の車両は普通科の西校舎ではなく、特進科の校舎がある東校舎の裏門から入る経路にしていますので、誘導担当の先生方はご協力をお願いします」
議題が移っても、先生たちは険しい表情を崩さない。
促されるままにページを捲ると、期末考査に関する注意点や、完全下校を三十分早める案。外部での職員研修日程が、何行にもわたって箇条書きで記されていた。予鈴が鳴り、まだ資料の半ばまでしか進んでいなかった内容は、昼休みを返上して続きを話し合うらしい。クラスを受け持っている先生たちが重い腰を上げ、出席簿を片手に「今日も昼休憩は無しですね」なんて苦笑いしている。
俺はパイプ椅子を畳んで壁際に寄せながら、どうにか口実を作って一年四組の教室に行く方法を考えていた。
***
保健室の鍵をドアに差し込み、そっと中を覗き込む。
消毒液の匂いが漂う部屋には、白いベッドが二台並んでいた。沢村先生の席であろう机の上には、色ごとに揃えられたボールペンと、付箋の束。角がぴったり重なるように整えられている。正面には「未処理」「保護者連絡」「提出済み」とラベルの貼られた書類ケースがあり、壁際の棚には体温計や絆創膏がきっちりと収められていた。
「……今日は、絶対に誰も大怪我をしませんように」
もはや、そう願うしかなかった。簡単な消毒や手当てくらいならまだしも、急病で救急車を呼ぶような事態になれば、俺に対応できるわけがない。
正直に言えば、根本的な解決法として、俺が置かれているこの「状況」そのものを神様にどうにかしてほしい、というのが本音なのだけれど。
(でも、どうにかなったら……俺の魂は天国に行くことになるのかな?)
天国がどんな場所かは分からない。強いて言うなら、金髪のくるくるヘアの天使たちが、ラッパを片手に空を漂っている……みたいな。そういう変な知識だけは残っているのも、何故なのかは分からない。
とにかく、目的も何も分からないまま、お化けとして天国に行けずにこの世を彷徨い続けるなんて、とてもじゃないけど耐えられない。
「人の体に憑りつくのって、何て言うんだろう。幽体離脱……とは違うのかな」
とりあえず椅子に座り、目の前にあるノートパソコンを起動してみることにしたのだけれど、早速詰みの状況に陥った。肝心のパスワードが分からないのだ。
「うーん……下手に入力して、ロックがかかったらまずいよなぁ」
検索はスマホに頼ることにして、他になにか役に立ちそうなものはないかな、と書庫にずらりと並んだファイルを眺めた。背表紙に『保健室日誌』と書かれたファイルを何気なく手に取ると、そこには保健室にやってきた日付、生徒名、対応内容。原因と症状の経緯も、事細かに書き記されていた。
今年四月のページを捲ると、蛍光イエローの付箋に赤いペンで大きく「重大事案」と書かれているのが目に留まる。さっきの職員会議の話と同じ日付だと気づいて、俺はピタリと手を止めて内容を読み始めた。数ページにわたって、当日の対応の詳細が続いている。
『四月十三日。登校中に交差点を横断していた被害生徒(以下、Aと表記)に車が衝突。頭部に強い外傷を負い、居合わせた生徒(以下、Bと表記)がスマートフォンで本校へ通報。数分後、複数名の教諭がAEDを持参し現着した時には、加害者が警察と救急車を要請していた。Aは既に意識不明の状態。全身に擦過傷・打撲あり。事故発生から十五分後に近くの病院へ救急搬送。保護者の緊急連絡先に教頭が架電。
Aは翌日に国立病院へ転院。Bの両親にも、事故の第一発見者として警察対応に協力するように依頼を行った』
文字を追っているだけでも、頭の中にその場面が勝手に立ち上がってくるようだった。アスファルトに転がる大破した自転車、遠くから近づいてくるサイレンの音、周囲の人々の悲鳴。さっき職員室で先生達が険しい表情をしていたのは、きっとこの事故現場を思い出したせいもあるのかもしれない。さらにページをめくると、その後の経過として月ごとに簡潔な追記がされていた。
『事故後、全校生徒にアンケート調査を行う。回答数六二〇名のうち、眠れない・通学不安などの回答が多数。特にAが在籍していた特進科の生徒の心のケアが必要と判断。Bのアンケート用紙は白紙で、担任の聴き取りに対してカウンセリングは不要と回答。Aは意識回復が困難と判断。出席停止の措置を継続』
半年経った今でも、意識が戻らない。その一文に、胸の奥がすうっと冷えていくような気がした。
「Aの両親より、面会やお見舞いの品は一学期を以って固辞したいとの申し出あり。面会謝絶であることをホームルームにて伝達済み……」
気軽な気持ちで開いてしまったことを後悔し、ファイルを閉じようとした、次の瞬間――。
「失礼しまーす。沢村先生、鶴海のこと診てくんない?」
それまで静かだった保健室のドアが急に勢いよく開いて、振り返った先に居た生徒の姿に俺は思わずギョッとしてしまった。
「あのさ、鶴海がさっき廊下で――」
「湊、お前が説明するとややこしくなるから黙ってろ」
「は? 俺めっちゃ分かりやすく説明できるし」
「この前も『なんかヤバかった』しか言ってなかったじゃん」
「それで十分伝わってたじゃん、多分」
「伝わってねぇよ。語彙をどうにかしろって前から言ってんだよ俺は」
「えーっと。鶴海がカゴに指を引っかけたっぽくて。割とざっくり切れてて、ヤバいんだよ」
丸椅子に座り「地味に痛いわ」と言う鶴海くんの手から血が滴っているのを見て、俺はさっとビニール手袋をはめた。
「消毒して、止血しよう。絆創膏もちょっと大きめの方がいいかな」
「え、マジかー。あんま手も動かさない方がいい感じ?」
「傷が開かないようにしないとダメだから。ちょっと待ってね」
「湊、お前も座ってろって、うろちょろすんな」
「俺は付き添いだから自由だろ」
「付き添いなら大人しくしとけよ」
「鶴海くん、湊くん。保健室では静かに……」
そこまで言いかけて、俺は二人がじっとこちらを見ていることに気付いた。
鶴海くんも湊くんも、不思議そうな顔でポカンとしている。何か変な事を言ってしまっただろうかと焦っていると、湊くんは口を大きく開いて「ぶはっ」と吹き出した。
「先生、テンパりすぎじゃね? 普段は『鶴海』と『鈴木』って呼ぶのに」
「あ……あぁ。朝イチでこんな怪我されると思ってなかったから」
「怪我の時間帯で呼び方変わんの?」
「湊、茶化すなって。血止まってねぇんだぞ、俺」
「大袈裟だなー、ちょっと切っただけじゃん」
「お前、他人事だと思って」
苦笑いして、消毒液とコットンを銀色のトレーの上に並べる。湊くんはそれを見ると、分かりやすく苦手そうな顔をした。
「湊、先に行ってていいよ。手当終わったら、授業に戻るから」
「あー、ごめんな。俺はちょっと血ぃとか無理ですわ」
二人の何気ない会話と様子からして、昨日のことは大した問題になっていなさそうだ。内心胸を撫で下ろすと、湊くんはひらりと手を振って保健室のドアを閉めた。その軽やかな後ろ姿を、鶴海くんが複雑そうな表情で見送っている。
「鶴海? どうしたの」
「……海里ちゃん、これは絶対に内緒にしてほしいんだけど」
鶴海くんは消毒液を染み込ませる俺の手を見上げて、壁に貼られたカウンセリングの案内プリントに視線を移しながら言った。
「昨日はなんか……湊の様子がいつもと違ってて。顔色も悪くて、心ここにあらずって感じだったんだけど。今朝見たらけろっとしてたから『元気そうで良かった』って声掛けたら『何が?』ってトボけられてさ」
「……うん」
「あんだけ心配させておいて、って俺も嫌味っぽい言い方したら『マジでなんも覚えてないんだけど。意味わかんねぇ、なにキレてんだよ』って言われて……イラついてたら、カゴに手ぇ引っ掛けた。それをアイツが助けてくれたんだけど」
「そっか……鶴海は、それでずっとモヤモヤしてた?」
「モヤモヤっていうか……なんつーの、拍子抜けした、が正しいかも。あんだけ心配してたのに、なんもなかったみたいな顔されるとさ」
「うん」
「別に礼を言われたかったわけじゃないんだけど。ただ、あの一日はなんだったんだって、思うわけよ」
指先を止血する様子を見守りながら、鶴海くんは堅い表情を崩さない。なんというか、とても不服そうな顔をしている。
(そっか。湊くんの身体に、俺が憑りついていた間の記憶は残ってないのか)
ふたりの喧嘩の原因は、紛れもなく俺のせいだけれど、そんなの正直に言えるわけがない。いたたまれない気持ちで絆創膏を貼り終えると、鶴海くんは子どもが拗ねた時のように顔をあさっての方へと向けながら言った。
「おせっかいが過ぎたのかもしれないけど、普通に心配だったし。俺としては、親友として頼って欲しかったっつーか……」
「頼って欲しいって、口で言うのは簡単だけど。実際、頼られたらどうしてたと思う?」
「え……そりゃ、話聞くくらいしか出来ねぇけど」
「それで十分なんだと思うよ。ただ話を聞いてくれる人が居るって分かってるだけで、大分違うから」
「そういうもんかね」
頭の後ろをガシガシとかいて、外で行われている体育の授業を眺めているけれど、本当に見ているわけではないのが丸わかりだ。
お互いを親友だと思い合う二人の仲を壊してしまった。故意ではないし、俺にはこの憑依体質(それ以外に言い方が分からない)をどうすることも出来ないけれど、少なくとも俺が湊くんに憑りつかなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
俺は間をおいて、手袋をそっと脱ぎ取りながら鶴海くんの方を見た。
「それに、鈴木は頼れなかったんじゃなくて、頼り方が分からなかっただけかもしれないよ」
「でも、俺はすげぇ心配で。大丈夫かよ、って何回も……」
「心配されるのが苦手な人って、心配されたくないんじゃなくて『迷惑かけたくない』だけだったりするから。鈴木も、多分そうなんじゃないかな」
「迷惑とか、そんなん一切思ってねぇんだけどな、俺は」
「それも鈴木に、ちゃんと伝わってるといいね」
「……伝わってっかな」
「鶴海が鈴木を大事に思ってることだけは、もう十分に伝わってると思うよ」
俺の言葉に、鶴海くんは頬杖していた顔を持ち上げた。ごめんね。本当は全部、俺のせいなんだという言えない想いを、そっと胸の奥にしまい込む。
昨日は緊張していたし、バレたくないって必死で思っていたけれど……放課後にみんなで出掛けたり、寝る直前までメッセージを送り合う時間は楽しかった。それは鶴海くんがこうして優しさをひたむきに注ぎ続けてくれたからに他ならない。
「海里ちゃん、すげーいいこと言うじゃん。湊の気持ちも、俺の気持ちもうまいこと昇華してくれるっていうか」
「だって二人は親友でしょう。根っこにあるのはお互いを特別だと感じる気持ちだと思うから。鶴海の声掛けが、間違っていたとは思わないよ」
「じゃあ、向こうが話してくれたら俺はそれを受け止めたら良いし、何も言ってこなければいつも通りにするのが良いってこと?」
「うん。もし本当に話したいと思った時、鈴木が最初に頭に浮かべる顔があるとしたら、それって多分、鶴海の顔だと思うな」
「……なんか、海里ちゃんに言われると説得力あるな」
これ以上、鶴海くんに傷ついてほしくはない。そんな一心で出た言葉だったけれど、鶴海くんは薄く唇を開いたまま沈黙すると、俺を見上げながら笑みを浮かべて見せた。
「さすが保健室の先生。凄腕カウンセラーって感じ」
「だって、それが俺の仕事だからね」
「にしても、今日の海里ちゃんマジで優しいな。いつもの三割増しくらいで」
「そ、そんなことないと思うけど」
「あるって。手当の仕方まで丁寧だったし」
「怪我の程度によって丁寧さは変わって当然でしょ」
嘘に嘘が積み重なっていくけれど、仕方がない。きっとふたりはいつも通りの関係に戻れるだろうし、この憑依が続くなら、明日俺はきっとまた違う別の「誰か」になる。
(なんでだろう。少し、寂しいなって思うのは……)
それはきっと鶴海くんが人として魅力的だからなんだろう。
元々の自分が何歳で死んだのかは分からないけれど、鶴海くんみたいな友達が居ればよかったのになぁ、と思う。もしかすると、俺は友達関係とか、遊んで楽しむとか……そういうのに乏しい人生だったのかもしれない。
人生をやり直したくて漂っているのだとしても、人の幸せまでは壊したくない。そのためにも、憑りついた相手の日常を壊さないように気を付けないと。
白衣のポケットのなかで手を握り込んでいると、丸椅子から立ち上がった鶴海くんは、昨日とは違って俺とほぼ同じ高さで目線を合わせながら微笑んだ。
「てか、海里ちゃん今日いいことあった?」
「えっ、な、どうしたの急に」
「いつもだったら手当したら『さっさと教室に戻りなさい』とか『先生に向かって、ちゃん付けしない』って怒るのに。なんか機嫌よさそうだなって思って」
「も、もう教室に戻りなさい! 手当は済んでるんだから」
「いきなり辛辣じゃん。さっきまでいつもの十倍は優しかったのに」
「気のせいです。……早くしないと、次の授業が始まっちゃうでしょう」
茶目っ気たっぷりに目を細めて、白い歯を覗かせて笑いかけてくる。俺がそれ以上何も言い返せずにいると、鶴海くんは『マジでサンキューな』と最後にドアからひょっこりと顔を覗かせて手を振ってみせた。
俺は先生という立場なのに、なんだか鶴海くんのペースに見事に振り回された気分だ。それに……。
(鶴海くんって、誰にでもあんな感じなのかな。人たらし、というか)
本人にきっとそんな気はさらさらないのだろうけれど、相手の懐にすっと入り込んで、心の距離を縮めるのがうまい気がする。優しい性格に加えてあの顔だから、きっと異性からもモテるタイプなんじゃないだろうか。
一人取り残され、窓の向こうから聞こえてきたのは、校庭に響くホイッスルの音。中庭をはさんだ渡り廊下に、西校舎に向かって歩く鶴海くんの後ろ姿が見えた。
「鶴海、航平くん……」
綺麗な名前だな、と利用者カードに書かれた漢字の並びを見つめ、一度手を止める。
こんなこと思っちゃダメだ、って分かってるけど。もう一回湊くんの身体を借りて、鶴海くんと一緒に過ごしたかったな、なんて急に心細い気持ちに襲われた。さっきまでは『憑りついた俺が悪い』だなんて自分を責めていたのに。
あぁ、幽霊ってこんなに悲しい気持ちで毎日彷徨っているのか、と思うと「うらめしや」って呟くのも、その姿が一様に物悲しいビジュアルなのも納得がいく。誰にも「本当の自分」を見て貰えない、気付いてもらえないというのは、心の奥にいつまでも冷たい隙間風が吹いているような、そんな寂しさがある。
明日もまた憑依するなら、そりゃあ勿論、鶴海くんに会えたら嬉しい。嬉しいけれど、会えない可能性の方が高いに決まってる。
(昨日からの記憶しかないってことは、もしかすると「俺」は一昨日に死んだ人間……ってことなのかな)
沢村先生のスマホを鞄から取り出し、グーグルの検索アプリを立ち上げる。
文字を打ち込んで、途中で俺はその画面をシークレットモードに切り替えた。もし履歴が残っていたら、明日それを見た沢村先生に怪奇現象だと思われてしまうからだ。
『人間・死後・憑依』と単語を入力して決定ボタンを押すと、検索結果にはそれらの単語を含んだネットニュースの記事や書籍のページ、掲示板のタイトルが表示されていた。広告欄は一様に、スピリチュアルなものがずらっと並んでいる。SNSの呟きや悩み相談は「寂しいから、会いたい」「亡くなった人ともう一度話がしたい」というのが殆どだった。
(生きている頃の俺に「会いたい」と思ってくれる人は、居るのかな)
画面を人差し指でスクロールしながら、横髪を耳に掛ける。顔も名前も、誰ひとり思い出せない。それなのに、俺はその「見えない誰か」に会いたかった。自分が生きた証を、誰かに求めてほしかった。
たとえそれが、どんな理由で閉じられた人生だったとしても。
すん、ともう一度吸い込んで、俺は思い切り顔をしかめた。
(なんでこんな朝早くから、コーヒーの匂いがしてるんだ?)
重い瞼を手で擦りながら上体を起こすと、見慣れないダークネイビーの壁紙が目に入った。昨日まであったはずの学習机も、脱ぎ散らかした服も、コードがぐちゃぐちゃに絡まり合った充電器もない。
目の前には、まるでショールームのようなお洒落なインテリアが並んでいる。シンプルだけど、そのどれもがこだわって選んであるのが分かる凝ったデザインだ。
「んぇ? ちょっ、えっ。何ここ、誰の家……?」
昨日、自分が居たはずの部屋とは全く違っている。ぐるりと部屋を見渡すと、キッチンと玄関までがひと続きになったワンルームだった。朝陽が差し込む窓辺には、鉢に入った観葉植物と水の入ったスプレーボトルが置かれている。
信じられない気持ちで瞬きを繰り返し、ベランダの向こうの景色を見渡す。目の前に広がっているのは、なんてことのない住宅街だ。けれど、昨日帰って来たはずの家の周りの風景とは、何もかもが違っている。
いま俺がいるこの部屋は二階か三階かの高さがあって、向かい側には、物干し竿に洗濯物が並ぶアパートのベランダが見える。その周囲一帯には一軒家が建ち並び、向かって右には駅らしき建物の屋根が見えた。
タタン、タタンと電車がフェンスの奥で通り抜けて行くのを呆然と見つめて、もう一度部屋のなかを見渡す。
「マジでどうなってんの?」
どう考えたって、絶対におかしいだろう。だって、昨日はちゃんと自分の家に帰ってきて、港とダイニングでカレーを食べて。いつもは山盛りにしていた(らしい)福神漬けを、「何で食わねぇの」と指摘されたから、それ以上一緒に居るとボロが出そうで、すぐに自室に戻った。
(そのあとしばらく、鶴海くんたちとメッセのやり取りもして……)
スマホでカメラロールを眺め、画像の一枚一枚を見て必死に自分の思い出を補おうとした。鶴海くんと二人で出掛けた日の行く先々で撮ったらしい写真や、数週間前の体育祭の写真もあった。そのうち眠たくなってきて……ちゃんと、自分のベッドで寝た。あの部屋の匂いも、羽毛布団の心地よい柔らかさに包まれたことも覚えている。眠りにつく瞬間まで、たしかに俺は自分の部屋に居た。けれど、今の状況から思うに――
「あれは全部夢、だったってこと……?」
キッチンからコーヒーメーカーのピロリロンと軽快な音が響く。くらりと眩暈がするほど苦手な香りに思わず鼻をつまみ、俺はカップの上にティッシュの箱を乗せた。立ち上る湯気を閉じ込めるように、マグカップの口をしっかりと塞ぐ。
(ていうか、そもそもここは誰の家なんだ?)
もし万が一、部屋で家主に鉢合わせた時のことを考える。
玄関に並んだ靴を見てみたものの、スニーカーと革靴が置かれているだけで、吊戸棚に入っている食器の数からしても、ひとり暮らしの部屋のようだ。
ふと何気なく顔を上げると、クローゼットの扉部分にある鏡に、見知らぬ姿が映った。ボタンつきのパジャマ姿で、鳥の巣のように爆発している黒髪。鏡の中のその男と目が合うと、俺は一際大きな声を上げた。
「なっ、なんで? 何だこれ!」
麗しい男子高校生の顔はどこへやら、目の前で二度目となるムンクの『叫び』ポーズをしているのは、どこからどう見ても二十代を過ぎた大人の男だった。
ボサボサ頭の前髪を、額を出すように両手でかき上げてみる。昨日のくりっとした目ではない。奥二重の涼しげな目元に、面長な輪郭。何て言ったらいいんだろう、寝癖がひどいのは別として、クールビューティーという言葉がしっくりくる顔立ちをしている。
(え、もしかしてこれって……大人になった俺の顔なの?)
けれど、どう考えても、昨日の自分の顔ではない。単に歳をとった顔になっているのではなく、全くの別人としか思えないレベルで、違う顔だ。
ぺた、と頬の感触を確かめて、無駄に口をあーんと大きく開けてみる。そんなことをしてもどうにもならないのは分かってるけど、この異常事態はさすがについていけない。
一日目は記憶がないだけなんだと思っていた。家族がいて、友達がいて、名前を呼ばれれば一応「湊」として振る舞えた。けれど、今日は身体そのものが全くの別人になっている。
鏡の中の男の輪郭を指でなぞりながら、俺は自分がどんどん遠いところへ押し流されていくような、不思議な感覚に襲われた。まさか、十年くらいタイムリープでもしちゃったんだろうか。だとしたら、ここは俺の家ってこと?
カレンダーを探すけれど、部屋にはそれらしきものが見当たらない。ローテーブルの上に置かれていたスマホのホームボタンを押してみると、画面には二〇二六年十月十四日(水)と表示されている。
「……ちゃんと次の日になってる」
さっそく「未来の世界説」が候補から消えたところで、とりあえずスマホの連絡先やカメラロール、メールなどを一通り開いてみることにした。
連絡先には大量の名前と電話番号が並んでいて、ぱっと見た限りでは手がかりになりそうなものはない。カメラロールを開くと、直近で撮った写真には旅先で撮ったのか、海や夕陽を収めた画像が残っていた。
風景や食べ物の合間にツーショットが何枚かあって、隣に映るのはどれも同じ女性だ。指輪はしていないけれど、頬を寄せ合う距離感からして、おそらく彼女……なんだと思う。
(昨日と同じだ。何も身の回りのことが思い出せない)
この人にも、俺と同じように今日という日常があったはずなのに。そう思うと、またしても無断で他人の人生を覗き見しているような、後ろめたさがじわりと心に影を落とす。
メールの受信フォルダには、オンラインストアのメルマガとネトフリの新作通知のメールが何通か開封済みになっているだけだった。何か身元が分かりそうなものとか、ないだろうか。例えば、運転免許証とか。
ソファーの横に置かれたビジネスバッグを手に取る。中に入っていたのは、ファイルに挟まれた書類と細長い筆箱。財布が見当たらず、俺はその中から、厚みのあるスケジュール手帳を手に取った。
最初の四月のページを開くと、ブルーのインクでびっしりと予定が書き込まれている。十月のインデックスがついた今月の欄までパラパラとめくると、今日の日付のマスには「午前・職員会議」と記されていた。その翌日には「十時から心理カウンセリング」の文字。心理学系の仕事をしている人なんだろうか。
そっと手帳を鞄に戻すと、鞄の底にネームホルダーのようなものが見えた。それを裏返すと――
「汐見台高校、養護教諭。沢村海里……?」
昨日は記憶喪失で、鈴木湊という男子高校生だった。それが今日は、名前も知らない大人の男性。しかも、昨日の俺が通っていた同じ高校の先生ときた。
(えぇ……? マジで意味わかんないって)
自分の本当の名前も、顔も分からない。それでいて、目が覚めると記憶にない他人の身体になっている。あまりにも非科学的だし、まだ夢から覚めてないんじゃないかって思うけれど。
(まさか、俺の魂が色んな人に乗り移ってる、とか?)
よろけながらベッドに腰を下ろして、頭を抱えた。自分がこうして人の身体になっていることよりも、「もしかしたら既に死んでいるのかもしれない」という可能性を考えることの方が、よっぽどショッキングだ。
「だとしたら、俺はいつの間に死んだんだよ……」
自分が幽霊だなんて、絶対に信じたくない。もしそれが本当なのだとしたら、俺はきっと何か未練を残して死んだから、この世に取り残された地縛霊になって違う人の身体に取り憑いているのかもしれない。
(じゃあ、これから先ずっと、天国にも行けずにこの世界を彷徨い続けるってことなのか)
鈴木湊も、沢村海里も自分の身体じゃないのだとしたら「本当の自分」はどこにいるんだろう。魂はここにあったとしても、身体は……と想像して、自分の身に起きたことを必死に思い出そうとするけれど、思い出せるのは『湊』として過ごした昨日の記憶だけ。
気を紛らわせるためにテレビをつけてみると、天気予報の画面には晴れマークが並んでいた。
『続いて汐見台にあるスタジオから、天気予報をお送りいたします。全国的な高気圧に覆われ、朝から青空が広がっています。日中の最高気温は平年より高く、秋晴れの一日となりそうです』
まだ心の整理はつかないけれど、「沢村海里」として今日一日を乗り切らなければいけない。俺は立ち上がってクローゼットの扉を開くと、その中に並んだ通勤服らしきシャツとネクタイを手に取った。
***
スティーブ・ジョブズとグーグルマップのある時代に生まれて良かった。
スマホのマップ機能を頼りに、俺は沢村先生の家から汐見台方面行きの通勤電車に揺られた。そこからさらにバスを乗り継いで、最寄りのバス停から徒歩五分。昨日と同じ校門をくぐり、昇降口に向かおうとして「あっ」と短く声が漏れた。危ない。うっかり生徒の気分でいたけれど、今日の俺は先生なんだってことを忘れてた。
不自然な動きで慌てて方向転換し、職員玄関の重いガラス戸を押し開ける。靴箱に書かれた「沢村」の苗字を見つけ、俺は中にあった黒いサンダルに履き替えた。
「沢村先生、おはようございます」
「おはようございます」
すれ違う生徒たちに頭を下げられるのは、すごく変な感じがした。だって声をかけてきたのは、昨日まで同じ教室で一緒に授業を受けていたクラスメイトたちだから。
(でも……憑り付いたのが、養護教諭で良かった。ずっと保健室に居るだけでいいわけだし)
そこで、はたと気づく。自分にまつわる記憶は何もないけれど、そういえば昨日の授業には普通について行けていた。数Ⅰ、現代文、保健体育。午後は地学と日本史。湊としての記憶は思い出せないままだったのに、どの科目も問題を解いたり、すんなりと理解することが出来たのはどうしてなんだろう。
(あの感じだと、普段の湊くんが勉強熱心だとは思えない。だとしたら……高一の授業は知識として、記憶されてるってこと?)
記憶と知識の境界が曖昧で、その線引きがわからない。人間の脳は、意外とシステムが複雑なんだろうか。
湊くんがいつも通り登校していたとしたら、昨日のことを彼はちゃんと記憶しているのかも気になるところだ。確認する方法を考えてみるけれど、いきなり保健室の先生が教室に行って、生徒に話しかけるのは不自然だろう。せめて、遠巻きにでも様子を見ることが出来ればいいのだけれど……。
(もしも、湊くんに昨日の記憶がないことがバレたら。一緒に過ごした鶴海くんたちも、戸惑うに決まってる)
二階へと続く階段を上がり、角を曲がってすぐの所にあるのが職員室だ。
まさかこんな形で役に立つとは思わなかったけれど、昨日の移動教室の時に覚えておいて良かった。ここからはちゃんと、沢村先生のふりをしないと。
緊張でバクバクと鳴る心臓を抑えるように手を胸に添えて、細く長い息を吐き出す。意を決して職員室のドアを開けると、ずらっと並んだ教員机の周りにはいくつものパイプ椅子が置かれていた。
「沢村先生、おはようございます」
「おはようございます」
「もうすぐ職員会議が始まるので、資料配布を手伝って貰っても良いですか」
「あっ、はい。分かりました」
席は好きな場所に座って下さいね、と微笑まれる。プリントの束を受け取りながら、怪しまれない程度にちらりと先生の顔を確認し、通勤鞄を一番隅の席に置く。
「あの……これ、会議の資料です」
「ありがとうございます。沢村先生がこんな時間に来るなんて珍しい」
「えーっと……実は、電車を一本逃してしまいまして」
「ああ、通勤快速ね。あれを逃しちゃうと結構な時間かかりますもんね」
苦笑いでごまかしつつ、先生たちに挨拶をしながら資料を配る。良かった、昨日と違って喋り方ではバレていないっぽい。敬語で喋ってれば安心かもと気を緩めていると、職員室の後ろのドアが勢いよく開いて年配の先生が入って来た。
「えー、おはようございます。先生方がお揃いのようですので、職員会議をはじめたいと思います」
その声を合図に、職員室にいた先生達は一斉に頭を下げた。
校長先生なのか、教頭先生なのかは分からないけれど、つるぴかの頭に浮かぶ汗を必死に拭っている。たぶん、この中でも偉い方の先生なんだろう。同じように俺も頭を下げて、バインダーにさっきの会議資料を挟んだ。
「では、重要なものから確認してまいりたいと思います。まず一つ目。今年の四月に起きた交通事故から、昨日で半年が経過しました。本日は、汐見台放送局が当時の事故現場周辺を撮影した後、本校に赴いて校長に簡単な取材を行う予定です」
資料に全員が視線を落とし、職員室には重い空気が漂い始めた。ぴりりとした緊張感も相まって、前屈みの姿勢で俺も資料を覗き込む。そこには、汐見台高校に通う生徒が通学中に事故に巻き込まれたことが記されていた。
(事故発生年月日、四月十三日……春休み明けってこと? 新学期が始まってすぐだったんじゃ……)
それは気の毒だな、と黒塗りになった被害生徒の名前に視線を落とす。
事故発生現場は、菖蒲田浜交差点付近。昨日、湊くんのお母さんの車に乗っていた時に「行かないで」と言っていたのは、この事故があったからなのかもしれない。
人差し指で文章をなぞっていると、隣に座っていた女性教諭が声をひそめ、手をかざしながら耳打ちしてきた。
「ねぇ、沢村先生。これは私が個人的に思うことなんだけど……冬休みに入る前に、生徒の親御さんとお話しする必要があるんじゃないかしら。来年度の彼の学籍をどうするかは、来春までに決めなきゃならないでしょう?」
「は……はい、そうですね」
同意を求められて、俺は曖昧に頷いて微笑んでみせる。
すると、俺の向かい側に座っていた男性教諭が続いて立ち上がった。
「テレビ局の車両は普通科の西校舎ではなく、特進科の校舎がある東校舎の裏門から入る経路にしていますので、誘導担当の先生方はご協力をお願いします」
議題が移っても、先生たちは険しい表情を崩さない。
促されるままにページを捲ると、期末考査に関する注意点や、完全下校を三十分早める案。外部での職員研修日程が、何行にもわたって箇条書きで記されていた。予鈴が鳴り、まだ資料の半ばまでしか進んでいなかった内容は、昼休みを返上して続きを話し合うらしい。クラスを受け持っている先生たちが重い腰を上げ、出席簿を片手に「今日も昼休憩は無しですね」なんて苦笑いしている。
俺はパイプ椅子を畳んで壁際に寄せながら、どうにか口実を作って一年四組の教室に行く方法を考えていた。
***
保健室の鍵をドアに差し込み、そっと中を覗き込む。
消毒液の匂いが漂う部屋には、白いベッドが二台並んでいた。沢村先生の席であろう机の上には、色ごとに揃えられたボールペンと、付箋の束。角がぴったり重なるように整えられている。正面には「未処理」「保護者連絡」「提出済み」とラベルの貼られた書類ケースがあり、壁際の棚には体温計や絆創膏がきっちりと収められていた。
「……今日は、絶対に誰も大怪我をしませんように」
もはや、そう願うしかなかった。簡単な消毒や手当てくらいならまだしも、急病で救急車を呼ぶような事態になれば、俺に対応できるわけがない。
正直に言えば、根本的な解決法として、俺が置かれているこの「状況」そのものを神様にどうにかしてほしい、というのが本音なのだけれど。
(でも、どうにかなったら……俺の魂は天国に行くことになるのかな?)
天国がどんな場所かは分からない。強いて言うなら、金髪のくるくるヘアの天使たちが、ラッパを片手に空を漂っている……みたいな。そういう変な知識だけは残っているのも、何故なのかは分からない。
とにかく、目的も何も分からないまま、お化けとして天国に行けずにこの世を彷徨い続けるなんて、とてもじゃないけど耐えられない。
「人の体に憑りつくのって、何て言うんだろう。幽体離脱……とは違うのかな」
とりあえず椅子に座り、目の前にあるノートパソコンを起動してみることにしたのだけれど、早速詰みの状況に陥った。肝心のパスワードが分からないのだ。
「うーん……下手に入力して、ロックがかかったらまずいよなぁ」
検索はスマホに頼ることにして、他になにか役に立ちそうなものはないかな、と書庫にずらりと並んだファイルを眺めた。背表紙に『保健室日誌』と書かれたファイルを何気なく手に取ると、そこには保健室にやってきた日付、生徒名、対応内容。原因と症状の経緯も、事細かに書き記されていた。
今年四月のページを捲ると、蛍光イエローの付箋に赤いペンで大きく「重大事案」と書かれているのが目に留まる。さっきの職員会議の話と同じ日付だと気づいて、俺はピタリと手を止めて内容を読み始めた。数ページにわたって、当日の対応の詳細が続いている。
『四月十三日。登校中に交差点を横断していた被害生徒(以下、Aと表記)に車が衝突。頭部に強い外傷を負い、居合わせた生徒(以下、Bと表記)がスマートフォンで本校へ通報。数分後、複数名の教諭がAEDを持参し現着した時には、加害者が警察と救急車を要請していた。Aは既に意識不明の状態。全身に擦過傷・打撲あり。事故発生から十五分後に近くの病院へ救急搬送。保護者の緊急連絡先に教頭が架電。
Aは翌日に国立病院へ転院。Bの両親にも、事故の第一発見者として警察対応に協力するように依頼を行った』
文字を追っているだけでも、頭の中にその場面が勝手に立ち上がってくるようだった。アスファルトに転がる大破した自転車、遠くから近づいてくるサイレンの音、周囲の人々の悲鳴。さっき職員室で先生達が険しい表情をしていたのは、きっとこの事故現場を思い出したせいもあるのかもしれない。さらにページをめくると、その後の経過として月ごとに簡潔な追記がされていた。
『事故後、全校生徒にアンケート調査を行う。回答数六二〇名のうち、眠れない・通学不安などの回答が多数。特にAが在籍していた特進科の生徒の心のケアが必要と判断。Bのアンケート用紙は白紙で、担任の聴き取りに対してカウンセリングは不要と回答。Aは意識回復が困難と判断。出席停止の措置を継続』
半年経った今でも、意識が戻らない。その一文に、胸の奥がすうっと冷えていくような気がした。
「Aの両親より、面会やお見舞いの品は一学期を以って固辞したいとの申し出あり。面会謝絶であることをホームルームにて伝達済み……」
気軽な気持ちで開いてしまったことを後悔し、ファイルを閉じようとした、次の瞬間――。
「失礼しまーす。沢村先生、鶴海のこと診てくんない?」
それまで静かだった保健室のドアが急に勢いよく開いて、振り返った先に居た生徒の姿に俺は思わずギョッとしてしまった。
「あのさ、鶴海がさっき廊下で――」
「湊、お前が説明するとややこしくなるから黙ってろ」
「は? 俺めっちゃ分かりやすく説明できるし」
「この前も『なんかヤバかった』しか言ってなかったじゃん」
「それで十分伝わってたじゃん、多分」
「伝わってねぇよ。語彙をどうにかしろって前から言ってんだよ俺は」
「えーっと。鶴海がカゴに指を引っかけたっぽくて。割とざっくり切れてて、ヤバいんだよ」
丸椅子に座り「地味に痛いわ」と言う鶴海くんの手から血が滴っているのを見て、俺はさっとビニール手袋をはめた。
「消毒して、止血しよう。絆創膏もちょっと大きめの方がいいかな」
「え、マジかー。あんま手も動かさない方がいい感じ?」
「傷が開かないようにしないとダメだから。ちょっと待ってね」
「湊、お前も座ってろって、うろちょろすんな」
「俺は付き添いだから自由だろ」
「付き添いなら大人しくしとけよ」
「鶴海くん、湊くん。保健室では静かに……」
そこまで言いかけて、俺は二人がじっとこちらを見ていることに気付いた。
鶴海くんも湊くんも、不思議そうな顔でポカンとしている。何か変な事を言ってしまっただろうかと焦っていると、湊くんは口を大きく開いて「ぶはっ」と吹き出した。
「先生、テンパりすぎじゃね? 普段は『鶴海』と『鈴木』って呼ぶのに」
「あ……あぁ。朝イチでこんな怪我されると思ってなかったから」
「怪我の時間帯で呼び方変わんの?」
「湊、茶化すなって。血止まってねぇんだぞ、俺」
「大袈裟だなー、ちょっと切っただけじゃん」
「お前、他人事だと思って」
苦笑いして、消毒液とコットンを銀色のトレーの上に並べる。湊くんはそれを見ると、分かりやすく苦手そうな顔をした。
「湊、先に行ってていいよ。手当終わったら、授業に戻るから」
「あー、ごめんな。俺はちょっと血ぃとか無理ですわ」
二人の何気ない会話と様子からして、昨日のことは大した問題になっていなさそうだ。内心胸を撫で下ろすと、湊くんはひらりと手を振って保健室のドアを閉めた。その軽やかな後ろ姿を、鶴海くんが複雑そうな表情で見送っている。
「鶴海? どうしたの」
「……海里ちゃん、これは絶対に内緒にしてほしいんだけど」
鶴海くんは消毒液を染み込ませる俺の手を見上げて、壁に貼られたカウンセリングの案内プリントに視線を移しながら言った。
「昨日はなんか……湊の様子がいつもと違ってて。顔色も悪くて、心ここにあらずって感じだったんだけど。今朝見たらけろっとしてたから『元気そうで良かった』って声掛けたら『何が?』ってトボけられてさ」
「……うん」
「あんだけ心配させておいて、って俺も嫌味っぽい言い方したら『マジでなんも覚えてないんだけど。意味わかんねぇ、なにキレてんだよ』って言われて……イラついてたら、カゴに手ぇ引っ掛けた。それをアイツが助けてくれたんだけど」
「そっか……鶴海は、それでずっとモヤモヤしてた?」
「モヤモヤっていうか……なんつーの、拍子抜けした、が正しいかも。あんだけ心配してたのに、なんもなかったみたいな顔されるとさ」
「うん」
「別に礼を言われたかったわけじゃないんだけど。ただ、あの一日はなんだったんだって、思うわけよ」
指先を止血する様子を見守りながら、鶴海くんは堅い表情を崩さない。なんというか、とても不服そうな顔をしている。
(そっか。湊くんの身体に、俺が憑りついていた間の記憶は残ってないのか)
ふたりの喧嘩の原因は、紛れもなく俺のせいだけれど、そんなの正直に言えるわけがない。いたたまれない気持ちで絆創膏を貼り終えると、鶴海くんは子どもが拗ねた時のように顔をあさっての方へと向けながら言った。
「おせっかいが過ぎたのかもしれないけど、普通に心配だったし。俺としては、親友として頼って欲しかったっつーか……」
「頼って欲しいって、口で言うのは簡単だけど。実際、頼られたらどうしてたと思う?」
「え……そりゃ、話聞くくらいしか出来ねぇけど」
「それで十分なんだと思うよ。ただ話を聞いてくれる人が居るって分かってるだけで、大分違うから」
「そういうもんかね」
頭の後ろをガシガシとかいて、外で行われている体育の授業を眺めているけれど、本当に見ているわけではないのが丸わかりだ。
お互いを親友だと思い合う二人の仲を壊してしまった。故意ではないし、俺にはこの憑依体質(それ以外に言い方が分からない)をどうすることも出来ないけれど、少なくとも俺が湊くんに憑りつかなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
俺は間をおいて、手袋をそっと脱ぎ取りながら鶴海くんの方を見た。
「それに、鈴木は頼れなかったんじゃなくて、頼り方が分からなかっただけかもしれないよ」
「でも、俺はすげぇ心配で。大丈夫かよ、って何回も……」
「心配されるのが苦手な人って、心配されたくないんじゃなくて『迷惑かけたくない』だけだったりするから。鈴木も、多分そうなんじゃないかな」
「迷惑とか、そんなん一切思ってねぇんだけどな、俺は」
「それも鈴木に、ちゃんと伝わってるといいね」
「……伝わってっかな」
「鶴海が鈴木を大事に思ってることだけは、もう十分に伝わってると思うよ」
俺の言葉に、鶴海くんは頬杖していた顔を持ち上げた。ごめんね。本当は全部、俺のせいなんだという言えない想いを、そっと胸の奥にしまい込む。
昨日は緊張していたし、バレたくないって必死で思っていたけれど……放課後にみんなで出掛けたり、寝る直前までメッセージを送り合う時間は楽しかった。それは鶴海くんがこうして優しさをひたむきに注ぎ続けてくれたからに他ならない。
「海里ちゃん、すげーいいこと言うじゃん。湊の気持ちも、俺の気持ちもうまいこと昇華してくれるっていうか」
「だって二人は親友でしょう。根っこにあるのはお互いを特別だと感じる気持ちだと思うから。鶴海の声掛けが、間違っていたとは思わないよ」
「じゃあ、向こうが話してくれたら俺はそれを受け止めたら良いし、何も言ってこなければいつも通りにするのが良いってこと?」
「うん。もし本当に話したいと思った時、鈴木が最初に頭に浮かべる顔があるとしたら、それって多分、鶴海の顔だと思うな」
「……なんか、海里ちゃんに言われると説得力あるな」
これ以上、鶴海くんに傷ついてほしくはない。そんな一心で出た言葉だったけれど、鶴海くんは薄く唇を開いたまま沈黙すると、俺を見上げながら笑みを浮かべて見せた。
「さすが保健室の先生。凄腕カウンセラーって感じ」
「だって、それが俺の仕事だからね」
「にしても、今日の海里ちゃんマジで優しいな。いつもの三割増しくらいで」
「そ、そんなことないと思うけど」
「あるって。手当の仕方まで丁寧だったし」
「怪我の程度によって丁寧さは変わって当然でしょ」
嘘に嘘が積み重なっていくけれど、仕方がない。きっとふたりはいつも通りの関係に戻れるだろうし、この憑依が続くなら、明日俺はきっとまた違う別の「誰か」になる。
(なんでだろう。少し、寂しいなって思うのは……)
それはきっと鶴海くんが人として魅力的だからなんだろう。
元々の自分が何歳で死んだのかは分からないけれど、鶴海くんみたいな友達が居ればよかったのになぁ、と思う。もしかすると、俺は友達関係とか、遊んで楽しむとか……そういうのに乏しい人生だったのかもしれない。
人生をやり直したくて漂っているのだとしても、人の幸せまでは壊したくない。そのためにも、憑りついた相手の日常を壊さないように気を付けないと。
白衣のポケットのなかで手を握り込んでいると、丸椅子から立ち上がった鶴海くんは、昨日とは違って俺とほぼ同じ高さで目線を合わせながら微笑んだ。
「てか、海里ちゃん今日いいことあった?」
「えっ、な、どうしたの急に」
「いつもだったら手当したら『さっさと教室に戻りなさい』とか『先生に向かって、ちゃん付けしない』って怒るのに。なんか機嫌よさそうだなって思って」
「も、もう教室に戻りなさい! 手当は済んでるんだから」
「いきなり辛辣じゃん。さっきまでいつもの十倍は優しかったのに」
「気のせいです。……早くしないと、次の授業が始まっちゃうでしょう」
茶目っ気たっぷりに目を細めて、白い歯を覗かせて笑いかけてくる。俺がそれ以上何も言い返せずにいると、鶴海くんは『マジでサンキューな』と最後にドアからひょっこりと顔を覗かせて手を振ってみせた。
俺は先生という立場なのに、なんだか鶴海くんのペースに見事に振り回された気分だ。それに……。
(鶴海くんって、誰にでもあんな感じなのかな。人たらし、というか)
本人にきっとそんな気はさらさらないのだろうけれど、相手の懐にすっと入り込んで、心の距離を縮めるのがうまい気がする。優しい性格に加えてあの顔だから、きっと異性からもモテるタイプなんじゃないだろうか。
一人取り残され、窓の向こうから聞こえてきたのは、校庭に響くホイッスルの音。中庭をはさんだ渡り廊下に、西校舎に向かって歩く鶴海くんの後ろ姿が見えた。
「鶴海、航平くん……」
綺麗な名前だな、と利用者カードに書かれた漢字の並びを見つめ、一度手を止める。
こんなこと思っちゃダメだ、って分かってるけど。もう一回湊くんの身体を借りて、鶴海くんと一緒に過ごしたかったな、なんて急に心細い気持ちに襲われた。さっきまでは『憑りついた俺が悪い』だなんて自分を責めていたのに。
あぁ、幽霊ってこんなに悲しい気持ちで毎日彷徨っているのか、と思うと「うらめしや」って呟くのも、その姿が一様に物悲しいビジュアルなのも納得がいく。誰にも「本当の自分」を見て貰えない、気付いてもらえないというのは、心の奥にいつまでも冷たい隙間風が吹いているような、そんな寂しさがある。
明日もまた憑依するなら、そりゃあ勿論、鶴海くんに会えたら嬉しい。嬉しいけれど、会えない可能性の方が高いに決まってる。
(昨日からの記憶しかないってことは、もしかすると「俺」は一昨日に死んだ人間……ってことなのかな)
沢村先生のスマホを鞄から取り出し、グーグルの検索アプリを立ち上げる。
文字を打ち込んで、途中で俺はその画面をシークレットモードに切り替えた。もし履歴が残っていたら、明日それを見た沢村先生に怪奇現象だと思われてしまうからだ。
『人間・死後・憑依』と単語を入力して決定ボタンを押すと、検索結果にはそれらの単語を含んだネットニュースの記事や書籍のページ、掲示板のタイトルが表示されていた。広告欄は一様に、スピリチュアルなものがずらっと並んでいる。SNSの呟きや悩み相談は「寂しいから、会いたい」「亡くなった人ともう一度話がしたい」というのが殆どだった。
(生きている頃の俺に「会いたい」と思ってくれる人は、居るのかな)
画面を人差し指でスクロールしながら、横髪を耳に掛ける。顔も名前も、誰ひとり思い出せない。それなのに、俺はその「見えない誰か」に会いたかった。自分が生きた証を、誰かに求めてほしかった。
たとえそれが、どんな理由で閉じられた人生だったとしても。



