「起立、礼。おはようございます」
号令に合わせて椅子を引く音が、教室のあちこちで小さな波のように重なり合う。腰を上げる瞬間、まだ少しだけ膝に力を込める必要があるけれど、それも数ヶ月前に比べればずいぶん楽になった。
五月に入ったばかりの教室に、窓の外から吹き込んでくる風が青葉の匂いを運んでくる。カーテンが緩やかに膨らんでは萎み、その隙間から差し込む光が、机の木目の上をゆっくりと這っていった。
この席からは、校舎の向こうに広がる住宅街の屋根の連なりと、そのさらに奥に、細く光る水平線が見える。汐見台の海だ。光を弾いてきらめく海面を眺めていると、鶴海くんと交わした約束や言葉が、ふとした拍子に胸の奥から蘇ってくる。
俺は車椅子を完全に卒業したわけではないものの、一日の大半を体を起こしたまま過ごせるようになり、二年生の五月半ばを迎えていた。教室は、普通科の二年二組。隣の席に座っているのは、「背がデカいので一番後ろに行きます」なんて理由をつけて、車椅子で出入りのしやすい廊下側のいちばん後ろ――俺の隣に自然と収まった鶴海くんだ。
「おい、鈴木。後ろからコソコソ入ってくるな。遅刻だぞ」
教室じゅうの視線が、俺の後ろにこっそり隠れていた湊くんに集まる。あからさまに気まずそうな顔をする湊くんに、クラスのあちこちからくすくすと笑いが漏れた。俺も振り向いて、「見つかっちゃったね」とつい笑いかける。
「まーた寝坊かよ」
「顔面が百でも遅刻癖で台無しだぞ」
「顔面のことは否定しないんだ」
「そこも否定してほしかったのかよ」
「いや、認めてくれてありがとうって話」
帆高くんと潤くんの声にまで囲まれて、湊くんは笑いながら自分の席へ腰を下ろした。相変わらず賑やかなグループだ。そして、俺の斜め前の席には、清水くんと沼田くんが並んで座っている。沼田くんがスマホの画面を差し出すと、清水くんは片眉を上げてそれを覗き込んだ。
「清水くん、これ見てください。新作の設定資料集、フレーム構造まで公開されてて」
「……これ、インナーフレーム方式?」
「そう! だから可動域があんなに広いんですよ。関節部が完全に独立してるから」
接点の無さそうな二人だったのに、今ではすっかり仲が良い。沼田くんが「絶版で手に入らない」とぼやいていたロボットもののライトノベルを、俺はそれとなく話題に織り交ぜて清水くんとの間に橋渡しした。それから二人は、休み時間になると身を寄せ合って、機体の設定がどうとか、ロボットとメカという共通点を見出して楽しそうに語り合うようになっている。
「水季、なにニヤニヤしてんの」
小声で耳打ちされて、俺は肩をびくつかせた。隣を見ると、鶴海くんがプリントを配りながら、面白がるようにこちらを覗き込んでいる。
「べ、別に。なんでもないよ」
「なんだよ、教えろって。すげぇ嬉しそうな顔してたぞ」
からかうように頬をつつかれて、俺は小さく笑いながらその手を軽く払った。前の席から回ってきたプリントを受け取り、『宿泊学習について』と書かれたそれに目を落とす。
先生が内容の説明を始めると、鶴海くんは筆箱からシャープペンを取り出して、何かを書き始めた。先生が黒板に向き直ったのを見計らったように、さっとプリントを半分に折って俺の机に滑らせてくる。
(……なにこれ)
開くと、そこには走り書きで『今日、放課後デートしませんか? ※回答はここに丸をお願いします』の文字。
質問の下には、「行く・行かない」のふたつの選択肢がご丁寧に用意されている。頬杖をついて素知らぬ顔で前を向く鶴海くんを横目に、俺は唇を内側に巻き込んで笑いを堪えた。行くかどうかなんて、聞くまでもない。でもせっかくだから、少しだけからかってあげようかな。
定規とボールペンを取り出し、俺は小さな正方形を丁寧に描いた。四角の中を三等分するように、青・赤・青の順で横線を引いていく。視界の端で、鶴海くんがこっちをじっと見ているのが分かった。
再び折りたたんで、俺から返信を受け取った鶴海くんは、紙を開いてしばらく首を傾げていた。青・赤・青の三本線。ただの落書きにしか見えないその図形を、じっと見つめて眉を寄せている。
(気付くかな、鶴海くん)
俺は前を向いたまま、口元がにやけそうになるのを必死で堪えた。
これは船乗りの世界で使われる旗信号の一つ、『C旗』と呼ばれるものだ。父さんが昔、暇な日曜日に「船乗りの豆知識だぞ」なんて言いながら教えてくれたのを覚えている。
しばらくして、鶴海くんが「あ」と小さく声を漏らすのが聞こえた。スマホをこっそり机の下に隠しながら、何かを検索している。数十秒後、その顔にじわじわと笑みが広がっていくのが、隣の席からでもはっきり分かった。
「えっ、てかこれボールペンで書いてんのかよ」
鶴海くんが思わず声を上げると、先生からすかさず「鶴海、静かにしろ」と叱責が飛んだ。素直に「はい」と肩をすくめる鶴海くんがおかしくて、俺は口元に拳を添え、肩を震わせながら笑いを堪える。しかもこれ、親に見せなきゃいけないプリントなんだよな、と思うと余計におかしくて。
俺がプリントに書いたのは、素直に「行く」と答えるのが恥ずかしくて、その気持ちを隠すように選んだ「YES」の旗信号だった。
***
バスを降りると、潮の香りが真っ先に鼻先をかすめた。五月の風はまだ少し肌寒さを残していたけれど、日差しはもうすっかり初夏らしい眩しさになっている。
「こっからちょっと歩くけど、大丈夫か?」
「うん、平気」
鶴海くんが車椅子のハンドルを握って、緩やかな坂道をゆっくりと押してくれる。アスファルトの継ぎ目を越えるたびに、車輪がことこと小さな音を立てた。汐見台公園を抜けた先、遊歩道の柵の向こうには、記憶の中で見たものよりもずっと青い海が広がっている。
防波堤の手前まで来たところで、鶴海くんが車輪を止めた。コンクリートの向こうには、砂浜がなだらかに続いている。
「この先、車椅子だと厳しいかも」
「ここに置いて行こっか」
鶴海くんは防波堤の日陰になる場所を選んで車椅子を停め、ブレーキをしっかりとかけた。それから、ごく自然な仕草で俺の前に屈み込む。
「おぶってやろうか?」
「ううん。今日は、頑張って自分で歩きたい」
差し出された手に、俺はそっと自分の手を重ねた。指を絡めるように握られると、手のひらがその穏やかな熱を移した。
ゆっくりと車椅子から立ち上がると、砂の柔らかさがローファーの靴底越しにも伝わってきた。一歩、また一歩と、鶴海くんと歩幅に合わせるようにして進んでいく。リハビリの成果か、以前よりもずっと足取りはしっかりしている――それでも、鶴海くんはさりげなく速度を落として、俺のペースに寄り添ってくれていた。
「絶対離すなよ」
「うん」
繋いだ手に、ぎゅっと力を込める。鶴海くんは何も言わずに、ただ握り返してくれた。
波打ち際が近づくにつれて、砂の感触が変わっていく。乾いてさらさらしていた砂は、少しずつ湿り気を帯びて、冷たく引き締まった感触に変わった。
寄せては返す波の音が、さっきよりずっと近くで聞こえる。白い波が足元まで届いて、すっと引いていく。裸足になったわけではないのに、その冷たさが靴越しにまで伝わってくるような気がした。
「……やっと来られたな、二人で」
「うん。半年もかかっちゃったけど」
繋いだ手を離さないまま、俺たちは並んで立った。目の前には、どこまでも続く水平線。潮風が前髪を乱していくのを感じながら、そっと隣を見上げると、鶴海くんの横顔はあの秋よりもぐっと大人びて見えた。
しばらく黙って海を眺めていた鶴海くんが、ふいにしゃがみ込む。木の棒を拾い上げると、砂の上に自分の名前を書き始めた。「鶴海航平」。俺もその隣に、少し小さめの文字で「望月水季」と並べる。書き終えて、二人の名前の間にくすりと笑いながらハートを書き足した。
それを見た鶴海くんがさらに横から手を伸ばし、俺の書いた名前を囲むように文字を書き加えていく。
「湊、沢村先生、沼田、清水、波瑠、メル、浦嶋さん……」
「ふふっ、よく全部覚えてるね」
「忘れるわけねぇだろ。一緒に過ごした時間は、全部大事な思い出だし」
その一言に、胸の奥が静かに温まっていく。
みんなの身体を借りて彷徨っていたあの頃の日々を、鶴海くんは俺自身よりも一つも欠けることなく、大事に覚えてくれていたらしい。
「湊の身体で、お前が切羽詰まった顔してたこととか」
「沢村先生の時は、俺が鶴海くんの怪我を手当てしたね」
「猫の時は、雨の中で震えてたお前を、抱っこして走った」
言葉を継ぎ足すたびに、砂の上の名前がひとつの記憶の地図みたいに広がっていく。ここに書かれた名前ひとつひとつに、俺と鶴海くんが確かに一緒に過ごした時間があって、姿は変わっても、そのたびに手を差し伸べてくれたっけ。
「……あ」
最後に書いた「Q」の一文字を見つめて、鶴海くんが何かに気づいたように声を上げた。
「これ、全部の名前に水の漢字が入ってないか?」
「……本当だ」
あらためて全体を見渡すと、確かにそうだった。湊、沢村、沼田、清水、波瑠、浦嶋。メルは、フランス語の「mer」――海、から来ているのかもしれない。俺たちの名前も海に由来しているし、それがひとつの共通点になっている。
「偶然かな」
「さぁ、どうだろうな」
「運命だったりして」
「どっちでもよくね? もう終わったことだし」
あっさりと笑う鶴海くんに、俺もつられて笑ってしまった。理由なんて後から付けても付けなくても、俺たちが今、ここにいる事実は変わらない。
その時、大きな波が砂浜まで押し寄せてきた。書いたばかりの名前が、あっという間に波に攫われて消えていく。
「うわっ」
冷たい水しぶきが足首まで這い上がってきて、思わず後ずさりしようとした俺の体を、鶴海くんが横から抱き留めた。腕の中にすっぽり収まる形になって、間近で目が合う。
「……鶴海くん?」
「いや」
鶴海くんはしばらく何も言わずに、俺の顔をじっと見つめていた。潮風にあおられた前髪の隙間から覗く瞳が、まっすぐにこちらへ向いている。
「なに、そんなに見て」
「見惚れてた」
照れも隠さずにそう言われて、今度は俺の頬が熱くなる番だった。
「……鶴海くんは、前に言ってたよね。俺がキューだった時、性別も年齢も関係ないって」
「うん、言った」
「今の俺の見た目はさ、その……好きなタイプ、ですか?」
冗談半分で聞いたつもりだったのに、鶴海くんの表情は思ったより真剣なままだった。少し言葉を探すように視線を落として、それから、ゆっくりと口を開く。
「当たり前じゃん。今の水季の顔が好きだし、声も好きだ。この外見から、もう絶対に変わってほしくないって思ってる」
「……」
「あの時と今で、矛盾してるって分かってるよ。でも」
鶴海くんは俺の手を取って、指を絡めた。
「もし、万が一。またお前が違う姿になることがあったとしても、俺の水季に対する気持ちはずっと変わらない。それだけははっきり言える」
その言葉を聞いて、俺は少しの間、黙り込んだ。矛盾しているような、していないような。鶴海くんは今の俺を、この顔も声も含めて好きだと言ってくれている。それは紛れもない本心だ。同時に、もし外見が奪われたとしても、愛することをやめる理由にはならないとも言っている。
「鶴海くん」
「なに」
「ときめいたけど、やっぱりちょっと矛盾を感じる」
「はぁ? どこがだよ」
「今の顔が好きって言ったすぐ後に、姿が変わっても気持ちは変わらないって」
鶴海くんは一瞬詰まって、砂を蹴った。
「……両方だよ、悪かったな。俺だって人間だし、矛盾くらい――」
「悪いとは言ってないよ」
「でも、そう責めてるように聞こえた」
「……俺、思うんだけどね。外見って、誰かと出会うためのきっかけでしかないんだと思う」
「…………」
「鶴海くんもそうだったよね。最初は、俺の中身じゃなくて、その日借りてる体の方を見てたはずなのに」
「まあ、うん」
「色んな人の姿をした俺と会ってきて、それでも好きになってくれたのは、俺自身だった」
「そう、だな」
鶴海くんが小さく頷く。その反応に背中を押されるように、俺は続けた。
「一緒に過ごした時間が積み重なっていくうちに、それが好きになる本当の理由になっていくんじゃないかな。鶴海くんが好きなものは、俺の顔じゃなくて、俺と過ごした記憶の方なんじゃないかって、そう思ったんだ」
鶴海くんは黙って俺の話を聞いていた。波の音だけが、二人のあいだをゆっくりと満たしていく。
「俺がもし、また誰かの姿になったとしても、鶴海くんが『それでもお前だ』って呼びかけてくれるなら、俺はきっと、俺のままでいられる。ずっと覚えていてくれて、名前を呼んでくれたら……その時初めて、自分の輪郭がちゃんと定まる気がする」
「呼ぶよ」
食い気味に、鶴海くんが答えた。
「何回姿が変わっても、絶対に呼ぶ。てか、しんみりさせんなって」
「鶴海くんが先に、変なこと言うからだよ」
「変ではないだろ」
軽口を叩き合いながら、俺たちはどちらからともなく笑った。波はまだ寄せては返しを繰り返して、さっきまでの名前を海へ連れて行ってしまったけれど、もう気にならなかった。文字が消えるのは名残惜しいけれど、記憶は消えない。
「そうだ、鶴海くん。写真、撮ろうよ」
「いいけど、急にどうした」
「ツーショット。記念に撮りたいなって思って」
鶴海くんはスマホを取り出すと、俺の肩を抱き寄せてインカメラをこちらに向けた。潮風で乱れた前髪も、海を背景にした二人の顔も、そのままシャッターに収まる。
「よし、撮れた」
「見せて」
「水季がおすましした顔してる」
「鶴海くんはカッコつけてるけどね」
画面の中で笑う自分の顔を見て、俺は少しくすぐったい気持ちになった。この顔が、これからずっと鶴海くんの隣にいる顔なんだと思うと、不思議と自分の顔も好きになる。それくらい、幸せに満ちた顔をしている。
「写真立てに入れようかな」
「いいじゃん、折角だから貝殻とかでデコっとけば」
「あ、それいいかも。鶴海くん、ナイスアイディア」
「水季の部屋に飾られるとこまでイメージしてますから」
「貝殻探すの、手伝ってくれる?」
「はいはい」
俺たちはローファーを脱ぎ、靴下も丸めてポケットに突っ込むと、裸足のまま波打ち際まで歩いていった。冷たい砂の感触と、足の裏に染み込んでくる海水の冷たさが気持ちいい。指の間から砂がこぼれ落ちる感触さえ、何度でも噛みしめたくなるくらい、いま愛おしく感じる。
「これは?」
「うーん、ちょっと欠けてるかな」
「じゃあこっち」
「お、それは綺麗だね」
しゃがみ込んで砂の中を探る鶴海くんの横顔を見ながら、俺もまた別の場所にしゃがみ込む。しばらくして、鶴海くんが「あった」と声を上げて大きく手を振った。
「水季。こっち見ろよ。これ、超デカくね?」
差し出されたのは、白くて滑らかな、傷ひとつない貝殻だった。手のひらに乗せられたその感触に、一瞬息を止める。
(この感じ……)
夢の中で、鶴海くんが差し出してくれた貝殻とよく似ている。角度も、大きさも、手渡される瞬間の光景まで。
「……水季? どうした」
じっと貝殻を見つめたまま固まっている俺に、鶴海くんが顔を覗き込んでくる。
「ううん、なんでもない」
俺は貝殻を両手で包み込むようにして、笑ってみせた。夢の話は、今はしなくていい。ただ、あの時見た光景と、今この手にある現実が、静かに重なり合っていることが分かれば、それだけで今は十分すぎるほど幸せだから。
「じゃあ、次はあっちで探そうぜ。写真立てにするなら、もう少し必要だろ」
「うん。あと帰りにコンビニで印刷しに行こうよ」
「……なんでそんなに詰め込むかなぁ、水季は」
「だって、鶴海くんとやりたいことが多すぎるから」
裸足のまま、波打ち際を並んで歩く。寄せてくる波が足首を撫でていくたびに、俺たちは声を上げて笑い合った。
(終)
号令に合わせて椅子を引く音が、教室のあちこちで小さな波のように重なり合う。腰を上げる瞬間、まだ少しだけ膝に力を込める必要があるけれど、それも数ヶ月前に比べればずいぶん楽になった。
五月に入ったばかりの教室に、窓の外から吹き込んでくる風が青葉の匂いを運んでくる。カーテンが緩やかに膨らんでは萎み、その隙間から差し込む光が、机の木目の上をゆっくりと這っていった。
この席からは、校舎の向こうに広がる住宅街の屋根の連なりと、そのさらに奥に、細く光る水平線が見える。汐見台の海だ。光を弾いてきらめく海面を眺めていると、鶴海くんと交わした約束や言葉が、ふとした拍子に胸の奥から蘇ってくる。
俺は車椅子を完全に卒業したわけではないものの、一日の大半を体を起こしたまま過ごせるようになり、二年生の五月半ばを迎えていた。教室は、普通科の二年二組。隣の席に座っているのは、「背がデカいので一番後ろに行きます」なんて理由をつけて、車椅子で出入りのしやすい廊下側のいちばん後ろ――俺の隣に自然と収まった鶴海くんだ。
「おい、鈴木。後ろからコソコソ入ってくるな。遅刻だぞ」
教室じゅうの視線が、俺の後ろにこっそり隠れていた湊くんに集まる。あからさまに気まずそうな顔をする湊くんに、クラスのあちこちからくすくすと笑いが漏れた。俺も振り向いて、「見つかっちゃったね」とつい笑いかける。
「まーた寝坊かよ」
「顔面が百でも遅刻癖で台無しだぞ」
「顔面のことは否定しないんだ」
「そこも否定してほしかったのかよ」
「いや、認めてくれてありがとうって話」
帆高くんと潤くんの声にまで囲まれて、湊くんは笑いながら自分の席へ腰を下ろした。相変わらず賑やかなグループだ。そして、俺の斜め前の席には、清水くんと沼田くんが並んで座っている。沼田くんがスマホの画面を差し出すと、清水くんは片眉を上げてそれを覗き込んだ。
「清水くん、これ見てください。新作の設定資料集、フレーム構造まで公開されてて」
「……これ、インナーフレーム方式?」
「そう! だから可動域があんなに広いんですよ。関節部が完全に独立してるから」
接点の無さそうな二人だったのに、今ではすっかり仲が良い。沼田くんが「絶版で手に入らない」とぼやいていたロボットもののライトノベルを、俺はそれとなく話題に織り交ぜて清水くんとの間に橋渡しした。それから二人は、休み時間になると身を寄せ合って、機体の設定がどうとか、ロボットとメカという共通点を見出して楽しそうに語り合うようになっている。
「水季、なにニヤニヤしてんの」
小声で耳打ちされて、俺は肩をびくつかせた。隣を見ると、鶴海くんがプリントを配りながら、面白がるようにこちらを覗き込んでいる。
「べ、別に。なんでもないよ」
「なんだよ、教えろって。すげぇ嬉しそうな顔してたぞ」
からかうように頬をつつかれて、俺は小さく笑いながらその手を軽く払った。前の席から回ってきたプリントを受け取り、『宿泊学習について』と書かれたそれに目を落とす。
先生が内容の説明を始めると、鶴海くんは筆箱からシャープペンを取り出して、何かを書き始めた。先生が黒板に向き直ったのを見計らったように、さっとプリントを半分に折って俺の机に滑らせてくる。
(……なにこれ)
開くと、そこには走り書きで『今日、放課後デートしませんか? ※回答はここに丸をお願いします』の文字。
質問の下には、「行く・行かない」のふたつの選択肢がご丁寧に用意されている。頬杖をついて素知らぬ顔で前を向く鶴海くんを横目に、俺は唇を内側に巻き込んで笑いを堪えた。行くかどうかなんて、聞くまでもない。でもせっかくだから、少しだけからかってあげようかな。
定規とボールペンを取り出し、俺は小さな正方形を丁寧に描いた。四角の中を三等分するように、青・赤・青の順で横線を引いていく。視界の端で、鶴海くんがこっちをじっと見ているのが分かった。
再び折りたたんで、俺から返信を受け取った鶴海くんは、紙を開いてしばらく首を傾げていた。青・赤・青の三本線。ただの落書きにしか見えないその図形を、じっと見つめて眉を寄せている。
(気付くかな、鶴海くん)
俺は前を向いたまま、口元がにやけそうになるのを必死で堪えた。
これは船乗りの世界で使われる旗信号の一つ、『C旗』と呼ばれるものだ。父さんが昔、暇な日曜日に「船乗りの豆知識だぞ」なんて言いながら教えてくれたのを覚えている。
しばらくして、鶴海くんが「あ」と小さく声を漏らすのが聞こえた。スマホをこっそり机の下に隠しながら、何かを検索している。数十秒後、その顔にじわじわと笑みが広がっていくのが、隣の席からでもはっきり分かった。
「えっ、てかこれボールペンで書いてんのかよ」
鶴海くんが思わず声を上げると、先生からすかさず「鶴海、静かにしろ」と叱責が飛んだ。素直に「はい」と肩をすくめる鶴海くんがおかしくて、俺は口元に拳を添え、肩を震わせながら笑いを堪える。しかもこれ、親に見せなきゃいけないプリントなんだよな、と思うと余計におかしくて。
俺がプリントに書いたのは、素直に「行く」と答えるのが恥ずかしくて、その気持ちを隠すように選んだ「YES」の旗信号だった。
***
バスを降りると、潮の香りが真っ先に鼻先をかすめた。五月の風はまだ少し肌寒さを残していたけれど、日差しはもうすっかり初夏らしい眩しさになっている。
「こっからちょっと歩くけど、大丈夫か?」
「うん、平気」
鶴海くんが車椅子のハンドルを握って、緩やかな坂道をゆっくりと押してくれる。アスファルトの継ぎ目を越えるたびに、車輪がことこと小さな音を立てた。汐見台公園を抜けた先、遊歩道の柵の向こうには、記憶の中で見たものよりもずっと青い海が広がっている。
防波堤の手前まで来たところで、鶴海くんが車輪を止めた。コンクリートの向こうには、砂浜がなだらかに続いている。
「この先、車椅子だと厳しいかも」
「ここに置いて行こっか」
鶴海くんは防波堤の日陰になる場所を選んで車椅子を停め、ブレーキをしっかりとかけた。それから、ごく自然な仕草で俺の前に屈み込む。
「おぶってやろうか?」
「ううん。今日は、頑張って自分で歩きたい」
差し出された手に、俺はそっと自分の手を重ねた。指を絡めるように握られると、手のひらがその穏やかな熱を移した。
ゆっくりと車椅子から立ち上がると、砂の柔らかさがローファーの靴底越しにも伝わってきた。一歩、また一歩と、鶴海くんと歩幅に合わせるようにして進んでいく。リハビリの成果か、以前よりもずっと足取りはしっかりしている――それでも、鶴海くんはさりげなく速度を落として、俺のペースに寄り添ってくれていた。
「絶対離すなよ」
「うん」
繋いだ手に、ぎゅっと力を込める。鶴海くんは何も言わずに、ただ握り返してくれた。
波打ち際が近づくにつれて、砂の感触が変わっていく。乾いてさらさらしていた砂は、少しずつ湿り気を帯びて、冷たく引き締まった感触に変わった。
寄せては返す波の音が、さっきよりずっと近くで聞こえる。白い波が足元まで届いて、すっと引いていく。裸足になったわけではないのに、その冷たさが靴越しにまで伝わってくるような気がした。
「……やっと来られたな、二人で」
「うん。半年もかかっちゃったけど」
繋いだ手を離さないまま、俺たちは並んで立った。目の前には、どこまでも続く水平線。潮風が前髪を乱していくのを感じながら、そっと隣を見上げると、鶴海くんの横顔はあの秋よりもぐっと大人びて見えた。
しばらく黙って海を眺めていた鶴海くんが、ふいにしゃがみ込む。木の棒を拾い上げると、砂の上に自分の名前を書き始めた。「鶴海航平」。俺もその隣に、少し小さめの文字で「望月水季」と並べる。書き終えて、二人の名前の間にくすりと笑いながらハートを書き足した。
それを見た鶴海くんがさらに横から手を伸ばし、俺の書いた名前を囲むように文字を書き加えていく。
「湊、沢村先生、沼田、清水、波瑠、メル、浦嶋さん……」
「ふふっ、よく全部覚えてるね」
「忘れるわけねぇだろ。一緒に過ごした時間は、全部大事な思い出だし」
その一言に、胸の奥が静かに温まっていく。
みんなの身体を借りて彷徨っていたあの頃の日々を、鶴海くんは俺自身よりも一つも欠けることなく、大事に覚えてくれていたらしい。
「湊の身体で、お前が切羽詰まった顔してたこととか」
「沢村先生の時は、俺が鶴海くんの怪我を手当てしたね」
「猫の時は、雨の中で震えてたお前を、抱っこして走った」
言葉を継ぎ足すたびに、砂の上の名前がひとつの記憶の地図みたいに広がっていく。ここに書かれた名前ひとつひとつに、俺と鶴海くんが確かに一緒に過ごした時間があって、姿は変わっても、そのたびに手を差し伸べてくれたっけ。
「……あ」
最後に書いた「Q」の一文字を見つめて、鶴海くんが何かに気づいたように声を上げた。
「これ、全部の名前に水の漢字が入ってないか?」
「……本当だ」
あらためて全体を見渡すと、確かにそうだった。湊、沢村、沼田、清水、波瑠、浦嶋。メルは、フランス語の「mer」――海、から来ているのかもしれない。俺たちの名前も海に由来しているし、それがひとつの共通点になっている。
「偶然かな」
「さぁ、どうだろうな」
「運命だったりして」
「どっちでもよくね? もう終わったことだし」
あっさりと笑う鶴海くんに、俺もつられて笑ってしまった。理由なんて後から付けても付けなくても、俺たちが今、ここにいる事実は変わらない。
その時、大きな波が砂浜まで押し寄せてきた。書いたばかりの名前が、あっという間に波に攫われて消えていく。
「うわっ」
冷たい水しぶきが足首まで這い上がってきて、思わず後ずさりしようとした俺の体を、鶴海くんが横から抱き留めた。腕の中にすっぽり収まる形になって、間近で目が合う。
「……鶴海くん?」
「いや」
鶴海くんはしばらく何も言わずに、俺の顔をじっと見つめていた。潮風にあおられた前髪の隙間から覗く瞳が、まっすぐにこちらへ向いている。
「なに、そんなに見て」
「見惚れてた」
照れも隠さずにそう言われて、今度は俺の頬が熱くなる番だった。
「……鶴海くんは、前に言ってたよね。俺がキューだった時、性別も年齢も関係ないって」
「うん、言った」
「今の俺の見た目はさ、その……好きなタイプ、ですか?」
冗談半分で聞いたつもりだったのに、鶴海くんの表情は思ったより真剣なままだった。少し言葉を探すように視線を落として、それから、ゆっくりと口を開く。
「当たり前じゃん。今の水季の顔が好きだし、声も好きだ。この外見から、もう絶対に変わってほしくないって思ってる」
「……」
「あの時と今で、矛盾してるって分かってるよ。でも」
鶴海くんは俺の手を取って、指を絡めた。
「もし、万が一。またお前が違う姿になることがあったとしても、俺の水季に対する気持ちはずっと変わらない。それだけははっきり言える」
その言葉を聞いて、俺は少しの間、黙り込んだ。矛盾しているような、していないような。鶴海くんは今の俺を、この顔も声も含めて好きだと言ってくれている。それは紛れもない本心だ。同時に、もし外見が奪われたとしても、愛することをやめる理由にはならないとも言っている。
「鶴海くん」
「なに」
「ときめいたけど、やっぱりちょっと矛盾を感じる」
「はぁ? どこがだよ」
「今の顔が好きって言ったすぐ後に、姿が変わっても気持ちは変わらないって」
鶴海くんは一瞬詰まって、砂を蹴った。
「……両方だよ、悪かったな。俺だって人間だし、矛盾くらい――」
「悪いとは言ってないよ」
「でも、そう責めてるように聞こえた」
「……俺、思うんだけどね。外見って、誰かと出会うためのきっかけでしかないんだと思う」
「…………」
「鶴海くんもそうだったよね。最初は、俺の中身じゃなくて、その日借りてる体の方を見てたはずなのに」
「まあ、うん」
「色んな人の姿をした俺と会ってきて、それでも好きになってくれたのは、俺自身だった」
「そう、だな」
鶴海くんが小さく頷く。その反応に背中を押されるように、俺は続けた。
「一緒に過ごした時間が積み重なっていくうちに、それが好きになる本当の理由になっていくんじゃないかな。鶴海くんが好きなものは、俺の顔じゃなくて、俺と過ごした記憶の方なんじゃないかって、そう思ったんだ」
鶴海くんは黙って俺の話を聞いていた。波の音だけが、二人のあいだをゆっくりと満たしていく。
「俺がもし、また誰かの姿になったとしても、鶴海くんが『それでもお前だ』って呼びかけてくれるなら、俺はきっと、俺のままでいられる。ずっと覚えていてくれて、名前を呼んでくれたら……その時初めて、自分の輪郭がちゃんと定まる気がする」
「呼ぶよ」
食い気味に、鶴海くんが答えた。
「何回姿が変わっても、絶対に呼ぶ。てか、しんみりさせんなって」
「鶴海くんが先に、変なこと言うからだよ」
「変ではないだろ」
軽口を叩き合いながら、俺たちはどちらからともなく笑った。波はまだ寄せては返しを繰り返して、さっきまでの名前を海へ連れて行ってしまったけれど、もう気にならなかった。文字が消えるのは名残惜しいけれど、記憶は消えない。
「そうだ、鶴海くん。写真、撮ろうよ」
「いいけど、急にどうした」
「ツーショット。記念に撮りたいなって思って」
鶴海くんはスマホを取り出すと、俺の肩を抱き寄せてインカメラをこちらに向けた。潮風で乱れた前髪も、海を背景にした二人の顔も、そのままシャッターに収まる。
「よし、撮れた」
「見せて」
「水季がおすましした顔してる」
「鶴海くんはカッコつけてるけどね」
画面の中で笑う自分の顔を見て、俺は少しくすぐったい気持ちになった。この顔が、これからずっと鶴海くんの隣にいる顔なんだと思うと、不思議と自分の顔も好きになる。それくらい、幸せに満ちた顔をしている。
「写真立てに入れようかな」
「いいじゃん、折角だから貝殻とかでデコっとけば」
「あ、それいいかも。鶴海くん、ナイスアイディア」
「水季の部屋に飾られるとこまでイメージしてますから」
「貝殻探すの、手伝ってくれる?」
「はいはい」
俺たちはローファーを脱ぎ、靴下も丸めてポケットに突っ込むと、裸足のまま波打ち際まで歩いていった。冷たい砂の感触と、足の裏に染み込んでくる海水の冷たさが気持ちいい。指の間から砂がこぼれ落ちる感触さえ、何度でも噛みしめたくなるくらい、いま愛おしく感じる。
「これは?」
「うーん、ちょっと欠けてるかな」
「じゃあこっち」
「お、それは綺麗だね」
しゃがみ込んで砂の中を探る鶴海くんの横顔を見ながら、俺もまた別の場所にしゃがみ込む。しばらくして、鶴海くんが「あった」と声を上げて大きく手を振った。
「水季。こっち見ろよ。これ、超デカくね?」
差し出されたのは、白くて滑らかな、傷ひとつない貝殻だった。手のひらに乗せられたその感触に、一瞬息を止める。
(この感じ……)
夢の中で、鶴海くんが差し出してくれた貝殻とよく似ている。角度も、大きさも、手渡される瞬間の光景まで。
「……水季? どうした」
じっと貝殻を見つめたまま固まっている俺に、鶴海くんが顔を覗き込んでくる。
「ううん、なんでもない」
俺は貝殻を両手で包み込むようにして、笑ってみせた。夢の話は、今はしなくていい。ただ、あの時見た光景と、今この手にある現実が、静かに重なり合っていることが分かれば、それだけで今は十分すぎるほど幸せだから。
「じゃあ、次はあっちで探そうぜ。写真立てにするなら、もう少し必要だろ」
「うん。あと帰りにコンビニで印刷しに行こうよ」
「……なんでそんなに詰め込むかなぁ、水季は」
「だって、鶴海くんとやりたいことが多すぎるから」
裸足のまま、波打ち際を並んで歩く。寄せてくる波が足首を撫でていくたびに、俺たちは声を上げて笑い合った。
(終)



