キュー、君が僕を見つける日

 俺は、自分が誰なのか分からなかった。
 鏡の前で頬をそっと両手で覆い、ムンクの『叫び』のようなポーズで自分の顔を眺め始めてから、かれこれ数分が経過している。なぜなら、目の前に映っているのは思わず溜め息が漏れるほど、ピッカピカに輝く美男子の顔だからだ。
 わなわなと震える手で、ゆっくりと髪を梳く。指通りは見た目通りサラサラで、毛先からは甘い花の香りがした。栗色のメンズマッシュに、目力のあるくっきりとした二重瞼。睫毛に縁取られた瞳は、アンニュイな眼差しをしている。確かめるように顔を左右に向けてみると、どの角度から見ても鼻はシュッと高く、顎のラインはシャープでとんでもなく小顔だ。

(えっ、すんごいイケメンじゃん……マジで芸能人並みに格好いい)

 けれど、この整った顔に反して、ついさっきまで寝ていたベッドの上には惨状が広がっていた。ぐしゃぐしゃになった掛け布団。枕元ではイヤホンと充電器のコードが絡まり合い、スマホの通知音が絶え間なく鳴り響いている。足元に視線をやれば、脱ぎ散らかされた派手な色合いの服が山のように積み上がっていた。

「ここ、どこだ……?」

 ドラマか映画の世界でしかまず出てこないであろうそんな台詞を、自分が言う日が来るとは思ってもみなかった。この部屋の景色に、全く見覚えはない。
 恐る恐る、もう一度鏡を覗き込む。整いすぎているせいなのか、自分の顔だという実感はまるでなかった。俺って、こんな顔だったっけ……?

(みなと)、早く起きなさい! 朝ご飯とっくに出来てるわよ」
「へぁっ? はっ、はーい!」

 突然ドアを強めにノックされて、声が裏返りそうになる。咄嗟に返事をしたものの、『ミナト』が本当に自分の名前なのかも確信が持てない。どうして自分の顔も、名前も思い出せないんだろう。そんなのあり得ないし、きっと悪い夢でも見ているんじゃないか。
 パタパタと階段を下りていく(たぶん俺の母親の)足音に耳を澄ませ、思いっきり自分の右頬をつねった。普通に痛い。それはつまり。

「……夢じゃない」

 どうしよう。これ、結構まずいんじゃなかろうか。朝起きたら何故か記憶喪失になっていて、何一つ思い出せないなんて言ったら……きっと大騒ぎになって、病院に連れて行かれるに違いない。頭の中では、すでに仰向けになってCTを撮られる場面が浮かんでいる。頭に電極をたくさん付けられて、脳波を調べられる未来まで想像すると、だんだん自分が置かれている状況が本気で怖くなってきた。

(いやいや、ストップ! 一旦落ち着こう。一時的なものかもしれないし)

 ドアフックに掛けられた、白色のブレザーに水色のワイシャツ。これが、俺の通っている学校の制服なんだろう。
 あまりにも非現実的な状況に陥ると、人間は思考停止して動けなくなるらしい。早く着替えて下に降りなきゃいけない――そう頭では理解しているのだけれど、一向に身体が動かない。ベッドの上で武士のように正座し、膝の上で拳をつくったまま目を閉じてみるけれど……うん、やっぱり何も思い出せない。ゆっくりと息を吸い込んで、ふぅ、と長く吐き出す。
 すると、放置していたスマホが再び嵐のように通知音を鳴らし始めた。画面には『爆笑人生☆珍道中』という何ともテンションの高そうなグループチャット名が表示されていて、通知の数字がものすごい勢いで増えている。

『潤:湊が息してないっぽい。早く起きろよ』
『帆高:一時間目、学年集会だけど大丈夫そ?』

 全く見覚えのない二つの名前とアイコンに目を凝らしていると、『既読無視すんなよ』と総ツッコミが入った。自分の顔も名前も覚えていない俺にしてみれば、全く知らない人たちからのメッセージだ。でも、内容から察するに親しい友人達なのかもしれない。
 自分のプロフィール画面を確認してみると、アイコンはゲームのキャラクターらしきイラストに設定されていた。ヘッダーには、お洒落なスリーブつきの飲み物を手に、色違いのスニーカーを履いた足が二人分並び合っている。
 ユーザー名には「鈴木湊(すずきみなと)」と表示されていた。さっき母さんもそう呼んでいたし、自分の名前に違いないのだろうけれど……正直、他人のスマホを勝手に覗いているような気分だ。

『帆高:湊は寝坊でママと車で登校、に五百円賭ける』
『潤:それ俺も乗った。鶴海(つるみ)は今どこらへん?』

 一応、ここは無難にスタンプだけでも返すべきなんだろうか。
 うんうん唸りながら上体を左右に傾けて悩んでいると、さらに新しいメッセージが投下された。

鶴海航平(つるみこうへい):バス待ちしてる。てか、今日の放課後マック行きてーな』

 鶴海航平くん? 俺は君のことを何も覚えてないから、言える筋合いはないかもしれないけれど、さすがに朝からマックの話題は重いんじゃないかな。

(……って、違う違う! こんなこと考えてる場合じゃないっ)

 自分の置かれた状況すら整理ができていないのに、放課後に遊ぶなんてまず無理だろう。とりあえず、履歴から選んだ『おはよう』とサムズアップしているユルいウサギのスタンプを送信した。たかが返信一つに、こんなに緊張するなんて。
 そっとスマホの画面をオフにして、もう一度部屋の中を見渡した。学習机も、棚に飾られた写真も、壁に貼られたゲームのポスターも何一つ、記憶と結びつくものはない。ここが自分の部屋だという確信は、さっきと変わらず持てないままだ。

「おい、兄貴」

 ノックなしに開いた扉の向こうには、俺の顔にそっくりな男子が立っていた。同じくさらつやの黒髪に、左目の下には泣きボクロ。ぶっきらぼうな雰囲気には似合わないチャームポイントだ。
 兄貴、と呼ばれたものの、自分がこの子の兄だということも覚えていない。

「な、なに……?」
「オレ、もう先に出るからな。母さんがブチギレる前に学校行けよ」
「あ、うん……分かった、今から急いで準備する」

 へらっと愛想笑いを貼り付けた俺に向かって、学ラン姿の弟(たぶん)は『なにその顔。キモっ』と毒を吐くと、乱暴にドアを閉めてドスドスと足音を立てながら階段を下りていった。すごい、まさに絵に描いたような思春期全開って感じだ。

 その後を追うように、俺は制服に腕を通して一階へ降りた。記憶にない家の中を歩くというのは、なんだか他所の家に侵入している気分だ。悪いことをしているわけじゃないのに、自然と忍び足になる。階段を曲がった先には、キッチンに立つ女性の後ろ姿が見えた。

「お、おはよう」
「やっと起きたわね……って、ちょっと。なんなのよ、そのネクタイ」

 母さん(たぶん)は食洗機に洗い物を並べている真っ最中だったが、俺の姿を見るなり、「もう入学して半年も経つのに」と眉間に深い皺を寄せてネクタイを整えてくれた。さっき、スマホで慌てて『ネクタイの結び方 超分かりやすい』と検索した動画を見よう見まねでやってみたのだけれど、合格点には届かなかったようだ。
 終わりの合図のように強めに肩を叩かれ、俺は目を逸らしたまま小声でお礼を言った。

「遅刻ギリギリだから、出勤前に校門まで車で送って行くわね。さっさとご飯食べちゃいなさい」
「う、うん」
「なによ。普段は『おっけ、助かるしかない』とか何とか言うくせに」

 給湯器のスイッチを押し、鏡の前で口紅を塗り終えた母さんは、スーツのジャケットと鞄、それから車のキーを手に玄関に向かった。うん、どう考えても出勤前で忙しそうだし、話しかけていいタイミングではなさそうだ。俺、記憶喪失になっちゃったみたいで……なんて打ち明けても、バッサリと一蹴されるのが目に見える。
 ヒールに踵を収め、腕時計を巻く母さんの横顔。白いパンツスーツがすごく似合っていて、いかにもバリキャリっぽい。目元は俺と判で押したようにそっくりで、その遺伝子を間違いなく受け継いでいることが一目で分かる。間違いなく、この人が俺の母親なんだよな……とは思うものの、幼い頃の思い出はおろか、昨日の何気ない記憶すら浮かんでこない。

「今日はパパも遅番だから。鍋のカレーを温めて、(こう)と一緒に食べるのよ」
「は、はい」
「珍しく素直に返事なんかしちゃって。今日は雪が降るんじゃないかしら」

 (こう)っていうのが、どうやらさっき部屋に突撃してきた弟の名前らしい。それにしても、普段の俺はどれだけ(ひね)くれているんだろう。ただ普通に返事をしただけで、こんな言われようって。もしかして普段はかなり態度が悪かったんだろうか。
 そもそもの喋り方が今とは違うらしいと知って、ますます俺は「いつも通りの自分」を見失っていくのだった。

 ***

 急坂を上るにつれて、窓の外の景色がゆっくりと変わっていく。山あいを縫うように伸びる道の先に、白い校舎が見えてきた。校門には、達筆な字で『県立汐見台(しおみだい)高等学校』とある。何度も見たことのあるはずのその文字を、俺はじっ、と見つめた。
 車が住宅街を見下ろせる高台に差しかかった瞬間、少しだけ開いた窓の隙間から、ふわりと潮の匂いが入り込んでくる。住宅街の向こうには、朝の光をキラキラと反射する海が広がっていた。

「あら、今日は教頭先生たちが旗当番(はたとうばん)なのね」

 校門の周りには、『秋の交通安全運動』と書かれた旗を持ち、同じ色の腕章を付けた先生たちの姿がある。その間を通り抜けていく生徒たちの姿を車の中からぼんやり見つめていると、母さんがハンドルに手を置いたまま重い溜め息をついた。

「あぁ、なるほど。今日であれから半年も経つのね」
「半年って、なにが?」
「だって、今は十月でしょう? あっという間よね。親御さんの気持ちを考えると、本当に気の毒で言葉にならないわ……」

 一体、誰が可哀想なんだろう。気になって言葉の続きを待っていると、母さんは「なに、ぼーっとしてるのよ」とムッとした顔で振り返る。慌ててシートベルトを外し、後部座席のドアを開けた。

「いってきます」
「帰り道、気を付けるのよ。あの交差点がある道路は通らないこと」
「えっ、なんで?」
「危ないからに決まってるでしょう。家に着いたら、ちゃんと連絡しなさい」
「は、はーい……」

 険しい表情で念を押され、母さんの車を見送ってから校門を抜ける。高校生だというのに、ちょっと過保護すぎるんじゃなかろうか。とりあえず、今日は授業だけ受けて乗り切ろう。普段と同じように過ごせば、何か思い出すことがあるかもしれない。
 そう気持ちを切り替えて歩き出した途端、すれ違いざまに何人かの女子から声を掛けられた。

「湊くん、おはよーっ」
「今日も登校してくれてありがとう、マジでうちらの心のオアシスだよ!」

 オアシスってどういうことだ? ちょっと意味が分からないまま、ぎこちない「おはよう」を返す俺に、女子たちは「神ファンサじゃん」と高い声で笑い、口元を手で隠しながら走り去って行った。うーん、普段はもっと素っ気ないんだろうか。このままじゃ振る舞いで周りに怪しまれるかもしれない……と顎に片手を添えていると、背後からぐっと右肩を掴まれた。

「はよ、湊」
「……お、おはよ……?」

 やたらと顔の良い美形が、人懐っこい笑みを浮かべながら「また寝坊かよ」と額を軽く小突いてくる。がっしりとした広い肩の向こうには、朝日がキラッキラに輝いて見えた。

「どうせまた、昨日も夜中までゲームしてたんだろ」
「あ、うん……まぁ、大体そんな感じ」
「お前が一限から三限まで爆睡してる未来がもう見えるわ」
「……顔に出てる?」
「隠す気ゼロだろ。目の下にクマできてるぞ」

 さらりとした黒髪に、意志の強そうな眉。切れ長の瞳は凛々しく、どこからどう見ても、百人が百人「整ってる」と言う顔立ちをしていた。爽やか系イケメン、って言ったらいいんだろうか。身長は、俺が見上げなきゃいけないほど高い。一七〇台後半……いや、おそらく一八〇を超えている。ワイシャツの袖口を腕まくりして、ネクタイを緩く結んだスポーツマンっぽい制服の着こなし。口を大きく開いて笑う姿は、快活そうな好青年って感じだ。
 突如として現れた謎のイケメンは、不思議そうに首を傾げながら俺の顔をじっと見つめた。

「え、なにキョドってんの。挙動不審すぎるだろ」
「いや、そんなことないって」

 普段の俺がどんな人間だったのかは分からないけれど、この訝しがりようからすると、たぶん、普段の俺はもっとダウナーで冷たいタイプなのかもしれない。弟に指摘された通り、言葉遣いも悪いんだろう。あくまで予想だけど。

「てか、ピアス付けて来てないじゃん。なんで?」
「あー、えっと……寝坊して時間が無かったから。今日はいいやと思って」

 言われてみれば、確かにシルバーのピアスがトレーの上に置かれていた。そっか、あれは俺の持ち物だったのか。
 でも、付け方が分かんないんだよな。刺す時って、痛くないんだろうか。

「ってか、お前さっきから挙動不審すぎ。マジでどうしたんだよ」
「いつも通り、だよ」
「どこがだよ、耳赤くなってるし」
「そ、それは、朝寒かったから……」
「いや……今日割と暑くね?」

 爽やかイケメンは俺の受け答えを怪しむように、形のよい眉を寄せた。思わずドキリとしてしまう。お願い、これ以上怪しまないで。お願いします! と、心の中で俺は両手をぴったりと合わせて、拝むように祈り続けた。
 「ふーん」と不服そうな返事に続いて、右の耳朶をそっと指先で撫でられる。イケメンはちょっと残念そうな、それでいてジトッとした不満げな目つきで俺を見下ろした。

「せっかく、俺が選んだんだから。ちゃんと付けて来いよ」

 こっちを向け、と言わんばかりに右腕を引かれた。彼は頭を俺の方に傾けて、さらりと目に掛かった髪を指先で軽く掻き分ける。なんか、距離が近すぎる気がするんですけど。パーソナルスペースが狭いタイプなんだろうか。……そもそも、このイケメンと俺は一体どういう関係なんだ?
 ちらりと横顔を見ると、彼は不貞腐れた顔でボソッと呟いた。

「そもそも、お前が言い出したんだろ」
「えっ、何のこと?」
「調子こいて『俺の顔面偏差値なら、何開けても似合うっしょ』とか言ってたじゃん。俺のセンスが好きって口説いて、買い物に付き合わせたくせに」
「く、口説いた!?」
「バーカ、冗談だろ。明日は付けてくんの忘れんなよ」

 声が大きいせいなのか、それとも俺たちが目立ちすぎるのか。周りの生徒たちがチラチラとこっちを見てくるのが地味に気になる。
 今朝見た自分の顔も(自分で言うのはなんだが)かなり整っていると思ったけれど、目の前の彼はそれよりも魅力的な美形だ。類は友を呼ぶ、ってやつなのかもしれない。

「なあ、聞いてんの?」
「え、あ、聞いてる聞いてる」
「絶対聞いてなかったろ」
「聞いてたって!」
「じゃあ今なんて言ったか言ってみ」
「え、えっと……」
「ほら見ろ、聞いてねーじゃん」

 軽すぎる「ごめん」を繰り返す俺と、怪訝そうな顔をした彼を両側から挟み撃ちにするようにして、これまたどえらい男前二人組が手を振りながら近づいてきた。

「おせーよお前ら。秋休み明けからギリ登校はナメすぎ」
「うるせぇよ、帆高。お前は自分の寝癖の心配してろ」
「鶴海くーん、これは寝癖じゃなくてヘアセットな。この頭に美容院代いくらかけてると思ってんの」
「知らねーよ、そんなん自己満だろ」
「自己満で悪いか。イケメンは常に美意識高くいなきゃいけねーんだよ」
「はいはい、自分でイケメンとか言うな恥ずかしい」
「事実だから仕方ねぇじゃん。なあ潤、俺イケメンだよな?」
「知らん。鏡にでも聞け」
「潤、塩対応すぎん?」

 鶴海(つるみ)、と呼ばれたのが、さっきから俺の隣をキープしているこのイケメンの名前らしい。ということは、今朝「マックに行こうぜ」なんてメッセージを送って寄越した『鶴海航平』は、今まさに目の前にいるこの人物ということか。
 顔と名前が一致し、俺は心の中で「なるほど」と大きく頷いた。これが、俺の友達……。

「てか、古典の宿題、余裕でやってない。潤、ヘルプミー」
「はぁ? 昨日も見せたじゃん。お前のツラの皮、どんだけ厚いんだよ」
「春巻きの皮よりは厚い」
「分かりにくいでしかない」

 ぐだぐだと横並びに四人で歩き、俺と鶴海くん(とりあえずの呼び名だ)の両側を歩く彼らの名前は、会話から察するに「帆高」と「潤」というらしい。つまり、今朝の爆速グループチャットの面々が、全員集合しているということだ。

「てか、集会行く前に自販機寄りたい」
「うわ、だる……何でさっきコンビニに寄った時に買っておかねえんだよ」
「買おうと思ったけど売ってなかったんだって。コンビニのくせに」
「あそこで売ってる飯に生かしてもらってる身体で言う台詞ではないだろ」
「湊~。潤が俺のこといじめる。ひどくない?」
「あ……えっと、それはひどい。ひどすぎる」
「棒読みすぎて草」

 俺の左隣でケラケラと笑っているのが帆高くん。ベビーピンクの髪がこれ以上ないくらい似合っている。そして、鶴海くんの隣で冷静にツッコミを入れている黒髪のウルフヘアが潤くんだ。見た目も内面も正反対に見えるけれど、終始ふたりの会話は弾んでいる。
 昇降口にたどり着くと、皆は一斉に下駄箱から自分の上靴を取り出して、すのこの上にドサリと落とした。ブレザーについていたクラス分けバッジのおかげで自分が一年四組であることは分かっていたのだけれど、名前の表示がない下駄箱はまさかの大ピンチだ。悟られないように相槌を打ちながらキョロキョロしていると、鶴海くんがさっと手を伸ばして足元に上靴を揃えてくれた。

「姫、お待たせしました。ガラスの靴でございます」
「ひ、ひめ……?」
「なんでそこ律儀に照れてんの」

 ふ、と屈み込んだ体勢で顔を見上げられる。イケメンはこんな角度から見下ろしても破壊力抜群なんだな、とぱちぱちと瞬きを繰り返していると、バシッと後ろから思い切り背中を叩かれた。

「ラブラブかて。つーか、今日のお前、なんか大人しくね? いつもだったら『鶴海の王子様気取りキモっ』とか秒で返してくるのに」
「俺、そんなひどいこと言ってた?」
「うーわ、とぼけてやがる。特に鶴海には辛辣だろ」

 この顔面で何でも許されやがって、と帆高くんが頬を人差し指でむぎゅっと押してくる。もたもたと上靴を履いていると、廊下のスピーカーから予鈴が鳴った。その隣にある時計は、八時三十分を指している。

「やべぇ、急ごうぜ! 湊の遅刻カードが三枚目に突入したら、マック行けなくなるじゃん」
「それは普通に無理。ほら、教室まで走るぞ」
「朝から走んのダルいわ~」
「文句言ってないで、さっさと足動かせよ」

 鶴海くんと帆高くんが言い合っていると、廊下の奥から先生たちが出席簿を手にこっちへ向かってくる。鶴海くんに「早く」と手首を掴まれ、俺は引きずられるようにして教室に向かった。

 ***

 その後も、このメンバーと一日を過ごしたのだけれど。
 昨日やっていたという歌番組に出て来たバンドの話も、内輪ネタ的な盛り上がり方も、何一つとして楽しんで話題に加わることは出来なかった。
 数学の授業で指名されて解を答えると、先生に「今日はどうしたんだ、鈴木」なんて驚かれるし。体育の授業では、ボールをキャッチしようとしたら、頭に直撃して鶴海くんたちに大爆笑された。帆高くんはお腹を抱えるほどツボに入ってしまい、先生に呼び出されてみっちり絞られて帰って来たほどだ。
 そして、放課後。俺たちは学校の最寄駅にあるマックに来ていた。

「湊、お前は席とっておいて。俺が注文しとくから」
「あぁ、うん。分かった」
「いつものでいいんだろ?」

 普段、何を頼んでいたかも覚えていないけれど、俺は赤べこのように頷いた。落ち着けそうな一番角っこにある四人掛けの席を確保し、ちらりと三人の方を見る。メニュー表とスマホを交互に覗き込んで、どれを頼むかで盛り上がっているようだ。

(これが、今まで過ごしてきた俺の日常なんだよな……)

 店内をぐるりと見渡しても、やっぱり初めて来たお店にしか思えない。
なんで急に記憶がなくなったのかは分からないけれど、原因不明でも病院に行けば、元通りに戻るものなんだろうか。明日、明後日になってもずっとこんな状態が続くようじゃ、流石に両親に言わなければならない。それに、友達であるあの三人にも。

「お待たせ。ナゲット、十五ピースの方が安くなってたからそっちにしといたからな」
「ありがとう。あれっ、あの二人は?」

 ほらよ、と投げて寄越されたマスタードの入れ物を受け取ると、鶴海くんは「ん?」という表情で片眉を上げた。そして、深い溜め息をついて隣にどかっと腰を下ろし、呆れ顔でカウンターの方をしゃくる。

「あそこでハッピーセットのおもちゃを選んでる。ガキすぎて共感性羞恥だわ」
「あははっ、ウケる。今回は何が貰えるの?」
「超小せぇ水鉄砲。公園でやりたいらしい」
「え、絶対風邪引くじゃん」
「帆高はバカだから大丈夫だろ。一応、ハンカチくらいならあるけど」
「ちゃんと貸してあげるの前提なところが、優しいね」

 今日一日見ていた限りでも、時間さえあれば何かしらお馬鹿なことをやりたがる帆高くんと、クールに見えてそれに悪ノリする潤くん。その二人にツッコミをいれる鶴海くんはなんだか保護者というか、このグループのお世話係みたいだ。
 鶴海くんは頬杖をついたまま、スマホの画面から顔を上げて言った。

「お前も含めて、世話が焼けるからな」
「えっ」

 漫画で言うなら、自分の頭に星が飛んできてコツンと当たったような気持ちだった。ぽかんとする俺をよそに、目の前に置いたマスタードとバーベキューのソースを入れ替えながら、鶴海くんはトレーに置かれた『クルー募集中』と書かれた紙に視線を落としている。その次にかけられたのは、意外な言葉だった。

「なぁ。今日、マジでどうした?」
「何が?」
「いつもならマスタード渡すと『こんなん辛くて食えねーよ、最悪』って言うじゃん。帆高の言う通り、大人し過ぎて怖ぇんだけど」
「それは……その、たまには味変もいいかなーなんて」
「お前が味変とか言うタマかよ。それに、一日中生返事ばっかりだし、体育の時も危なく怪我するところだったろうが」
「あの時は、ちょっと油断してただけで」

 射抜くような切れ長の瞳で見つめられて、「だから」と「その」を繰り返す。どうしよう、めっちゃ怪しまれている。というか、ただの友達なのにそこまで気付くものだろうか。
 マスタードのくだりもただの悪戯じゃなくて、鎌を掛けていたのかもしれない。記憶喪失だとバレたわけではなさそうだけど、違和感を抱かれている。俺の演技が下手過ぎるせいなのか、鶴海くんの勘が良すぎるのか。多分どっちもだけれど、どう振舞ったら良いのか分からない。
 断れなさから遊びに付いてきたことを、俺は今頃になって猛烈に後悔し始めていた。

「湊」
「ん? えっ、なっ、何するの」
「ちょっと、じっとしてろって」

 目が合って思わず身構えた俺に、鶴海くんは手を伸ばして額にそっと手のひらをあてがった。視界を塞ぐ大きなその掌は、俺の体温より低くて気持ちいい。

「……熱はねぇな。お前がこんな大人しいなんて、体調不良くらいしかねぇと思ったんだけど」
「大丈夫、なんでもない。ただちょっと疲れてるだけ」

 店内に流れる有線のアップテンポなBGMが、俺と鶴海くんの間に流れる沈黙を埋めていた。漂ってくるポテトの匂い。カップに入ったコーラには、外側に水滴がいくつも浮いて伝い落ち、トレーを濡らしている。

「お前はキャパを超えて、オーバーヒートするまで無理するから」
「そんなことないって。ほら、食べよう」
「だから、そうやってはぐらかす所も含めて言ってんだよ」
「はぐらかしてない」
「今、目逸らしたじゃん」

 さっきより苛立った声で問い詰められて、心の中で「ひぇっ」と小さな悲鳴をあげた。美形は怒っても美形だし、なんなら顔面に迫力があるから怖さマシマシだ。肩を竦めて俯き、唇にきゅっと力を込めて閉じる。

「じゃーん、見てみて。メガ盛りポテト……って、なにこの空気。なんか修羅場ってる?」
「別に何でもねーよ」
「ならいいけど。ほら、四人でインスタ用に自撮りしようぜ」

 そう言って、帆高くんは俺と鶴海くんの間に山盛りのポテトがのったトレーをドンと置いてみせた。うわ、すごい量だ。いくら食べ盛りの男が四人いるといっても、本当に食べ切れるんだろうか。

「帆高がいきなり『ハッピーセット二つ欲しい』とか言い出したせいで、俺まで店員のお姉さんにハッピーセットのオモチャ欲しがり仲間だと思われた。ガチでしんどい」
「しょうがないだろ、心が『欲しい』って叫んだんだから」

 わぁわぁと言い合う二人に、鶴海くんは呆れ顔でびしっと帆高くんを指差して言い切った。

「高校生がハッピーセットのおもちゃごときに、心躍らせてんじゃねぇよ」
「はぁ~? 航平だって、俺のこと言えねーだろ。昨日、湊とガチャで二千円溶かしたくせに」
「溶かしてない。あれは立派な投資」
「どこがだよ。おい湊、早くこっち向けって」

 帆高くんが俺の隣にぐっと近づいて、インカメにしたスマホを向けてくる。皆が顔の横で一様に同じポーズをしていて、ただひとりピースをしていた俺は、思わず横へ振り向いて尋ねた。

「その指、どうやってんの?」
「は? どんなボケだよ、ただの指ハートだろ」
「いや、湊って普段指ハートしないから分かってないんじゃね」
「あはは。いきなり『おじいちゃんピース』してくるから、ビビったわ」

 ただのピースのつもりだけれど、時代遅れってことだろうか。鶴海くんが「こうだろ」と親指と人差し指を交差して見せてくれた。おぉ、なるほど。ちゃんとハートの形だ。
 身体をすぐ傍まで寄せた鶴海くんの首筋のあたりから、香水らしき香りが漂ってきた。イケメンは、匂いまでぬかりないらしい。ほへ~いい匂いだなぁなんて思わず顔を緩ませながら、感心していると、帆高くんが再びスマホを構え直した。

「んじゃ、撮るよ~」

 ピコン、というシャッター音のあと、すぐに「インスタ載せまーす」「うい」なんてやりとりをして、皆がストローを咥えながらスマホをいじりはじめた。指の動きが速すぎて、思わず食い入るように見つめる。

「てかさー、このあとカラオケ行く? って話してたんだけど。航平と湊も来る?」
「公園で水遊びじゃねぇの?」
「それな。一瞬迷ったけど、クーポンが今日までだからさぁ」

 潤くんがスマホの画面を見せてくる。そこには学割で室料が三十パーセントオフ、と書かれていた。
 普段聞いてた曲も分からないのに、歌うのなんて絶対無理だ。うまいこと、断る理由を考えないと。
 鶴海くんはこっちを一瞥して照り焼きバーガーにかぶりつくと、左手で俺の髪をぐしゃぐしゃと撫で回しながら言った。

「俺と湊はガチャまわして帰るから、パス」
「えー、また二人でガチャすんの? どんだけ好きなん」
「俺も普通にシークレット欲しいし。だから今日は、食ったら解散で」
「そうですか。どうぞごゆっくり~」
「なんだよ、その含みのある言い方」
「いや別に~? 仲良いなーって思っただけ」

 帆高くんと潤くんがニマニマと笑うと、鶴海くんの手が離れていく。話題は今日の体育の俺のスーパープレー(?)に変わり、そこから帆高くんが受けたという説教、そして先生たちへの愚痴大会になっていた。お喋りに夢中になっているうちに、あっという間に山盛りだったポテトが減っていく。

「もう六時じゃん。そろそろ出る?」
「おん。じゃあ、湊、鶴海。また明日な」

 二人に手を振り、俺はガチャガチャの場所も知らないくせに、まるで知っているような顔で鶴海くんの隣を歩いた。ショッピングモールの二階に上がると、一台のガチャガチャの前で鶴海くんが立ち止まる。ポケットに両手を突っ込んで、横から覗き込むように残りのカプセルの数を確認し始めた。たかがガチャガチャごときに、何をそんなに必死になっているんだろう。

「あ、ラスト二個だわ。やっぱこれ人気なんだな」
「全部回すの?」
「当たり前じゃん。残り物には福があるっていうし」

 ラインナップに描かれているキャラクターは、俺のアイコンと同じだ。もしかすると、俺たちはこのゲームが好きで、一緒にやったことがあるんだろうか。
 鶴海くんはなんてことのないような顔で、百円玉を四枚入れている。

「さっきから挙動不審すぎ。誤魔化すの下手くそかよ」
「……またその話? 本当になんともないから」
「無理すんなって、なんか悩みとかあるなら言えよ。何年お前の幼馴染やってると思ってんの」
「実際、何年だっけ」
「んー、幼稚園の年少から数えて、十三年くらいか?」
「そんなに……」
「そんなにってお前、自分で数えられねーのかよ」
「い、いや、ちゃんと分かってるって。ただ改めて言われると、長いなって」
「今更だな」

 時計回りにハンドルを回すと、ガゴンと鈍い音がする。コロコロと転がって出て来た青いカプセルを手に取り、鶴海くんは「あ、ダブった」と眉を寄せた。カプセルの蓋を回して、中から羊のキーホルダーを取り出す。

「まぁ、仕方がねぇな。こればっかりは自分じゃ選べない運命だし」

 俺たちの付き合いが昔からのものだと知ると、ちょっと距離が近い感じとか、あのグループの中で鶴海くんが俺にだけやたら優しい理由にも納得がいく。
 でも、どうして俺は、そんな大切な親友との記憶を思い出せないんだろう。

「……多分、言っても信じられないと思うよ」
「なにそれ、信じるに決まってんだろ。お前が普段、どんだけ適当人間だったとしてもな」
「それは流石に言いすぎ」
「事実だろうが」
「うーん……話したところで、鶴海にどうにか出来る問題じゃないっていうか」
「何だよその言い方、俺は頼りになんねぇってこと?」
「そういうわけじゃ、なくて」
「じゃあどういうわけだよ」
「うまく、説明できないだけで」
「説明できないなら、できるとこまででいいから話せよ」

 返事に詰まると、鶴海くんは苛立った様子で顔を覗き込んできた。その表情から、本気で俺のことを心配しているのが伝わってくる。
 言ったところで、絶対に鶴海くんにどうにか出来ることじゃない。そう分かっているはずなのに、気付けば俺は呟くように自分の身に起きた事実を伝えていた。誰かに打ち明けて、不安を拭いたかったのかもしれない。

「朝から、何も思い出せないんだよね」

 口元に作り笑いを貼り付けながら、なんでもないことのように言ってみせたけれど……本当は怖くて仕方がない。半日経っても、なんの記憶も甦ってこないのだから。

「どういうことだよ、もっと詳しく話せって」

 まさかそんなことを言われるとは夢にも思っていなかったであろう鶴海くんは、本気で訳が分からない、という顔をしていた。そりゃあ、そうだろう。いきなりそんなことを言われて、すんなり受け止められる人間なんて、きっとお医者さんくらいなものだ。

「ははっ、冗談だって。鶴海がどんな反応するか、からかいたくなっただけ」
「なんだよそれ。無駄に心配させんなよ」
「ご、ごめんって」
「謝るくらいなら最初っから変なこと言うな」
「悪気はなかったんだって」
「悪気があろうがなかろうが、俺はガチで心配したんだからな」

 鶴海くんは盛大にため息をつきながら財布を取り出すと、もう一度ガチャガチャを回した。今度はシルバーのカプセルが出てきて、ふたりで「むむっ?」と顔を見合わせて覗き込む。パカッと開くと、そこにはデフォルメされたゆるいウーパールーパーのキーホルダーが収まっていた。そのボディは透き通っていて、小さなラメが輝いている。

「うぉっ、出た! これって絶対シークレットじゃん」
「やばい。凄すぎて鳥肌立ってるんだけど」

 俺が興奮気味に鶴海くんの腕を掴むと、「ふ」と目尻を下げて笑われる。それは鶴海くんと今日一日を過ごす中で、何度も向けられた表情だった。

「湊にやる。大事にしろよ」
「えっ、でも。せっかく当たったのに」
「お前が欲しがってたから。腐れ縁の特別サービス」
「……本当にいいの?」
「文句あんなら返せよ」
「い、いや! もらいます。ありがとう」
「珍しく素直じゃん」

 ふたつのカプセルを両手に持ったまま、通学鞄を担いで振り返る鶴海くんの顔にどきりとする。帰りの電車の時間をスマホで調べているその背中を、じっと見つめた。なんとなくさっきから、バレるんじゃないかという緊張感とはまた違う妙な落ち着かなさを感じているのは、どうしてだろう。

「お目当てのモノもゲット出来たし、そろそろ帰ろうぜ」
「う、うん。待って」

 明日もこのままだったらどうしよう、なんて漠然とした不安は、朝と変わらず拭えないままだ。今日一日、学校に行くことで何か思い出せるんじゃないかと思ったけれど、ヒントになりそうな手がかりは収穫出来ていない。

「あ、帆高から写真届いてる。エアドロでいい?」
「ん、さっきのやつ?」
「枚数バカほどあるわ。湊、Bluetoothの電源入れて」

 スマホを傾けられて、『鶴海航平が一枚の写真を共有しようとしています』という通知の画面に、辞退と受け入れの二択を迫られる。迷わず「受け入れる」を押すと、さっき四人で撮った写真が表示された。
 みんなで肩を寄せ合って楽しそうに笑っているけれど、俺からしてみれば今日出会ったばかりの男子たちの集合写真だ。ぎこちなく笑って指ハートしているのが、自分だということも、正直まだすとんと腑に落ちたわけではない。

「電車、あと十五分で来るから。それに乗ろうぜ」
「……うん」

 そのあとは鶴海くんが「どうせ帰り道の途中だし」と言って、家まで送り届けてくれた。正直、鶴海くんが家まで付き添ってくれて本当に良かった。もし一人で帰るとしたら、アプリに設定されていた住所を頼りに、不安な気持ちで歩いて帰るしかないと思っていたから。

「じゃあ、俺はここで。……おばさんは仕事か?」
「うん。遅くなるって言ってた」
「なんかあれば電話しろよ」
「なんかって?」
「ダルい。なんかは、『何か』だろ」

 ぱたん、と玄関のドアが閉まると、しばしその場に立ち尽くした。朝よりは、うまいこと「俺」を演じられるようになった気がする……けれど。自分の家なのにホッと出来ないのは、ちょっとしんどい。
 重い足取りで部屋へ戻り、ブレザーと通学鞄を椅子にかけた。 棚の上には、ファッション雑誌やゲームの攻略本と並んで、フレームに入れられた一枚の写真が飾られている。コサージュを胸ポケットに差して、学ラン姿でピースをする俺と鶴海くんだ。
 背景の黒板には『祝・汐中(しおちゅう)卒業 二〇二六年三月九日』と書かれている。その写真を手に取り、小さく「鶴海くん」と名前を呼んでみるけれど、その当時の思い出も、この瞬間にどんな話をしていたのかも思い出せない。

「ただいまー。兄貴、今日は俺が先に風呂入ってもいい?」

 階下から弟の声が聞こえてきて、俺はそっと写真を元の位置へ戻した。