雨の日は、嫌いじゃない。
正確に言えば、雨の音が好きだった。
人の話し声も、車の走る音も、街のざわめきも、全部まとめて少しだけ遠くしてくれる。
六月の京都は、朝から細い雨が降り続いていた。
放課後になっても空は灰色のままで、濡れた道路には店の明かりや信号の色がぼんやりと滲んでいる。
雨宮祈は紺色の傘を差しながら、一人で学校からの帰り道を歩いていた。
白いシャツに濃紺のプリーツスカート。
肩から下げた通学鞄が、歩くたびに腰へ軽く当たる。
黒いセミロングの髪は湿気を含み、頬に何本か張りついていた。
「……まだ降るのかな」
誰に言うでもなく呟く。
祈は空を見上げた。
傘の向こうに広がっているのは、重たい雲だけだった。
今日のうちに止みそうな気配はない。
商店街には学校帰りの学生や、傘を差した観光客が行き交っている。
いつもの京都。
いつもの帰り道。
そのはずだった。
祈は歩きながら、何となく道路の反対側へ視線を向ける。
バス停。
ベンチには老夫婦が座っている。
その横。
誰も座っていないはずのスペースに、小さな男の子がいた。
黄色い帽子。
半袖のシャツ。
膝に両手を置き、じっと道路を眺めている。
こんな雨なのに、その子だけ傘を持っていない。
服も髪も濡れていなかった。
祈はすぐに視線を逸らした。
見ない。
気づかない。
関わらない。
昔から決めている。
それが自分が普通に生きていくための方法だった。
祈には、人には見えないものが見える。
それに気づいたのが何歳の頃だったのか、もう覚えていない。
幼稚園の頃だった気もするし、もっと前だったような気もする。
電柱の陰にずっと立っている男。
夜中、誰もいない道路の真ん中でしゃがみ込んでいる女。
閉店した店のガラス越しに、こちらを見ている子供。
幼い頃は、みんなにも見えていると思っていた。
だから母に何度も言った。
『あそこに女の人いるよ』
『あの子、なんでずっとこっち見てるの?』
そのたびに母は、少し困ったように笑った。
そして必ず同じことを言った。
『祈』
『見なくていいものは、見ないふりをしなさい』
幼い祈には、その意味が分からなかった。
でも今なら分かる。
母は知っていた。
祈に何が見えているのかを。
その母は、もういない。
祈は小さく息を吐く。
余計なことを考えるのをやめた。
家に帰ったら課題をして、夕飯を食べて、少し本を読む。
それでいい。
そういう普通の日でいい。
商店街を抜ける。
人通りが少しずつ減っていく。
その時だった。
祈は、ふと後ろに視線を感じた。
「……?」
振り返る。
数十メートル先。
何人かの歩行者に混じって、赤い傘が見えた。
女だった。
赤い傘を低く差しているせいで、顔までは見えない。
白っぽいワンピース。
細い足。
足元は――
祈は視線を止める。
裸足?
ほんの一瞬そう見えた。
けれど通行人が横切り、女の姿が隠れる。
「……気のせいか」
祈は再び前を向いた。
同じ方向へ帰る人なんて、いくらでもいる。
気にしすぎだ。
そう自分へ言い聞かせる。
一つ目の角を右へ曲がる。
古い家と小さな店が並ぶ通り。
雨粒が傘を細かく叩いている。
しばらく歩く。
祈はもう一度だけ、何気ないふりをして振り返った。
赤い傘。
「……」
いた。
さっきとほとんど同じ距離。
祈の胸に、小さな違和感が生まれる。
まあ、まだ偶然。
そう思うことにする。
祈は足を少し速めた。
次の角を曲がる。
普段の帰り道から外れた。
住宅街へ続く細い道。
観光客はまず来ない。
数分歩く。
雨音。
自分の靴音。
それだけ。
祈はそっと振り返った。
赤い傘。
いた。
今度は、はっきりと分かった。
祈の心臓が一度、大きく跳ねる。
「……何なの」
小さく呟く。
歩く。
また右。
さらに左。
わざと遠回りをする。
それでも。
いる。
赤い傘は、必ず後ろにいる。
祈は唇を噛んだ。
人間?
それとも――
そこまで考えて、すぐにやめる。
考えたくない。
祈は普段なら絶対に通らない細い路地へ入った。
古い町家の壁が左右に迫る。
二人並んで歩くのも難しいほど狭い。
傘の端が木の格子に触れた。
カサッ。
祈は傘を少し傾けながら奥へ進む。
数歩。
背後から音がした。
ぱしゃ。
水溜まりを踏んだ音。
祈の足が止まる。
音も止まった。
「……」
喉が乾く。
雨が降っているのに、口の中だけが異様に乾いている。
祈はまた歩き始めた。
ぱしゃ。
後ろ。
ぱしゃ。
祈が足を速める。
後ろの音も速くなる。
ぱしゃ。
ぱしゃ。
ぱしゃ。
間違いない。
ついてきている。
祈は前だけを見た。
振り返るな。
母の声が蘇る。
『見なくていいものは、見ないふりをしなさい』
そう。
いつもそうしてきた。
見えないふりをしていれば、向こうもこちらを気にしない。
ずっとそうだった。
今日だって。
きっと――
「……ねえ」
背後から女の声がした。
祈の肩が跳ねる。
足は止めない。
「ねえ」
さっきより近い。
祈はスマートフォンを取り出した。
誰でもいい。
友人でも、学校でも。
電話を――
「……圏外?」
画面を見て固まる。
さっきまで普通に電波は入っていた。
アンテナが一本も立っていない。
「ねえ……」
さらに近い。
耳のすぐ後ろで言われたように聞こえた。
祈は走り出した。
「っ……!」
ローファーが水を蹴る。
傘が風に煽られる。
通学鞄が大きく揺れた。
とにかく走る。
後ろを見ない。
角を曲がる。
また曲がる。
細い道。
階段。
古い塀。
気づけば祈は、自分でも知らない場所へ入り込んでいた。
「……どこ、ここ」
足を止める。
京都で生まれ育った。
少なくとも、この辺りの道なら大体分かる。
それなのに、見覚えがない。
古びた町家ばかりが並ぶ路地。
店もない。
看板もない。
家の中に明かりすらついていない。
人の声が消えている。
車の音もない。
聞こえるのは雨だけ。
世界から切り離されたような静けさ。
祈の背中を冷たいものが這う。
戻らないと。
そう思って前を見る。
行き止まり。
「嘘……」
祈は立ち尽くした。
逃げ道がない。
後ろから、
ぱしゃ。
祈の呼吸が止まる。
ぱしゃ。
来ている。
ぱしゃ。
祈はゆっくり振り返った。
数メートル先。
赤い傘。
女が立っていた。
顔はまだ傘の影に隠れている。

白いワンピース。
長い黒髪。
そしてやはり、
裸足だった。
足元には水溜まり。
でも。
女の足だけが濡れていない。
祈は動けなかった。
女が少しずつ顔を上げる。
見たくない。
見てはいけない。
そう思うのに、目が逸らせない。
傘の影から、白い顔が見える。
祈は息を呑んだ。
目がない。
鼻もない。
口もない。
顔であるはずの場所には、ただ白い皮膚が広がっていた。
「……っ」
声にならない。
女が首を傾げる。
口などないのに。
声がした。
「……やっと」
祈の指が震える。
「見つけた」
次の瞬間。
祈は走った。
女の横を抜けることなどできない。
だから行き止まりの直前にあった横道へ飛び込む。
先ほどは気づかなかったほど細い道。
「いや……!」
初めて声が漏れた。
助けて。
誰か。
祈は周囲を見る。
どの家も暗い。
扉は閉まっている。
その時。
路地の奥。
一軒だけ灯りが見えた。
古い町家。
軒先には小さな看板が掛かっている。
祈は文字を読む。
『宵月探偵事務所』
その下。
『失せ物・人探し・怪異相談承ります』
「怪異……?」
意味を考えている余裕などない。
背後。
ぱしゃ。
祈は町家へ駆け寄った。
格子戸を勢いよく開ける。
「すみません!」
声が裏返った。
中は外見以上に古かった。
木の床。
梁。
本棚に並ぶ古書。
壁には何枚もの札。
棚の上には鈴や木箱、それに古い日本人形まである。
探偵事務所というより、怪しい古道具屋だ。
そして部屋の奥。
机の前に一人の男が座っていた。
黒に近い着物。
羽織。
年齢は二十代後半くらいだろうか。
少し長めの黒髪。
右手首には黒い数珠。
男は湯呑みを持ったまま、祈を見る。
「……営業なら間に合ってるで」
「違います!」
祈は息を切らす。
「助けて……ください」
男の眉が少し上がる。
「助けて?」
「後ろに……女の人が」
「女?」
男が祈の背後を見る。
その瞬間。
表情が変わった。
さっきまでの気の抜けた雰囲気が消える。
目だけが鋭くなる。
「……ああ」
男はゆっくり湯呑みを置いた。
「えらいもん連れてきたな」
祈は反射的に後ろを振り返ろうとした。
「見んでええ」
「でも」
「今度はほんまに見たらあかん」
低い声だった。
冗談を許さない響き。
祈は動きを止める。
背後。
戸口の外。
女の声がした。
「返して」
祈の身体が固まる。
「返して」
男が立ち上がった。
「何をや」
女は答えない。
「返して」
今度は少し違う場所から聞こえた。
「返して」
また別の場所。
祈の顔から血の気が引く。
一人じゃない。
「返して」
「返して」
「返して」
町家の外を、何人もの女が囲んでいる。
そんな錯覚を覚えるほど声が増えていく。
男は机の引き出しから一枚の札を取り出した。
祈が見る。
墨で何かが書かれている。
男は札を指に挟む。
「雨宮祈」
「……え?」
祈が男を見る。
「どうして私の名前」
男は答えない。
札を戸口へ向かって投げた。
「――界」
札が宙で止まった。
祈の目が見開かれる。
淡い光が戸口いっぱいに広がる。
直後。
ドンッ!
何かが見えない壁へ激突した。
「っ!」
祈が身を竦める。
また振り返りそうになる。
男が祈の腕を掴んだ。
「見るな」
その時。
外の女が、
はっきり言った。
「……雨宮」
祈の動きが止まる。
今。
名字を呼ばれた。
祈は男を見る。
「なんで……」
男の顔からも笑みが消えている。
外では赤い傘が結界の向こうに立っている。
祈からは傘の端だけが見えた。
男はもう一枚札を持つ。
「帰り」
静かな声。
女は動かない。
「ここは、お前が入ってええ場所ちゃう」
長い沈黙。
やがて。
赤い傘が一歩下がる。
もう一歩。
そして雨の向こうへ消えていった。
同時に。
街の音が戻ってきた。
遠くを走る車。
誰かの話し声。
自転車のベル。
祈はその場へ座り込んだ。
「……なに、今の」
足に力が入らない。
男は祈を見下ろした。
「立てる?」
祈は小さく頷く。
男は棚からタオルを取ると、祈へ投げる。
「拭き」
「……ありがとうございます」
祈は受け取った。
冷たい頬を軽く拭く。
男はじっと祈を見ていた。
「……何ですか」
「いや」
少し考えるような顔。
「ほんまに雨宮なんやなと思って」
祈は眉を寄せる。
「さっきからそれ、何なんですか」
「鞄」
「え?」
「名前書いてある」
祈は自分の通学鞄を見る。
小さな名札。
『雨宮祈』
「……あ」
「まあ、それだけちゃうけど」
男がぼそりと言う。
「今、何て?」
「何も」
「言いましたよね」
「気のせいや」
祈は明らかに怪しいと思った。
だが、それ以上に聞きたいことがある。
「あの女……」
祈は戸口を見る。
「何だったんですか」
男は肩を竦めた。
「知らん」
「知らない?」
「怪異なんか全部知ってるわけないやろ」
「でも、ここ」
祈は看板を指差した。
「怪異相談って」
「せやで」
「じゃあ専門なんじゃ」
「専門家が全部知ってると思ったら大間違いや」
「……」
何となく腹が立つ。
怖い思いをした直後なのに。
男は祈を見ながら口元だけ笑った。
「その顔できるなら大丈夫そうやな」
「何の話ですか」
「さっきまで泣きそうやったから」
「泣いてません」
「へえ」
「……誰なんですか、あなた」
男は少し驚いたような顔をした。
「そういや名乗ってへんかったな」
机の上から名刺を一枚取る。
祈へ差し出した。
『宵月探偵事務所
九条 遥』
「九条……遥さん」
「所長」
「一人なんですか?」
「失礼やな」
「だって誰もいないから」
「今日はたまたま」
遥は自分の席へ戻る。
そして祈へ手招きした。
「座り」
祈は少し迷ってから、向かいの椅子へ座った。
遥は新しい湯呑みを出す。
「お茶でええ?」
「……はい」
湯気が上がる。
祈は両手で湯呑みを包む。
温かい。
ようやく少しだけ身体の震えが止まってきた。
遥が尋ねる。
「昔から見えるん?」
祈の指が止まる。
「何がですか」
「さっきみたいなん」
祈は答えない。
遥はそれだけで察したようだった。
「いつから?」
「……覚えてません」
「ずっと?」
「たぶん」
「家族も?」
祈の表情が僅かに強張る。
「母は……亡くなりました」
遥の目が一瞬だけ細くなる。
「父親は?」
「……」
「答えたくないならええよ」
意外だった。
もっと踏み込んでくると思った。
遥はすぐ話題を変える。
「祈」
「……急に名前で呼ばないでください」
「雨宮って呼んだら嫌そうやから」
「それは……」
確かにそうだった。
遥が祈の方へ少し身を乗り出す。
そして、じっと見る。
「何ですか」
「匂うな」
「……は?」
祈は思わず自分の制服を嗅ぐ。
「雨の匂い?」
「ちゃう」
「じゃあ何ですか」
遥は真顔で言う。
「怪異が好きそうな匂い」
「ものすごく嫌なんですけど、その言い方」
遥が笑った。
「そらそうやろな」
「笑わないでください」
「悪い悪い」
全然悪いと思っていない。
祈は小さく息を吐く。
そして改めて尋ねた。
「あの女、私を殺そうとしてたんですか」
遥の笑みが止まった。
「それなんやけど」
「……はい」
「たぶん違う」
「違う?」
「殺す気やったら、もっと早くやられてる」
さらっと恐ろしいことを言う。
「じゃあ何だったんですか」
遥はしばらく黙った。
窓の外。
雨を見る。
「迎えに来たんやろな」
「……迎え?」
「うん」
「誰を」
遥が祈を見る。
「君を」
祈の背中に、再び冷たいものが走る。
「どこへ……?」
「それが分からんから困ってんねん」
遥は椅子の背にもたれる。
そして祈をまっすぐ見る。
「ただ、一つだけ言える」
「……何ですか」
「君」
少し間を置く。
「もう目ぇ付けられてるで」
祈は何も言えなかった。
雨音だけが聞こえる。
その時。
事務所の外。
道路の反対側に、
赤いものが見えた。
祈の目が吸い寄せられる。
赤い傘。
地面に置かれている。
誰も持っていない。
ただ一つ。
雨の中に。
「……九条さん」
「ん?」
「あれ」
遥が視線を向ける。
笑顔が消えた。
その瞬間。
事務所の奥から音が響く。
ジリリリリリリ。
祈が肩を震わせる。
黒電話。
古びた黒い電話が鳴っていた。
ジリリリリリリ。
遥がゆっくり立ち上がる。
「……おかしいな」
「何がですか」
ジリリリリリリ。
遥は電話を見つめる。
そして低く呟いた。
「その電話」
祈が息を呑む。
「もう使ってへんはずなんやけどな」
雨音の中。
黒電話は、
いつまでも鳴り続けていた。
正確に言えば、雨の音が好きだった。
人の話し声も、車の走る音も、街のざわめきも、全部まとめて少しだけ遠くしてくれる。
六月の京都は、朝から細い雨が降り続いていた。
放課後になっても空は灰色のままで、濡れた道路には店の明かりや信号の色がぼんやりと滲んでいる。
雨宮祈は紺色の傘を差しながら、一人で学校からの帰り道を歩いていた。
白いシャツに濃紺のプリーツスカート。
肩から下げた通学鞄が、歩くたびに腰へ軽く当たる。
黒いセミロングの髪は湿気を含み、頬に何本か張りついていた。
「……まだ降るのかな」
誰に言うでもなく呟く。
祈は空を見上げた。
傘の向こうに広がっているのは、重たい雲だけだった。
今日のうちに止みそうな気配はない。
商店街には学校帰りの学生や、傘を差した観光客が行き交っている。
いつもの京都。
いつもの帰り道。
そのはずだった。
祈は歩きながら、何となく道路の反対側へ視線を向ける。
バス停。
ベンチには老夫婦が座っている。
その横。
誰も座っていないはずのスペースに、小さな男の子がいた。
黄色い帽子。
半袖のシャツ。
膝に両手を置き、じっと道路を眺めている。
こんな雨なのに、その子だけ傘を持っていない。
服も髪も濡れていなかった。
祈はすぐに視線を逸らした。
見ない。
気づかない。
関わらない。
昔から決めている。
それが自分が普通に生きていくための方法だった。
祈には、人には見えないものが見える。
それに気づいたのが何歳の頃だったのか、もう覚えていない。
幼稚園の頃だった気もするし、もっと前だったような気もする。
電柱の陰にずっと立っている男。
夜中、誰もいない道路の真ん中でしゃがみ込んでいる女。
閉店した店のガラス越しに、こちらを見ている子供。
幼い頃は、みんなにも見えていると思っていた。
だから母に何度も言った。
『あそこに女の人いるよ』
『あの子、なんでずっとこっち見てるの?』
そのたびに母は、少し困ったように笑った。
そして必ず同じことを言った。
『祈』
『見なくていいものは、見ないふりをしなさい』
幼い祈には、その意味が分からなかった。
でも今なら分かる。
母は知っていた。
祈に何が見えているのかを。
その母は、もういない。
祈は小さく息を吐く。
余計なことを考えるのをやめた。
家に帰ったら課題をして、夕飯を食べて、少し本を読む。
それでいい。
そういう普通の日でいい。
商店街を抜ける。
人通りが少しずつ減っていく。
その時だった。
祈は、ふと後ろに視線を感じた。
「……?」
振り返る。
数十メートル先。
何人かの歩行者に混じって、赤い傘が見えた。
女だった。
赤い傘を低く差しているせいで、顔までは見えない。
白っぽいワンピース。
細い足。
足元は――
祈は視線を止める。
裸足?
ほんの一瞬そう見えた。
けれど通行人が横切り、女の姿が隠れる。
「……気のせいか」
祈は再び前を向いた。
同じ方向へ帰る人なんて、いくらでもいる。
気にしすぎだ。
そう自分へ言い聞かせる。
一つ目の角を右へ曲がる。
古い家と小さな店が並ぶ通り。
雨粒が傘を細かく叩いている。
しばらく歩く。
祈はもう一度だけ、何気ないふりをして振り返った。
赤い傘。
「……」
いた。
さっきとほとんど同じ距離。
祈の胸に、小さな違和感が生まれる。
まあ、まだ偶然。
そう思うことにする。
祈は足を少し速めた。
次の角を曲がる。
普段の帰り道から外れた。
住宅街へ続く細い道。
観光客はまず来ない。
数分歩く。
雨音。
自分の靴音。
それだけ。
祈はそっと振り返った。
赤い傘。
いた。
今度は、はっきりと分かった。
祈の心臓が一度、大きく跳ねる。
「……何なの」
小さく呟く。
歩く。
また右。
さらに左。
わざと遠回りをする。
それでも。
いる。
赤い傘は、必ず後ろにいる。
祈は唇を噛んだ。
人間?
それとも――
そこまで考えて、すぐにやめる。
考えたくない。
祈は普段なら絶対に通らない細い路地へ入った。
古い町家の壁が左右に迫る。
二人並んで歩くのも難しいほど狭い。
傘の端が木の格子に触れた。
カサッ。
祈は傘を少し傾けながら奥へ進む。
数歩。
背後から音がした。
ぱしゃ。
水溜まりを踏んだ音。
祈の足が止まる。
音も止まった。
「……」
喉が乾く。
雨が降っているのに、口の中だけが異様に乾いている。
祈はまた歩き始めた。
ぱしゃ。
後ろ。
ぱしゃ。
祈が足を速める。
後ろの音も速くなる。
ぱしゃ。
ぱしゃ。
ぱしゃ。
間違いない。
ついてきている。
祈は前だけを見た。
振り返るな。
母の声が蘇る。
『見なくていいものは、見ないふりをしなさい』
そう。
いつもそうしてきた。
見えないふりをしていれば、向こうもこちらを気にしない。
ずっとそうだった。
今日だって。
きっと――
「……ねえ」
背後から女の声がした。
祈の肩が跳ねる。
足は止めない。
「ねえ」
さっきより近い。
祈はスマートフォンを取り出した。
誰でもいい。
友人でも、学校でも。
電話を――
「……圏外?」
画面を見て固まる。
さっきまで普通に電波は入っていた。
アンテナが一本も立っていない。
「ねえ……」
さらに近い。
耳のすぐ後ろで言われたように聞こえた。
祈は走り出した。
「っ……!」
ローファーが水を蹴る。
傘が風に煽られる。
通学鞄が大きく揺れた。
とにかく走る。
後ろを見ない。
角を曲がる。
また曲がる。
細い道。
階段。
古い塀。
気づけば祈は、自分でも知らない場所へ入り込んでいた。
「……どこ、ここ」
足を止める。
京都で生まれ育った。
少なくとも、この辺りの道なら大体分かる。
それなのに、見覚えがない。
古びた町家ばかりが並ぶ路地。
店もない。
看板もない。
家の中に明かりすらついていない。
人の声が消えている。
車の音もない。
聞こえるのは雨だけ。
世界から切り離されたような静けさ。
祈の背中を冷たいものが這う。
戻らないと。
そう思って前を見る。
行き止まり。
「嘘……」
祈は立ち尽くした。
逃げ道がない。
後ろから、
ぱしゃ。
祈の呼吸が止まる。
ぱしゃ。
来ている。
ぱしゃ。
祈はゆっくり振り返った。
数メートル先。
赤い傘。
女が立っていた。
顔はまだ傘の影に隠れている。

白いワンピース。
長い黒髪。
そしてやはり、
裸足だった。
足元には水溜まり。
でも。
女の足だけが濡れていない。
祈は動けなかった。
女が少しずつ顔を上げる。
見たくない。
見てはいけない。
そう思うのに、目が逸らせない。
傘の影から、白い顔が見える。
祈は息を呑んだ。
目がない。
鼻もない。
口もない。
顔であるはずの場所には、ただ白い皮膚が広がっていた。
「……っ」
声にならない。
女が首を傾げる。
口などないのに。
声がした。
「……やっと」
祈の指が震える。
「見つけた」
次の瞬間。
祈は走った。
女の横を抜けることなどできない。
だから行き止まりの直前にあった横道へ飛び込む。
先ほどは気づかなかったほど細い道。
「いや……!」
初めて声が漏れた。
助けて。
誰か。
祈は周囲を見る。
どの家も暗い。
扉は閉まっている。
その時。
路地の奥。
一軒だけ灯りが見えた。
古い町家。
軒先には小さな看板が掛かっている。
祈は文字を読む。
『宵月探偵事務所』
その下。
『失せ物・人探し・怪異相談承ります』
「怪異……?」
意味を考えている余裕などない。
背後。
ぱしゃ。
祈は町家へ駆け寄った。
格子戸を勢いよく開ける。
「すみません!」
声が裏返った。
中は外見以上に古かった。
木の床。
梁。
本棚に並ぶ古書。
壁には何枚もの札。
棚の上には鈴や木箱、それに古い日本人形まである。
探偵事務所というより、怪しい古道具屋だ。
そして部屋の奥。
机の前に一人の男が座っていた。
黒に近い着物。
羽織。
年齢は二十代後半くらいだろうか。
少し長めの黒髪。
右手首には黒い数珠。
男は湯呑みを持ったまま、祈を見る。
「……営業なら間に合ってるで」
「違います!」
祈は息を切らす。
「助けて……ください」
男の眉が少し上がる。
「助けて?」
「後ろに……女の人が」
「女?」
男が祈の背後を見る。
その瞬間。
表情が変わった。
さっきまでの気の抜けた雰囲気が消える。
目だけが鋭くなる。
「……ああ」
男はゆっくり湯呑みを置いた。
「えらいもん連れてきたな」
祈は反射的に後ろを振り返ろうとした。
「見んでええ」
「でも」
「今度はほんまに見たらあかん」
低い声だった。
冗談を許さない響き。
祈は動きを止める。
背後。
戸口の外。
女の声がした。
「返して」
祈の身体が固まる。
「返して」
男が立ち上がった。
「何をや」
女は答えない。
「返して」
今度は少し違う場所から聞こえた。
「返して」
また別の場所。
祈の顔から血の気が引く。
一人じゃない。
「返して」
「返して」
「返して」
町家の外を、何人もの女が囲んでいる。
そんな錯覚を覚えるほど声が増えていく。
男は机の引き出しから一枚の札を取り出した。
祈が見る。
墨で何かが書かれている。
男は札を指に挟む。
「雨宮祈」
「……え?」
祈が男を見る。
「どうして私の名前」
男は答えない。
札を戸口へ向かって投げた。
「――界」
札が宙で止まった。
祈の目が見開かれる。
淡い光が戸口いっぱいに広がる。
直後。
ドンッ!
何かが見えない壁へ激突した。
「っ!」
祈が身を竦める。
また振り返りそうになる。
男が祈の腕を掴んだ。
「見るな」
その時。
外の女が、
はっきり言った。
「……雨宮」
祈の動きが止まる。
今。
名字を呼ばれた。
祈は男を見る。
「なんで……」
男の顔からも笑みが消えている。
外では赤い傘が結界の向こうに立っている。
祈からは傘の端だけが見えた。
男はもう一枚札を持つ。
「帰り」
静かな声。
女は動かない。
「ここは、お前が入ってええ場所ちゃう」
長い沈黙。
やがて。
赤い傘が一歩下がる。
もう一歩。
そして雨の向こうへ消えていった。
同時に。
街の音が戻ってきた。
遠くを走る車。
誰かの話し声。
自転車のベル。
祈はその場へ座り込んだ。
「……なに、今の」
足に力が入らない。
男は祈を見下ろした。
「立てる?」
祈は小さく頷く。
男は棚からタオルを取ると、祈へ投げる。
「拭き」
「……ありがとうございます」
祈は受け取った。
冷たい頬を軽く拭く。
男はじっと祈を見ていた。
「……何ですか」
「いや」
少し考えるような顔。
「ほんまに雨宮なんやなと思って」
祈は眉を寄せる。
「さっきからそれ、何なんですか」
「鞄」
「え?」
「名前書いてある」
祈は自分の通学鞄を見る。
小さな名札。
『雨宮祈』
「……あ」
「まあ、それだけちゃうけど」
男がぼそりと言う。
「今、何て?」
「何も」
「言いましたよね」
「気のせいや」
祈は明らかに怪しいと思った。
だが、それ以上に聞きたいことがある。
「あの女……」
祈は戸口を見る。
「何だったんですか」
男は肩を竦めた。
「知らん」
「知らない?」
「怪異なんか全部知ってるわけないやろ」
「でも、ここ」
祈は看板を指差した。
「怪異相談って」
「せやで」
「じゃあ専門なんじゃ」
「専門家が全部知ってると思ったら大間違いや」
「……」
何となく腹が立つ。
怖い思いをした直後なのに。
男は祈を見ながら口元だけ笑った。
「その顔できるなら大丈夫そうやな」
「何の話ですか」
「さっきまで泣きそうやったから」
「泣いてません」
「へえ」
「……誰なんですか、あなた」
男は少し驚いたような顔をした。
「そういや名乗ってへんかったな」
机の上から名刺を一枚取る。
祈へ差し出した。
『宵月探偵事務所
九条 遥』
「九条……遥さん」
「所長」
「一人なんですか?」
「失礼やな」
「だって誰もいないから」
「今日はたまたま」
遥は自分の席へ戻る。
そして祈へ手招きした。
「座り」
祈は少し迷ってから、向かいの椅子へ座った。
遥は新しい湯呑みを出す。
「お茶でええ?」
「……はい」
湯気が上がる。
祈は両手で湯呑みを包む。
温かい。
ようやく少しだけ身体の震えが止まってきた。
遥が尋ねる。
「昔から見えるん?」
祈の指が止まる。
「何がですか」
「さっきみたいなん」
祈は答えない。
遥はそれだけで察したようだった。
「いつから?」
「……覚えてません」
「ずっと?」
「たぶん」
「家族も?」
祈の表情が僅かに強張る。
「母は……亡くなりました」
遥の目が一瞬だけ細くなる。
「父親は?」
「……」
「答えたくないならええよ」
意外だった。
もっと踏み込んでくると思った。
遥はすぐ話題を変える。
「祈」
「……急に名前で呼ばないでください」
「雨宮って呼んだら嫌そうやから」
「それは……」
確かにそうだった。
遥が祈の方へ少し身を乗り出す。
そして、じっと見る。
「何ですか」
「匂うな」
「……は?」
祈は思わず自分の制服を嗅ぐ。
「雨の匂い?」
「ちゃう」
「じゃあ何ですか」
遥は真顔で言う。
「怪異が好きそうな匂い」
「ものすごく嫌なんですけど、その言い方」
遥が笑った。
「そらそうやろな」
「笑わないでください」
「悪い悪い」
全然悪いと思っていない。
祈は小さく息を吐く。
そして改めて尋ねた。
「あの女、私を殺そうとしてたんですか」
遥の笑みが止まった。
「それなんやけど」
「……はい」
「たぶん違う」
「違う?」
「殺す気やったら、もっと早くやられてる」
さらっと恐ろしいことを言う。
「じゃあ何だったんですか」
遥はしばらく黙った。
窓の外。
雨を見る。
「迎えに来たんやろな」
「……迎え?」
「うん」
「誰を」
遥が祈を見る。
「君を」
祈の背中に、再び冷たいものが走る。
「どこへ……?」
「それが分からんから困ってんねん」
遥は椅子の背にもたれる。
そして祈をまっすぐ見る。
「ただ、一つだけ言える」
「……何ですか」
「君」
少し間を置く。
「もう目ぇ付けられてるで」
祈は何も言えなかった。
雨音だけが聞こえる。
その時。
事務所の外。
道路の反対側に、
赤いものが見えた。
祈の目が吸い寄せられる。
赤い傘。
地面に置かれている。
誰も持っていない。
ただ一つ。
雨の中に。
「……九条さん」
「ん?」
「あれ」
遥が視線を向ける。
笑顔が消えた。
その瞬間。
事務所の奥から音が響く。
ジリリリリリリ。
祈が肩を震わせる。
黒電話。
古びた黒い電話が鳴っていた。
ジリリリリリリ。
遥がゆっくり立ち上がる。
「……おかしいな」
「何がですか」
ジリリリリリリ。
遥は電話を見つめる。
そして低く呟いた。
「その電話」
祈が息を呑む。
「もう使ってへんはずなんやけどな」
雨音の中。
黒電話は、
いつまでも鳴り続けていた。



