あの日、納戸の怪異を滅ぼして一件落着したかに思われた後宮の呪いは、それで終わりではなかった。
それは対立派閥の妃が放った、標的の命を確実に奪うための、あまりに狡猾で強力な『禁忌の生霊』だったのだ。
深夜、私の寝所に突如として現れた、前回の比ではない巨大な怨念の塊。
私の叫び声を聞きつけて、一瞬で駆けつけてくれた冬馬は、私をその背に庇うと、迷うことなくすべての呪いを自らの身体に引き受けた。
『――お嬢様っ、絶対に私の後ろから出ないでください……!』
凄まじい衝撃波のなか、私を振り返った冬馬の、引き裂かれそうなほど悲痛な叫び。それが、私の記憶に残る最後の光景だった。冬馬が命を懸けて呪いの核を相殺したおかげで、私は無傷で済んだ。けれど、代わりにすべての穢れをその身に宿してしまった冬馬は、そのまま崩れるように倒れ、目を覚まさなくなってしまったのだ。
「冬馬、冬馬……お願いですから、目を覚ましてください……っ」
ここは私の宮の、さらに奥にある隠し部屋。
彼が呪詛を引き受けたなどと周囲に知られれば、暗殺未遂の大スキャンダルとなり、後宮は大混乱に陥る。だから私は、信頼できる数人の女官だけを残し、自ら冬馬の看病をすることを選んだ。中宮としての体裁も、夜伽の決まりも、今の私にはどうでもよかった。ただ、彼に生きていてほしかった。
幾度目かのお湯を換え、濡らした手ぬぐいを冬馬の額に乗せる。
横たわる彼の顔は、普段の余裕に満ちた妖艶さなど微塵もなく、苦痛に歪んでいた。白い肌は恐ろしいほどの高熱で赤く火照り、荒い呼吸を繰り返している。
「冷たい、な……」
不意に、掠れた声が響いた。
ハッとして顔を覗き込むと、冬馬の長い睫毛がゆっくりと震え、うつろな切れ長の瞳が私を捉えた。
「冬馬……! 気がついたのですか!? 良かった、本当に良かった……っ」
「……お嬢、様……? ああ、私は、また貴女に……不敬を……」
冬馬は弱々しく微笑もうとしたが、その唇は小刻みに震えている。彼はシーツの上に投げ出されていた右手を、這いずるようにして私の方へと伸ばしてきた。私は迷わずその手を両手で包み込む。昼間、あれほど大きくて力強いと感じた彼の掌が、今はひどく熱く、そして驚くほど脆く感じられた。
「不敬だなんて、そんなことどうでもいいです! 貴方は私を救うために……私の代わりに、あの恐ろしい呪いを受けたのですよ!? どうしてそんな無茶をしたのですか!」
「……無茶、ですか……」
冬馬は熱に浮かされた瞳で、じっと私の顔を見つめた。その瞳の奥の光が、ふっと変わる。
大人の男としての妖艶な輝きが消え、そこにあるのは――十年前、私の後ろを必死について歩いていた、あの生真面目な少年の目だった。
「無茶をしたのは……お嬢様、貴女のほうでは、ないですか……っ」
「え……?」
冬馬の口調から、それまでの、大人の余裕を気取った丁寧語が完全に消え失せていた。
彼は私の手をきゅっと、驚くほどの力で握り返してくる。熱に浮かされ、本音が堰を切ったように溢れ出していく。
「お前は、昔からそうだ……。私がどれだけ、規則を守れと言っても……はしたない真似はするなと、お説教をしても……。いつも私の言うことなんて、聞きやしない……っ。後宮の怪異の調査だってそうだ。いくら私が同行していたからって、呪いの前線にお前がついてくるなんて……自分の体を、なんだと思っているんだ……! 俺の後ろでおとなしく守られていろと言っただろう……!」
「冬馬……貴方、もしかして……」
胸の奥が、じんと熱くなる。
あざとく甘えて、嘘の規則で私をからかっていた「大人の呪術師」の仮面の下。そこに隠されていたのは、十年前と何一つ変わらない、私の体を誰よりも心配して、必死に怒ってくれている『生真面目な彼』の素顔だった。
「私が……どんなに心配したか……お前が傷ついたら、俺は……っ」
冬馬の目尻から、一筋の涙がこぼれ落ち、白い枕を濡らした。
普段の完璧なスパダリの姿からは想像もつかない、子供のような脆さと、あまりにも深く、重い執着。私を守るためだけに、彼は死に物狂いで国一番の術師になり、大人の男のフリをして私の前に戻ってきたのだ。
「ごめんなさい、冬馬。私が悪かったです。貴方の言う通り、規則を守り、もっと自分を大切にします。だから……だから、もう喋らないで」
私はたまらなくなって、横たわる彼の身体を引きずるようにして抱きしめた。
冬馬の熱い胸に顔を埋めると、彼のドクドクと激しく打つ鼓動が耳に響く。冬馬は一瞬、昔の堅物少年のように「……っ、お嬢様、近すぎます!」とお説教しようとして固まったが、すぐに観念したように、熱い吐息を漏らしながら私の背中に両腕を回してきた。
「……本当だな。今度破ったら……今度こそ、容赦なく、朝までお説教するからな……」
「ええ、いくらでもお説教されてあげます。だから、早く良くなってください、私の可愛い冬馬」
抱きしめ合う二人の隙間に、狂おしいほどの甘さと、昔から変わらない絶対的な安心感が満ちていく。
弱音を吐きながらも、私の背中を抱きしめる彼の腕の強さは、やっぱり紛れもない「大人の男」のもので。
私はそのギャップに切なく胸を締め付けられながら、彼が回復するまで、片時も離れずにその温もりを繋ぎ止めるのだった。
それは対立派閥の妃が放った、標的の命を確実に奪うための、あまりに狡猾で強力な『禁忌の生霊』だったのだ。
深夜、私の寝所に突如として現れた、前回の比ではない巨大な怨念の塊。
私の叫び声を聞きつけて、一瞬で駆けつけてくれた冬馬は、私をその背に庇うと、迷うことなくすべての呪いを自らの身体に引き受けた。
『――お嬢様っ、絶対に私の後ろから出ないでください……!』
凄まじい衝撃波のなか、私を振り返った冬馬の、引き裂かれそうなほど悲痛な叫び。それが、私の記憶に残る最後の光景だった。冬馬が命を懸けて呪いの核を相殺したおかげで、私は無傷で済んだ。けれど、代わりにすべての穢れをその身に宿してしまった冬馬は、そのまま崩れるように倒れ、目を覚まさなくなってしまったのだ。
「冬馬、冬馬……お願いですから、目を覚ましてください……っ」
ここは私の宮の、さらに奥にある隠し部屋。
彼が呪詛を引き受けたなどと周囲に知られれば、暗殺未遂の大スキャンダルとなり、後宮は大混乱に陥る。だから私は、信頼できる数人の女官だけを残し、自ら冬馬の看病をすることを選んだ。中宮としての体裁も、夜伽の決まりも、今の私にはどうでもよかった。ただ、彼に生きていてほしかった。
幾度目かのお湯を換え、濡らした手ぬぐいを冬馬の額に乗せる。
横たわる彼の顔は、普段の余裕に満ちた妖艶さなど微塵もなく、苦痛に歪んでいた。白い肌は恐ろしいほどの高熱で赤く火照り、荒い呼吸を繰り返している。
「冷たい、な……」
不意に、掠れた声が響いた。
ハッとして顔を覗き込むと、冬馬の長い睫毛がゆっくりと震え、うつろな切れ長の瞳が私を捉えた。
「冬馬……! 気がついたのですか!? 良かった、本当に良かった……っ」
「……お嬢、様……? ああ、私は、また貴女に……不敬を……」
冬馬は弱々しく微笑もうとしたが、その唇は小刻みに震えている。彼はシーツの上に投げ出されていた右手を、這いずるようにして私の方へと伸ばしてきた。私は迷わずその手を両手で包み込む。昼間、あれほど大きくて力強いと感じた彼の掌が、今はひどく熱く、そして驚くほど脆く感じられた。
「不敬だなんて、そんなことどうでもいいです! 貴方は私を救うために……私の代わりに、あの恐ろしい呪いを受けたのですよ!? どうしてそんな無茶をしたのですか!」
「……無茶、ですか……」
冬馬は熱に浮かされた瞳で、じっと私の顔を見つめた。その瞳の奥の光が、ふっと変わる。
大人の男としての妖艶な輝きが消え、そこにあるのは――十年前、私の後ろを必死について歩いていた、あの生真面目な少年の目だった。
「無茶をしたのは……お嬢様、貴女のほうでは、ないですか……っ」
「え……?」
冬馬の口調から、それまでの、大人の余裕を気取った丁寧語が完全に消え失せていた。
彼は私の手をきゅっと、驚くほどの力で握り返してくる。熱に浮かされ、本音が堰を切ったように溢れ出していく。
「お前は、昔からそうだ……。私がどれだけ、規則を守れと言っても……はしたない真似はするなと、お説教をしても……。いつも私の言うことなんて、聞きやしない……っ。後宮の怪異の調査だってそうだ。いくら私が同行していたからって、呪いの前線にお前がついてくるなんて……自分の体を、なんだと思っているんだ……! 俺の後ろでおとなしく守られていろと言っただろう……!」
「冬馬……貴方、もしかして……」
胸の奥が、じんと熱くなる。
あざとく甘えて、嘘の規則で私をからかっていた「大人の呪術師」の仮面の下。そこに隠されていたのは、十年前と何一つ変わらない、私の体を誰よりも心配して、必死に怒ってくれている『生真面目な彼』の素顔だった。
「私が……どんなに心配したか……お前が傷ついたら、俺は……っ」
冬馬の目尻から、一筋の涙がこぼれ落ち、白い枕を濡らした。
普段の完璧なスパダリの姿からは想像もつかない、子供のような脆さと、あまりにも深く、重い執着。私を守るためだけに、彼は死に物狂いで国一番の術師になり、大人の男のフリをして私の前に戻ってきたのだ。
「ごめんなさい、冬馬。私が悪かったです。貴方の言う通り、規則を守り、もっと自分を大切にします。だから……だから、もう喋らないで」
私はたまらなくなって、横たわる彼の身体を引きずるようにして抱きしめた。
冬馬の熱い胸に顔を埋めると、彼のドクドクと激しく打つ鼓動が耳に響く。冬馬は一瞬、昔の堅物少年のように「……っ、お嬢様、近すぎます!」とお説教しようとして固まったが、すぐに観念したように、熱い吐息を漏らしながら私の背中に両腕を回してきた。
「……本当だな。今度破ったら……今度こそ、容赦なく、朝までお説教するからな……」
「ええ、いくらでもお説教されてあげます。だから、早く良くなってください、私の可愛い冬馬」
抱きしめ合う二人の隙間に、狂おしいほどの甘さと、昔から変わらない絶対的な安心感が満ちていく。
弱音を吐きながらも、私の背中を抱きしめる彼の腕の強さは、やっぱり紛れもない「大人の男」のもので。
私はそのギャップに切なく胸を締め付けられながら、彼が回復するまで、片時も離れずにその温もりを繋ぎ止めるのだった。



