深夜、私は静まり返した後宮の回廊を歩いていた。
本来、一国の最高位の妃である中宮が、このような夜更けに自ら出歩くなどあってはならない。けれど、今回ばかりは私が同行せざるを得ない絶対の理由があった。
後宮を騒がせている不気味な黒い影――その怪異が夜な夜な這い出してくる出どころが、他でもない、私の宮の奥にある『開かずの納戸』だと判明したからだ。
「中宮様、部屋の奥の調査には、主である貴女様の立ち会いが必要不可欠です。それに、夜中に他の女官たちを動かせば、私の宮から呪いが出ているという不名誉な噂が広まり、貴女様の立場が危うくなります」
昼間、冬馬にそう真剣な表情で告げられ、私は「自分が動くしかない」と決意した。女官たちを危険に晒すわけにはいかないし、中宮としての尊厳を守るためにも、他人に知られる前に極秘裏に処理しなければならない。
「だからといって、冬馬……。手を繋ぐ必要なんて、本当にありますか?」
暗い回廊を進む中、私は繋がれた右手に視線を落とし、小声で抗議した。
誰もいないのをいいことに、冬馬は当然のような顔をして、私の指の隙間に自分の長い指を滑り込ませ、深く、熱く、恋人同士のような形で指を絡めてきている。
「ありますとも。あの納戸から溢れている呪いは、非常に執拗です。お嬢様はご存知ないかもしれませんが、私の術は、あなたという『特別な存在』に触れて、その体温を感じていなければ、いざという時に強い術が使えない仕組みになっているんですよ?」
冬馬は歩みを止め、私を振り返った。闇の中でも、彼の切れ長の瞳は妖艶な光を放っている。
彼は絡めた手に少しだけ力を込め、私の体を自分の方へと引き寄せた。至近距離で見つめ合われ、心臓がトクトクと激しい音を立て始める。
「それに、お嬢様の宮をあの汚らわしい影で汚したくありません。納戸の手前で私が完全に消し去りますから、どうか私の隣で、その手を離さないでくださいね」
「冬馬……」
昔は「お嬢様、衣服の乱れは心の乱れです!」と、手首が触れただけで顔を真っ赤にして怒っていた堅物少年が、今や私の身の安全と立場を完璧に守る口実を盾にして、堂々と肌の接触を要求してくる。あまりのギャップと、その横顔に浮かぶ余裕のある大人の笑みに、私の頬はますます熱くなるばかりだ。
――その時だった。
ピキリ、と大気が凍りつくような、異様な気配が前方の闇から満ちた。
問題の納戸の扉が隙間からガタガタと震え、足元の影が、まるで生き物のように不自然に波打ち始める。影の中から、幾十もの赤く濁った目が浮かび上がり、私たちを睨みつけてきた。
「っ……!」
恐怖で足がすくみ、息が止まりそうになった瞬間――。
「下がって」
頭上から響いたのは、これまで聞いたこともないほど、低く、冷徹な声だった。
さっきまで甘えたように微笑んでいた冬馬の気配が、一瞬で消え失せる。彼は私の手を優しく解くと、今度は私を庇うようにして、その広い背中で私の視界を塞いだ。
「不浄の身で、私の光(お嬢様)にその汚らわしい目を向けるな」
冬馬の右手が静かに掲げられる。彼の細く美しい指先が、空中に複雑な印を結んだ。
その瞬間、後宮の闇を圧倒するほどの、凄まじい純白の呪力が彼の身体から溢れ出す。衣服が激しく翻り、彼の結んだ長い黒髪が夜風に美しく舞った。
「――急急如律令」
冬馬が短く呪文を唱えた刹那、彼の指先から放たれた目も眩むような閃光が、回廊全体を包み込んだ。
凄まじい突風が吹き荒れ、襲いかかろうとしていた黒い影たちは、悲鳴を上げる暇さえ与えられず、一瞬にして光の中に消滅していく。圧倒的な、文字通りの『最強』の力だった。
光の残滓が火花のように散る中、冬馬は静かに手を下ろした。
怪異を塵一つ残さず滅ぼしたその姿は、冷酷で、神聖で、息を呑むほどに格好いい。大人の男としての圧倒的なスパダリ力を見せつけられ、私はただただ、彼の背中を呆然と見つめることしかできなかった。
「冬馬……凄いのですね……」
掠れた声で呟くと、冬馬はゆっくりとこちらに身体を向けた。
その瞳には、まだ敵を屠った直後の冷徹な光が残っていたが――私の顔を見た瞬間、その冷たさは霧散し、いつもの甘い蜂蜜のような温度へと戻っていった。
「ふぅ……。やっぱり、一気に術を使うと堪えますね……」
冬馬は大きくため息をつくと、先ほどの圧倒的な威厳はどこへやら、ふらりと私の方へ体重を預けてきた。
驚いて受け止めようとした私の肩に、彼は自分の額をこつんと乗せ、そのまま私の腰に細い両腕を回して、ぎゅっと抱きしめてくる。
「と、冬馬!? 怪異はもう片付いたのでしょう!?」
「片付きましたが、そのせいで私の呪力は本当に、限界まで空っぽになってしまいました。……ほら、早くおねだりさせてくれないと、ここで倒れてしまいますよ?」
私の首筋に、彼の熱い吐息がかかる。腰を抱きしめる彼の腕は、驚くほど力強くて、決して私を逃がさないという執着が滲んでいた。
冷徹な最強の呪術師から、一瞬で私だけに甘える『おねだり犬』へ。
その激しすぎるギャップと、背中に回された手の男らしさに、私の心臓はまたしても、狂ったような爆音を上げ始めるのだった。
本来、一国の最高位の妃である中宮が、このような夜更けに自ら出歩くなどあってはならない。けれど、今回ばかりは私が同行せざるを得ない絶対の理由があった。
後宮を騒がせている不気味な黒い影――その怪異が夜な夜な這い出してくる出どころが、他でもない、私の宮の奥にある『開かずの納戸』だと判明したからだ。
「中宮様、部屋の奥の調査には、主である貴女様の立ち会いが必要不可欠です。それに、夜中に他の女官たちを動かせば、私の宮から呪いが出ているという不名誉な噂が広まり、貴女様の立場が危うくなります」
昼間、冬馬にそう真剣な表情で告げられ、私は「自分が動くしかない」と決意した。女官たちを危険に晒すわけにはいかないし、中宮としての尊厳を守るためにも、他人に知られる前に極秘裏に処理しなければならない。
「だからといって、冬馬……。手を繋ぐ必要なんて、本当にありますか?」
暗い回廊を進む中、私は繋がれた右手に視線を落とし、小声で抗議した。
誰もいないのをいいことに、冬馬は当然のような顔をして、私の指の隙間に自分の長い指を滑り込ませ、深く、熱く、恋人同士のような形で指を絡めてきている。
「ありますとも。あの納戸から溢れている呪いは、非常に執拗です。お嬢様はご存知ないかもしれませんが、私の術は、あなたという『特別な存在』に触れて、その体温を感じていなければ、いざという時に強い術が使えない仕組みになっているんですよ?」
冬馬は歩みを止め、私を振り返った。闇の中でも、彼の切れ長の瞳は妖艶な光を放っている。
彼は絡めた手に少しだけ力を込め、私の体を自分の方へと引き寄せた。至近距離で見つめ合われ、心臓がトクトクと激しい音を立て始める。
「それに、お嬢様の宮をあの汚らわしい影で汚したくありません。納戸の手前で私が完全に消し去りますから、どうか私の隣で、その手を離さないでくださいね」
「冬馬……」
昔は「お嬢様、衣服の乱れは心の乱れです!」と、手首が触れただけで顔を真っ赤にして怒っていた堅物少年が、今や私の身の安全と立場を完璧に守る口実を盾にして、堂々と肌の接触を要求してくる。あまりのギャップと、その横顔に浮かぶ余裕のある大人の笑みに、私の頬はますます熱くなるばかりだ。
――その時だった。
ピキリ、と大気が凍りつくような、異様な気配が前方の闇から満ちた。
問題の納戸の扉が隙間からガタガタと震え、足元の影が、まるで生き物のように不自然に波打ち始める。影の中から、幾十もの赤く濁った目が浮かび上がり、私たちを睨みつけてきた。
「っ……!」
恐怖で足がすくみ、息が止まりそうになった瞬間――。
「下がって」
頭上から響いたのは、これまで聞いたこともないほど、低く、冷徹な声だった。
さっきまで甘えたように微笑んでいた冬馬の気配が、一瞬で消え失せる。彼は私の手を優しく解くと、今度は私を庇うようにして、その広い背中で私の視界を塞いだ。
「不浄の身で、私の光(お嬢様)にその汚らわしい目を向けるな」
冬馬の右手が静かに掲げられる。彼の細く美しい指先が、空中に複雑な印を結んだ。
その瞬間、後宮の闇を圧倒するほどの、凄まじい純白の呪力が彼の身体から溢れ出す。衣服が激しく翻り、彼の結んだ長い黒髪が夜風に美しく舞った。
「――急急如律令」
冬馬が短く呪文を唱えた刹那、彼の指先から放たれた目も眩むような閃光が、回廊全体を包み込んだ。
凄まじい突風が吹き荒れ、襲いかかろうとしていた黒い影たちは、悲鳴を上げる暇さえ与えられず、一瞬にして光の中に消滅していく。圧倒的な、文字通りの『最強』の力だった。
光の残滓が火花のように散る中、冬馬は静かに手を下ろした。
怪異を塵一つ残さず滅ぼしたその姿は、冷酷で、神聖で、息を呑むほどに格好いい。大人の男としての圧倒的なスパダリ力を見せつけられ、私はただただ、彼の背中を呆然と見つめることしかできなかった。
「冬馬……凄いのですね……」
掠れた声で呟くと、冬馬はゆっくりとこちらに身体を向けた。
その瞳には、まだ敵を屠った直後の冷徹な光が残っていたが――私の顔を見た瞬間、その冷たさは霧散し、いつもの甘い蜂蜜のような温度へと戻っていった。
「ふぅ……。やっぱり、一気に術を使うと堪えますね……」
冬馬は大きくため息をつくと、先ほどの圧倒的な威厳はどこへやら、ふらりと私の方へ体重を預けてきた。
驚いて受け止めようとした私の肩に、彼は自分の額をこつんと乗せ、そのまま私の腰に細い両腕を回して、ぎゅっと抱きしめてくる。
「と、冬馬!? 怪異はもう片付いたのでしょう!?」
「片付きましたが、そのせいで私の呪力は本当に、限界まで空っぽになってしまいました。……ほら、早くおねだりさせてくれないと、ここで倒れてしまいますよ?」
私の首筋に、彼の熱い吐息がかかる。腰を抱きしめる彼の腕は、驚くほど力強くて、決して私を逃がさないという執着が滲んでいた。
冷徹な最強の呪術師から、一瞬で私だけに甘える『おねだり犬』へ。
その激しすぎるギャップと、背中に回された手の男らしさに、私の心臓はまたしても、狂ったような爆音を上げ始めるのだった。



