お説教堅物術師の敗北

 白砂が敷き詰められた広大な中庭を囲む、後宮の最奥。 
緑豊かな木々と季節の花々に彩られたそこは、最高位の妃である私――中宮に与えられた、もっとも神聖で静謐な宮だった。 豪奢な調度品に囲まれ、お香の煙がかすかに漂う部屋の玉座で、私は一人、退屈な書類仕事に向き合っていた。 

そんな静寂を破るように、女官の一人が緊張した面持ちで歩み寄る。

「中宮様、陰陽寮より、例の怪異を調査するための術師が到着いたしました」
「……通しなさい」 

私は筆を置き、中宮としての威厳をまとうために、すっと背筋を伸ばした。ここ数日、後宮の女官たちの間で「真夜中に不気味な黒い影が這い回る」という噂が立ち、怯える者が続出していたのだ。
国随一の術師が集まる陰陽寮から遣わされた者なら、さぞや偏屈で厳格な老術師か、あるいは油断のならない野心家だろうと身構えていた。 

しかし、御簾の向こうから現れたその男の姿を見た瞬間、私の頭の中は真っ白になった。

「――お初にお目にかかります、中宮様。この度、後宮の呪詛祓い、および不浄の調査を仰せつかりました、陰陽寮の冬馬と申します」 

深々と頭を下げた男の、その低く滑らかな声。 
耳に届いた瞬間、私の背中に電撃のような衝撃が走った。忘れるはずもない。私の幼少期を、もっとも近くで彩っていた男の声だった。

「……え? 冬、馬……?」 

上げ漆の施された美しい長机の向こうで、私は思わず立ち上がり、息を呑んだ。 
豪奢な藍色の狩衣を優雅にまとい、衣服の隙間から覗く首筋や手首のラインは、驚くほど洗練されている。切れ上がった涼やかな目元には、大人の男としての妖艶な色気がこれでもかと漂っていた。長く艶やかな黒髪を一本の紐で緩く結んだ姿は、歩くだけで後宮のすべての女官たちが頬を染めて振り返るほどの、息を呑むような美男子だ。 

けれど、その真っ直ぐな鼻筋、独特な耳の形、そして凜とした佇まいは――間違いなく彼だ。

「嘘、まさか、あの冬馬なんですか……!?」 

中宮としての立場も、周囲の目も忘れて声を荒らげると、男はゆっくりと顔を上げた。 
その切れ長の瞳が優しく細められ、唇が、いたずらが成功した子供のように、ふわりと甘く弧を描く。

「お久しぶりです、お嬢様。……いえ、今は『中宮様』とお呼びすべきですね。ずいぶんと立派な御身分になられて。お美しさにますます磨きがかかり、陰陽寮までその噂は届いておりましたよ」
「本当に冬馬なんですね!? だって、あなた、昔はあんなに……!」 

私の脳裏に、十年前の記憶が鮮烈に蘇る。 
実家の離れで暮らしていた頃の冬馬は、髪をきっちりと結い上げ、衣服の乱れ一つ許さない、文字通りの『生真面目な堅物優等生』だった。私が少しでも退屈しのぎに泥遊びやお転婆をしようものなら、「お嬢様、規則を守ってください!」「そのようなはしたない真真似は控えてください!」と、四角四面なお説教をぶつけてくるような、融通の利かない年上の幼馴染だったはずだ。 

それが、どうしてこんなに、色気の塊のような男になって私の前に現れたのだろう。あまりのギャップに、胸の鼓動がうるさいほど高鳴り始める。

「中宮様。公の場で過去の知己について大声で話されるのは、少々不用心かと」 

冬馬はくすりと笑うと、一歩前へ出た。

「人払いをお願いしても?」 

低く甘い声で囁かれる。その有無を言わせぬ大人の男の気配に圧倒され、私はこくりと頷くことしかできなかった。周囲に控えていた女官たちに退室を命じると、彼女たちは冬馬の後ろ姿を名残惜しそうに見つめながら、静かに部屋を去っていった。 

パタン、と重厚な扉が閉まる。 

御簾の向こう、広い部屋に、私と冬馬の二人きりになった。 
張り詰めた沈黙が流れる中、私は彼がどんな言葉を発するのかと身構えた。また「中宮としての自覚を持ちなさい」とでもお説教されるのかな、と。 

しかし、私の予想は、あっけなく裏切られることになる。

「……はぁ。やっと、二人きりになれました」 

それまでの凛とした佇まいが、嘘のようにふにゃりと緩んだ。 
足音が響く。冬馬は優雅な所作で私のすぐ目の前まで歩み寄ると、事もあろうに、すとんと私の足元に膝をついた。 
そして、呆然とする私の膝に、迷うことなく自分の頭を預けてきたのだ。

「えっっ!? と、冬馬……っ!? な、何をして……っ!」 

いわゆる、膝枕の体勢である。 
私の膝の上に、冬馬のさらりとした上質な黒髪が広がり、心地よい白檀の香りが鼻腔をくすぐる。見上げれば、冬馬は私の顔をじっと見つめ、まるで捨てられた子犬のように、潤んだ瞳で私の着物の袖をきゅっと指先で掴んできた。

「冬馬、何をしてるんですか……っ! 私は一国の妃ですよ!? 不敬だから、すぐに離れてください!」
「嫌です。絶対に離れません」
「なっ……!」 

昔の彼なら「中宮様に触れるなど不敬です!」と自分から怒り狂うようなシチュエーションなのに、今の冬馬はまったく動じる気配がない。それどころか、私の膝にさらに深く顔を埋め、ふぅ、と甘く熱い吐息を漏らす。薄い絹の衣越しに、彼の体温が直接肌に伝わってきて、頭がどうにかなりそうだった。

「意地悪を言わないでください、お嬢様。私、今の今まで、ものすごく緊張していたんですから。……それに、こうしていないとダメなんです」
「こうしていないとって、どういうことですか……? 理由になっていません!」
「理由ならあります。……ここ数日、後宮に放たれた悪質な呪いを、お嬢様に届かないよう私一人で裏で相殺していたせいで、私の呪力はもう限界(からから)なんです。……お嬢様はご存知ないかもしれませんが、私の術は、あなたという『特別な存在』に触れていないと、枯渇した呪力が回復しない仕組みになっているんですよ?」 

冬馬は私の手をそっと取ると、自分の頬に添えさせた。ひんやりとした私の手に触れる彼の肌は、驚くほど熱い。

「え、ええっ……!? そんな、そんな規則、聞いたことありません!」
「今、私が決めました。だから、これは今日から絶対の規則です」 

冬馬は悪びれもせず、くすくすと低く笑う。その視線はどこまでも甘く、私を捕らえて離さない。 
かつてあんなに「規則、規則」と私を縛り付けていた堅物少年が、今や自分の都合のいいように甘い嘘の規則をでっち上げ、私を翻弄している。

「嘘ですよね、そんなの……っ。私をからかっているのでしょう?」
「嘘じゃありません。ほら、お嬢様に触れているだけで、こんなに胸がドキドキして、熱くなっていく……」 

冬馬は私の手を掴んだまま、自分の胸元へと導いた。衣服越しに触れた彼の胸板は、昔の華奢な少年時代とは違い、広く、男らしくて――そして言葉通りに、激しく脈打っていた。ドクドクと伝わる力強い鼓動が、彼がもう「守られるだけの子供」ではないことを嫌というほど私に告げてくる。

「……ね? ですから、このまま呪力が満たされるまで……しばらく私におねだりさせてください、お嬢様」 

長い睫毛を揺らしながら、独占欲の滲む熱い瞳で私を見上げてくる冬馬。 
最高位の妃としての理性を保とうと必死な私を、彼はそのあざとさと大人の色気で容赦なく溶かしていく。私は心臓が破裂しそうなほどの衝撃を覚えながら、ただ赤面して、彼の甘い重みに囚われることしかできなかった。