毎日毎日、課外授業を受けたあとに川辺に向かって莉子と話していたら、段々と他人に訝しがられないような振る舞いが身についてきた。別にこんなスキル、手に入れたって何にもならないのだが、幽霊である莉子と少しでも多く話すためには必要なものだ。
課外が終わり、本格的に夏休みに入った。二、三年生はあと一週間授業があるらしいと聞いて、今から憂鬱になる。だが、俺たち一年生だって、油断してはいられない。夏休み明けすぐ、実力テストが待っているからだ。
8月12日。墓参りに行くという家族を見送って、リュックに勉強道具を詰め、家を発つ。墓参りに行かなかった理由は二つ。まず、勉強をしないと俺の作戦がうまくいかないから。俺は常に、狙って平均点を出してきた。そうすれば誰からも特別期待されることはないし、同時に誰も失望させなくて済む。基本的に器用貧乏な自覚はあるが、それでも県内随一の進学校。テストで出題される問題はそれなりに難しいし、できるやつはしっかり高得点を取ってくる。だから勉強時間を確保しなければならない。それが一つ目の理由だ。
二つ目。言うまでもないだろう。莉子と一緒にいる時間を少しでも増やすためだ。一瞬だったとはいえ、莉子を失ってしまって、一緒にいる時間の大切さに気づいた。ありきたりだが、かけがえのない時間というのは、常に大切にしておくべきなのだ。そして何より、ここ数日ずっと莉子と話していて、単純に楽しい。相手が好きな人だからかもしれない。いや、会話が楽しい相手だから、必然的に惹かれてしまうのかもしれない。順序はわからない。でも、とにかく楽しいのだ。少しでも一緒にいたいと思うのは必然のことだろう。
盛岡には三本の川が流れている。北上川、雫石川、そして中津川だ。中津川は特に水質が綺麗で、鮭の遡上で有名である。その中津川沿いに、「プラザおでって」という交流施設がある。中には広々とした交流スペースが設置されていて、大きな机がいくつも置かれている。学生から婆さんまで、幅広い世代が利用している施設だ。なんと使用料はタダで、飲食まで可能。裕福ではない学生にとって、非常にありがたい場所なのだ。冷房もしっかり効いていて、夏場でも快適である。
今日はそのおでってで、莉子と勉強することになっていた。もちろん、莉子は勉強する必要なんてないし、ただ一緒にいる口実を作りたかっただけだが、俺が数学と理科を教え、莉子に国語と英語を教えてもらうことになっている。
ガラス張りのエレベーターで五階まで上る。中の橋という大きな橋を、ハンディファンを使いながら涼やかに歩く女子高生が渡っているのが見えた。緑色の欄干に手をかけて、川の軽鴨を眺めている爺さんもいた。
五階に着くと、目の前に莉子が現れた。てっきりまだ来ていないものだと思っていたから、驚く。連絡手段がないため、こういうこともよく起きるのだ。
「ざっと見たんだけど、席空いてないんだよね。やっぱりお盆だし、混んでるみたい」
「お盆なら家族で団らんするもんじゃねえのかよ……まあ仕方ねえな。二階のスペースは空いてるっぽかったし、テーブルは狭いけど下りるか」
普通に声を出して話しているため、入り口側のテーブルを陣取っていた中学生が気味悪そうにこちらを見ていた。だが、俺としては知ったことではない。一高生に聞かれなければ問題はないのだ。もちろん、ざっと見て近くに一高生がいないことは確認済みである。
たった今乗ってきたエレベーターにもう一度乗り込んで、二階まで降りる。ガラスに反射した光を見て、莉子が眩しいと言っていた。俺は決してそうは感じなかったから、幽霊とは難儀なものだな、なんて呟く。莉子が恨めしそうにこちらを見てきた。あな、恨めしやってか。
青いソファにリュックを投げ、どかりと腰をかける。莉子もふわふわと隣に座った。小さな丸テーブルを引き寄せて、古文のテキストを開いた。
「早速教えていただこうかな」シャーペンを無意識のうちに回していた。莉子がじっと見ていたから、慌てて止める。
「まずは解きなさいよ。何がわからないかわからないんじゃあ、教えようにも教えられないでしょ」
「それもそうか」
俺はとりあえず時間を測ってテキストを解くことにした。考えながらシャーペンを回すのは最早癖だから、莉子が見てきても止められなかった。だが、じっと見られながら問題を解くのは気が散ってしまう。
「なあ。お前もなんか問題解いたら? 俺の数学の教材でも使えよ。見られながら解くの、集中できないし」
「えー、まあしょうがないかあ。私、テスト受けられないから、数学なんて勉強しても意味ないんだけどね」
「意味なくはねえだろ。勉強しねえとどんどん頭悪くなっていくぞ――」
せっかく一高に入ったんだし、と言いかけて、寸前で飲み込んだ。なんだか、未来が約束されているかのような言い方に思えたからだ。いくら幽霊の姿でそこにいると言っても、死んでしまった莉子には大学進学などの未来は訪れない。こうして話していると、実感が薄れていくから、戸惑ってしまう。俺はこの状況を、どう受け止めればいいのだろう?
なんとか古文の問題を解き終え、莉子に採点してもらう。それから俺は、それぞれの文章をどのように理解したかを莉子に伝え、間違っているところを正してもらったり、曖昧な部分の解像度を上げてもらったりした。器用貧乏なだけあって、何をどうすれば点数を上げられるかは、俺にははっきり見えている。ただ、自力ではそれができないだけだ。だからこうして、得意な人の力を借りるのだ。
何か言いたげな顔で、莉子が俺を見つめていた。切れ長の、でも好奇心を宿したような瞳が、生前と変わらないまま、こちらを向いている。
「なんだよ」照れてぶっきらぼうな返答になってしまった。我ながら、情けない。
「颯介って、古文漢文とか英語は読めないけどさ、頭いいよね……いや、なんか違うな。要領がいいのかな。なんでそれをさ、最大限発揮しようとしないわけ?」
「どういうことだ?」
彼女の言わんとするところを掴みきれず、眉間に皺が寄る。
「テストの点数とかさ、亮司くんと見せ合ってるの、見たことあるんだけどさ。手、抜いてるんじゃないの?」
俺は手を抜いていることを、誰にも言ったことがない。当たり前だ。誰かに言ってしまったら、それは作戦ではなくなってしまうから。そして、誰かにそれを指摘されたこともない。器用だから、バレないように取り繕うのも得意だからだ。
――初めて、見透かされたような気がした。
自分の中に湧き上がった感情に、名前をつけるのが嫌だった。その答えが、恐怖だと気づいていたから。
「だとしたら、なんだよ」動揺が言葉に表れてしまう。
「狙って平均点を取ってるんだ。なるほどね。賢いやり方だ。――ずる賢いね」
莉子の言葉に、棘を感じる。俺は二つの恐怖に、呆然と立ち尽くすしかなかった。嫌われたくない。でも、見透かされたくもない。
「……確かにずるいやり方だとは思うよ。でも、コスパよくすべてをうまく行かせるには、これが一番なんだって」
俺の精一杯の言い訳も、彼女のまっすぐな瞳には届かないようだった。
「ふーん。私はあんまり好きじゃないけどね、そういうの。気持ちよくない。――まあでも、いいんじゃない? 颯介がいいと思ってるなら。おすすめはしないだけで、私はどうこう言えるほど偉くないしね」
ガラスのハートに、明確に引っかき傷がついたのがわかった。
「俺は莉子のまっすぐなところ、すごいと思うよ。尊敬してる。でも、俺にはできないかな」
「そう……」
少し満足そうな顔になったので、俺は勉強に戻ることにした。
――俺って意外と、不器用なのかもしれない。
つい数日前に一緒に見に行った、さんさ踊りの映像が画面から絶え間なく流れていた。
課外が終わり、本格的に夏休みに入った。二、三年生はあと一週間授業があるらしいと聞いて、今から憂鬱になる。だが、俺たち一年生だって、油断してはいられない。夏休み明けすぐ、実力テストが待っているからだ。
8月12日。墓参りに行くという家族を見送って、リュックに勉強道具を詰め、家を発つ。墓参りに行かなかった理由は二つ。まず、勉強をしないと俺の作戦がうまくいかないから。俺は常に、狙って平均点を出してきた。そうすれば誰からも特別期待されることはないし、同時に誰も失望させなくて済む。基本的に器用貧乏な自覚はあるが、それでも県内随一の進学校。テストで出題される問題はそれなりに難しいし、できるやつはしっかり高得点を取ってくる。だから勉強時間を確保しなければならない。それが一つ目の理由だ。
二つ目。言うまでもないだろう。莉子と一緒にいる時間を少しでも増やすためだ。一瞬だったとはいえ、莉子を失ってしまって、一緒にいる時間の大切さに気づいた。ありきたりだが、かけがえのない時間というのは、常に大切にしておくべきなのだ。そして何より、ここ数日ずっと莉子と話していて、単純に楽しい。相手が好きな人だからかもしれない。いや、会話が楽しい相手だから、必然的に惹かれてしまうのかもしれない。順序はわからない。でも、とにかく楽しいのだ。少しでも一緒にいたいと思うのは必然のことだろう。
盛岡には三本の川が流れている。北上川、雫石川、そして中津川だ。中津川は特に水質が綺麗で、鮭の遡上で有名である。その中津川沿いに、「プラザおでって」という交流施設がある。中には広々とした交流スペースが設置されていて、大きな机がいくつも置かれている。学生から婆さんまで、幅広い世代が利用している施設だ。なんと使用料はタダで、飲食まで可能。裕福ではない学生にとって、非常にありがたい場所なのだ。冷房もしっかり効いていて、夏場でも快適である。
今日はそのおでってで、莉子と勉強することになっていた。もちろん、莉子は勉強する必要なんてないし、ただ一緒にいる口実を作りたかっただけだが、俺が数学と理科を教え、莉子に国語と英語を教えてもらうことになっている。
ガラス張りのエレベーターで五階まで上る。中の橋という大きな橋を、ハンディファンを使いながら涼やかに歩く女子高生が渡っているのが見えた。緑色の欄干に手をかけて、川の軽鴨を眺めている爺さんもいた。
五階に着くと、目の前に莉子が現れた。てっきりまだ来ていないものだと思っていたから、驚く。連絡手段がないため、こういうこともよく起きるのだ。
「ざっと見たんだけど、席空いてないんだよね。やっぱりお盆だし、混んでるみたい」
「お盆なら家族で団らんするもんじゃねえのかよ……まあ仕方ねえな。二階のスペースは空いてるっぽかったし、テーブルは狭いけど下りるか」
普通に声を出して話しているため、入り口側のテーブルを陣取っていた中学生が気味悪そうにこちらを見ていた。だが、俺としては知ったことではない。一高生に聞かれなければ問題はないのだ。もちろん、ざっと見て近くに一高生がいないことは確認済みである。
たった今乗ってきたエレベーターにもう一度乗り込んで、二階まで降りる。ガラスに反射した光を見て、莉子が眩しいと言っていた。俺は決してそうは感じなかったから、幽霊とは難儀なものだな、なんて呟く。莉子が恨めしそうにこちらを見てきた。あな、恨めしやってか。
青いソファにリュックを投げ、どかりと腰をかける。莉子もふわふわと隣に座った。小さな丸テーブルを引き寄せて、古文のテキストを開いた。
「早速教えていただこうかな」シャーペンを無意識のうちに回していた。莉子がじっと見ていたから、慌てて止める。
「まずは解きなさいよ。何がわからないかわからないんじゃあ、教えようにも教えられないでしょ」
「それもそうか」
俺はとりあえず時間を測ってテキストを解くことにした。考えながらシャーペンを回すのは最早癖だから、莉子が見てきても止められなかった。だが、じっと見られながら問題を解くのは気が散ってしまう。
「なあ。お前もなんか問題解いたら? 俺の数学の教材でも使えよ。見られながら解くの、集中できないし」
「えー、まあしょうがないかあ。私、テスト受けられないから、数学なんて勉強しても意味ないんだけどね」
「意味なくはねえだろ。勉強しねえとどんどん頭悪くなっていくぞ――」
せっかく一高に入ったんだし、と言いかけて、寸前で飲み込んだ。なんだか、未来が約束されているかのような言い方に思えたからだ。いくら幽霊の姿でそこにいると言っても、死んでしまった莉子には大学進学などの未来は訪れない。こうして話していると、実感が薄れていくから、戸惑ってしまう。俺はこの状況を、どう受け止めればいいのだろう?
なんとか古文の問題を解き終え、莉子に採点してもらう。それから俺は、それぞれの文章をどのように理解したかを莉子に伝え、間違っているところを正してもらったり、曖昧な部分の解像度を上げてもらったりした。器用貧乏なだけあって、何をどうすれば点数を上げられるかは、俺にははっきり見えている。ただ、自力ではそれができないだけだ。だからこうして、得意な人の力を借りるのだ。
何か言いたげな顔で、莉子が俺を見つめていた。切れ長の、でも好奇心を宿したような瞳が、生前と変わらないまま、こちらを向いている。
「なんだよ」照れてぶっきらぼうな返答になってしまった。我ながら、情けない。
「颯介って、古文漢文とか英語は読めないけどさ、頭いいよね……いや、なんか違うな。要領がいいのかな。なんでそれをさ、最大限発揮しようとしないわけ?」
「どういうことだ?」
彼女の言わんとするところを掴みきれず、眉間に皺が寄る。
「テストの点数とかさ、亮司くんと見せ合ってるの、見たことあるんだけどさ。手、抜いてるんじゃないの?」
俺は手を抜いていることを、誰にも言ったことがない。当たり前だ。誰かに言ってしまったら、それは作戦ではなくなってしまうから。そして、誰かにそれを指摘されたこともない。器用だから、バレないように取り繕うのも得意だからだ。
――初めて、見透かされたような気がした。
自分の中に湧き上がった感情に、名前をつけるのが嫌だった。その答えが、恐怖だと気づいていたから。
「だとしたら、なんだよ」動揺が言葉に表れてしまう。
「狙って平均点を取ってるんだ。なるほどね。賢いやり方だ。――ずる賢いね」
莉子の言葉に、棘を感じる。俺は二つの恐怖に、呆然と立ち尽くすしかなかった。嫌われたくない。でも、見透かされたくもない。
「……確かにずるいやり方だとは思うよ。でも、コスパよくすべてをうまく行かせるには、これが一番なんだって」
俺の精一杯の言い訳も、彼女のまっすぐな瞳には届かないようだった。
「ふーん。私はあんまり好きじゃないけどね、そういうの。気持ちよくない。――まあでも、いいんじゃない? 颯介がいいと思ってるなら。おすすめはしないだけで、私はどうこう言えるほど偉くないしね」
ガラスのハートに、明確に引っかき傷がついたのがわかった。
「俺は莉子のまっすぐなところ、すごいと思うよ。尊敬してる。でも、俺にはできないかな」
「そう……」
少し満足そうな顔になったので、俺は勉強に戻ることにした。
――俺って意外と、不器用なのかもしれない。
つい数日前に一緒に見に行った、さんさ踊りの映像が画面から絶え間なく流れていた。



