きみを呼ぶのをやめるまで

「颯介ー、今日はお前ん家でゲームしようぜ」
 
 授業が終わり、クラスメイトの半分ほどが部活に向かう中、亮司に声をかけられる。だが、俺はゲームよりもしたいことがある。

「すまん亮司。俺今日早く帰んなきゃ」
「何でだよー、課題なら一緒にやればいいだろ」
「んーそうじゃないんだけどさ。まあゲームはいつでもできるだろ」
「まあな」
「じゃ」

 俺はさっさと荷物を片付け、片手を上げて教室を後にした。ついでに、ふわふわと浮いている莉子に目配せしておく。ついてこい、と伝えたつもりだったが、ちゃんと伝わっただろうか。校舎を出るまでは、俺は普通に一人で歩いているふうを装わなければならない。チラチラ後ろを振り返るわけにはいかない。
 だが、俺の心配は杞憂に終わった。廊下に出てすぐ、莉子は俺の隣に追いついて、俺の体をすり抜けて遊び始めたのだ。生前の彼女は、ここまで自由ではなかったはずだ。何が彼女を変えてしまったのだろう。思わずため息が出てしまう。

「せめて学校を出てからにしろよ。目立つだろ」

 小声で話しかけるが、廊下にいる人には気づかれてしまった。俺はそそくさと階段を降りて逃げる。

「こうでもしないと暇なの!」
「校舎を出るまでの数分くらい我慢できるだろ」

 莉子が戻ってきてからまだ一日と経っていない。俺はまだ、彼女がいないように振る舞うのに慣れていないようで、結構な人数から気味悪がる視線を投げかけられてしまった。急いで靴を履き替えて、校舎の外へ、さらにバス停へと向かった。

「どこ行くの?」
「お前さあ、俺が答えられないのわかってて、あえて話しかけてんの? 人気がなくなるまで我慢してくれよ……」

 また小声で返して、あとは目的地に着くまで無視を決め込むことにした。一高から徒歩数分の場所にある中央病院前という停留所から目的地までのバスは比較的本数が多いため、すぐにやって来た。一高生がぞろぞろと乗り込む。俺もICカードをタッチして、たまたま空いていた一番前の高い席を取った。ここなら停留所に着いたとき、すぐに降りられる。少しでも、人目に触れないほうがいいと、今日学んだ。
 莉子はしばらくの間、「なんで駅行きに乗ってるの?」「どこ行くつもり?」と問いかけてきたが、俺がスマホを見て完全に黙りこくっていたため、諦めて俺の隣で窓の外を見始めた。ふと彼女の姿を目に収めようとスマホから顔を上げると、なぜかとても大人びた、でも同時に幼さも垣間見えるような、そんな不思議な表情をしている。俺はその美しさに息を呑んだ。
 ――ああ、好きだ。紛れもなく。
 感情が溢れてしまいそうになるのを、理性で押さえつける。

「開運橋ー、開運橋ー。お降りのお客様は、お忘れ物ござませんよう……」

 すぐに降り立つ。目の前には白く大きな橋がかかっていて、車が激しく行き来している。少し右奥に目線を投げれば、遠くに岩手山が見える。曇っているから、微かだが。いつもならもっと綺麗にくっきりと見えるのだ。下を流れているのは、北上川。
 また莉子に目配せをして、土手に沿って歩き始める。散歩している人はちらほらいるが、みんな土手の上のほうを歩いている。俺は少し川に近いところを選び、リュックを放り投げて、その上に座った。莉子は待ってましたとばかりに隣に座る。
 川沿いは少しだけ涼しい。実際に温度も低いのだろうが、激しく流れる水音がより涼しさを増しているように感じる。

「校歌よーい」俺がなんとなく声を出す。
「え……? さああああ!」莉子は一瞬戸惑ったようだが、すぐに反応してきた。
「世ーに謳ーはれし公然のー」
「さあああ! 世ーに謳ーはれし公然のー、大気をーここに集めたるー、秀麗ー高き岩手山ー、清流長き北上やー」

 つい数ヶ月前の、入学したばかりの頃を思い出す。伝統ある盛岡一高では、春の應援歌練習という、それはそれは厳しい行事があるのだ。入学したばかりの一年生は、全部で十四曲程度もある應援歌を覚え、完璧に歌えるようになるために、應援團を始めとした先輩たちに徹底的にしごかれる。應援團は袴を着て、M旗という赤い生地に白文字で大きくMと書かれた大きな旗を八の字に振る。そうして、真っ暗な体育館に一定間隔で並んだ一年生に、春休みのうちに覚えてくるよう言いつけた應援歌を歌わせるのだ。一年生の間を、上級生たちがうろうろと歩き回り、ときに立ち止まって、各々がしっかり声を出しているか、歌詞を覚えてきているかをチェックする。適当に歌っていると、勢いよく体を押され、体育館の端っこ、通称歌詞場(かしば)へと連れて行かれてしまう。正座して歌詞を読む場所だ。
 俺は知り合いのアドバイス通り、歌詞は覚えていかず、適当に母音だけを合わせて歌っていたから、何度も歌詞場に連れて行かれてしまった。連れて行かれた回数は、クラスごとについている指導有志という應援團の下っ端の二年生がチェックしており、練習が終わって教室に戻った後、一人ひとり叱られる。「ちゃんと覚えて来いって言ったよなあ⁉︎ 舐めてんじゃねえぞ!」と。大きな声で「イス!」と返事をしない限り、永遠と怒られ続けてしまう。
 だが、一週間の地獄の期間を耐えたら、なんだかこの学校に愛着が湧いてくる。不思議なものだ。今では、校歌の歌詞くらいはしっかり覚えている。なぜ校歌のメロディーが軍艦マーチなのかは、いまだによくわからない。古い学校だし、思想が若干右寄りなのだろうか。
 そういえば、莉子は五日間一度たりとも歌詞場に行かなかった生徒として、指導有志に名前を呼ばれ、褒められていた。「五日間、よく頑張った。俺はお前のことを誇りに思う」とかなんとか。指導有志は各クラス男女一名ずついるが、女子の有志も一人称は俺。威圧的なキャラクターを演出しなければならないのは大変そうだった。
 そんなことを考えていたら、校歌の一番を歌い終えていた。

「莉子は應援歌の歌詞を真面目に覚えたんだもんな。今でも歌えるのか?」
「よく使うやつはね。学生歌とか歌わないじゃん。忘れちゃったよ」いたずらっぽく笑う。
「学生歌ってなんだっけ。そんな歌あった?」
「ちょっと! 真の一高生としてどうなんですかー?」

 應援歌練習は、一高生として生きていくための通過儀礼だ。あの一週間を耐えることができたら、あとは自由でそれはそれは楽しい高校生活が待っている。

「私、来年は指導有志やろうと思ってたんだよね。できなくなっちゃったなぁ……」

 しんみりとした声で言う。俺は何も応えることができなくて、北上川の流れをただ見つめた。

「だからさ! 颯介、ちょっと未練解消手伝ってよ。私、指導有志役やるから、颯介は一年生役やって?」沈黙に耐えられなかったのか、莉子は笑いに昇華することにしたようだった。
「ちょっと待てよ。それだと俺が一方的に怒鳴られなきゃいけねえじゃん」
「あの一週間を耐え抜いたんだから、大丈夫でしょ?」

 莉子は咳払いをして、真面目な顔を作り、「七席!」と大きな声を上げた。七席とは、俺の席次だ。「イス!」当時のように返事をする。「返事小せえ!」莉子が成り切って怒鳴ってくる。「いやいやいや、今のは小さくないでしょ」と俺が突っ込んでも、莉子の成り切りは解けず。俺は仕方なしに指導有志ごっこに付き合ってあげたのだった。
 そうして、俺たちはギリギリまで川辺にいた。日が暮れて、家に帰るのは少し名残惜しかったけれど、明日も会えるから、と手を振って別れたのだった。俺にはどうしても、莉子が生きているようにしか感じられなかった。北上川は、相変わらず激しく水を下流へ下流へと押し流していた。