きみを呼ぶのをやめるまで

 夜遅くまで出歩いていたせいで、俺は若干寝坊した。事情を聞いて何かを察した母さんは、学校を休んでもいいと言ってくれたが、俺は大丈夫と答えて家を出た。もちろん、莉子に会うためだ。
 学校に着くまでの道のりは、足取りが軽かった。だが、もし莉子がいなかったらどうしよう、と何度も不安が頭をよぎる。それを振り払うように、いつもよりも体を大きく動かすようにして歩いた。
 そして、学校に着いたが、莉子はいなかった。
 昨日約束したじゃないか。やっぱり、せめて莉子を家に送り届けるくらいはすればよかった。何時間かかったって、莉子と一緒ならば、苦じゃなかったはずだ。あのあと何があったのか何ひとつわからないのでは、心配がどんどん膨らんでいってしまう。
 結局、彼女が現れないまま、授業が始まってしまった。また国語の教師が教壇を飛び回って黒板を汚しながら古文を解説する。それでも、内容はほとんど入ってこなくて、終始上の空だった。
 休憩時間に亮司のもとへ向かう。お前、クマやばいぞ、なんて言われたが、ゲームで夜更かししていたのだろう、亮司だって大概だ。またウィダーを押し付けられそうになったが、今日はもう大丈夫だと言って押し返した。

「本当に大丈夫なのか? なんかお前、ハイになってないか?」
「なってねえよ。なんでこんな状況でハイになるんだよ」

 思わず突っ込んでしまう。だが、いい返しをしたのに、亮司の顔は晴れない。ちゃんと寝て休めよ、とだけ言ってテキストを取りに廊下に行ってしまった。
 数学の授業が始まる。難関大学の過去問が一問配られて、まずは二十五分間自分で考えてみる。それから周囲の友達と相談、最後に先生が解説、という流れでやることになっている。
 上の空とはいえ、数学なら勝手に手が動いてくれる。解答を書き進めていると、窓を通り抜けて、ふわふわと莉子が入ってきた。
 俺はそのあまりにも超現実的な現象に、思わずシャーペンを落としてしまった。声を上げなかっただけマシだろう。莉子はくすくすと笑って俺の近くに佇んだ。

「なんで窓から? って顔してるね。なんか、空も飛べるみたいなんだよね。便利な体」

 何か反応しようとしたが、そうすればクラス中についにおかしくなったかと疑われてしまう。まあ実際、俺が本当におかしくなってしまっただけなのかもしれないが。

「どこの問題解いてるの? あ、東北大か。さっすが、本当に颯介は数学得意だねえ」

 話したい気持ちもやまやまだが、この場所ではどうにもならない。お願いだから、教室では静かにしてほしい。間違って答えてしまいそうだ。

「ちぇ。颯介も答えてくれないし、一人で遊ぶことにする。まあ、答えられないのも仕方ないけどね」

 そう言って莉子は教室をふわふわ飛び回り始めた。時折、クラスメイトにちょっかいをかけている。最初は同じ部活の友達の髪の毛を掬おうとしたみたいだが、手が黒いモヤになってすり抜けてしまうので、諦めていた。すぐに物を落とす作戦に移行したようだ。実体がなくとも、なぜか物は触れるらしい。
 女子生徒、山崎(やまざき)彩奈(あやな)さんの机の上に置かれていたシャーペンが、床に落ちる。山崎さんは不思議そうな顔をして首を傾げ、ゆっくりと拾っていた。その様子を見て、莉子がケタケタと笑っている。これじゃあただのポルターガイストだ。
 俺は釣られて笑いそうになるのを必死で堪えながら、解答を書き切った。ちょうど、先生のタイマーが鳴る。近くの席同士で話し合うことになったが、いかんせん俺は解答を書き切っていて内容をすべて理解しているので、話し合う必要はない。近くのやつらがこぞって俺の解答に群がり、書き写していた。
 暇だから外を眺めることにした。今日はどんよりと曇っていて、そのせいか暑さもほんの少しだけ薄れているような気もする。とはいえ、盛岡は盆地だから、夏はしっかり暑い。セミは相変わらずうるさかった。
 今日は甲子園出場を目指して野球部が試合に出ているため、公欠だ。教室の暑さが和らいでいる気がするのは、そのせいかもしれない。一高が甲子園に出場すれば、記念館にあった新聞記事のように、またバンカラ應援が取り上げられるのだろう。まあ、今の野球部の強さでは、到底難しいだろうが。
 そうやってぼんやりしていると、視界の外から中央へ、莉子が現れる。

「わっ!」

 流石に声を上げることを抑えられはしなかった。周りの数人が一気にこちらを向く。

「どうしたの? 大丈夫……?」
「あ、ああ。大丈夫、ごめん」

 数人から不思議そうに見つめられたが、何度か大丈夫を繰り返したら、問題に目線を戻していった。批判の気持ちを最大限に込めて、莉子を睨みつけた。話し合い途中だからまだマシだったが、しんとしている問題演習時間だったらどうするつもりだったのだ。

「ごめんって。窓の外見てるから、暇なのかなぁって思っただけじゃん」

 解説の時間が始まる。数学の教師は淡々とチョークを黒板で滑らせていく。少し歳の行った人特有の、筆を手首のスナップで動かすような動きで、美しい字が次々と繰り出される様子を、なんとなく眺めていた。答えまでたどり着き、それが自分の出したものと一致したことを確認して、俺は自分のプリントをさっさとリュックにしまう。さっすがー、と本当に思っているのか微妙な棒読みの褒め言葉が、左から聞こえてきた。

「東北大の問題とはいえ、基礎を忠実にやっていれば、大して難しい問題ではないです。解けなかった人は、早めに二次関数の単元を復習しておくこと。受験までまだまだだと思っているかもしれませんが、案外早いものですよ」

 冷静な口調で諭すものだから、みんな無意識のうちに背筋を伸ばしていた。気になって左を見遣ると、莉子が少し寂しそうな顔をしていた。俺はそれを見て見ぬふりした。