亮司の家で行われた勉強会は、まったくと言っていいほど何の進捗も生まずに解散となった。いや、亮司はそれなりに進めていたが、俺は得意科目の数学ですら1問と解答を書くことができずに日が暮れてしまったのだ。途中からゲームに切り替えたが、それすらも凡ミスを連発。ほぼすべてで負けてしまい、最後は運ゲーをやることになってしまった。
家に帰り、もう一度Focus Goldを開いたが、結局何もできないまま時間だけが過ぎていった。シャワーを浴び終え、残業後に帰宅した父さんに軽く挨拶をして、ほぼ家着のままで外に出る。夜は昼間ほど暑くはないが、それでも気温は二十五度を上回っている。暑い。
どこをともなく、本町通りをぶらつく。最近できた二十四時間営業の大きな薬局の中に入って、なんとなくキレートレモンを買った。冷たい飲み物が欲しかっただけかもしれないし、すっきりしたかったのかもしれない。もしかしたら、体が疲労回復効果を求めている可能性もある。
気づけば、いつもの校舎が目の前にそびえ立っていた。調査のために人員が出入りするからだろうか、校門は開いたままだった。正門のすぐ左から立ち入り禁止のテープが貼られている。街頭があまり立っていないため、あたりはかなり暗い。もう職員室も電気は付いていなかった。こんな時間まで残業しているわけではないのだろう。持ち帰って仕事しているのかもしれないが。
アスファルトを踏み締めるようにゆっくりと歩き、白堊記念館へと足を進める。
何をやっているのだろう。自分でも理解ができない。
立ち入り禁止線を越えて、半壊した白堊記念館の瓦礫の間に足を下ろし、少しずつ中へと進む。半壊したとはいえ、手前の記念館の部分がぽっかり吹き抜けになっているだけで、奥側の食堂部分は壊れていない。
「ちょっとこれ見て! すごいよ」
残っている壁にかかっている史料を見ると、莉子の声が聞こえてくるようだ。目の奥がじんわりと熱くなってきて、思わずぎゅっと強く瞑る。今は何も考えないでいたいのに、次々と莉子との思い出が蘇ってくる。
彼女と初めて言葉を交わしたのは、中学二年生のとき。莉子はクラスで起きていたいじめに声を上げたのだ。案の定、次の標的が莉子になり、彼女はクラスのカーストを転げ落ちていった。俺は、なんでそんな面倒なことをするのだろうと疑問に思っていた。自分が損をするだけじゃないか、と。
教室で、どんな陰湿ないじめを受けようと、彼女は凛とした表情を崩さずに一匹狼を貫いていた。正義感と鈍感さを持ち合わせている人なのだろうと、勝手に思っていた。そうでなければ、できない所業だ。
ある日、俺が教室に忘れたプリントを取りに戻ったときのこと。
「なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ! 私は正しいことをしたのに! ふっざけるな!」
莉子が涙を流しながら、いたずら書きされた机を叩いていたのだ。俺は教室のドアのところで固まってしまった。
――鈍感じゃ、なかったのか?
いじめられている人を救えば、自分が代わりにいじめられるのなんか、簡単に予想できることだ。それでも、声を上げたのは、そうなってもいいからだと思っていた。でも、どうやら違うらしい。
「――いるんでしょ? 見たんなら話しかけるくらいしなさいよ」莉子は涙声で俺に声をかける。
「ごめん」
「言いたいことがあれば言えば?」鋭く睨みつけられて、たじろぐ。だが、この際疑問に思っていたことをぶつけようと思った。
「いや、その……泣くほど辛い目に遭うのなんか予想できたはずなのに、なんで助けたのかなって」
質問の意味が取れなかったのか、彼女は眉をひそめた。日が沈みかけていた教室で、艶のある髪が西日に照らされて明るい茶髪のように光っている。涙の跡も静かに輝いていた。
「見ていて気分が悪かったから。それ以外に理由ってある?」
「それでも、やらない人がほとんどだ」
「私は我慢できなかったの」
ひどい仕打ちに涙を流すことも、悔しさに怒り震えることもできたのだ、この少女は。むしろ、感情を無視できないタイプのようですらある。
俺はこのとき、すでに莉子に恋していたのだと思う。自分とは正反対とも言える、損得勘定とは無縁の存在。自然と心惹かれたのだ。
ふと、足元の瓦礫に挟まっている紙に気づき、拾い上げる。それは、莉子の探究活動を記録したメモのようなものだった。繊細で大人っぽい字が並んでいて、その懐かしさに口元が緩む。だが、次の瞬間、それはとてつもなく悲しいことであると気づいた。懐かしいと感じるということは、俺は莉子の死を受け入れ始めているということ。嫌だ、そんなの。
知らぬ間に、頬が熱いもので濡れていく。こんなにも、彼女への想いが心を乱すだなんて……!
「莉子! なあ、莉子。帰ってきてくれよ……返事をしてよ、莉子!」
立っている力もなく、瓦礫の山に膝をつく。涙でもう俺の顔はぐしゃぐしゃだろう。それでも、俺は莉子の名前を呼び続けた。
「お願いです、神様。俺がどうなってもいい。今後一生幸せなことが起きなくてもいい。だから、俺の元に莉子を返してください」
苦しいときの神頼みとはこのことだろう。でも、本当に何を引き換えにしてでもいいから、莉子に会いたい。寂しい。
白堊記念館に大きく空いた穴から、夜空がぽっかりと見える。田舎の、街灯が少ないところは、それなりに星が見えるものだ。今日もいくつか瞬いている。
「帰ろう」
いつまでもこうしていたって、仕方がない。そう思って、瓦礫に手をついてゆっくりと立ち上がり、埃を払った。そのとき、視界の端でゆらりと何かが動くのが見えた。
影が少しずつ形を成していく。それは人型になり、女の子の様相を呈する。まるで星が舞い踊っているように光が立ち上り、女の子は色を持ち始め、最終的に――莉子になった。
「り、こ……?」
彼女は泣きそうな顔で、笑った。俺は目の前の光景が信じられなくて、何度も瞬きして、一歩一歩その影に近づいていく。
「本当に、莉子なのか?」
ギリギリまで近づいて、彼女の両の手を俺の両の手で握ろうとした。だが、手は実体がなく、触れようとすると黒いモヤのようになってすり抜けてしまう。莉子はパッと手を引っ込めて、微笑んだ。
「私、幽霊みたい。でも、颯介」
変わらない少し低い声で、俺の名前を呼ぶ。
「――ただいま。私、帰ってきたよ」
家に帰り、もう一度Focus Goldを開いたが、結局何もできないまま時間だけが過ぎていった。シャワーを浴び終え、残業後に帰宅した父さんに軽く挨拶をして、ほぼ家着のままで外に出る。夜は昼間ほど暑くはないが、それでも気温は二十五度を上回っている。暑い。
どこをともなく、本町通りをぶらつく。最近できた二十四時間営業の大きな薬局の中に入って、なんとなくキレートレモンを買った。冷たい飲み物が欲しかっただけかもしれないし、すっきりしたかったのかもしれない。もしかしたら、体が疲労回復効果を求めている可能性もある。
気づけば、いつもの校舎が目の前にそびえ立っていた。調査のために人員が出入りするからだろうか、校門は開いたままだった。正門のすぐ左から立ち入り禁止のテープが貼られている。街頭があまり立っていないため、あたりはかなり暗い。もう職員室も電気は付いていなかった。こんな時間まで残業しているわけではないのだろう。持ち帰って仕事しているのかもしれないが。
アスファルトを踏み締めるようにゆっくりと歩き、白堊記念館へと足を進める。
何をやっているのだろう。自分でも理解ができない。
立ち入り禁止線を越えて、半壊した白堊記念館の瓦礫の間に足を下ろし、少しずつ中へと進む。半壊したとはいえ、手前の記念館の部分がぽっかり吹き抜けになっているだけで、奥側の食堂部分は壊れていない。
「ちょっとこれ見て! すごいよ」
残っている壁にかかっている史料を見ると、莉子の声が聞こえてくるようだ。目の奥がじんわりと熱くなってきて、思わずぎゅっと強く瞑る。今は何も考えないでいたいのに、次々と莉子との思い出が蘇ってくる。
彼女と初めて言葉を交わしたのは、中学二年生のとき。莉子はクラスで起きていたいじめに声を上げたのだ。案の定、次の標的が莉子になり、彼女はクラスのカーストを転げ落ちていった。俺は、なんでそんな面倒なことをするのだろうと疑問に思っていた。自分が損をするだけじゃないか、と。
教室で、どんな陰湿ないじめを受けようと、彼女は凛とした表情を崩さずに一匹狼を貫いていた。正義感と鈍感さを持ち合わせている人なのだろうと、勝手に思っていた。そうでなければ、できない所業だ。
ある日、俺が教室に忘れたプリントを取りに戻ったときのこと。
「なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ! 私は正しいことをしたのに! ふっざけるな!」
莉子が涙を流しながら、いたずら書きされた机を叩いていたのだ。俺は教室のドアのところで固まってしまった。
――鈍感じゃ、なかったのか?
いじめられている人を救えば、自分が代わりにいじめられるのなんか、簡単に予想できることだ。それでも、声を上げたのは、そうなってもいいからだと思っていた。でも、どうやら違うらしい。
「――いるんでしょ? 見たんなら話しかけるくらいしなさいよ」莉子は涙声で俺に声をかける。
「ごめん」
「言いたいことがあれば言えば?」鋭く睨みつけられて、たじろぐ。だが、この際疑問に思っていたことをぶつけようと思った。
「いや、その……泣くほど辛い目に遭うのなんか予想できたはずなのに、なんで助けたのかなって」
質問の意味が取れなかったのか、彼女は眉をひそめた。日が沈みかけていた教室で、艶のある髪が西日に照らされて明るい茶髪のように光っている。涙の跡も静かに輝いていた。
「見ていて気分が悪かったから。それ以外に理由ってある?」
「それでも、やらない人がほとんどだ」
「私は我慢できなかったの」
ひどい仕打ちに涙を流すことも、悔しさに怒り震えることもできたのだ、この少女は。むしろ、感情を無視できないタイプのようですらある。
俺はこのとき、すでに莉子に恋していたのだと思う。自分とは正反対とも言える、損得勘定とは無縁の存在。自然と心惹かれたのだ。
ふと、足元の瓦礫に挟まっている紙に気づき、拾い上げる。それは、莉子の探究活動を記録したメモのようなものだった。繊細で大人っぽい字が並んでいて、その懐かしさに口元が緩む。だが、次の瞬間、それはとてつもなく悲しいことであると気づいた。懐かしいと感じるということは、俺は莉子の死を受け入れ始めているということ。嫌だ、そんなの。
知らぬ間に、頬が熱いもので濡れていく。こんなにも、彼女への想いが心を乱すだなんて……!
「莉子! なあ、莉子。帰ってきてくれよ……返事をしてよ、莉子!」
立っている力もなく、瓦礫の山に膝をつく。涙でもう俺の顔はぐしゃぐしゃだろう。それでも、俺は莉子の名前を呼び続けた。
「お願いです、神様。俺がどうなってもいい。今後一生幸せなことが起きなくてもいい。だから、俺の元に莉子を返してください」
苦しいときの神頼みとはこのことだろう。でも、本当に何を引き換えにしてでもいいから、莉子に会いたい。寂しい。
白堊記念館に大きく空いた穴から、夜空がぽっかりと見える。田舎の、街灯が少ないところは、それなりに星が見えるものだ。今日もいくつか瞬いている。
「帰ろう」
いつまでもこうしていたって、仕方がない。そう思って、瓦礫に手をついてゆっくりと立ち上がり、埃を払った。そのとき、視界の端でゆらりと何かが動くのが見えた。
影が少しずつ形を成していく。それは人型になり、女の子の様相を呈する。まるで星が舞い踊っているように光が立ち上り、女の子は色を持ち始め、最終的に――莉子になった。
「り、こ……?」
彼女は泣きそうな顔で、笑った。俺は目の前の光景が信じられなくて、何度も瞬きして、一歩一歩その影に近づいていく。
「本当に、莉子なのか?」
ギリギリまで近づいて、彼女の両の手を俺の両の手で握ろうとした。だが、手は実体がなく、触れようとすると黒いモヤのようになってすり抜けてしまう。莉子はパッと手を引っ込めて、微笑んだ。
「私、幽霊みたい。でも、颯介」
変わらない少し低い声で、俺の名前を呼ぶ。
「――ただいま。私、帰ってきたよ」



