きみを呼ぶのをやめるまで

 7月27日。俺はたった1日休んだだけで、学校に復帰した。課外なのだから休んでもよかったのだが、家で一人何もせずに虚ろを眺めるのは気が滅入りそうだったのだ。蝉の鳴き声が救いだと思ったのは、生まれて初めてだ。
 だが、教室に入った俺の目に一番に飛び込んできたのは、莉子の机の上に置かれた花瓶とそこから寂しげに首を垂れる一輪の花。いじめで自殺した子の席にやられることではないか。惨めなこと極まりない。
 前の扉から教室に入ることができなくなった俺は、後退りして一度廊下に戻り、後ろのドアから入ることにした。
 自分の席にいつものように荷物を置き、すぐに気づく。授業を受けるにあたって、黒板を見ようとすると、どう頑張っても莉子の席が目に入ってきてしまう。勉強に集中しようとしても、彼女がいないという事実がじわじわと迫ってきて、できるわけがない。
 とりあえず始業までは見ないようにしよう。そう決めて、俺は机に伏せて寝たふりを決め込むことにした――のも束の間、俺の眠りはすぐに妨げられてしまった。

「ねえ、及川くんって莉子ちゃんと一緒に白堊記念館にいたんだよね……? 何があったの?」
「隕石衝突ってニュースでは言われてるけどさ、わたし聞いちゃったんだよね。その肝心の隕石がいくら探しても見つからなかったって。一緒にいた及川くんなら何か知ってるかもって思って」

 女子グループがこぞって俺の席の近くに来ている。俺がラブコメの主人公なら、喜んで話に応じていたことだろう。だが、あいにく俺は莉子一筋の男だ。女子に囲まれても面倒なだけだ。
 それに、誰がこんな問いに答えたいと思うのだろうか。男女が二人で白堊記念館にいたのだ。恋愛の予感を察することくらい簡単だろう。そうでなくとも、俺と莉子の関係の深さは理解できるはずだ。なぜこんなにも配慮の欠いた質問ができるというのだ。
 俺がなんと話を終わらせるべきか考えあぐねているところに、低音ボイスが挟まる。

「やめとけよ。空気読めないの? 颯介が今どんな気持ちかわかってて聞いてる?」
「え、ごめん……」

 亮司に詰められ、女子たちは呆気なく引き下がっていった。いつもおちゃらけてヘラヘラしているやつが真面目なトーンでキレ出したら、女子としては非常に怖いのだろう。

「さんきゅ」
「おう。ってか、学校来て大丈夫なのか? 別に休んでもいいじゃねえか。どうせ課外なんだし」
「まあそうなんだけど、家にいてもな」
「そっか」

 心配そうに、すべてを悟ったような笑みを浮かべる亮司は、また俺にウィダーインゼリーを差し出して自分の席に戻っていった。
 時計の長針が真下を回って、国語の教師が入ってくる。古文のテキストを開くように指示され、俺はゼリーを片手にページをめくった。先生は明らかに俺の手元にあるものに注目していたが、見て見ぬふりをした。気を遣ってくれたのだろうか。
 ただでさえ気が滅入りそうな暑さに加えて、身が千切れそうな哀しみと寂しさに本当に発狂してしまいそうだ。叫び声を上げて教室を飛び出してしまいたい衝動を、すんでのところで押さえている。ゼリーは、亮司が近くのコンビニで買ったのだろうか、まだ十分に冷たくて、それだけが拠り所になっていた。
 先生は五十代くらいの女性で、演劇をやっていたという経験からか動きが派手で、黒板はあっという間に現代アートと化す。口ぶりも面白おかしく、クラスメイトは誰一人として寝ていない。人を惹きつけるのが上手いのだ。理系一筋の俺だって、普段は耳を傾けてしまう。
 でも、今日だけは無理だ。ここに来ているだけで、あとは何もできなくても許してほしい。
 なんとか授業を終え、亮司のところに向かう。

「明日にでも、課題やんねえ? どうせ暇だろ」彼は短い足で机を一定のリズムで蹴りながら言った。「ああ。じゃあここでいいか?」口から飛び出たのは、なんとも気の抜けた声。なんだか、とてつもなく疲れたような気がする。「なあ、莉子も来るだろ?」いつものように亮司の奥を見遣って、そう言おうとした。だが、すぐに気づく。

 ――そうだった。莉子は、もういない。

 亮司は俺が何を言おうとしたのか、気づいたみたいだった。気づいて、気づかないふりをした。それが俺にはありがたかった。
 
「やっぱ、お前ん家にしよう。それでいいか?」
「おう、親に言っとくわ。そんで、お前帰らないの? 俺、もう帰るけど」
「あー、すまん。ちょっと残るわ。先帰ってて」

 亮司を見送って、俺は自席に戻った。中学の頃部活で使っていたタオルを頭にかけ、机に突っ伏す。イヤホンからは爆音で音楽を流した。流行りのポップスだ。好きな曲なんて聴いたら、莉子が生きていた頃を思い出してしまう。紐づいている記憶が浅い最近の曲しか聴くことができない。
 ――寂しい。寂しい。寂しい。
 俺はこんなにも、阿部莉子という人間が大好きで、彼女なしには生きていけないほどに、愛していたのだ。この気持ちを、伝えておくべきだった。そうしたら、彼女はなんて答えたのだろうか。照れながらそっぽを向いて、私も、と言ってくれただろうか。それとも、恋愛なんて興味もない、と一蹴されたかもしれない。
 想像することしかできない。もう、答えを聞くことはできないのだ。
 本気で恋していたのに、本気で向き合うことをしなかった。どうして、損得勘定ばかりを優先して、保身に走ってしまったのだろう。
 数回腕まくりをして、少し厚くなったワイシャツの袖が濡れて滲みていく。机にもぽたりぽたりと雫が滴り落ちる。
 こうやって腕と自分の頭と机で囲んだ暗い宇宙のような空間に、何かの拍子で莉子が戻ってきてはくれないだろうかと、そんな意味のない空想もした。普段は信じていない神などという非科学的なものにさえも、何度も祈った。それでも、当たり前だけれど、莉子はどこにも現れなかった。