きみを呼ぶのをやめるまで

 どれだけの期間、そうしていただろうか。遠くから聞こえる、もう一人の俺の声が段々と強くなって、また、同時に焦りを多分に含んだ莉子の俺を呼ぶ声も聞こえてきて、俺は目を覚ました。俺はすぐに悟る。ここは、あちら側の世界の手前だ。いわゆる、境界だと。俺は死ぬギリギリのところにいるらしい。あれ以上、夢の中に居座っていたら、ここに来ることもなく、死んでいただろう。
 そこは、水中だった。温かい水の中を漂っている。水面はかなり遠くて、深いところにいるようだ。かといって、地が見えるわけでもなく、どこまでも深く潜れるようでもある。
 不思議なことに、水中なのに息ができた。なんだか居心地が良くて、ずっとこうしていたいと思った。揺蕩っているだけ。ここにいたら、何もしなくていいのだと思うと、それはそれで幸せな気がした。
 でも、足りない。俺は、莉子と一緒にいたいのだ。莉子はどこにいる?
 水をかき分けるように進んでいく。密度を持ったそれは、ゆっくりと、しかし確かに俺の手に抵抗を与える。
 息はできるのに、声は出せないようだった。だから、頭の中でひたすら彼女の名前を繰り返し呼んだ。彼女の姿を具体的にイメージして。茶髪のボブ、白い肌に整った顔立ち、まっすぐに俺を見つめる真剣な瞳、華奢な体、美しい彼女に不釣り合いな、一高のダサい制服。
 かなりの距離を進んだ気がしている。やっとのことで、莉子を見つけた。彼女も俺と同様、ゆったりと揺蕩っていた。その表情を見た瞬間、彼女が俺を助けてくれたのだと気づいた。俺をあの仮初の幸せの夢から引っ張り出してくれたのは、彼女なのだと。
 莉子の華奢な体に向かって、精一杯手を伸ばす。だが、何度手を伸ばせど、彼女は自らの手を差し伸べてはくれなかった。ただ優しい笑みを浮かべて、俺を見つめているだけだ。どうして? 俺と一緒にいたくないのか? 問いかけようにも、口からごぼごぼと空気が漏れるだけで、声にはならない。
 走馬灯のように、莉子との思い出が蘇ってくる。

 ――出会ったとき、莉子は泣いていた。悔しいと言いながら。俺はそんな彼女が気になり始めた。きっと、あのときから、恋していたのだ。莉子と交わした約束を大切に胸に抱えて日々を過ごすうちに、俺は少しずつ本気になっていた。何に対しても本気になれない俺が、だ。
 それからも、莉子はずっと執拗ないじめを受けていた。移動教室のときに、カースト上位の子にぶつかられて教科書や筆箱を落とした彼女。俺はそれを見て、黙って拾ってあげた。彼女に頑張ってほしかったのだと思う。逆境に負けないでほしかった。明確に助けることはしなかった俺は、本当に弱かったと思う。でも、確かに俺は、彼女を応援していたのだ。そして、莉子はそんな俺を、理解できないとでも言うように顔をしかめて、ぶっきらぼうに礼を言った。そんなところさえも、勝気な莉子らしくて、惹かれていったのだ。
 そんなやり取りを何度かしたのち、状況は改善も悪化もしないまま、クラス替えを迎えた。また俺たちは同じクラスになる。新しいクラスは、幸いカーストという概念はなかった。代わりに二つの女子グループが睨み合っての臨戦状態だった。彼女は争いを避けたかったのだろう、そのどちらでもない争いの外にいたグループに所属。莉子に、やっと平和な日常が訪れたのだった。
 俺はその辺りから、積極的に莉子に声をかけるようになった。あれだけ関係構築に力を入れたことはない。いつもは最適解だけを選んで適当に受け流すだけで、ある程度の人気者の地位を得ていたのだから。
 それからは、行動を共にする機会が増えて、一緒に県内トップ校である一高を受験した。毎日が楽しかった。彼女と一緒に時を歩んでいること自体が、俺の最大の幸福だったのだ。
 ああ、俺は本当に、この人のことが好きだ。愛してやまない。ずっとそばにいてほしい。俺だけを想っていてほしい。莉子が先に死んでしまうなんて嫌だ。
 俺は今、どんな顔をしているのだろうか。きっとぐちゃぐちゃだろう。でも、莉子はそんな俺を笑わないで、俺が何かをするのをずっと、ただじっと待っている。
 今の俺は、すべてを悟っている。一緒にいたい。でも、そうやって俺が莉子を呼び続ければ、彼女をずっと現世に留め続けることになってしまう。俺はここで、彼女に向けて伸ばしている手を引っ込めなくてはならないのだ。
 苦しくて、悲しくて、涙が出てきた。でも、涙の粒はあたりを満たしている温かい水の中に同化して消えていく。
 決意を込めて、莉子に向けて開いていた右の手のひらを握りしめ、それを自分のほうへゆっくりと手繰り寄せた。嗚咽が漏れ、胸が苦しくて、その拳で胸を押さえる。莉子の顔が見れない。
 ああ、どうして俺は、こんなにこの人のことを好いてしまったのだろう。どうして、愛してしまったのだろう。莉子じゃなければよかったのに。
 でも、そんなこと思いたくない。俺は紛れもなく、莉子だから莉子を愛したのだし、他の誰かだったら、こんなにも好きになってはいなかったはずだ。
 涙は次から次へと溢れて止まることを知らなかった。
 それでも、水面からわずかに届く光を受けて輝く莉子が、それはそれは美しくて、儚くて、目に焼きつけようと決意した。