きみを呼ぶのをやめるまで

 その夜のことだった。まだ退院できない俺は、莉子と他愛ない話をしたり、スマホでゲームをしたりして過ごした。左目だけでゲームをするのは結構難しかった。動物は、両目で視覚のバランスを取っているのだということを、知識では知っていたが、今回初めて理解した。
 病院は消灯時間を過ぎ、水を打ったように静かだ。ぼんやりと病院の窓の外を眺める。今は難しいことを考えるのはやめようと、ただ盛岡の景色に浸っていた。遠くに見える緑に囲まれたところは、盛岡城跡公園だろう。ついこの間、石川啄木ごっこと称して授業を抜け出して遊んだ場所だ。近くを流れる川は北上川。一高の應援歌には必ずと言っていいほど登場する川だ。宵闇の中、街灯が水面に反射している。
 そのとき、ゆらりと、遠くであの見覚えのある黒い光が立った。あ! と思わず声が漏れる。莉子も気づいたようだった。ああ、俺は今度こそ、右目どころではなく、色々なものを失うのかもしれないな、と若干の後悔が過ぎる。
 だが、結局その一瞬の間に、俺は決断をすることができなかった。黒い光は徐々に強くなり、太さを増し、恐怖に支配される。莉子の姿が揺らぎ、薄れて消えかけている。どうして? 俺はまだ何も決めていない。何も伝えていないのに!
 焦りから、莉子のほうへと手を伸ばすが、電源を急激に落とされたように、俺は夢の世界へと連れ出される。
 なんだ? 何が起きている? 瞬間移動ではないのか? ここはどこだ? 莉子は無事か?
 思考が次から次へと巡る。だが、どの問いにも答えが出ないまま、何もない世界へと体がどんどん進んでいく。そのうちに、今何を考えていたのか、最近俺がやっていたこと、すべてを覚えていられなくなっていく。忘れていく。
 忘れちゃダメだ。考え続けなければならない。脳が警鐘を鳴らしているが、体が言うことを聞かず、どんどん記憶がなくなっていった。

 目が覚める。――ああ、そうか。俺は一高で授業を受けていたのか。英語の眠たい授業で居眠りしてしまっていたらしい。汗でノートがふにゃふにゃになっている。窓の外を見ると、飛行機雲がまっすぐ空を分断していた。
 いつものように、同じ列の前から二番目の席を眺める。莉子は今日もかわいい。後ろ姿だけで、その可憐さがわかる。切り揃えられた明るい茶髪のボブカットは、彼女がノートから顔を上げるたびにさらさらと揺れる。
 こんな毎日がずっと続くんだ、そんな気がした。来年は俺が理数科に、莉子が文系に進んで、クラスは違ってしまうが、それでも放課後はたまに遊んだり、勉強会を開いたり。そうして、きっと同じ大学に行くんだろう。そして、お互い結婚はせず、ずっと曖昧な関係のまま、でもお互いが異性の中で一番であることは変わらず、たまに会って語り合う。そんな関係がずっと続いていく。俺たちが爺さん婆さんになっても、ずっと。
 俺はまた眠気に抗えず、机に伏せて寝始めた。そして、次に起きたときにはもう放課後になっていて、いつものように帰り支度をする前に亮司のほうへと向かう。もちろん、莉子と話すためでもある。

「部活、頑張れよ」
「うん、今日は練習試合があるの。私は出ないけど、リスニング頑張らなきゃ」
「そうか。いやー、英語ディベートなんて、俺は一語も聴き取れなくて何にも貢献できなそうだわ」莉子は俺の言葉に呆れたように笑う。
「英弱、なんとかしなさいよ。リスニングなんて、英語の動画見ていたらなんとかなるでしょ」
「えー、余暇の使い方が英語の動画を見るだなんて、俺は耐えられないね」
「じゃあ仕方ない。あんたは一生英弱のままでいなさい」

 部活行くから、じゃあね、とさらりと手を振って、颯爽と教室を出ていく彼女の後ろ姿は、窓から入ってきた日の光に照らされて、神々しく見える。今、俺はそんな相手と対等に喋っていたんだ、と喜びが突き上げてくる。

「お前、いつ告るん?」亮司がニヤけながら聞いてくる。いつものことだ。俺は当然のように、決まった回答を返す。「告んないよ。俺らにとって、そういう行動は野暮なの」「意味わかんねー」亮司はバカにするように笑っていた。

 お前にはわからないだろう。彼女はもちろんのこと、仲のいい女子だっていないのだから。俺にしかわからないし、それで十分だ。
 ふっと意識がズレて、別の日に飛んだようだ。俺は夢を見ているのだろうか? 家に帰ってからの記憶が何もない。今日どうやって学校に来たのかすら、覚えていない。
 まあきっと、寝ぼけているだけだろう。俺は適当に結論づけて、数学の問題集を開いた。ノートの真ん中に縦線を引き、丁寧に論理を積み上げていく。その途中、なんと珍しく、莉子のほうから俺の席の近くに来てくれた。思わず手を止める。

「颯介」名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。こんなに幸せなことがあっていいのか? いつもは俺から誘うのに、莉子のほうから声をかけてくれるだなんて。
「何?」動揺を悟られないように、平静を装う。
「今日、オンライン勉強会しない? 数学でわかんない問題があって。ついでに英語教えるから」
「いいよ、やろう。先に解いておきたいから、問題番号教えて」

 一ヶ月分のラッキーを一度に使い果たしてしまったようだ。今月はとことん赤信号にぶつかることだろう。
 気づけば、もう放課後になっていて、家でオンライン通話をつないで、莉子と勉強会をしていた。俺が画面共有をしながら数学の問題をいくつか解説する。
 休憩がてら、どうでもいい話を次から次へと話し合った。英語部で起きたこと、亮司と話したこと、福田パンでは何味が好きか、今度駄菓子屋に行きたいだの、とにかく他愛のないことを。福田パンに関して言えば、俺はピーナッツバター一択だが、莉子は王道のあんバター派らしい。甘党の彼女らしくて、笑ってしまった。

「ねえ颯介」低いのに、甘さを孕む声で、莉子が俺の名を呼ぶ。
「ん?」
「私たち、ずっと一緒にいようね」
「えーあの勝気な莉子が珍しい」
「茶化さないでよ!」

 もちろんだよ、と返した。本当に嬉しかった。ああ、莉子も俺と同じように、この関係がずっとずっと続くことを望んでいるのだ。だから、告白などせずに、一緒にいよう、という言葉を使った。自分の気持ちに正直な莉子が、明らかに俺のことを好きなのに、好きと言わないということは、そこには固い決意と信念があるからだろう。それはきっと、俺と同じものだ。

「俺、ずっと高一でいたいな。今が最高潮な気がする」
「そんなことないでしょ? ほら、それ日本人あるあるだよ。五年後の幸福度が今よりも下がっていると考えている人が、日本人は極端に多いの」
「終わってるじゃんか、日本」
「私は五年後なんて可能性に満ち溢れていて幸せだと思うけどなぁ……」
「今より?」
「今も幸せだよ? そして、五年後も幸せ。だって、私はいつだって、自分が幸せであるように選択しているもの。でも、今が最高潮だって浸りたくなる気持ちもわかる。不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心、だね」

 実に莉子らしい発言だ。
 俺も純粋に、未来が幸せだと、そう思いたい。いや、確かに幸せだろう。だって、莉子と一緒にいるのだから。それはどうしようもないほど、言葉では言い表せないほどに、幸せなはずだ。
 そうやって、どれほどの時を過ごしただろうか。いつの間にか、俺は大人になっていた。それでも変わらず、莉子と一緒に笑い合っていた。これが最高だと信じて疑わなかった――。