きみを呼ぶのをやめるまで

 翌朝。いや、朝というか明け方だ。病院の起床時間はまだのようで、暗いままだ。日が短くなりつつあるのか、日の光も部屋には入って来ていない。
 病室の端っこに、黒っぽい人影が見えて、莉子かと思ったが、自分のすぐ左上にその張本人がいる。つまり、あれは――。

「幽霊……」
「やっぱりそうだよな……病院、だからか?」

 怖いとは思ったが、莉子だって幽霊なわけだし、意外にも存在をすっと受け入れることができた。俺たちが存在に気づいたことに気づいたのか、幽霊はスーッと移動して、こちらに近づいてきた。流石に身構えた。また戦闘が始まるのかと思ったからだ。
 だが、攻撃をしてくる様子はない。どうやら女性らしいその幽霊は、俺たちを不思議そうに見ていた。人間と幽霊の組み合わせだからだろうか。

「あなたは、ここの病院で亡くなったの?」莉子が声をかける。積極的なこと。好奇心という感情も無視できないのが彼女という人間だ。
「そうです……。わたしは未練を残したまま、病で命を落としました。だからこうして、地縛霊となってしまったのです。地縛霊と言っても、病院内はある程度動けますけど」

 幽霊と普通に話が通じているのが、なんだか面白い。なかなかできない体験だろう。

「――いつから、ここに?」莉子が震える声で聞いた。なぜ先ほどまでは興味津々といった様子だったのに、途端に緊張してしまっているのだろう。
「気づいたらここにいたのですが、とはいえつい最近だと思います。それまでは、不思議な世界をふわふわと漂っていたような……」
「あ、ああ……」莉子は合点が行ったような顔をして頷く。幽霊同士でしか通じ合えないこともあるのだろう。莉子はそれきり、黙りこくってしまった。
「あのぅ、わたしから質問しても?」
「いいですよ」俺が代わりに答える。
「お二人はどういった関係で? 恋人同士でしょうか?」
「いや、同級生で、仲がいい友達、といったところでしょうか」すかさず答える。「ですが、数ヶ月前、事故で彼女が亡くなりまして。俺がその場所をもう一度訪れたとき、不思議と彼女が幽霊になって現れてくれて。それ以来、一緒にいます」
「なるほど……本当に仲がよろしいのですね」

 沈黙が訪れる。俺はせっかくだからこの機会を楽しもうと思って、積極的に質問を投げかけることにした。

「彼女、ええと、莉子と言うんですが――莉子は幽霊になってから、ある程度の軽さの物ならば触れるが、人と触れ合ったり、大きな物を動かしたりするのは基本的にできないと言っているんです。あなたも同じ感じですか?」
「ああ……確かにそうですね。同じだと思います」
「へええ。じゃあ、ええと、食べ物も食べられないですかね。あ、病院だと食べることもないか」
「幽霊になってからは、食べたことはないです。どうなんでしょうか」

 普段どんなことをして過ごしているか、医者や看護師が仕事の山にため息をつきながら働いていることなど、とにかく色々なことを話してもらった。それから、話の内容は先ほど彼女が述べていた”未練”の話へと移っていく。

「何に未練を抱えていらっしゃるんですか? もちろん、話しにくいことは全然話さなくて大丈夫ですが……」病院の起床時間がやってきたようだった。看護師がやってきて、一度話は中断されてしまったが、出て行ってからまた話し始める。隣のベッドに人がいるらしいが、俺はもうなんと思われようとどうでもよかった。
「そうですねぇ……もう死んでいる身なので、話しにくいなんてことはないのですが、恋人がいたのですよ。彼を残して死んでしまったことが、単純に悲しいのです。だからと言って、彼はこの病院で働いているんです。だから、ここで診てもらっていたし、ここで死にました。そして、そのままここに幽霊として蘇ったわけですね」
「そうだったんですか。彼氏さんの様子はたまに見に行っていらっしゃるんですか?」
「ええ。仕事の場だから涙こそ見せていませんが、明らかに意気消沈しているのが感じ取れます。だからこそ、余計に未練があって……」

 ありきたりな話のように感じられたが、それでも、いや、だからこそ、彼女の辛さは十分に伝わってきた。

「もし、ですが、未練を解消できたら成仏できると思いますか?」俺は、現状の最大の関心事をつっこんで聞いてみる。
「できると思います。直感に過ぎませんが」
「どうやったら未練を解消できると思います?」
「――そうですね。彼と一度話せばいいかもしれません。もしかしたら、余計に離れがたくなってしまうかもしれませんが、自分ではもう少し生きれると思っていたので、伝えたいことを伝えられず死んでしまった。それを思う存分伝えることができたら、未練はなくなるのかも」

 同情心はある。彼女を未練から解放してあげたいと思う気持ちはあった。だが、それ以上に、なぜかはわからないが、単純な興味があったのだ。俺はこの人の未練解消を手伝ったほうがいい。そんな気がする。それは俺の役に立つだろうという直感があった。
 莉子は黙り込んだまま、俺たちの会話を静かに聞いている。相手は彼氏持ちなわけで、嫉妬することもないだろう。いや、そんなことを考えるのは傲慢かもしれない。

「もし、俺がその方にあなたの通訳となって未練解消を手伝うって言ったら、嬉しいですか? 正直に教えてほしいんです」女性は目を見開いた。
「確かに、そういう方法はありますね。わたしを見える人はこれまでいたのかもしれませんが、実際にお話しできた人はあなたが初めてなので、思いもよりませんでした……。いいんですか?」
「ええ。あなたさえ良ければ、俺がお手伝いしたい」

 女性はしばらく迷っていたようだった。話ができる最後の機会とあれば、迷うのも仕方がないだろう。このまま喋ることができなくとも、ただそばにいて彼を見守り続ける選択だってあるのだから。
 だが、最終的に彼女は決心した。これでもう、未練を解消して成仏する、と。

「彼氏さんは医師ですか?」
「ええ。ここの科で働いているので、比較的呼びやすいかと。名前は園田(そのだ)あきらです」
「わかりました。ちょっと呼べるか聞いてみますね」

 何をしているのだろう、俺は。疑問に思う気持ちもあったが、それでも、やるべきだと叫ぶ一人の俺の声に逆らうことはできなかった。ナースコールを押して、看護師に園田先生という医者を連れてきてほしいと言った。担当患者ではないから、と言われたが、何度か押し問答を繰り返し、無理やり許可をもらった。本当に何をしているのだろう。合理的に人間関係を作っていくのが俺のスタイルではないのか。
 しばらくして、園田という男がやってきた。なるほど、女性と同じくらいの年齢で、痩せこけている。もともとなのか、彼女を失ったショックからなのかはわからない。

「お忙しいところ、わがままを言ってすみません。どうしてもお伝えしたいことがありまして。――中島美里(なかじまみり)さんのことについてです」名前を出した途端、彼は訝しげに眉をひそめる。
「なぜあなたが彼女の名前を?」
「信じられない話をするので、覚悟していただきたいのですが……今、あなたの右隣、そう、そこには美里さんがいらっしゃいます」俺が指差したあたりに目を向け、さらに困惑した様子を見せる。
「何を言っているのでしょう? 彼女は一年も前に亡くなっています」
「幽霊なんですよ。俗に言う地縛霊だそうです。数ヶ月前から、この病院に現れて、あなたのことを見守っていた、と言っています」俺は真剣に、真摯に言葉を繰り出した。園田さんは信ずべきか信ずるまいか、判断がつきかねているようだった。
「そうですか……」とりあえず受け入れることにしたようだ。
「彼女の未練解消に、俺が手伝うと言ったのです。成仏のために」
「つまり、彼女は成仏できないでいる、と?」
「ええ。思ったより早くに命が尽きてしまったから、伝えたかったことを言えなかったらしいのです」

 美里さんは不安そうだった。上手くいくかわからないからだろう。

「だから、俺が通訳になって、美里さんの気持ちを園田さん、あなたに伝えます。信じるか否かはあなたにお任せしますが、とにかく聞いてください」頭の半分を包帯でぐるぐる巻きにされている俺は、左目だけでまっすぐに園田さんを見つめる。彼は、わかりました、とだけ言って、傾聴の姿勢を見せた。美里さんの言葉をそのままなぞって伝える。
「……最後まで助けてくれてありがとう。あきらがこの世で一番大好きで、愛しています。でも、思い出は全部まとめてわたしが天国に持っていくから、あなたはわたしのことを少しずつでいいから忘れて、あなたらしい人生を生きてほしい。それがわたしの一番の望みです。比較的短い人生だったけれど、あきらに出会えて本当に幸せだった。だから、あなたにも幸せな人生を歩んでほしいの、と言っています」

 最初は疑いが半分くらい混ざっていただろう。だが、俺が言葉を伝えていくうちに、園田さんの顔がみるみるうちに歪んでいって、涙を堪え始めた。そしてすぐに、それは決壊した。嗚咽をこらえるようにところどころで深呼吸を挟みながら。美里さんは伝わったことに安堵したのか、静かに涙を流している。つられたのか、莉子も泣いているようだった。
 俺は涙こそ流さなかったが、じんわりと温かい気持ちで心臓が満たされるのがわかった。本当の愛を目の当たりにしているようだった。美里さんは早くに死んでしまって、園田さんは早くに彼女を亡くしてしまって、辛いことは辛いだろうが、これこそが宮沢賢治の探していた”ほんとうのさいわい”なのではないかと、俺は思った。

「……そこにいるんだね、美里。ぼくこそ、本当に感謝してるんだ。仕事でなかなか時間を取ってあげられなかったのに、不甲斐ない彼氏なのに、精一杯愛してくれてありがとう。――忘れることなんてできないよ。でも、美里が心配しないように、少しずつ前を向くよ」泣きながら、無理やり笑顔を見せて、ゆっくりと、一言一言を語りかけるように、美里さんのほうへと声をかける園田さん。
「それでいいよ、だそうです」園田さんは一瞬きょとんとして、すぐに笑い出した。
「美里らしいな。すっかり信じてしまったよ」
「俺、ちょっと試したいことがあるんです」

 二人に説明する。できなかったとしても、がっかりはしないでほしいこと。俺の仮説では、生きている側の園田さんが”力”を呼べば、触れ合うことができるかもしれないこと。もちろん、お互いが呼び合うことが大事であること。

「わかりました。やってみましょう」園田さんが言うと、美里さんが彼に近寄っていく。その距離感が、確かに恋人同士だったことを裏づけていた。彼が、精一杯の笑顔で「美里」と呼ぶと、美里さんも「あきら」と泣きながら呼びかけた。

 すると、見覚えのある白い光が、美里さんの体から立ち昇り始めて、園田さんが「あっ」と小さく叫ぶ。見えるようになったのだろう。咄嗟に大切そうに美里さんの体を包み込んだ。無事、力が呼ばれて実体を持てたようだ。
 
「あきら、愛してる。じゃあね」
「愛してるよ、美里。天国で待っていてよ」

 美里さんは「うん」と静かに言うと、その体は足元から白い光の粒になって、美しく、儚く散った。「待って……」園田さんの心の奥底からの言葉は届くことはなかった。彼はしばらく人を抱きしめる体勢のままだったが、しばらくして、実感が湧いたのか、膝から崩れ落ちた。俺がベッドから手を伸ばして、彼の背中に手を当てると、無理に笑った顔がこちらを向いた。

「本当にありがとう。今は悲しくて仕方がないけど、でも、多分もう大丈夫だと思います」

 俺はこのとき初めて、これまでの合理を優先する関係の築き方では、真の幸せを掴み取ることができないことに気づいた。同時に、現状が招き得る結末を悟ってしまった。
 莉子は、いつの間にか泣き止んでいて、何かを考え込んでいるようだった。