きみを呼ぶのをやめるまで

 颯介は何もわかっていない。私と一緒にいることが最大の幸福だと信じて疑っていないのだ。
 ――私は、どうしたらいい?
 彼によって呼ばれた身である以上、自ら消えることはできないようだ。急所があるとも思えない。未練を解消したら成仏できるなんていうお話もあるようだけれど、自分の場合は違うのだろうと直感している。
 颯介が眠ってしまって、学校に戻った。これ以上あの場所にいたら、すべてがダメな方向に向かっていく気がしたから。
 もちろん、颯介が私のことを大切に思ってくれているのは嬉しい。とてつもなく嬉しい。だって、私は颯介が好きだから。きっと、颯介も、口には出さないけれど私のことが好きなのだろう。それは、お互いに一緒にいたいと願うのが当たり前だ。何も間違っちゃいないのだろう。
 けれど、普通の関係とは違う。私は幽霊で、彼は生身の現実を生きる人間なのだ。本来ならば、死んだ人と生きている人は言葉を交わすことができない。世の真理の例外、特別な道を歩いているのだ、私たちは。
 そして、特別なものには必ず代償がつきまとうものだ。それがきっと呼んだ側の消耗、そしていずれ訪れる、死――。
 颯介には死んでほしくない。自分が死んでおいて、身勝手なことを言うようだけれど、颯介には、私の分まで幸せに生きてほしいのだ。私のことなんて忘れて。
 でも、そうは言っても、私だって一緒にいたい。颯介が消耗なんてどうでもいいなんて言うから、私も説得を諦めたくなってしまう。自分勝手にも、彼が死んでしまうかもしれない道を選んでしまいたくなる。
 私は、一体どうしたらいいのだろう。

「ねえねえ、聞いた? 鳩少の前で、気づいたら怪我してたって一年生がいるらしいよ」
「なんか、最近怪我多すぎない? この間のバレーの授業も、二人怪我したじゃん。しかも片方は救急車来るレベルの大怪我だし、あのとき、バレーボールもネット貼るポールも不自然な動きしてたって皆言ってた」
「やっぱり呪われてるんだよ! あたしは啄木の呪いが一番有力だと思うなぁ」

 帰り際のクラスの女子の会話にどきりと心臓が飛び跳ねる。絶対に私のせいだ。そんな気がする。
 幽霊になってから、妙に勘が冴え渡るようになった。直感で思ったことは大抵当たっている。だから、今回のも当たっているのだろう。
 史料に書いてあった言葉が脳裏を過ぎる。”境界の壁が薄くなり、黒が這い出して現世を飲み込む。”駄菓子屋のおばあちゃんも、ほとんど同じことを言っていた。
 つまり、こういうことなのだろう。本来こちら側の世界にいるべきではない私がずっと居座り続けることによって、あちら側の生物? 物体? がこちら側に呼ばれてしまうのだ。
 私がなんとかしなければならない。消耗している颯介は頼れない。というか、頼ってしまったら、颯介はより一層強く私を囲い込もうとするはずだ。私に献身するのだろう。それはダメだ。彼の消耗を早めて、死期を近づけるようなことは絶対にしてはならない。
 だから、私一人でなんとかしよう。
 そう決意したとき、階下からあの黒い光が立ち昇ってきたのが見えた。場所からして、一階の昇降口の目の前に位置している、舟越保武の彫刻「鳩もつ少年」だろう。先ほどの女子の会話の中でも、鳩小の略称で登場していた。
 また、あの戦いが起きるのだろうか。
 変な緊張を抱えながら、ゆっくりと階段を下りる。すると、やはり鳩小が黒い異様な光を纏っていた。少年が両手で一羽の鳩を包み込むように持ち、その羽を眺めている様子の銅像だ。鳩の頭を撫でると成績が良くなるなんていう迷信もあるくらいで、以前友達と一緒に撫でたのを思い出し、悲しくなる。もうあんな学生生活は送れないんだと、颯介の呼び声で現世に戻ってきてから、何度も何度も頭に擦り込んだのだけれど、慣れるわけもなく。
 多くの生徒が帰り、静まり返った昇降口。恐る恐る近づこうとすると、ちょうど後ろから先生がスタスタと歩いてきて、私を追い越し、早足に鳩小の前を通り過ぎて職員室に戻ろうとしていた。そのとき、私は信じられないものを見た。銅像から白い鳩がぬるりと具現化し、先生に近づいていったのだ。
 咄嗟に危ないと思って駆け出す。私が一歩一歩進むと同時に、次々と鳩が具現化し、どんどんとあたりを埋め尽くしていく。先生は最初の鳩に肩を咥えられて、身動きが取れなくなっていた。先生自身はこの光景が見えていないはずだから、何が起きているのかさっぱりだろう。
 なんとかしなきゃ。雪だるま式に増えていく鳩をかき分けて、先生の動きを止めている鳩を後ろから勢いをつけて捕まえる。けれど、先生は鳩に囲まれ、息をするのも難しくなっているようだった。
 どうしたらいいの? とりあえず先生を助けなければ。
 一羽ずつ鷲掴みならぬ鳩掴みにして、先生の道をなんとか確保する。先生はとりあえず息ができるようになったのか、大きな深呼吸をして、スタスタと職員室に入って行った。その途中も、何度か鳩に阻まれかけては、少しつんのめって、でもその度に私がなんとか鳩を排除して前に進ませた。その度に何度も首を傾げていた。
 廊下は静かだ。鳩によって視界を塞がれてはいるが、誰もいないのだろう。誰かが来る前になんとかしなければならない。そうやって考えている間にも、鳩はどんどん増えている。
 必死で頭を回す。そして、気がつく。そうだった、「呼ぶ」ことが鍵になるのだった。
 今回は何を呼べばいい? これは彫刻だから、賢治みたいに詩を読み上げればいいわけじゃない。私は彫刻のことなど何一つ知らない。息が苦しくなってくる。焦りからか、それとも鳩に押しつぶされそうになっているからか。
 でも、呼べるものなど一つしかない。私はあたりの酸素を精一杯かき集めるように思い切り息を吸い込んで、精一杯の声で叫んだ。

「鳩もつ少年!」

 少年の像の姿は見えない。しかし、一瞬だけ、鳩の増加と動きが止まった、ような気がした。とはいえ、全然根本的な解決には至っていない。
 焦りがさらに焦りを呼ぶ。どうしよう、どうしよう。私のせいで皆に迷惑をかけてしまう。颯介には頼れない、頼りたくない。私がなんとかしないと。どうしたらいい?
 考えても考えても、結局答えは出なかった。涙が出てきた。死んでしまったことも含めて、何もかもうまくいかないことに。

「なんで? なんでよ。この若さで死んだのだって、十分すぎるくらい酷いことなのに、まだ神様は酷いことをするの……?」

 次々と大粒の涙がこぼれて、止まらない。それを無視するかのように、知らんぷりした鳩が私の顔の前を通り過ぎていって、その鳩の白い体に涙の跡がつく。
 
「私にどうしろって言うのよ……! こんななら、生き返らなきゃよかった……」

 叫んだ声は、白いふわふわに埋もれてしまった。