きみを呼ぶのをやめるまで

 朝起きて、一番に感じたのは、起き上がれないほどの怠さだった。確実に熱があるとわかる感覚。肌がピリついて、全身が重たいうえに関節が軋んで痛む。吐く息が生温かさを孕んでいるのが、どうにも不快だ。心臓の鼓動が明らかに早く、しかもそれと同じペースで頭が痛むものだから、低気圧の頭痛の数倍しんどさがあった。
 昨日はどうやって家に帰ったのだろうか。正直まったくと言っていいほど記憶がない。莉子に帰ると宣言したはいいものの、それ以降のことを覚えていないのだ。
 莉子は無事だろうか? 昨日はなんとか竜巻を抑えることができたが、また似たようなことに巻き込まれやしないだろうか。
 スマホを触ろうにも、目の奥が痛むからすぐに限界が来る。しばらくベッドの上で動けずにいると、母さんが階段を上ってくる音が聞こえた。
 扉がノックされ、開けられる。

「颯介? そろそろ起きないと遅刻するわよ?」
「母さんごめん。熱あるみたいだから休むわ」
「え⁉︎ また熱出したの? 大丈夫? すぐに体温計と冷却シート持ってくるわね」

 体温計を脇に挟み、貼ってもらった冷却シートの冷たさに思いを馳せながら、ベッドの上で佇む。今日は一日この場所に居座ることになるのだろう。体温計はすぐに音を鳴らし、八度二分を示した。
 暇だ。とてつもなく暇だ。数学を考えたいが、流石に熱が出ている頭で考えてもいい解法など浮かばない。
 そうなるとどうしても、最近の莉子と俺を取り巻く出来事に思考が寄っていく。
 再現性を考えるに、呼ぶことで非現実なことを起こせるらしい。まず、死者を現世に呼び戻すこと。それから、助けてほしい、近くに来てほしいと思って名前を思い浮かべると、瞬間移動ができること。二人の力を合わせて、名前を呼んで風を具現化させられたこと。この三点が当てはまるだろう。
 じゃあ、実体が触れられるようになったり、亮司や山崎さんに姿が見えるようになったのはなぜ?
 川辺で莉子と検証したとき、実体に触れたいと願った。だが、名前を呼んだわけではない。海でのときは……心の中で呼んだ可能性があるから、こちらからは判断できないが、少なくとも声には出ていなかった。
 姿が見えるようになったとき、山崎さんは確かに莉子のことを考えていたし、心の中で呼んでいてもおかしくはない。同じ部活で一緒にいる時間は長かったはずだし、それだけ仲がよかったのだから。でも、亮司がそんなことをするとは思えないのだ。亮司と莉子は中学からの付き合いではあるが、お互いに全然仲良くなろうという気がない。もちろん、世間話はするし、俺を交えて雑談することは多いが、二人きりで話しているのを見たことがないのだ。俺に気を遣っていたとはいえ、亮司自身、莉子に興味がないのだと思う。
 つまり、これは名前を呼ぶことだけがキーではないということか?
 それとも、別の何かを呼んでいると解釈すればいいのだろうか。
 そんなことをぐるぐると考えているうちに、眠気がやってきて、少しずつ夢の中へと誘われていった。

 微かに俺の名を呼ぶ声が聞こえる。その度、鈍い頭痛が全体に走って、夢の中で俺は文句を言いそうになっていた。誰だよ、俺の眠りを妨げるやつは!
 ハッと目を覚ますと、莉子が顔を覗き込んでいた。声を上げそうになって、慌てて口を押さえる。母さんに聞かれたら、本当に心配をかけてしまう。代わりに、小声で話しかけた。

「なんでここにいるんだ?」
「ちょっと前からいたんだけど。颯介、寝てたから。起こしちゃってごめんね」
「答えになってねえだろ。なんでここにいる? どうして俺の家がわかった。俺、詳しい住所なんて言ったことねえだろ」
「……私も予想外なのよ。朝になって、石碑がどうなっているのかを確認したくて学校に行ったの。ついでに教室を覗いたら、颯介がいないんだもの。心配になっちゃって、もし私がそばにいられたらなぁって考えたら……」
「それで、もしかして瞬間移動したのか?」
「そうみたい」

 なんでもありじゃないか。
 相手が呼んで瞬間移動が起きるものだと思っていたが、自分からやることもできるようだ。幽霊の莉子だけかもしれないが。
 そこで気づく。明らかにさっきよりも体調が悪化していることに。あっという間にぬるくなってしまった冷却シートを変えに、下に下りていった。莉子には部屋で待っているように言いつけて。

「母さん、冷却シート、冷蔵庫に入ってる?」
「颯介。大丈夫なの? もうぬるくなっちゃったのね。入ってるわよ。何か食べたいものはある? ああそうだ、さっきスポドリを買ってきたわ」

 次々と話が変わって、ついていくのに精一杯だ。一気に答えるのは難しい。

「とりあえず大丈夫。寝てれば治るよ。スポドリとシートもらってくわ」

 階段を上るだけでも体が拒否しているかのように動きづらかったが、なんとか部屋までたどり着く。スポドリを二口飲んだ。
 莉子が部屋を物色している可能性を考えていたが、予想に反して、彼女はただベッドに腰をかけているだけだった。
 ――俺の部屋のベッドに、好きな子が座っている。
 なんて幸福なことだろうか。だが、その幸福を存分に喜ぶことができない体調と現状の関係値にもどかしさを覚える。
 シートを貼り替えて、ゆっくりベッドに上がる。

「颯介、大丈夫? 顔真っ赤だね」
「寝てりゃ治るよ」ガツンと殴られたような頭痛に、思わず顔をしかめる。莉子への返答も雑になってしまったではないか。

 もう一度眠りにつこうと思って目を閉じた。莉子はそれを察したようで静かにしてくれていた。だが、なかなか寝つくことができない。ベッドの端のほうで充電器につながれたままのスマホが存在を主張していたが、今の体調で画面を見るのはしんどそうだ。どうせ亮司がメッセージでも送ってきたのだろう。あとででもいいはずだ。
 俺はふと、ベッドの下に置かれている絨毯に正座している莉子を見た。そして驚く。涙を流しているように見えたのだ。二度見してしまった。だが、莉子は俺に気づかれたのに気づいたのか、顔を背けて涙を抑え、次こちらを向いたときはいつも通りの表情をしていた。
 いつもの俺なら、この場合の最適解は何も見なかったことにすることだとすぐに理解したはずだ。だが、熱のせいでそんなこともわからなくなってしまったらしい。

「なんで泣いてるんだ?」
「……泣いてないし」

 強がりなところは、何があっても変わらないものだ。
 しばらくの沈黙ののち、彼女はぽつりぽつりと言葉を吐き出し始める。

「この間も言ったでしょう? 私のせいで、颯介がどんどん消耗していくのが嫌なの……。でも颯介は私と一緒にいたいって願うし……それは、私だって一緒にいたいよ? 颯介といる時間は楽しいもの。でも……それじゃあ幸せな結末は訪れないと思う」
「なんだよ、幸せな結末って」
「颯介」

 莉子が脈絡なく俺の名を呼ぶ。まっすぐな瞳でこちらを射抜くように見つめる。途端に、ズキンと頭の奥に激しい痛みが走った。一瞬、自分が何者であるかを忘れてしまいそうになるくらい、強い痛み。
 痛みが引いてきて、自分が両手で頭を抱えていることに気づく。好きな子の前で無様な姿を晒していることがなんとも恥ずかしくて、ゆっくりと元の姿勢に戻った。

「ね、やっぱり」
「どういうことだよ」
「わかってるでしょ? 颯介は賢いんだから。わかってるのにわかっていないふりしているだけ。ちゃんと現実と向き合って」
「…………」

 お前がそれを言うなよ、と言おうとして口をつぐんだ。確かに莉子は幽霊で、現実を生きているわけではない。だが、その莉子を呼んだのは俺だ。だから、結局は現実を見ていないのは俺だけということになってしまう。

「本当にわからないの?」
「わからない。というか今は考えたくないんだ」こめかみを人差し指と中指でグッと強く押す。そうすれば、ずっと渦巻いている頭痛も感じなくなるから。
「そう……。私が颯介って呼ぶたび、颯介はどんどん消耗して行っているの。だからさっき、名前を呼んだときに頭痛が起きた。実験みたいにしちゃってごめん。でも、再現性って()()()は言うと思うから」
「俺は消耗なんてどうでもいいと思ってるよ。大丈夫なんだって。俺の体なんだから、俺の好きにすればいいだろ」
「私が嫌なの!」
「そりゃあお前、わがままだろう……」

 嫌な気持ちをまっすぐに伝えてくる性格が好きだ。感情のままに突き進む、そのまっすぐな瞳が好きだ。これは紛れもない本心。でも、それでも、今はどうしたって鬱陶しく思えてしまう。俺が大丈夫だと言っているのだから、それで片づけさせてほしい。
 
「俺は莉子と一緒にいたい。それじゃあダメなのか?」
「ダメって言ってるでしょ? いずれ颯介が死んじゃうんだよ?」
「でもそうしなかったら俺は一人で生きることになる。俺はそれだけは嫌だ」
「颯介は何にもわかってない! いいから今すぐ私を呼ぶのをやめてよ!」

 いつもの低めの声はどこへやら、叫ぶように言う莉子。激しく頭が痛んだ。
 突如として、耐えられないほどの眠気が襲ってきて、俺は何かをごにょごにょと言い訳しながら睡魔に身を委ねたのだった。関係値が明らかに変わってしまったことに、無意識のうちに気づき、絶望しながら。