きみを呼ぶのをやめるまで

 教員の大きな学会だか会議だかがある関係で、その日は午前授業だった。俺は渋々県立図書館に足を運ぶ。駄菓子屋の婆さんが言っていたことについて、過去の伝承を調べようと莉子が言ったのだ。図書館は、駅の近く、アイーナという建物の中に入っている。
 変なオブジェが吹き抜けの真ん中に置かれていて、その横を通り抜けて奥に進むと、狭い入り口がある。そこを抜けると、木製の本棚が並び、カウンターが左手にあって、右手には自習席が点在している。たまにしか来ないが、オレンジ色の照明が柔らかく、本を読むための空間であることが伝わってくる、そんな場所だと認識していた。

「新聞とか郷土資料とか調べてみたいけど、まずはレファレンスサービスを活用するのがいいかも」

 自習席に腰を下ろし、いかにも勉強しますというふうに問題集とノートを開いた俺は、筆談で莉子と会話していた。もっとも、莉子は話しかけるだけでよかったが。

《レファレンスサービスって何だっけ? 聞いたことはあるけど》
「調べたいことが載っている資料とかを探してもらえるサービス。カウンターで聞くとやってくれるの。宮沢賢治の史料を探すときによく使ってたんだよね。一週間以上かかることもあった」
《なるほど……まずは聞く内容を整理しなきゃだよな》

 ノートに聞きたいことをまとめていく。

・死者を蘇らせようとする風習が、このあたりであったか。
・その儀式はどのようなものだったか。
・死者の名前を呼ぶことで、その死者が蘇ったと書かれている史料はないか
・境界が薄れて、別の世界から死者がやってきたと書かれている史料はないか
・黒い物体の目撃情報が書かれた資料はないか

《大体こんなもんか?》
「そうだね。いいんじゃないかな」
《これ、俺が聞くの?》
「当たり前じゃん。私は聞けないんだし」

 正直、本当に変なやつだと思われそうで、気が進まない。だが、史料がなければ、多少強引だが婆さんが血迷っただけと結論づけられる。背に腹は変えられない。
 決意を固めて、席を立ち、ノートを持ってカウンターのほうへ向かった。司書は三十代くらいの女性だった。

「レファレンスサービスを利用したいのですが」
「はい。どのような情報をお探しでしょうか?」無表情の割には、丁寧で真摯な声が紡がれる。
「古い伝承や風習を探しているのですが……この五点を調べていただきたくて」ノートの一ページを見せる。もちろん、莉子と会話したページは破っている。
「……なるほど。写させていただきますね」司書はカタカタとキーボードを操り、すぐに書き写したようだった。「上の四つは、ひとまず史料をお探しいたします。ですが、五つ目については、もう少し詳しく教えていただけませんか? 黒い物体というのは……」
「そ、そうですよね。ええと……変な話をするのですが、先日、高校の教室から窓の外を眺めていた友人が、黒い物体が見えると言い出して。俺含め、クラス全員がそれを見たんです。空に真っ黒の球体が浮かんでいて。俺、実はそのあと具合悪くして早退しちゃったので、その先はどうなったのかわからないんですが、それが何だったのかを調べたいんですよ。定期的に見えるとかって報告がなされているのなら、タイミングなどを調べたら因果がわかるかもと思いまして」

 司書は明らかに怪訝な顔をしていた。それはそうだろう。超常現象の話をされているのだ。いくら仕事とはいえ、理解のできないことを調べるのは難しいはずだ。

「真っ黒い球体、ですね? その他に特徴はありましたか?」
「いや、それ以外に形容のしようがなくて……かなり大きく見えました。目算ですが、直径五メートルほどでしょうか」
「かなり大きいですね。……わかりました。お調べいたします。一週間以上お時間をいただくかもしれませんが、かまいませんか?」
「ええ。大丈夫です」

 本当は早く知りたかったが、実際、史料を漁るとなるとそれくらいかかってしまうのは仕方ないだろう。見つかったら電話してくれ、と連絡先を伝えて、カウンターを離れた。席に置いていたリュックを背負って、図書館を後にした。

 図書館からの連絡は、案外早く来た。三日後のことだった。電話越しの司書の声は、相変わらず丁寧なオペレーターのような声だったが、その裏に微かな興奮のようなものが感じ取れる。
 その日は休日だったから、朝から開運橋の下で莉子と話していた。そこからまた、県立図書館へと歩く。

「見つかったってことだよね」
「そうだろうな」
「じゃあやっぱり……」
「わからねえだろ」口を尖らせてしまう。莉子には辛く当たりたくないのだが、不安げな様子を見ると、苦しくなってしまうのだ。どうして莉子がそんな顔をしなきゃいけない?

 カウンターには、この間の司書が佇んでいた。近くのオレンジの照明が、この間よりも暗く感じられる。その奥の照明なんか、チカチカ点滅していた。

「ありがとうございます。見つかったって」
「はい。早速お越しいただき、ありがとうございます。該当の史料は、こちらになります」数枚の紙の束を渡される。コピーしてくれたようだ。何枚かめくって、すぐに気づく。ひとつの史料ではない。つまり、複数の史料が同じことを言っていたのだろう。「お察しかと存じますが、史料はひとつではございません。死者を蘇らせる儀式が、この辺りでは確かに伝えられているようなのです」

 表情の変化が乏しい人ではあるが、目の奥が光り輝いているのがわかった。仕事を達成できて嬉しいのか、はたまたオカルト好きなのか。心なしか、電話のときよりも声が弾んでいるように聞こえた。

「最初の二つは、その儀式が行われたことが記載されています。実施記録のようなものでしょうね。ですが三つ目は、少し毛色が異なりまして、その風習を客観的に調査した記録なのです。そちらに、いただいた質問とほとんど同様のことが書かれておりました。まず、儀式の中身についてですが、古いものの周りで、まるで死者が生きているかのように、話しかけるのだそうです。その過程で、必ず名前を呼ぶ必要がある、とも書かれていました」

 俺がチラッと見ても不自然でないように、莉子はカウンターの反対側に立ってくれている。そちらを見ると、やっぱり、と口が動いた。

「そして、死者は呼んだ者にしか見えない形で蘇るのだそうです。ただ、この儀式には決まりがあって。必ず一週間のうちに死者を元の場所に返さなくてはなりません。返すのに儀式などは必要なく、ただ呼んだ者が真の別れを告げる必要があるとのことでした。この辺りは表現が曖昧でしたが……いずれにせよ、一週間以上は死者を現世にとどめてはいけないらしいのです」
「それはなぜなのでしょうか? 理由は書かれていましたか?」少し食い気味に質問する。
「それが、あまり長くとどめておくと、境界の壁が緩んでしまって、どんどん死者やあちらの世界の生物がこちらにやって来てしまうと。そもそもが禁忌に近い儀式のようなのです。こちらとあちらをつなぐのは、基本的にこちら側の犠牲や代償が大きいようでして」
「犠牲と代償……?」
「ええ。あまり詳しくは書かれていなかったのですが、どうやら実際に禁忌を犯した人間がいたようで、そのときはそのさらに数週間後にその方も亡くなられた、と。境界の壁が緩み、黒が這い出して現世を飲み込む、という表現でした。もしかしたら、及川様の五つ目の質問とも、何か関連があるのかもしれません。――それはともかく、呼んだ方が亡くなられたことで、呼ばれた死者も消えたのか、それ以降は異変は起こらなかったとも書かれていました」

 丁寧に教えてくれた司書に礼を言う。莉子は考え込むように眉間に皺を寄せていた。かわいい顔が台無しだ。もちろん、どんな顔をしていてもかわいいけれど。
 俺はそう考えられるくらいには、落ち着いていた。認めざるを得ないと思ったからだろうか。ここまで完全に、婆さんの言っていたことと一致している記録が出てきてしまったのだ。これは理系にとっての信ずべき”再現性”以外の何物でもない。
 そのあと、司書は五つ目の質問に関する資料は見当たらなかったと言った。さまざまな方向性から当たってみたが、それでもダメだったそうだ。

「詳しくは、お手元の史料をご覧いただければと思います。また何か質問等ございましたら、いつでもいらしてください。史料の読み方でも、困ったことがあれば」先ほどまでの微かな高揚は落ち着き、オペレーター口調に戻って挨拶をされる。もう一度礼を言って、図書館を出た。

 そのあとは、北上川沿いで二人で史料を読み漁った。ところどころ意味がわからない表現があったが、それでもなんとか読み進める。古文特有の言い回しは適宜調べながら読んだ。これだけで古文が得意になりそうだ。
 「呼ぶ=蘇らせる」の公式が形を成してきて、莉子の表情はどんどん険しくなってきた。

「やっぱり、私がいると颯介に迷惑がかかるんだ。その真の別れってやつをやらないといけないよ、今すぐにでも!」焦燥感を丸出しにして、制服のスカートを両手で掴んでそう言う。
「…………」

 俺は何も返すことができなかった。事実として過去に一度似たような状況の人が死んでいるのだ。俺の身にも同じことが起こらないとは言えない。もちろん、数学みたいに帰納法が使えるわけではない。つまり、その人が死んだからと言って俺が死ぬとも限らないわけなのだが。
 一通り読み終えて、俺らは黙り込んでしまった。灰色の雲が白いものの中に紛れ込んで、太陽の光を完全に遮断している。今日は曇っているせいで、岩手山も見えないようだ。

「私、ここにいちゃいけないんだと思う」そっぽを向いてそう言った声は、泣き声のように聞こえた。
「そんなこと言うなって……!」必死になって縋りつく。嫌な予感に、思わず手を伸ばす。だが、その手はいとも簡単に空を切って、莉子の透き通る腕を通過してしまう。
「真の別れが何かわからないけれど、私がここにいるとお別れにもならないでしょ? 颯介には、死者と喋るんじゃなくて、生者として生きてほしいよ。だから、私、ここを離れるよ」
「離れるって……どこに行くんだよ!」
「それを言っちゃあ、意味がないでしょ?」

 ――待って。待ってよ。行かないで。行くな!
 でもそれらの言葉は、莉子の不安そうな、悲しそうな、泣きそうな顔を見たら喉に隠すしかなかった。引き留めることもできずに、莉子はいつも帰る方角へと行ってしまった。しばらく追いかけて走っていたが、とうとう視界から消えて、そこには絶え間ない沈黙と果てしない空虚だけが残っていた。